◎碑のシリア文字は、エストランゲロという古体字
桑原隲蔵『東洋史説苑』(弘文堂書店、1927)から、「大秦景教流行中国碑に就いて」という論文を紹介している。本日は、その五回目。
文中、{ }内は著者による補足、〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による補足である。
されど比較的近代の支那の学者の中には、景教碑の偽作を主張した者もないでない。陶保廉の『辛卯侍行記』に載せられた、銭潤道の如きも、その一人で、
《此碑宋人金石書未著録。…………似明人儀撰、託為明時出土。》
というて居る。また『皇朝経世文編初続』中に収めてある、闕名氏の「天主邪教入中国攷」にも、
《且偽造大秦景教流行碑………埋西安府城外、佯掘之。以證其教由来之久。》
と記してある。勿論此の如きは稀有の例外で、支那学者の多数は、この碑の当時の真物たることを疑わぬ。ワイリ・レッグ二人の言う所も、先ず正当と認めてよい。
しかし今日では、景教碑の真偽などは最早問題でない。この碑の真物たることは、何等の疑惑を容れぬ。
(一)この碑文の書体は、明かに唐時代のもので、明時代に偽作されたものでない。
(二)この碑中に引用されてある、唐の太宗の貞観十二年(西暦六三八)の阿羅本優遇の詔は、殆ど一字も違えずに、その侭『唐会要』巻四十九に載せられて居る。明末のキリスト教関係の人々が、『唐会要』の記事によって、この碑を偽造したなどは、種々の事情から推して、到底想像することが出来ぬ。
(三)景教碑に長安の義寧坊に大秦寺を建てたとあるが、この大秦寺は唐の玄宗の開元中(西暦七一三年乃至七四一年)に、韋述の作った『両京新記』に、長安の義寧坊の波斯胡寺と記載されてある。ネストル教の寺院は、もと波斯寺と称せられたのを、玄宗の天宝四載(西暦七四五)の詔で、爾後、大秦寺と改称したのであるから、建中二年(西暦七八一)建立の景教碑にいう義寧坊の大秦寺とは、即ち『両京新記』の義寧坊の波斯胡寺なること申す迄もない。この事実は、景教碑の当時の真物たることを支持すべき一の證拠と思う。
(四)景教碑に玄宗即位の初年(西暦七一三)のネストル教の僧の及烈(Gabriel ?)の記事があるが、この及烈のことは、『冊府元亀』巻五百四十六にも記載されて居る。両者の記事の一致は、又この碑が後世の偽造にあらざる、一證拠に資することが出来る(28)。
(五)景教碑文を作った大秦寺の僧の景浄のことは、徳宗時代に撰述された『貞元新定釈教目録』巻十七に、彌尸訶教を唱えた景浄として記載されて居る。この事実も亦、景教碑が唐時代の真物であるべき一の證拠と認めねばならぬ(29)。
(六)この碑に刻されてあるシリア文字は、エストランゲロEstrangeloという、当時のネストル教徒の慣用した古体の文字で、明末支那に布教して居ったゼスイット派の宣教師達の大多数は、全くこの文字に関する智識をもたなかった。現にセメドの如きも、ディアズの如きも、之を読むことは勿論、そのシリア文字たることすら知り得なかった。セメドがその後ち欧洲への帰途に、印度に立ち寄り、その地に滞在して居った博識の同志に質して、始めてシリア文字たることを知った程である。始めてこの碑のシリア文を訳出した人は、上述の羅馬のキルヘルスであるが、今日から見ると、その訳文には間違が尠くない。現代のシリア語専門の大家の説によると、キルヘルスを始め、十七世紀頃の欧洲の学者に、エストランゲロ体のシリア文を完全に訳し得た人は、殆どなかったであろうという(30)。されば当時支那に布教したゼスイット派の人々が、此の如き解し難いシリア文を勒せる、景教碑を偽造し得る筈がない。
(七)この碑のシリア文に、唐の国都の長安のことを、クムドンKumd{a}n又はクムダンKumdanと記してある。クムダンとは、唐時代を通じて、東ローマ人やマホメット教徒が、長安を呼んだ名称であるが、何が故に長安を爾く〈シカク〉称したかの十分なる解釈は、未だ学界に発表されて居らぬ。私はクムダンとは、長安の通称たる京城の音訳の転訛したものと確信して居る(31)。そは兎に角、明末支那に布教して居った人々は申すに及ばず、西暦十七世紀初半の欧洲の学者でも、クムダンの長安たることを知り得なかつた筈である。それに拘らず、この碑に長安に対してクムダンの名称を使用して居る事実は、この碑を明末の偽作とする疑惑を、一掃せしむべきものと思う。
