礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

十字架の下に「大秦景教流行中國碑」とある

2024-09-16 01:43:07 | コラムと名言
◎十字架の下に「大秦景教流行中國碑」とある

 バッヂ博士著・佐伯好郎訳補『元主忽必烈が欧州に派遣したる景教僧の旅行誌』(春秋社松柏館、1943)の紹介に戻る。
 本書には、バッヂ博士による「概論」というものが置かれている。これは、197ページに及ぶ詳細にして周到な解説で、全20節からなっている。最後の第20節は、「支那陝西省西安府大秦景教流行中國碑」と題されている。本日は、同節の全文を紹介してみたい。

  (附記第二)
    二〇 支那陝西省西安府大秦景教流行中國碑


 西安府に在る唐代景教流行中國碑は支那に於ける景教の興亡盛衰の歴史を研究するに当つて欠くべからざるものである。故に茲にこの碑文に関して附録として稍〻詳しく述べる所以である。この碑文に関した著書も頗る多い。其の最も興味あるものは一八九五年上海及び巴里で出版せられたエイチ・アーブレー師(H. Havret)の「西安府景教碑」(La Stèle Chrétienne de Si-ngan-fou Paris,1895)である。漢文並にシリヤ文の各部の写真版が一冊となりこれに仏語訳があり且つ毎章に有益な記述で充たされて居る。第三図と第十一図とはアーブレー師の著書から転載したものである。一九一六年には東京の佐伯〔好郎〕教授が「支那に於ける景教碑」(The Nestorian Monument in China)と題して此の碑文の歴史と本文の活字版とを出版し之に英語訳と難解の個所に幾多の有益な註解とを施したものを出版した。此の碑は初め崇聖寺と言ひ(旧名崇仁寺)後に金勝寺となつた寺の境内に在つた。而して崇仁寺は北緯三十四度十七分東経百九度三十分に在る陝西省西安城外の西郊に在る。一九〇七年六月フリツ・フオン・ホルム(何楽模)博士は百難を排して此の有名な石碑を此の地方の官憲から購求せんが為に西安府に行つた。然るに此の事が陝西省総督の耳に入るや直〈スグ〉に景教碑は移された。即ち西紀一六二五年に発見せられてから後間もなく安置せられてあつた此の金勝寺(旧名崇聖寺)から漢、唐、宋の古碑の保存せられてゐる『碑林』に移された。ホルム博士は此の景教碑の購入には失敗したが其の正確なる模造碑【レプリカ】を西安の現場で製作することには成功した。而してこの模造碑は米国に輸送せられ一九〇八年六月十四日ニユー・ヨーク『美術博物館』(The Metropolitan Museum of Art)に安置せられた。此の碑の石材は黒色にて半粒状鮞状〈ジジョウ〉石炭岩であつて陝西省富平県の石坑から切割り出されたるものである。此の石碑の大サは高さ九呎〈フィート〉強幅三呎六吋厚さ廿二吋であつて其の重量は約二噸である。碑頭は二匹の仏教的の『蚊龍』の意匠の彫刻をもつて飾られて居る。此の『蚊龍の飾』の中央に宝珠がある。此の宝珠の直下に二線併行の三角形がある。而して(一)白雲が彫刻せられたる上に安置せられた十字架(二) 蓮台があり(三)花咲く樹木の枝が左右に一本づゝある。(第十一図参照)十字架は基督教を示し白雲は大雲寺の称号で明なるが如く回教を示し蓮台は仏教を示すことは疑なきところである。但だ〈タダ〉左右に在る樹木の一枝は何物を代表するものとなすべきか少しく解釈に苦しむところである。此の景教碑に在る十字架はマルク十字架の一変形であつて景教僧が西欧教会、就中、東羅馬帝国の首府の建築物に於て浮彫にせられる十字架に倣つたものであると思ふ。此の景教の十字架をかの聖・多黙墓の十字架に比較すれば其の相違に著しいものゝあることを発見する。
 それよりも更に興味あるものは一九二八年四月にエイ・シー・モール(A. C. Moule)氏が「ローヤル・アジアチツク雑誌」で発表した二個の十字架である。(モール氏著「一五五〇年以前の支那基督教」八七頁参照)此の二個は北京附近の十字寺(阿北省房山県三盆山)で発見せられたものである。此の十字寺はモール氏の説に拠れば掃馬法師が七年間修業して居た景教の寺院であるといふことである。其の一個は本堂の前に在つた壇の一隅に在つて他の一個は東南の一隅に在つた。其れにはシリヤ語があつた。之はぺシト訳の聖書の本文から引用したもので『汝此に向ひ此に在つて望め』(詩三十四篇五)といふ訳である。併し希伯来〈ヘブライ〉語の本文に拠れば『彼等は主を仰ぎのぞみて光を被りたれば彼等の顔は恥あらんことな』(詩三四篇五)といふ文句に相当するのである。是等の二個の十字架はモール氏の云ふところに拠れば同一形ではない。例へば十字架の横の桁に何等の飾もなく且つ両端が尖つて居る。また本図(一)は一六三八年に南支閩〈ビン〉の泉州の水陸寺で発見せられたものである。(二)は閩の泉州府城仁風門外一哩の地に在る東湖畔で発見せられたものである。前者は蓮台の上に在る十字架であつて後者は白雲の中から出現して居る十字架である。其の他の支那から出た十字架の説明に関しては前記モール氏の次の著書を参照するがよい。(本書附『支那の景教に就いて』参照)
