礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

二人の景教僧はエルサレムに向って支那を発った

2024-09-12 00:47:16 | コラムと名言
◎二人の景教僧はエルサレムに向って支那を発った

 昨日に続いて、バッヂ博士著・佐伯好郎訳補『元主忽必烈が欧州に派遣したる景教僧の旅行誌』(春秋社松柏館、1943)の紹介である。本日は、同書の「原序」、すなわちバッヂ博士の序文を紹介する。やや長いので、前後二回に分けて紹介する。

     原  序

 本書は把・掃馬【パールソーマ】及び馬可【マコス】と云へる二人の景教僧に関するシリヤ語で書かれたる歴史の全訳である。掃馬は汗・八里【カーンパリツク】(「汗の都」と云ふ義にて今の北京を指す)の人で、馬可は綏遠〈スイエン〉省帰化城托克托〈トクト〉即ち東城の産である。(訳補者曰く二一一頁の註を見よ)
 本書に収むるところのものは波斯〈ペルシャ〉王伊児汗〈イル・カン〉王朝のことに関する記事である。而して其の主なるものは蒙古の景教徒との交渉顚末であるから本書の興味と重要性とは全く此の点に在ると謂つてよい。之を通読すれば支那は勿論、中央亜細亜及びイラク・アル・アジヤミ等に於ける景教勢力の消長とその教会の盛衰興亡の歴史とが判明するのである。加之〈シカノミナラズ〉その記事は多く当時の時局に関係して四囲の事情の変遷を目撃したる人々の説明や陳述に基くものであるから歴史の資料としては実に一種特別の価値を有するものである。若し夫れ、これを所謂学界の『大掘出物【セレンデイピテー】』といふことが出来なかつたら何処に『掘出物』があるであらうか。本書こそは、実に英語の『掘出物』といふ言葉の語源となつた、かの『サレンデ(錫侖【セイロン】島)の三子物語』といふ波斯の昔話よりも遥かに珍らしい話である。
 ベニヤミンの一族であつたソウロが嘗て其の父の為に驢馬を索し〈サガシ〉に出かけた。而して驢馬を獲ずして遂に王国を策し出したといふ話がある。それと同じ様に此等の二人の支那の景教僧は救世主イエス・キリストの御墓所で祈祷を捧げたいといふ目的でエルサレムに向つて支那を出発したのである。而して彼等は誠心誠意エルサレムの神殿で祈祷を捧げ自己の罪科旧悪の洗潔と自己の心霊の慰安とを得たいと思ふたのである。然るにこれらの両人は遂にエルサレムには到達し得なかつた。併し二人の中の年少者であつた馬可は先づ第一に景教の大徳に挙げられ後には景教総本山の教父第五十八代の法主に任命せらるゝに至つたのである。而して当時の景教総本山の全領土は東は支那より西はパレスタインに拡がり北は西比利亜〈シベリア〉に亘り南は錫侖島に達して居たのである。又年長者であつた掃馬も挙げられて大徳となり全亜細亜の景教の巡錫〈ジュンシャク〉総監に任命せられ、後には阿魯渾汗〈アルグン・カン〉の特命全権使として東羅馬王、羅馬法王、仏国王及び英国王エドワード第一世等に謁し大いに国事に関して樽俎折衝〈ソンソセッショウ〉するところがあつたことは明瞭である。さればこれら両僧の伝記は人間の運命に対する上帝の摂理の深遠にして測り難きものであることを吾人に如実に物語るものであると言はねばならぬ。〈1~3ページ〉【以下、次回】

「大掘出物」に【セレンデイピテー】というルビが振られている。英語の綴りは、serendipity。「予期することなく大きな発見をすること、または、その能力」という意味である。

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