(八)敦煌地方から発掘された遺書の中から、『景教三威蒙度讃』や『一神論』の如き、唐時代に漢訳された景教の経典が世間に現はれて来た(32)。此等の遺書は、景教が唐時代に流行した事実を裏書し、併せて景教碑の真物たることを確保する。
(九)殊にその漢訳の景教の経典中に、景教碑に見える阿羅本や景浄のことを記載してあつて(33)、経典と碑文とよく一致することは、この碑の真物たることを、保證すべき鉄案と申さねばならぬ。〈293~296ページ〉【以下、次回】
(28) 拙稿「ネストル教の僧及烈に関する逸事」(大正四年〔1915〕十一月『藝文』所収)
(29) 高楠〔順次郎〕博士 〔The Nestorian Missionary Adam, Presbyter, Papas of China, Translating a Buddhist Sûtra. p. 590 (T'oung Pao〔通報〕. 1896).
(30) Lamy et Gueluy; Le Monument Chrétien de Sin-gan-fou. p. 83.
(31) Hirth; Nachworte zur Inschrift des Tonjukuk. s, 35-36 (Radloff; Die Alttürkischen Inschriften. II).
(32) 拙稿「隋唐時代に支那に来往した西域人に就いて」頁一四(『内藤博士還暦祝賀支那学論叢』所収)
(33) 羽田〔亨〕博士「景教経典序聴迷詩所経に就いて」頁三(『内藤博士還暦祝賀支那学論叢』所収)
註(28)の文献は、「大秦景教流行中国碑に就いて」と同じく、『東洋史説苑』(弘文堂書店、1927)に収録されているが、ここでは、なぜか、その旨の断りがない。
桑原隲蔵『東洋史説苑』(弘文堂書店、1927)から、「大秦景教流行中国碑に就いて」という論文を紹介している。本日は、その五回目。
文中、{ }内は著者による補足、〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による補足である。
されど比較的近代の支那の学者の中には、景教碑の偽作を主張した者もないでない。陶保廉の『辛卯侍行記』に載せられた、銭潤道の如きも、その一人で、
《此碑宋人金石書未著録。…………似明人儀撰、託為明時出土。》
というて居る。また『皇朝経世文編初続』中に収めてある、闕名氏の「天主邪教入中国攷」にも、
《且偽造大秦景教流行碑………埋西安府城外、佯掘之。以證其教由来之久。》
と記してある。勿論此の如きは稀有の例外で、支那学者の多数は、この碑の当時の真物たることを疑わぬ。ワイリ・レッグ二人の言う所も、先ず正当と認めてよい。
しかし今日では、景教碑の真偽などは最早問題でない。この碑の真物たることは、何等の疑惑を容れぬ。
(一)この碑文の書体は、明かに唐時代のもので、明時代に偽作されたものでない。
(二)この碑中に引用されてある、唐の太宗の貞観十二年(西暦六三八)の阿羅本優遇の詔は、殆ど一字も違えずに、その侭『唐会要』巻四十九に載せられて居る。明末のキリスト教関係の人々が、『唐会要』の記事によって、この碑を偽造したなどは、種々の事情から推して、到底想像することが出来ぬ。
(三)景教碑に長安の義寧坊に大秦寺を建てたとあるが、この大秦寺は唐の玄宗の開元中(西暦七一三年乃至七四一年)に、韋述の作った『両京新記』に、長安の義寧坊の波斯胡寺と記載されてある。ネストル教の寺院は、もと波斯寺と称せられたのを、玄宗の天宝四載(西暦七四五)の詔で、爾後、大秦寺と改称したのであるから、建中二年(西暦七八一)建立の景教碑にいう義寧坊の大秦寺とは、即ち『両京新記』の義寧坊の波斯胡寺なること申す迄もない。この事実は、景教碑の当時の真物たることを支持すべき一の證拠と思う。
