◎模造碑はニューヨークの芸術博物館に陳列された
桑原隲蔵『東洋史説苑』(弘文堂書店、1927)から、「大秦景教流行中国碑に就いて」という論文を紹介している。本日は、その八回目(最後)。
文中、【 】は原ルビ、{ }内は著者による補足、〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による補足である。
私は明治四十二年〔1909〕の春に帰朝して、京都帝国大学に奉職することゝなり、同年の秋に同僚の上田〔敏〕教授と同伴で、丸善の支店に出掛けた所が、新着のホルム氏の『ネストル教碑』といふ一小冊があった(42)。片々たる小著ではあるが、ホルム氏自身の関係した景教碑事件の顚末を書いてあるから、私にとって中々棄て難い。殊にこの書によって、ホルム氏の持ち出したのは模造碑である事実を確め得て、二年来の景教碑に関する疑団も始めて氷解した。
このホルム氏はデネマルク人で、千八百八十一年にコペンハーゲンCopenhagenで生れた。父は外交官であつた関係もあろうが、彼は早く海外生活を営み、義和団の乱の直後に、支那や日本で新聞記者となった。日本では横浜の Japan Daily Advertiser に勤務して居ったという。千九百五年に欧洲に帰って、暫く倫敦〈ロンドン〉で記者生活を続けたが、千九百七年(明治四〇)の一月に、支那に出掛けて景教碑を買収するか、若くばその原碑を模造する計画を建てた。かくて彼は米国を経て支那に渡り、その年の五月二日に天津を発し、同月三十日に西安に到着した。六月の十日に彼は始めて金勝寺を訪い〈オトナイ〉、景教碑を親閲し、原碑の買収に尽力したが、到底成功覚束なし〈オボツカナシ〉と見て、更にその模造に取り掛った。彼は石匠を招いて、原碑と同大同質同量の模造碑の製作を請負わせた。石匠は西安の北九十支那里の富平県から、同質の石材を切り出して西安に運び、金勝寺の境内で、七月から九月にかけて、模造碑の製作に従事した。仕上った模造碑と原碑とは、一見しては区別つかぬ程の出来栄えであると、ホルム氏は自慢して居る。
ホルム氏は十月三日にこの模造碑を西安から搬出する予定で、その前日の十月二日に、準備の為め金勝寺に出掛けると、境内が何時になく騒々しい。何事かと聞き質すと、この日意外にも、景教碑は官命で碑林に移転されることになり、碑石はすでに持ち出されて居ったという。景教碑の移転は、十月の二日から四日まで、前後三日間に跨ったと見える。私が渭北踏査の帰途に、亀趺の運搬されるのを目撃したのは、この最終日の出来事である。兎に角私とホルム氏とは、外国人にして、金勝寺に安置された景教碑の実見者として、最後のものであり、又碑林に移転された景教碑の実見者として、最初の人であらねばならぬ。同年の夏、私より一二月前に、フランスのシャヴァンヌChavannes教授や、ロシアのアレキシェーフAlexieff教授が、西安を探訪した筈だが、不幸にして景教碑の移転という大事件に遭遇し得なかった訳である(43)。
ホルム氏は十月三日に、重量二噸【トン】の模造碑を特別製の馬車に載せて、金勝寺から鄭州へ送り出した。ホルム氏自身は三日後くれて、十月六日に西安を出発し、模造碑を追うて鄭州に向った。私はホルム氏より更に三日後くれて、十月九日に西安を出発して、同氏の後を鄭州に向った次第である。模造碑は鄭州から京漢鉄道で漢口まで運び去られたが、漢口の税関で差押へられた。ホルム氏自身北京に出掛け、総税務司のハートRobert Hart(=赫徳)氏に談判して、差押えを解除して貰い、漢口から上海へ、上海から米国に送り、千九百八年(明治四十一)六月から、この模造碑はニューヨークの芸術博物館Metropolitan Museum of Artに附託品として陳列された。ニューヨークに陳列されること満八年にして、千九百十六年(大正五)に、然るべき買手が出来、この模造碑を羅馬〈ローマ〉教皇ベネディクト十五世Benedict XVの手許に献送することになった(44)。ホルム氏自身この碑を護送して羅馬に往き、献上の手続を果した。かくて千九百十七年(大正六)以後、この模造碑はローマ教皇庁所属の博物館 Lateran Palace に安置されて居る。約三十年前から唱え出された、景教碑を英国博物館に移すべしといふ議論は、遂にその模造碑をローマの博物館に蔵するという結果を生んだ。
