◎景教碑は、風雨の剥蝕に放任されていた
桑原隲蔵『東洋史説苑』(弘文堂書店、1927)から、「大秦景教流行中国碑に就いて」という論文を紹介している。本日は、その六回目。
文中、【 】は原ルビ、〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による補足である。
かくて西暦十七世紀の半頃から十八世紀を経て、十九世紀の半過ぎまで、約二百余年の間に亘った、景教碑に関する疑惑の暗雲が次第に晴れて、最近五六十年来、かゝる懐疑的学者が殆ど跡を絶った。これと共に、景教碑の保護保存という問題が、次第に抬頭して来た。已に西暦千八百五十二年に、米国のサリスブリSalisbury教授は、「西安のネストル教碑の真偽について」と題する一論文を公にして、その中に、景教碑が明末清初の際に、キリスト教の宣教師によって欧洲に紹介されて以来、今日まで二百年の間、一人も親しくこの碑を覩た〈ミタ〉人がない。従ってこの碑は目下如何なる状態にあるかは勿論不明で、碑が果して今日に現存するや否やすら不確〈フタシカ〉である。今日の急務は、中立公平の人を派して、親しく西安に往きて、この碑の存否と真贋とを検査せしむるに在る。このことの実行される迄は、景教碑の真贋に関する絶対的断案は下し難いと述べて居る(34)。
サリスブリ教授の主張は、亜米利加〈アメリカ〉東洋協会の容るゝ所となった。千八百五十二年十月に、同協会は次の如き決議をした(35)。
《所謂西安府の景教碑は、頗る有益のものであるが、同時にその真偽に就きては議論一定せざる故、且つ又十七世紀の後半以来、一個の欧人もこの碑を親覩〈シント〉せざる故、我が協会は、目下支那在留中のアメリカ宣教師諸君が、適当と信ずる方法によって、この古碑を調べ、その現状を詳〈ツマビラカ〉にし、新にその拓本をとり、之を学界に寄与せんことを熱望する。》
この決議書は在支那の米国各宣教師の手許に発送されたが、その実行は可なり困難であった。康煕帝の末期から、雍正帝の初年にかけて、天主教を禁制して以来、宣教師は支那内地に踏み入ることが出来なかったからである。然るに千八百六十年の北京条約によって、天主教も耶蘇教も、布教を許可せられ、欧米人の内地旅行が、やゝ自由になってから、千八百六十六年に、英国のウイリアムソンWilliamsonとリースLeesの二人が西安に出掛けて、始めて金勝寺内の景教碑を探望した。当時の実況は彼等の『北支那旅行』中に載せてある。兎も角も十数年前の亜米利加東洋協会の決議の主意は、この二英国人によって、始めて実行された訳である。
明末に景教碑が発掘されると、金勝寺の一隅に移され、碑亭の中に安置されたが、碑亭は何時となく廃圮〈ハイキ〉した。咸豊〈カンポウ〉九年(西暦一八五九)に韓泰崋【クワ】という者が、訪碑の機会に、重ねて碑亭を建てゝこの碑を保護した。その七年後に、ウイリアムソン等の来観した時には、その碑亭が依然儼存して居ったという(36)。所がこの時代から、陝西・甘肅にかけて、十年に亘るマホメット教徒の大騒乱が起って、西安の金勝寺もこの時焼き払われたから、碑亭も恐らく同様の運命に罹ったものと想われる。兎に角千八百七十二年に、有名なドイツの地理学者リヒトホーフェンRichthofenが、金勝寺の景教碑を来観した時には、已に碑亭の跡形もなくなって居った(37)。要するに千八百七十年前後から、景教碑は瓦礫縦横の間に、風雨の剥蝕に放任するという有様で、尠からず心ある欧米人を憂慮せしめた。殊に英国では、この問題が尤も憂慮せられて、バルフォアBalfourやラクーペリLacouperieの如き学者は、前後してロンドンの『タイムス』紙上に、英国の外務省が支那政府に交渉して、この碑を英国博物館に引き取るべしといふ希望を披瀝した(38)。中にもスティヴンソンStevensonといふ支那在住の宣教師は、実地に就きて景教碑を探訪した後ち、千八百八十六年九月の『タイムス』紙上に、大略左の如き手厳しい書を寄せて居る(39)。
《世界に遍ねく其名を知れた景教碑を、今日の侭に、自然の破壊と人為の毀損とに対して、何等保護する所なく、荒蕪の間に暴露せしめて置くことは、実に十九世紀の大恥辱といわねばならぬ。吾人はわが当局者が、然るべき手腕家を派遣して、北京の支那官憲に説き、この貴重なる古碑を英国博物館に転交して、安全なる保護を講ずることに同意せしむる様尽力せんことを、衷心より希望する。若しこの計画が実行し難いならば、在北京の外交団諸君の尽力により、支那官憲に勧めて、責て〈セメテ〉は一の碑亭を建てゝ、この碑の保護を図る様にさせたい。今日に当りて何等か適当な方法を講ぜなければ、この貴重なる景教碑も、早晩廃圮するに至るであろう。》