(四)景教碑に玄宗即位の初年(西暦七一三)のネストル教の僧の及烈(Gabriel ?)の記事があるが、この及烈のことは、『冊府元亀』巻五百四十六にも記載されて居る。両者の記事の一致は、又この碑が後世の偽造にあらざる、一證拠に資することが出来る(28)。
(五)景教碑文を作った大秦寺の僧の景浄のことは、徳宗時代に撰述された『貞元新定釈教目録』巻十七に、彌尸訶教を唱えた景浄として記載されて居る。この事実も亦、景教碑が唐時代の真物であるべき一の證拠と認めねばならぬ(29)。
(六)この碑に刻されてあるシリア文字は、エストランゲロEstrangeloという、当時のネストル教徒の慣用した古体の文字で、明末支那に布教して居ったゼスイット派の宣教師達の大多数は、全くこの文字に関する智識をもたなかった。現にセメドの如きも、ディアズの如きも、之を読むことは勿論、そのシリア文字たることすら知り得なかった。セメドがその後ち欧洲への帰途に、印度に立ち寄り、その地に滞在して居った博識の同志に質して、始めてシリア文字たることを知った程である。始めてこの碑のシリア文を訳出した人は、上述の羅馬のキルヘルスであるが、今日から見ると、その訳文には間違が尠くない。現代のシリア語専門の大家の説によると、キルヘルスを始め、十七世紀頃の欧洲の学者に、エストランゲロ体のシリア文を完全に訳し得た人は、殆どなかったであろうという(30)。されば当時支那に布教したゼスイット派の人々が、此の如き解し難いシリア文を勒せる、景教碑を偽造し得る筈がない。
(七)この碑のシリア文に、唐の国都の長安のことを、クムドンKumd{a}n又はクムダンKumdanと記してある。クムダンとは、唐時代を通じて、東ローマ人やマホメット教徒が、長安を呼んだ名称であるが、何が故に長安を爾く〈シカク〉称したかの十分なる解釈は、未だ学界に発表されて居らぬ。私はクムダンとは、長安の通称たる京城の音訳の転訛したものと確信して居る(31)。そは兎に角、明末支那に布教して居った人々は申すに及ばず、西暦十七世紀初半の欧洲の学者でも、クムダンの長安たることを知り得なかつた筈である。それに拘らず、この碑に長安に対してクムダンの名称を使用して居る事実は、この碑を明末の偽作とする疑惑を、一掃せしむべきものと思う。
(八)敦煌地方から発掘された遺書の中から、『景教三威蒙度讃』や『一神論』の如き、唐時代に漢訳された景教の経典が世間に現はれて来た(32)。此等の遺書は、景教が唐時代に流行した事実を裏書し、併せて景教碑の真物たることを確保する。
(九)殊にその漢訳の景教の経典中に、景教碑に見える阿羅本や景浄のことを記載してあつて(33)、経典と碑文とよく一致することは、この碑の真物たることを、保證すべき鉄案と申さねばならぬ。〈293~296ページ〉【以下、次回】
(28) 拙稿「ネストル教の僧及烈に関する逸事」(大正四年〔1915〕十一月『藝文』所収)
(29) 高楠〔順次郎〕博士 〔The Nestorian Missionary Adam, Presbyter, Papas of China, Translating a Buddhist Sûtra. p. 590 (T'oung Pao〔通報〕. 1896).
(30) Lamy et Gueluy; Le Monument Chrétien de Sin-gan-fou. p. 83.
(31) Hirth; Nachworte zur Inschrift des Tonjukuk. s, 35-36 (Radloff; Die Alttürkischen Inschriften. II).
(32) 拙稿「隋唐時代に支那に来往した西域人に就いて」頁一四(『内藤博士還暦祝賀支那学論叢』所収)
(33) 羽田〔亨〕博士「景教経典序聴迷詩所経に就いて」頁三(『内藤博士還暦祝賀支那学論叢』所収)
註(28)の文献は、「大秦景教流行中国碑に就いて」と同じく、『東洋史説苑』(弘文堂書店、1927)に収録されているが、ここでは、なぜか、その旨の断りがない。
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