この模造碑が紐育〈ニューヨーク〉の博物館に附託されて居る時から、ホルム氏は、その同大の石膏模型を、各国の大学や博物館へ、希望に応じて{実費で?}配附したが、今日までにその配附を受けた国は十三国に及ぶといふ。欧洲では英国・仏蘭西・独逸・以太利・西班牙・デネマルク・希臘〈ギリシャ〉・土耳古〈トルコ〉等があり、亜細亜では我が京都帝国大学と印度のカルカッタCalcuttaに在る博物館Indian Museumとである。この模型は台石に当る亀趺を欠くが、その他はすべて原碑を髣髴せしむるに足ると思う。
序〈ツイデ〉に申添えるが、我が帝国大学所蔵のこの模型の外に、高野山の奧院〈オクノイン〉にも景教碑の模造碑がある。こは千九百十一年(明治四十四)九月二十一日に、愛蘭土【アイルランド】出身で仏教研究者である、ゴルドンGordon夫人の出資によって建設されたという(45)。多分景教碑文の撰者たる景浄は、曽て弘法大師の師匠の般若三蔵を助けて、密教の飜経に従事したという縁故から、この模造碑を我が国の密教の霊場たる高野山に建設したものと想う。但〈タダ〉この模造碑は、原碑と余り似寄って居らぬのが遺憾である。〈308~311ページ〉
(42) Holm; The Nestorian Monument.
(43) Holm; My Nestorian Adventure. p. 251.
(44) Holm; Ibid. pp. 319-320.
(45) 水原堯栄〈ギョウエイ〉『高野山金石図説』巻中、頁一七三以下。
桑原隲蔵『東洋史説苑』(弘文堂書店、1927)から、「大秦景教流行中国碑に就いて」という論文を紹介している。本日は、その八回目(最後)。
文中、【 】は原ルビ、{ }内は著者による補足、〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による補足である。
私は明治四十二年〔1909〕の春に帰朝して、京都帝国大学に奉職することゝなり、同年の秋に同僚の上田〔敏〕教授と同伴で、丸善の支店に出掛けた所が、新着のホルム氏の『ネストル教碑』といふ一小冊があった(42)。片々たる小著ではあるが、ホルム氏自身の関係した景教碑事件の顚末を書いてあるから、私にとって中々棄て難い。殊にこの書によって、ホルム氏の持ち出したのは模造碑である事実を確め得て、二年来の景教碑に関する疑団も始めて氷解した。
このホルム氏はデネマルク人で、千八百八十一年にコペンハーゲンCopenhagenで生れた。父は外交官であつた関係もあろうが、彼は早く海外生活を営み、義和団の乱の直後に、支那や日本で新聞記者となった。日本では横浜の Japan Daily Advertiser に勤務して居ったという。千九百五年に欧洲に帰って、暫く倫敦〈ロンドン〉で記者生活を続けたが、千九百七年(明治四〇)の一月に、支那に出掛けて景教碑を買収するか、若くばその原碑を模造する計画を建てた。かくて彼は米国を経て支那に渡り、その年の五月二日に天津を発し、同月三十日に西安に到着した。六月の十日に彼は始めて金勝寺を訪い〈オトナイ〉、景教碑を親閲し、原碑の買収に尽力したが、到底成功覚束なし〈オボツカナシ〉と見て、更にその模造に取り掛った。彼は石匠を招いて、原碑と同大同質同量の模造碑の製作を請負わせた。石匠は西安の北九十支那里の富平県から、同質の石材を切り出して西安に運び、金勝寺の境内で、七月から九月にかけて、模造碑の製作に従事した。仕上った模造碑と原碑とは、一見しては区別つかぬ程の出来栄えであると、ホルム氏は自慢して居る。