多分この気運に刺戟されて、支那在住の英国人を中心として上海に組織された、皇立亜細亜協会支部China Branch of Royal Asiatic Societyでも景教碑保護を決議し、且つその具体的運動に着手し、千八百九十年の二月に、その支部長のヒュースHughesから、北京の外国公使団の主席の独逸〈ドイツ〉公使ブランドBrandt宛に、外交団の尽力によって、景教碑の保護を支那政府に勧告せんことを申出でた。この申出では快諾され、ブランドは総理衙門にも、又慶親王以下の軍機処の王大臣にも、亜細亜協会支部の希望を伝達した(40)。その結果中央官憲から西安の地方官憲に命令して、完全な碑亭一宇を建設せしむることになった。碑亭の建設費として銀百両支出されたというが、例の支那官場特有の中飽〔不正〕の為め、千八百九十一年に出来上った碑亭は、至極粗末な建物で、一年程の間に風に吹き倒されて、景教碑はもとの雨曝〈アマザラシ〉の状態となった。ベルリンのフォルケForke教授が、その翌年の五、六月の交に、西安に出掛けた時には、碑亭は已に跡形もなかったというて居る(41)。かくて景教碑はその後十五、六年にして、私が景教碑を往観した頃まで、依然同一の状態に在った。〈296~302ページ〉【以下、次回】
(34) Salisbury; On the Genuineness of the so-called Nestorian Monument of Singan Fu. p. 410 (Journal of the American Oriental Society. III).
(35) Journal of the A. O. S. III{1853}, p. 419.
(36) Williamson; Journey to the North China. Vol. I, p. 381.
(37) Richthofen; China.Bd. I, s. 553.
(38) Lacouperie; Beginnings of Writing in Central and Eastern Asia. pp. 84-85.
(39) Lacouperie; Ibid. p. 85.
(40) Journal of China B. of R. A. S. XXIV{1889-90} pp. 136-139
(41) Forke; Von Peking nach Chang-an und Lo-yang. s. 70 (Mittheilungen des Seminar für Orient. Sprachen. I).
桑原隲蔵『東洋史説苑』(弘文堂書店、1927)から、「大秦景教流行中国碑に就いて」という論文を紹介している。本日は、その六回目。
文中、【 】は原ルビ、〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による補足である。
かくて西暦十七世紀の半頃から十八世紀を経て、十九世紀の半過ぎまで、約二百余年の間に亘った、景教碑に関する疑惑の暗雲が次第に晴れて、最近五六十年来、かゝる懐疑的学者が殆ど跡を絶った。これと共に、景教碑の保護保存という問題が、次第に抬頭して来た。已に西暦千八百五十二年に、米国のサリスブリSalisbury教授は、「西安のネストル教碑の真偽について」と題する一論文を公にして、その中に、景教碑が明末清初の際に、キリスト教の宣教師によって欧洲に紹介されて以来、今日まで二百年の間、一人も親しくこの碑を覩た〈ミタ〉人がない。従ってこの碑は目下如何なる状態にあるかは勿論不明で、碑が果して今日に現存するや否やすら不確〈フタシカ〉である。今日の急務は、中立公平の人を派して、親しく西安に往きて、この碑の存否と真贋とを検査せしむるに在る。このことの実行される迄は、景教碑の真贋に関する絶対的断案は下し難いと述べて居る(34)。
サリスブリ教授の主張は、亜米利加〈アメリカ〉東洋協会の容るゝ所となった。千八百五十二年十月に、同協会は次の如き決議をした(35)。
《所謂西安府の景教碑は、頗る有益のものであるが、同時にその真偽に就きては議論一定せざる故、且つ又十七世紀の後半以来、一個の欧人もこの碑を親覩〈シント〉せざる故、我が協会は、目下支那在留中のアメリカ宣教師諸君が、適当と信ずる方法によって、この古碑を調べ、その現状を詳〈ツマビラカ〉にし、新にその拓本をとり、之を学界に寄与せんことを熱望する。》
この決議書は在支那の米国各宣教師の手許に発送されたが、その実行は可なり困難であった。康煕帝の末期から、雍正帝の初年にかけて、天主教を禁制して以来、宣教師は支那内地に踏み入ることが出来なかったからである。然るに千八百六十年の北京条約によって、天主教も耶蘇教も、布教を許可せられ、欧米人の内地旅行が、やゝ自由になってから、千八百六十六年に、英国のウイリアムソンWilliamsonとリースLeesの二人が西安に出掛けて、始めて金勝寺内の景教碑を探望した。当時の実況は彼等の『北支那旅行』中に載せてある。兎も角も十数年前の亜米利加東洋協会の決議の主意は、この二英国人によって、始めて実行された訳である。
