◎支那の金石学者たちは碑の真物たるを疑わず
桑原隲蔵『東洋史説苑』(弘文堂書店、1927)から、「大秦景教流行中国碑に就いて」という論文を紹介している。本日は、その四回目。
文中、〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による補足である。
さて明の天啓五年の初期頃に、西安の郊外で、景教碑が出土すると、間もなく碑文の洋訳が出来た。最初に出来たのは、西暦千六百二十五年に支那在住の耶蘇会士〔イエズス会士〕の手に成った拉典〈ラテン〉訳である。こは多分トリゴオルトの訳であらうという(46)。その後引続いて幾多の訳文が世に公にされた。以太利のバルトリに拠ると、西暦千六百六十二年頃までに、少くとも三ケ国の言葉で書かれた八種の飜訳が公にされたという⒅。中に就いて〔とりわけ〕尤も広く世間に影響したのは、セメドの飜訳と、ボイムMichel Boym(=卜彌格)の飜訳とであろう。
セメドは西暦千六百二十八年に、西安で景教碑を親覩した後ち、千六百三十七年に、澳門〈マカオ〉から一旦欧洲に帰り、千六百四十年に葡萄牙〈ポルトガル〉に到着した。彼の有名な『支那通史』は、千六百四十一年にマドリッドで葡萄牙語で出版された。その中に彼は景教碑の実際に就いて、より正確な報道を伝え、併せてこの碑の訳文を附載してある。この書は間もなく西班牙〈スペイン〉語・以太利語・仏蘭西〈フランス〉語・英語に訳出されて、広く世界に読まれた⒆。その後ち約十年を経て、ボイムは明の使命を帯び、千六百五十一年の初に澳門を出発し、その翌五十二年の末に以太利に着した。この時彼が羅馬〈ローマ〉教皇に奉呈した明の国書は、今日猶お教皇庁に保存されて居る⒇。ボイムはその羅馬滞在中に、千六百五十三年に、その齎らし往いた景教碑の拓本について、当時ローマに在住して居った、教名をアンドレアスAndreasマテウスMatthaeusという二人の支那人の助力を得て、碑の漢文を拉典語に訳出した(21)。かのキルヘルスKircherusの『支那画報』に収載されてある、景教碑の訳文は即ちこれである。
景教碑が欧洲に紹介されると、早くその当時から碑の真偽に就いて、疑惑を挾む者があった(22)。碑文の広く知らるゝに従い、之に対する一部の学者の疑惑は益〈マスマス〉深く、中にも仏蘭西のヴォルテーアVoltaireの如きは、全くゼスイット派の宣教師達の偽作であるとて、手厳しい非難を加えて居る。十九世紀に入ると、独逸のノイマンNeumann(1850)や、仏蘭西のルナンRenan(1855)ジュリアンStanislas Julien(1855)の如き(23)、有力な東洋学者が、景教碑に関する疑惑を発表した。ルナンやジュリアンは、特に景教碑のみに関する論文はなく、彼等の意見は別の題目の著書の中に附記されて居るのみであるが、ノイマンは「西安の僞造碑」と題する論文を、『ドイツ東洋協会時報』に掲載して居る(24)。
之に対して景教碑の弁護論者も多いが、その中で尤も有力と認められるのは、仏蘭西のポオチエPauthier(1857)と(25)、英国のワイリWylie(1854)とである(26)。ポーチエの論文は、ノイマン・ルナン・ジュリアン諸氏の疑惑に対して、有力な弁駁を加えて居る。ワイリの論文は、ポーチエ程論争的でないが、新に彼の試みた尤も傑出した景教碑文の飜訳に添えて、彼の豊富なる支那学の智識を傾倒して、支那の金石学者の所説を利用して、この碑の偽造であり得ざることを保證して居る。ワイリは支那の有名な金石学者、例えば顧炎武〈コ・エンブ〉とか、銭大听〈セン・タイキン〉とか、王昶〈オウ・チョウ〉とかいう人達の、この碑に関する考證を紹介し、支那の学者は一人も、この碑の真物たることを疑う者がないという事実を指摘して居る。ワイリより三十年余り後に、オクスフォルド(Oxford)大学のレッグLeggeも、その『西安府のネストル教碑』といふ著書中に、過去に於て、支那の一人の学者も、この碑の偽物たることを明言したる者がないというて居る(27)。〈291~293ページ〉【以下、次回】
(46) Havret; La Stèle Chrétienne. II, p. 326. III, p. 67.
⒅ Havret; La Stèle Chrétienne. II, pp. 32, 325.
⒆ Havret; Ibid. II, p. 31.
⒇ 箕作〔元八〕・田中〔義成〕二氏「明の王太后より羅馬法皇に贈りし諭文」(明治二十五年〔1892〕十二月号『史学雑誌』所収)拙稿「明の龐天壽より羅馬法皇に送呈せし文書」(明治三十年〔1897〕三月号五月号『史学雑誌』所収)
(21) Heller; Das Nestorianische Denkmal in Singan fu. s. 15. Lamy et Gueluy; Le Monument Chrétien. p. 9.
(22) Kirchere; La Chine Illustrée. p. 1.
(23) Pauthier; De l'Authenticité de l'Inscription Nestorienne de Sin-gan-fou. pp. 7, 14-21.
(24) Neumann; Die erdichtete Inschrift von Singnan Fu. (Zeitschrift d. D. M. Gesellschaft. IV).
(25) Pauthier; De l'Authenticité de l'Inscription Nestorienne.
(26) Wylie; The Nestorian Tablet of Se-gan Foo. (Journal of the American Oriental Society. V).
(27) Legge; The Nestorian Monument of Hsi-an Fu. p. 37.