ホルム氏は十月三日にこの模造碑を西安から搬出する予定で、その前日の十月二日に、準備の為め金勝寺に出掛けると、境内が何時になく騒々しい。何事かと聞き質すと、この日意外にも、景教碑は官命で碑林に移転されることになり、碑石はすでに持ち出されて居ったという。景教碑の移転は、十月の二日から四日まで、前後三日間に跨ったと見える。私が渭北踏査の帰途に、亀趺の運搬されるのを目撃したのは、この最終日の出来事である。兎に角私とホルム氏とは、外国人にして、金勝寺に安置された景教碑の実見者として、最後のものであり、又碑林に移転された景教碑の実見者として、最初の人であらねばならぬ。同年の夏、私より一二月前に、フランスのシャヴァンヌChavannes教授や、ロシアのアレキシェーフAlexieff教授が、西安を探訪した筈だが、不幸にして景教碑の移転という大事件に遭遇し得なかった訳である(43)。
ホルム氏は十月三日に、重量二噸【トン】の模造碑を特別製の馬車に載せて、金勝寺から鄭州へ送り出した。ホルム氏自身は三日後くれて、十月六日に西安を出発し、模造碑を追うて鄭州に向った。私はホルム氏より更に三日後くれて、十月九日に西安を出発して、同氏の後を鄭州に向った次第である。模造碑は鄭州から京漢鉄道で漢口まで運び去られたが、漢口の税関で差押へられた。ホルム氏自身北京に出掛け、総税務司のハートRobert Hart(=赫徳)氏に談判して、差押えを解除して貰い、漢口から上海へ、上海から米国に送り、千九百八年(明治四十一)六月から、この模造碑はニューヨークの芸術博物館Metropolitan Museum of Artに附託品として陳列された。ニューヨークに陳列されること満八年にして、千九百十六年(大正五)に、然るべき買手が出来、この模造碑を羅馬〈ローマ〉教皇ベネディクト十五世Benedict XVの手許に献送することになった(44)。ホルム氏自身この碑を護送して羅馬に往き、献上の手続を果した。かくて千九百十七年(大正六)以後、この模造碑はローマ教皇庁所属の博物館 Lateran Palace に安置されて居る。約三十年前から唱え出された、景教碑を英国博物館に移すべしといふ議論は、遂にその模造碑をローマの博物館に蔵するという結果を生んだ。
この模造碑が紐育〈ニューヨーク〉の博物館に附託されて居る時から、ホルム氏は、その同大の石膏模型を、各国の大学や博物館へ、希望に応じて{実費で?}配附したが、今日までにその配附を受けた国は十三国に及ぶといふ。欧洲では英国・仏蘭西・独逸・以太利・西班牙・デネマルク・希臘〈ギリシャ〉・土耳古〈トルコ〉等があり、亜細亜では我が京都帝国大学と印度のカルカッタCalcuttaに在る博物館Indian Museumとである。この模型は台石に当る亀趺を欠くが、その他はすべて原碑を髣髴せしむるに足ると思う。
序〈ツイデ〉に申添えるが、我が帝国大学所蔵のこの模型の外に、高野山の奧院〈オクノイン〉にも景教碑の模造碑がある。こは千九百十一年(明治四十四)九月二十一日に、愛蘭土【アイルランド】出身で仏教研究者である、ゴルドンGordon夫人の出資によって建設されたという(45)。多分景教碑文の撰者たる景浄は、曽て弘法大師の師匠の般若三蔵を助けて、密教の飜経に従事したという縁故から、この模造碑を我が国の密教の霊場たる高野山に建設したものと想う。但〈タダ〉この模造碑は、原碑と余り似寄って居らぬのが遺憾である。〈308~311ページ〉
(42) Holm; The Nestorian Monument.
(43) Holm; My Nestorian Adventure. p. 251.
(44) Holm; Ibid. pp. 319-320.
(45) 水原堯栄〈ギョウエイ〉『高野山金石図説』巻中、頁一七三以下。
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- その古碑を見物すべく、沢山の人々が雲集した
- 行政法といふ名の下に憲法を教へてくれ(伊藤博文)
- 隠語の分類あるいは隠語の作り方
- 書中の迷信的記事には註解を施さなかった