礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

金勝寺は西安の西郭外約三支那里の処にある

2024-09-23 01:51:55 | コラムと名言
◎金勝寺は西安の西郭外約三支那里の処にある

 桑原隲蔵『東洋史説苑』(弘文堂書店、1927)から、「大秦景教流行中国碑に就いて」という論文を紹介している。本日は、その七回目。
 文中、【 】は原ルビ、〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による補足である。

 私は明治四十年〔1907〕の秋に、宇野文学士――今の東京帝国大学教授文学博士宇野哲人〈ウノ・テツト〉君――と同伴で、洛関の游歴を試みることになり、歳の九月三日に北京を出発し、長駅短亭の間に半個月を過ごし、月の十九日に西安に入り、越えて七日、九月の二十六日に、金勝寺に出掛けて景教碑を実検した。
 金勝寺は西安の西郭外約三支那里の処にある。寺は同治年間のマホメット教徒の乱に、兵燹〈ヘイセン〉に罹って、今は実に荒廃を極めて居る。併し境内は流石に広く、南北二町半、東西一町半の間、頽墻〈タイショウ〉断続という有様で、幾分往昔の面影を偲ばしめる。今の仏殿は兵燹後の再建で、見る影もないが、その後庭には、もと本殿の在った所と見え、廃磚残甓〈ハイフザンペキ〉累々たる間に、明の万暦十二年(西暦一五八四)に建てた、精巧な一架の石坊が遺って、祇園真境と題してある。その前面に明の成化・嘉靖頃の碑石三四方、何れも寺の由来を誌したものがある。石坊の後すなわち北方約半町ばかりに、隴畝〈ロウホ〉の間に五方の石碑が並立して居るが、東より第二番目がいわゆる景教碑である。その他は大抵乾隆以後の建立で、やはり寺の由来を誌したものが多い。景教碑には碑亭がない。自然人為の迫害に対して、全然無防禦である。この碑を世界無二の至宝と尊重し居る欧米人が、かゝる現状を見れば、碑の将来に就いて心を傷め、果ては之をその本国に移して保護を加えたいと騒ぐのも、強ち〈アナガチ〉無理でないと思われた。
 私は景教碑探望の翌々日に、咸陽〈カンヨウ〉・乾州〈ケンシュウ〉・醴泉〈レイセン〉方面に、約一週間程旅行して、十月四日の午後、西安に帰着する時、西郭で十数の苦力〈クーリー〉が、一大亀趺〈キフ〉を城内に運び行くのに出遇った。帰途を急いだ故、別に問い質しもせず、その侭寓居に帰着した。所がその当夜西安在住の日本教習の話に、近頃一洋人が、金勝寺内の景教碑を三千両に買収して、之をロンドンの博物館に売り込む計画に着手したのを、巡撫が聞き知って大いに驚き、俄に〈ニワカニ〉景教碑を碑林に移し、その拓本をとるすら、官憲の許可を要するなど、警戒頗る厳重を加えたと聞いて、途中で目撃した亀趺は、その古さといい、その大きさといい、必ず金勝寺の景教碑のそれならんと思い当るまゝ、越えて十月六日の朝、碑林に出掛けて調査すると、果して事実で、景教碑は碑林中に据え付け最中であった。私は兎に角千年来の所在地であった、西安と景教碑との因縁のまだ銷尽〈ショウジン〉せないのと、また景教碑が碑林に移されて、支那官憲の保護を受くることになった結着に満足して帰寓した。
 私は十月九日に西安を出発して帰途に就いたが、十月十二日の午後、敷水鎮附近で、道の彼方に特別製の大車を目撃した。趕車的【バシヤノギヨシヤ】に問い質すと、何でも洋人の偽造した石碑を、西安から鄭州まで運搬する所で、その運搬を引き受けたのが、彼の朋友であるという。私の脳裏に直に、西安の景教碑と関係ある様な疑惑が浮び上った。果して然りとせば、此の如き石碑をいつの間に模造したか、又その模造の石碑は、如何なる程度まで原碑に似寄って居るかと、種々好奇心が起ったけれども、生憎〈アイニク〉連日の降雨で、淤泥〈オデイ〉膝をも没し、その上運搬の石碑は蓆包堅固で、実物を験べることは到底困難の様に見受けたから、遺憾ながら割愛して前程を急ぎ、鄭州で宇野君と南北に袂〈タモト〉をわかち、私は十月の二十八日に北京に帰着した。
 その翌明治四十一年〔1908〕の一月に、在上海の宇野君から書状が来て、その中に『漢口日報』Hankou Daily Newsに拠ると、西安の景教碑買収に尽力した洋人というは、Danish Journalist と称するホルムFritz von Holm其人であると書き添えてあった。私達が西安旅行の途次、九月十四日に、閺【ブン】郷県の公館の大王廟に投宿した所が、廟主の曹永森という道士が、二片の名刺を見せた。一は日本陸軍歩兵少佐日野強〈ツトム〉とあった。即ち『伊犁〈イリ〉紀行』の著者である。一は大丹国文士何楽模とあった。この何楽模が、疑もなくホルム氏である。大丹国文士とは、Danish Journalist の訳、何楽模は即ち Holm の訳である。
 さるにしても私の西安旅行は、景教碑の買収若しくば模造の為、西安に出掛けたホルム氏と終始したので、往路では偶然その人の名片に接し、西安滞在中はその人との因縁深い景教碑の碑林移転という、この碑にとっては明末出土以来の大事件の実際を目撃し、帰途ではその人の模造碑の運搬されつゝあるのに邂逅し、今日は又そのホルム氏から寄贈された景教碑の模型の披露に、紹介の講演〔史学研究会講演「大秦景教流行中国碑に就きて」〕をいたすとは、実に不思議の因縁と申さねばならぬ。
 さてホルム氏の景教碑の買収及び模造に関する記事は、その後ち『上海タイムス』Shanghai Timesその他にも掲載されて、広く内外の注意を惹くに至ったが、これと同時に、在留外人の間に、碑林に移転された、景教碑の真偽に就いて、疑惑を挟む者が出来た。ホルム氏が態々〈ワザワザ〉欧州三界から出掛けて、幾多の金銭と労力とを費しながら、単なる模造碑Replicaのみに満足して帰る筈がない。黄白〔金銭〕に目のない支那官吏を買収するのは容易の業である。碑林に移されたのが Replica で、ホルム氏の持ち出したのが原碑に相違ないと主張する者が尠くない。
 かゝる風説の高まるに従い、支那官憲も大分心配し出した。漢口の税関にその差押えを命じたとか、調査の為に官吏を派遣したとか、蜚語紛々〈ヒゴフンプン〉という有様を呈した。支那の学者達も不安を感じたと見え、学部の陳毅君などは、態々私の寓居に駕〈ガ〉を枉げて、私の意見を徴された。幾多の在留日本人からも、同様の質問を受けた。されど私は之に対して、何等の決答を与え難い。実をいうと、西安旅行の当時、私は後日かゝる重大な問題が発生すべしとは予期せなかった。碑林に移転された景教碑は実見したけれど、かゝる疑問に答え得る程注意して検査せなかった。ホルム氏の持ち出した石碑には出遇ったけれど、その実物は親覩せなかった。口では碑林の原物たるべきを唱えつゝ、心ではその反対説を排するだけの、積極的確信を欠いて居った。〈302~307ページ〉【以下、次回】

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