◎桑原隲蔵「大秦景教流行中国碑に就いて」を読む
バッヂ博士著『元主忽必烈が欧州に派遣したる景教僧の旅行誌』の紹介は、まだ終わったわけではない。だが、同書から、いったん離れ、「大秦景教流行中国碑」に話題を振りたい。
この石碑については、東洋史の碩学・桑原隲蔵(くわばら・じつぞう、1871~1931)に、「大秦景教流行中国碑に就いて」という著名な論文がある。本日以降、この論文を紹介してゆきたい。典拠は、桑原隲蔵『東洋史説苑』(弘文堂書店、1927)所収の同論文である。
引用にあたっては、原文を重視したが、漢字および仮名づかいは、現代のものに直してある。また、註は、引用部分に対応するものを、その都度、紹介することにした。〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による補足である。
大秦景教流行中国碑に就いて
私は明治四十三年〔1910〕四月の『藝文』に、「西安府の大秦景教流行中国碑』という論文を発表した。そののち大正十二年〔1923〕の六月に、景教碑の模型の京都帝国大学到着を記念すべく開かれた史学研究会で、「大秦景教流行中国碑に就きて」と題する講演をした。茲に掲ぐる論文は、曩〈サキ〉の論文と講演とを一纏めにして、新に作ったものである。
――――――――――――
茲に紹介する景教碑、詳しくいえば大秦景教流行中国碑は、唐時代に建設されたもので、その当時支那に流行した、キリスト教の一派のネストルNestor教に関する古碑で、今日猶お支那の陝西省の西安府(民国の関中道長安県)に現存して居る。ネストル教は、支那で普通に景教と称せられたが、又ミシアMissiah(救世主の意味)教とも称せられた。支那の記録にはミシアという言葉に、彌尸訶(『貞元新定釈教目録』)、彌施訶(大秦景教流行中国碑)または彌失訶(『仏祖歴代通載』)などの漢字を充てゝ居る。支那にはこの景教碑の外に、マホメット教に関する古碑もある。猶太〈ユダヤ〉教に関する古碑もある。されどこの景教碑は、年代の古い点から観ても、内容の豊富なる点から観ても、文章や文字の優秀な点から観ても、すべての点に於て、マホメット教関係の古碑や、猶太教関係の古碑に卓越して居る。
兎に角〈トニカク〉古代のキリスト教関係の古碑というので、早くから世界の注意を惹き、あらゆる支那の古碑中でも、一番世界的に有名となって居る。明末に発掘されて以来、今日までこの古碑の歴史や解釈に関する著書や論文は、殆ど汗牛充棟という有様で、欧米方面の文献は、大略ヘレルHellerの『西安府のネストル教碑』に紹介されて居り⑴、コルヂエCordierの『支那書史』には、一層網羅されて居る⑵。支那方面の文献は、清の楊栄鋕の『景教碑文紀事攷正』と、ワイリWylieの「西安府のネストル教碑」という論文中に備って居る⑶。かく関係の著書や論文の多いのは、畢竟この景教碑が世間から重要視されて居る一の證拠と思う。
抑も〈ソモソモ〉景教即ちネストル教とは、西暦五世紀の初半に出たネストリウスNestoriusの唱え出した、キリスト教の一派である。ネストリウスは三位一体に関して、新しい見解を主張した。彼の主張に拠ると、キリストは神性を具えた一個の人間に過ぎぬ。従ってキリストの母のマリアを、従来の如く Theotokos(神の母)と称するのを排して、Christotokos(キリストの母)と称すべしと主張する⑷。西暦四百三十一年に開かれた、エフェススEphesusの宗教会議で、このネストリウスの見解は異端として禁止された。されどこの新説は、西亜細亜地方に流行し、尋で〈ツイデ〉中央アジアにも伝播〈デンパ〉した⑸。唐が支那を統一して後ち、塞外〈サクガイ〉経略に手を着け、その国威が西域に振うと、その太宗の貞観〈ジョウガン〉九年(西暦六三五)に、阿羅本〔Araham〕といふ者が始めて景教を支那に伝えた。爾来景教の法運は次第に隆興したが、太宗の六世の孫に当る徳宗の建中二年(西暦七八一)に、当時の国都長安に在った、大秦寺と称するネストル教の寺院の僧の景浄、洋名をアダム(Adam)といふものが、同じくネストル教の信者か、若くば僧侶で、西暦八世紀の後半に、中央アジアの王舎城、即ちバルクBalkhから来て、唐に登庸されて、光禄大夫・朔方節度副使・試殿中監に出世した、伊斯〈イシ〉(洋名イザドブジド Izadbuzid ?)という人の出資によって、この記念碑を建て⑹、ネストル教の教義や、その支那伝来の歴史を書き誌したものである。
碑は黒色の石灰石より成り、その高さは台の亀趺〈キフ〉を除いて、約九フイト、幅は平均三フイト四インチ、厚さ約十一インチという。碑面には三十二行、毎行六十二字、すべて約千九百字の漢字が刻されてある。漢字の外にエストランゲロEstrangeloと呼ばれる、当時主として伝道の場合に使用された、古体のシリア文字が若干刻されてある。このシリア文字は、大体に於て景教に関係ある僧侶約七十人の名を記したもので、その大部分には之に相当する漢名を添えてある。
