◎その古碑を見物すべく、沢山の人々が雲集した
桑原隲蔵『東洋史説苑』(弘文堂書店、1927)から、「大秦景教流行中国碑に就いて」という論文を紹介している。本日は、その二回目。
文中、【 】は原ルビ、{ }内は著者による補足、〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による補足である。
さてこの景教碑の建設の後ち六十年許りで、徳宗の玄孫に当る武宗の時代となる。武宗は所謂三武の一人で、道教を崇信する余り、仏教を始め諸外教に対して激烈な圧制を加えその会昌五年(西暦八四五)には、ネストル教及びゾロアステルZarathustra教(=祆教〈ケンキョウ〉)の僧侶を併せて、二千余人或は三千余人を還俗〈ゲンゾク〉せしめ、外国出身の僧侶は、多くその本国へ送還させた。多分この時に、義寧坊に在った大秦寺も廃毀せられ、その境内に建立された筈の景教碑も打ち倒されたものかと想う。勿論当時の記録に、景教碑の打ち倒された事実や年代が明記されてはないが、爾く〈シカク〉想像するより外に、適当な解釈を下すことが出来ぬのである。支那では通例古碑の刻字は、天然や人為の種々の事由によって、磨滅毀損を受ける筈であるが、この景教碑のみは、不思議に碑面の字画に格別の損滅がない。こはこの碑の建立後、久しからずして地下に埋没して、天然や人為の損滅から保護された結果と認められ、上述の想像の蓋然性を裏書する様である。兎に角宋・元時代の記録を通じて、この景教碑のことが一切見当らぬ。
所が明末になって、西暦十七世紀の初半に、偶然の出来事で、この景教碑が土中から発掘されて、世間に現われて来た。この古碑出土の状況を、尤も早く尤も詳しく世間に通告した、セメドSemedoといふ宣教師の作った『支那通史』には、大要左の如く記載してある⑻。
《千六百二十五年(明の天啓五年)に、陝西省の首府の西安府の附近で、支那職工達が建物を新築する為に、礎石を置く目的で、地面を掘り下げた。所が彼等は{偶然}一石碑を掘り当てた。{碑の}長さは九empan(手尺)以上、寛さは四 empan 以上、厚さは一 empan 以上に及ぶ。碑の頭部に当るべき一端は、ピラミッド形をなして居る。ピラミッドの寛さは、底部で一empan 以上、高さは二 empan 以上あって、その表面に見事なる十字架が刻まれて、その形は{印度の}メリアプォルMeliapor町に在る、聖トーマスSt. Thomasの墓の彫刻のそれによく類似して居る。十字架は雲形{の彫刻}に囲まれ、その下層には三行に、各行三個の大漢字が刻まれてある。この漢字は支那に一般に通用のもので、極めて明瞭に刻まれてある。碑の全面にも同種類の文字が刻まれ、側面にも文字は刻まれてあるが、それは種類の異った外国字で、誰人も読むことが出来ぬ。
この注意すべき古碑が出土すると、職工達は直にその由を官衙に上申した。知府が現場に出馬して、古碑を検閲した後ち、之を見事な土台の上に安置し、風雨の迫害を保護し、同時に諸人の観覧を自由にすべく、碑の上に碑亭を構えた。珍奇な古碑の出土の評判が四方に拡まると、その古碑を見物すべく、沢山の人々が雲集した。丁度この頃は、キリスト教が可なり支那人の間に知られて居ったから、{キリスト教に関する若干の知識を有する}さる紳士は、この古碑を見て、キリスト教に関係あるものと推測して、{浙江省の}杭州府に在住する彼の友人で、教名を Leo{n}といふ、キリスト教信者の官吏の手許へ、その碑拓一枚を送り届けた。この碑拓は、当時杭州府在住の宣教師達に、想像以上の大なる歓喜を齎らした。》
このセメドは漢名を魯徳照という。彼は西暦千六百二十八年に西安に出掛け、実地に就いて熱心に景教碑を研究した人である。当時支那在留の宣教師の中で、トリゴオルトNicholas Trigault(=金尼閣)を除けば、尤も早く景教碑の実物を親覩〈シント〉した人であるから信用も厚く、従って欧米の学界では、景教碑出土の状況に関しては、セメドの記事が権威と認められて、これに異議を挟む者が尠い。されどセメドの記事以外に、この古碑の出土の場所や事情や年代に就いて、異説がないでもない。出土の事情の異同は些事で、格別考慮するに足らぬが、場所や年代の異同は、一応の査覈〈サカク〉を要する。先づ出土年代に関しては、セメドの所伝以外に、少くとも左の三異説がある。
(第一)清初の銭謙益の景教考(『牧齋有学集』巻四十四所収)――多くの学者はワイリやアヴレさへも、この銭謙益を銭大昕と間違えて居る――には、明の万暦年間(西暦一五七三年乃至一六二〇年)に、長安の住民が地を鋤く間に、偶然この碑を発掘したと記してある⑼。
(第二)清初の林侗の『来齋金石考略』巻下には、明の崇禎年間(西暦一六二八年乃至一六四四年)に、長安在住の官吏が、その幼童の死骸を埋葬すべく、長安の崇仁寺(=金勝寺)附近の地を掘り下げて、この古碑を発見したと伝えて居る。
(第三)明末の陽瑪諾の『唐景教碑頌正詮』の序には、この碑の発掘の次第を述べて、
《大明天啓三年(西暦一六二三)席中官命啓土。于敗墻下獲之。》
と記してある。