 (一)一九一九年アール・ジヨンストン氏が北京の西南三十哩許の山地に在る房山県附近に在る十字寺といふ荒廃した一小寺で発見したものである。
 (二)一六一九年に閩泉州南邑西山で発見せられたものである。それが二六三八年に当時の基督教徒の手に移つたものである。
 (三)三角形の下に十字架及び白雲並に蓮台等が彫刻せられ其の下に大字で「大秦景教流行中國碑」とある。即ち大秦から伝来した景教か支那即ち中国に流行したといふことを記念する石碑である。其の本文は一千九百字の漢文と五十余のシリヤ語文と七十二名の景教僧の名前がエストランゲラといふシリヤ文字で書かれてある。
 此の碑文の歴史的部分が非常に重用である。先づ第一に阿羅本といふ者の一団体が大秦即シリヤ猶太亜と云ふ処から貞観九年即ち西紀六三五年に長安に到着した。而して唐の太宗は宰臣房玄齢を使はし儀杖を惣へて之を西郊に賓迎せしめた。また阿羅本が将来したる景教の経典は太宗が書殿に於て飜訳せしめられ、道を禁闈〈キンイ〉に問ひたる後深く景教の正真を知つて特に之が伝授を許し貞観十二年(西紀六三八年)には詔勅を出して『其の教旨を詳〈ツマビラカ〉にするに玄妙無為である。其の元宗を観るに生成立要である。辞に繁説がなく理に忘筌がある。物を済し人を利するを以つて宜しく天下に行はしむべし』とあつた。而して大秦寺は建てられ先づ二十一人の僧侶が任命せられた。高宗(西紀六五〇年~六五三年)は諸州に景教寺を置き阿羅本を崇めて鎮国大法主となした。玄宗至道皇帝(西紀七一二~七五五年)は寧国等五王をして親しく福宇に臨み壇場を築かしめた。又、粛宗文明皇帝(西紀七五六年~六二年)は霊武並に五郡の土地に於て重ねて景教の寺院を建てた。而して代宗文武皇帝(西紀七六三年~七七九年)は聖運を恢張し無為に従事し景衆を盛〈サカン〉ならしめたのである。
 尚ほ末文に大唐建中二年即ち西紀七八一年に景教の法主寧恕が束方の景衆を統治して居た時代とある。寧恕とは景教の法主へナン・イシヨ第二世の漢名である。(訳補者曰ふ。其の意味は「イエスの仁慈」即ち寧恕といふ漢字に該当するのである)この法主は西紀七七四年から同七八〇年まで景教法主の位に在つた。即ち此の石碑が建立せられ其の除幕式があつた建中二年一月(西紀七八一年)には永眠して居た。併し陸上交通の不便であつた当時に於ては法主の訃音〈フイン〉が此の石碑彫刻の完成するまでには支那に達しなかつたのであると思はれる。シリヤ語の文章に拠ればトルキスタンの一市へルクアから来た僧でミリオの子であるイヅブジツドと云ふクムダン(関内)の僧が希臘〈ギリシャ〉年号の一〇九二年(西紀七八一年)に建立したとある。尚ほ其の他に七十二名の景教僧の名がシリヤ文字と漢字とで対立してある。此の碑石か発掘せられた場所に関しては諸説が紛々として一定して居ないが佐伯教授は一六二五年頃に西安盩厔間の一地点に於て此の石が発掘せられたものと断定して居る。発掘者又は発見者の姓名は詳でない。モール氏は碑石は最初盩厔に建てられたものであつたが後に西安の西郊に移されたものであると云つて居る。〈189~197ページ〉

 この碑の最上部は、△形の囲みがあって、そこに十字架などが描かれている。そのすぐ下には、3×3の大きなマスがあって、そこにタテ書きで、
  大秦景
  教流行
  中國碑
と書かれている。教は「敎」でなく「教」、國は、国でなく「國」である。
 バッヂ博士は、この一文において、「東京の佐伯教授」に言及している。佐伯好郎は、1916年(大正5)に、ロンドンのキリスト教知識促進協会(Society for Promoting Christian Knowledge)から、『支那に於ける景教碑』という本(英文)を刊行していた。ウィキペディア「佐伯好郎」の項によれば、佐伯は、1913(大正2)から熊本で、第五高等学校の教授を務めていた。1916年以降は、東京高等工業学校で教鞭を執っていたというが、同校の教授だったか否かは不明。
 なお、文中、「儀杖を惣へて」というところがあるが、「惣へ」の読みは不明。「惣」は「総」と同字なので、あるいは「すべ」(総べ)か。

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