碑に刻された漢文の解釈は、可なり六ケ敷しい〈ムツカシイ〉。今から二十余年前に、上海在住のゼスイット派〔イエズス会派〕の宣教師のアヴレHavretが公にした碑文の解釈は、尤も傑出して居るが⑺、それは未完成でもあり、又不十分の点がないでもない。併し大体から見渡して、この碑文の内容は、次の如き四段の順序になって居る。
(第一) 天地創成のこと、原人が罪の人となる次第、及びキリストの降誕を述べたもの。
(第二) 唐の太宗の時、阿羅本が景教の経像を齎らして長安に来朝したこと、太宗は之を容れ、長安の義寧坊に大秦寺を建てゝ、僧二十一人を度せしこと、次の高宗は天下の諸地方に景教の寺院を増置したこと、則天武后時代から睿宗〈エイソウ〉時代にかけて、景教の法運やゝ不振に陥ったこと、玄宗時代に景教は再び唐室の保護を受けて、法運振興したこと、次の肅宗・代宗・徳宗三代を通じて、法運の益〈マスマス〉隆昌したことを記したもの。
(第三) この記念碑建設の費用を喜捨した、伊斯の徳行を敍したもの。
(第四) 韻文で上来三段の記事と、略〈ホボ〉同様のことを頌したもの。
されど碑文の解釈は、今日の講演の目的でない。今日の講演の目的は、景教碑の来歴を紹介するに在る。〈277~281ページ〉【以下、次回】
⑴ Heller; Das Nestorianische Denkmal in Singan fu. s. 438-441 (Graf Széchenyis Ostasiatische Reise. Bd. II).
⑵ Cordier; Bibliotheca Sinica. Volume II, Col. 772-781. Ibid. Supple'ment, Col. 3562-3564.
⑶ Wylie; The Nestorian Tablet of Se-gan Foo. pp. 289-300 (Journal of the American Oriental Society. V).
⑷ Mosheim; Ecclesiastical History. Vol. I, p.366.
⑸ Barthold; Zur Geschichte des Christentums in Mittle Asien. s. 22 flg.
⑹ Pelliot; Chrétiens d'Asie Centrale et d'Extrême Orient. p. 625 (T'oung Pao〔通報〕. 1914).
⑺ Havret; La Stèle Chrétienne de Sin-gan fou. III partie.
バッヂ博士著『元主忽必烈が欧州に派遣したる景教僧の旅行誌』の紹介は、まだ終わったわけではない。だが、同書から、いったん離れ、「大秦景教流行中国碑」に話題を振りたい。
この石碑については、東洋史の碩学・桑原隲蔵(くわばら・じつぞう、1871~1931)に、「大秦景教流行中国碑に就いて」という著名な論文がある。本日以降、この論文を紹介してゆきたい。典拠は、桑原隲蔵『東洋史説苑』(弘文堂書店、1927)所収の同論文である。
引用にあたっては、原文を重視したが、漢字および仮名づかいは、現代のものに直してある。また、註は、引用部分に対応するものを、その都度、紹介することにした。〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による補足である。
大秦景教流行中国碑に就いて
私は明治四十三年〔1910〕四月の『藝文』に、「西安府の大秦景教流行中国碑』という論文を発表した。そののち大正十二年〔1923〕の六月に、景教碑の模型の京都帝国大学到着を記念すべく開かれた史学研究会で、「大秦景教流行中国碑に就きて」と題する講演をした。茲に掲ぐる論文は、曩〈サキ〉の論文と講演とを一纏めにして、新に作ったものである。
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茲に紹介する景教碑、詳しくいえば大秦景教流行中国碑は、唐時代に建設されたもので、その当時支那に流行した、キリスト教の一派のネストルNestor教に関する古碑で、今日猶お支那の陝西省の西安府(民国の関中道長安県)に現存して居る。ネストル教は、支那で普通に景教と称せられたが、又ミシアMissiah(救世主の意味)教とも称せられた。支那の記録にはミシアという言葉に、彌尸訶(『貞元新定釈教目録』)、彌施訶(大秦景教流行中国碑)または彌失訶(『仏祖歴代通載』)などの漢字を充てゝ居る。支那にはこの景教碑の外に、マホメット教に関する古碑もある。猶太〈ユダヤ〉教に関する古碑もある。されどこの景教碑は、年代の古い点から観ても、内容の豊富なる点から観ても、文章や文字の優秀な点から観ても、すべての点に於て、マホメット教関係の古碑や、猶太教関係の古碑に卓越して居る。
兎に角〈トニカク〉古代のキリスト教関係の古碑というので、早くから世界の注意を惹き、あらゆる支那の古碑中でも、一番世界的に有名となって居る。明末に発掘されて以来、今日までこの古碑の歴史や解釈に関する著書や論文は、殆ど汗牛充棟という有様で、欧米方面の文献は、大略ヘレルHellerの『西安府のネストル教碑』に紹介されて居り⑴、コルヂエCordierの『支那書史』には、一層網羅されて居る⑵。支那方面の文献は、清の楊栄鋕の『景教碑文紀事攷正』と、ワイリWylieの「西安府のネストル教碑」という論文中に備って居る⑶。かく関係の著書や論文の多いのは、畢竟この景教碑が世間から重要視されて居る一の證拠と思う。