明末に景教碑が発掘されると、金勝寺の一隅に移され、碑亭の中に安置されたが、碑亭は何時となく廃圮〈ハイキ〉した。咸豊〈カンポウ〉九年(西暦一八五九)に韓泰崋【クワ】という者が、訪碑の機会に、重ねて碑亭を建てゝこの碑を保護した。その七年後に、ウイリアムソン等の来観した時には、その碑亭が依然儼存して居ったという(36)。所がこの時代から、陝西・甘肅にかけて、十年に亘るマホメット教徒の大騒乱が起って、西安の金勝寺もこの時焼き払われたから、碑亭も恐らく同様の運命に罹ったものと想われる。兎に角千八百七十二年に、有名なドイツの地理学者リヒトホーフェンRichthofenが、金勝寺の景教碑を来観した時には、已に碑亭の跡形もなくなって居った(37)。要するに千八百七十年前後から、景教碑は瓦礫縦横の間に、風雨の剥蝕に放任するという有様で、尠からず心ある欧米人を憂慮せしめた。殊に英国では、この問題が尤も憂慮せられて、バルフォアBalfourやラクーペリLacouperieの如き学者は、前後してロンドンの『タイムス』紙上に、英国の外務省が支那政府に交渉して、この碑を英国博物館に引き取るべしといふ希望を披瀝した(38)。中にもスティヴンソンStevensonといふ支那在住の宣教師は、実地に就きて景教碑を探訪した後ち、千八百八十六年九月の『タイムス』紙上に、大略左の如き手厳しい書を寄せて居る(39)。
《世界に遍ねく其名を知れた景教碑を、今日の侭に、自然の破壊と人為の毀損とに対して、何等保護する所なく、荒蕪の間に暴露せしめて置くことは、実に十九世紀の大恥辱といわねばならぬ。吾人はわが当局者が、然るべき手腕家を派遣して、北京の支那官憲に説き、この貴重なる古碑を英国博物館に転交して、安全なる保護を講ずることに同意せしむる様尽力せんことを、衷心より希望する。若しこの計画が実行し難いならば、在北京の外交団諸君の尽力により、支那官憲に勧めて、責て〈セメテ〉は一の碑亭を建てゝ、この碑の保護を図る様にさせたい。今日に当りて何等か適当な方法を講ぜなければ、この貴重なる景教碑も、早晩廃圮するに至るであろう。》
多分この気運に刺戟されて、支那在住の英国人を中心として上海に組織された、皇立亜細亜協会支部China Branch of Royal Asiatic Societyでも景教碑保護を決議し、且つその具体的運動に着手し、千八百九十年の二月に、その支部長のヒュースHughesから、北京の外国公使団の主席の独逸〈ドイツ〉公使ブランドBrandt宛に、外交団の尽力によって、景教碑の保護を支那政府に勧告せんことを申出でた。この申出では快諾され、ブランドは総理衙門にも、又慶親王以下の軍機処の王大臣にも、亜細亜協会支部の希望を伝達した(40)。その結果中央官憲から西安の地方官憲に命令して、完全な碑亭一宇を建設せしむることになった。碑亭の建設費として銀百両支出されたというが、例の支那官場特有の中飽〔不正〕の為め、千八百九十一年に出来上った碑亭は、至極粗末な建物で、一年程の間に風に吹き倒されて、景教碑はもとの雨曝〈アマザラシ〉の状態となった。ベルリンのフォルケForke教授が、その翌年の五、六月の交に、西安に出掛けた時には、碑亭は已に跡形もなかったというて居る(41)。かくて景教碑はその後十五、六年にして、私が景教碑を往観した頃まで、依然同一の状態に在った。〈296~302ページ〉【以下、次回】
(34) Salisbury; On the Genuineness of the so-called Nestorian Monument of Singan Fu. p. 410 (Journal of the American Oriental Society. III).
(35) Journal of the A. O. S. III{1853}, p. 419.
(36) Williamson; Journey to the North China. Vol. I, p. 381.
(37) Richthofen; China.Bd. I, s. 553.
(38) Lacouperie; Beginnings of Writing in Central and Eastern Asia. pp. 84-85.
(39) Lacouperie; Ibid. p. 85.
(40) Journal of China B. of R. A. S. XXIV{1889-90} pp. 136-139
(41) Forke; Von Peking nach Chang-an und Lo-yang. s. 70 (Mittheilungen des Seminar für Orient. Sprachen. I).
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