註の番号に乱れがあるが、これは、校正の段階で、註(46)を追加したことによるものであろう。
桑原隲蔵『東洋史説苑』(弘文堂書店、1927)から、「大秦景教流行中国碑に就いて」という論文を紹介している。本日は、その四回目。
文中、〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による補足である。
さて明の天啓五年の初期頃に、西安の郊外で、景教碑が出土すると、間もなく碑文の洋訳が出来た。最初に出来たのは、西暦千六百二十五年に支那在住の耶蘇会士〔イエズス会士〕の手に成った拉典〈ラテン〉訳である。こは多分トリゴオルトの訳であらうという(46)。その後引続いて幾多の訳文が世に公にされた。以太利のバルトリに拠ると、西暦千六百六十二年頃までに、少くとも三ケ国の言葉で書かれた八種の飜訳が公にされたという⒅。中に就いて〔とりわけ〕尤も広く世間に影響したのは、セメドの飜訳と、ボイムMichel Boym(=卜彌格)の飜訳とであろう。
セメドは西暦千六百二十八年に、西安で景教碑を親覩した後ち、千六百三十七年に、澳門〈マカオ〉から一旦欧洲に帰り、千六百四十年に葡萄牙〈ポルトガル〉に到着した。彼の有名な『支那通史』は、千六百四十一年にマドリッドで葡萄牙語で出版された。その中に彼は景教碑の実際に就いて、より正確な報道を伝え、併せてこの碑の訳文を附載してある。この書は間もなく西班牙〈スペイン〉語・以太利語・仏蘭西〈フランス〉語・英語に訳出されて、広く世界に読まれた⒆。その後ち約十年を経て、ボイムは明の使命を帯び、千六百五十一年の初に澳門を出発し、その翌五十二年の末に以太利に着した。この時彼が羅馬〈ローマ〉教皇に奉呈した明の国書は、今日猶お教皇庁に保存されて居る⒇。ボイムはその羅馬滞在中に、千六百五十三年に、その齎らし往いた景教碑の拓本について、当時ローマに在住して居った、教名をアンドレアスAndreasマテウスMatthaeusという二人の支那人の助力を得て、碑の漢文を拉典語に訳出した(21)。かのキルヘルスKircherusの『支那画報』に収載されてある、景教碑の訳文は即ちこれである。
景教碑が欧洲に紹介されると、早くその当時から碑の真偽に就いて、疑惑を挾む者があった(22)。碑文の広く知らるゝに従い、之に対する一部の学者の疑惑は益〈マスマス〉深く、中にも仏蘭西のヴォルテーアVoltaireの如きは、全くゼスイット派の宣教師達の偽作であるとて、手厳しい非難を加えて居る。十九世紀に入ると、独逸のノイマンNeumann(1850)や、仏蘭西のルナンRenan(1855)ジュリアンStanislas Julien(1855)の如き(23)、有力な東洋学者が、景教碑に関する疑惑を発表した。ルナンやジュリアンは、特に景教碑のみに関する論文はなく、彼等の意見は別の題目の著書の中に附記されて居るのみであるが、ノイマンは「西安の僞造碑」と題する論文を、『ドイツ東洋協会時報』に掲載して居る(24)。
之に対して景教碑の弁護論者も多いが、その中で尤も有力と認められるのは、仏蘭西のポオチエPauthier(1857)と(25)、英国のワイリWylie(1854)とである(26)。ポーチエの論文は、ノイマン・ルナン・ジュリアン諸氏の疑惑に対して、有力な弁駁を加えて居る。ワイリの論文は、ポーチエ程論争的でないが、新に彼の試みた尤も傑出した景教碑文の飜訳に添えて、彼の豊富なる支那学の智識を傾倒して、支那の金石学者の所説を利用して、この碑の偽造であり得ざることを保證して居る。ワイリは支那の有名な金石学者、例えば顧炎武〈コ・エンブ〉とか、銭大听〈セン・タイキン〉とか、王昶〈オウ・チョウ〉とかいう人達の、この碑に関する考證を紹介し、支那の学者は一人も、この碑の真物たることを疑う者がないという事実を指摘して居る。ワイリより三十年余り後に、オクスフォルド(Oxford)大学のレッグLeggeも、その『西安府のネストル教碑』といふ著書中に、過去に於て、支那の一人の学者も、この碑の偽物たることを明言したる者がないというて居る(27)。〈291~293ページ〉【以下、次回】
(46) Havret; La Stèle Chrétienne. II, p. 326. III, p. 67.
⒅ Havret; La Stèle Chrétienne. II, pp. 32, 325.
⒆ Havret; Ibid. II, p. 31.
⒇ 箕作〔元八〕・田中〔義成〕二氏「明の王太后より羅馬法皇に贈りし諭文」(明治二十五年〔1892〕十二月号『史学雑誌』所収)拙稿「明の龐天壽より羅馬法皇に送呈せし文書」(明治三十年〔1897〕三月号五月号『史学雑誌』所収)
(21) Heller; Das Nestorianische Denkmal in Singan fu. s. 15. Lamy et Gueluy; Le Monument Chrétien. p. 9.
(22) Kirchere; La Chine Illustrée. p. 1.
(23) Pauthier; De l'Authenticité de l'Inscription Nestorienne de Sin-gan-fou. pp. 7, 14-21.
(24) Neumann; Die erdichtete Inschrift von Singnan Fu. (Zeitschrift d. D. M. Gesellschaft. IV).
(25) Pauthier; De l'Authenticité de l'Inscription Nestorienne.
(26) Wylie; The Nestorian Tablet of Se-gan Foo. (Journal of the American Oriental Society. V).
(27) Legge; The Nestorian Monument of Hsi-an Fu. p. 37.
註の番号に乱れがあるが、これは、校正の段階で、註(46)を追加したことによるものであろう。
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