抑も〈ソモソモ〉景教即ちネストル教とは、西暦五世紀の初半に出たネストリウスNestoriusの唱え出した、キリスト教の一派である。ネストリウスは三位一体に関して、新しい見解を主張した。彼の主張に拠ると、キリストは神性を具えた一個の人間に過ぎぬ。従ってキリストの母のマリアを、従来の如く Theotokos(神の母)と称するのを排して、Christotokos(キリストの母)と称すべしと主張する⑷。西暦四百三十一年に開かれた、エフェススEphesusの宗教会議で、このネストリウスの見解は異端として禁止された。されどこの新説は、西亜細亜地方に流行し、尋で〈ツイデ〉中央アジアにも伝播〈デンパ〉した⑸。唐が支那を統一して後ち、塞外〈サクガイ〉経略に手を着け、その国威が西域に振うと、その太宗の貞観〈ジョウガン〉九年(西暦六三五)に、阿羅本〔Araham〕といふ者が始めて景教を支那に伝えた。爾来景教の法運は次第に隆興したが、太宗の六世の孫に当る徳宗の建中二年(西暦七八一)に、当時の国都長安に在った、大秦寺と称するネストル教の寺院の僧の景浄、洋名をアダム(Adam)といふものが、同じくネストル教の信者か、若くば僧侶で、西暦八世紀の後半に、中央アジアの王舎城、即ちバルクBalkhから来て、唐に登庸されて、光禄大夫・朔方節度副使・試殿中監に出世した、伊斯〈イシ〉(洋名イザドブジド Izadbuzid ?)という人の出資によって、この記念碑を建て⑹、ネストル教の教義や、その支那伝来の歴史を書き誌したものである。
碑は黒色の石灰石より成り、その高さは台の亀趺〈キフ〉を除いて、約九フイト、幅は平均三フイト四インチ、厚さ約十一インチという。碑面には三十二行、毎行六十二字、すべて約千九百字の漢字が刻されてある。漢字の外にエストランゲロEstrangeloと呼ばれる、当時主として伝道の場合に使用された、古体のシリア文字が若干刻されてある。このシリア文字は、大体に於て景教に関係ある僧侶約七十人の名を記したもので、その大部分には之に相当する漢名を添えてある。
碑に刻された漢文の解釈は、可なり六ケ敷しい〈ムツカシイ〉。今から二十余年前に、上海在住のゼスイット派〔イエズス会派〕の宣教師のアヴレHavretが公にした碑文の解釈は、尤も傑出して居るが⑺、それは未完成でもあり、又不十分の点がないでもない。併し大体から見渡して、この碑文の内容は、次の如き四段の順序になって居る。
(第一) 天地創成のこと、原人が罪の人となる次第、及びキリストの降誕を述べたもの。
(第二) 唐の太宗の時、阿羅本が景教の経像を齎らして長安に来朝したこと、太宗は之を容れ、長安の義寧坊に大秦寺を建てゝ、僧二十一人を度せしこと、次の高宗は天下の諸地方に景教の寺院を増置したこと、則天武后時代から睿宗〈エイソウ〉時代にかけて、景教の法運やゝ不振に陥ったこと、玄宗時代に景教は再び唐室の保護を受けて、法運振興したこと、次の肅宗・代宗・徳宗三代を通じて、法運の益〈マスマス〉隆昌したことを記したもの。
(第三) この記念碑建設の費用を喜捨した、伊斯の徳行を敍したもの。
(第四) 韻文で上来三段の記事と、略〈ホボ〉同様のことを頌したもの。
されど碑文の解釈は、今日の講演の目的でない。今日の講演の目的は、景教碑の来歴を紹介するに在る。〈277~281ページ〉【以下、次回】
⑴ Heller; Das Nestorianische Denkmal in Singan fu. s. 438-441 (Graf Széchenyis Ostasiatische Reise. Bd. II).
⑵ Cordier; Bibliotheca Sinica. Volume II, Col. 772-781. Ibid. Supple'ment, Col. 3562-3564.
⑶ Wylie; The Nestorian Tablet of Se-gan Foo. pp. 289-300 (Journal of the American Oriental Society. V).
⑷ Mosheim; Ecclesiastical History. Vol. I, p.366.
⑸ Barthold; Zur Geschichte des Christentums in Mittle Asien. s. 22 flg.
⑹ Pelliot; Chrétiens d'Asie Centrale et d'Extrême Orient. p. 625 (T'oung Pao〔通報〕. 1914).
⑺ Havret; La Stèle Chrétienne de Sin-gan fou. III partie.
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