以上三説の中、第一第二の所伝は、年代も漠然で、採るに足らぬが、独り第三の陽瑪諾の所伝のみは、幾分の注意を価する。陽瑪諾は洋名をディアズEmmanuel Diazといい、景教碑出土の当時、浙江省杭州府に居って、宣教師の中では、尤も早くこの碑の拓本を見得た一人である。彼は明の崇禎十七年(西暦一六四四)に、漢文で景教碑を解釈して、『唐景教碑頌正詮』と名づけ、杭州府の天主堂で出版したが、その序文に上述の如く、景教碑出土の年代を天啓三年と明記してある。この三年は或は五年の訛かとも疑われるが、併し当時耶蘇会の出版は鄭重を極め、必三次看詳、允付梓とあって、実際この『唐景教碑頌正詮』――私の手許にあるのは、光緒四年の重鐫〈ジュウセン〉ではあるが――も、陽瑪諾の同会のフェルレーラGaspar Ferreira(=費奇規)、アレニJulius Aleni(=艾儒略)、モンテーロJohannes Monteiro(=孟儒望)の訂閲を経て出版したもので、容易に差誤あるべしとは思はれぬ。
尚お又明の李之藻の「讀景教碑書後」といふ一篇がある。こは『唐景教碑頌正詮』の中にも、『方外焚書』などの中にも載せられて居る。この李之藻は、かの有名なる徐光啓と相並んで、当時の耶蘇信徒中の大立者〈オオダテモノ〉であった。彼の教名を Leon といい、当時の洋人の記録には、Leon Li として知られて居る。上に紹介したセメドの記事に、杭州府在住の官吏で教名Leo{n}とあるのは、即ちこの李之藻である。彼の読景教碑書後に、
《廬居霊竺間(杭州府の霊隠寺と天竺寺をいう)。岐陽同志張賡虞恵寄唐碑一幅。曰邇者【チカゴロ】長安中掘地所得。名曰景教流行中国碑頌。此教未之前聞。其即利氏西泰(=利馬竇)所伝聖教乎。余読之良然。》
と書いてある。
この張賡虞は教名を Paul といい、洋人の記録には普通に Paul Tshang として知られて居る。岐陽の産といえば、陝西省鳳翔府管下の人と見える。彼はその以前に、北京で利馬竇にも面会して、キリスト教に就いての智識をもって居った。景教碑出土の噂が四方に伝ると、彼は親しく西安に出掛けて、この古碑を検閲した。当時陝西には一人の宣教師も滞在せなかった故、彼はキリスト教に関係ある人々の中で、尤も早く景教碑の実物を親覩した人である。セメドの『支那通史』の記事中に見える、キリスト教に関する智識を有する或る紳士とは、畢竟この張賡虞を指すのである。張賡虞は已に紹介せる如く、景教碑の拓本をとって、杭州府の李之藻の手許に寄送した。李之藻の読景教碑書後の終末に、
《天啓五年歳在旃蒙赤奮若。日纏参初度。涼菴居士李我存。盥手謹識。》
とあるから、この文は天啓五年(西暦一六二五)乙丑の歳の陰暦四月十六日(陽暦の五月二十一日)に書かれたこと疑を容れぬ(10)。〈281~287ページ〉【以下、次回】
⑻ Semedo; The History of China. p. 157.
⑼ 神田(喜一郎)学士「或る支那学者の景教考に就て」(大正十三年〔1924〕八月号『歴史と地理』所収)
⑽ Havret; La Stèle Chrétienne II partie, pp. 37. 39.
桑原隲蔵『東洋史説苑』(弘文堂書店、1927)から、「大秦景教流行中国碑に就いて」という論文を紹介している。本日は、その二回目。
文中、【 】は原ルビ、{ }内は著者による補足、〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による補足である。
さてこの景教碑の建設の後ち六十年許りで、徳宗の玄孫に当る武宗の時代となる。武宗は所謂三武の一人で、道教を崇信する余り、仏教を始め諸外教に対して激烈な圧制を加えその会昌五年(西暦八四五)には、ネストル教及びゾロアステルZarathustra教(=祆教〈ケンキョウ〉)の僧侶を併せて、二千余人或は三千余人を還俗〈ゲンゾク〉せしめ、外国出身の僧侶は、多くその本国へ送還させた。多分この時に、義寧坊に在った大秦寺も廃毀せられ、その境内に建立された筈の景教碑も打ち倒されたものかと想う。勿論当時の記録に、景教碑の打ち倒された事実や年代が明記されてはないが、爾く〈シカク〉想像するより外に、適当な解釈を下すことが出来ぬのである。支那では通例古碑の刻字は、天然や人為の種々の事由によって、磨滅毀損を受ける筈であるが、この景教碑のみは、不思議に碑面の字画に格別の損滅がない。こはこの碑の建立後、久しからずして地下に埋没して、天然や人為の損滅から保護された結果と認められ、上述の想像の蓋然性を裏書する様である。兎に角宋・元時代の記録を通じて、この景教碑のことが一切見当らぬ。
所が明末になって、西暦十七世紀の初半に、偶然の出来事で、この景教碑が土中から発掘されて、世間に現われて来た。この古碑出土の状況を、尤も早く尤も詳しく世間に通告した、セメドSemedoといふ宣教師の作った『支那通史』には、大要左の如く記載してある⑻。
《千六百二十五年(明の天啓五年)に、陝西省の首府の西安府の附近で、支那職工達が建物を新築する為に、礎石を置く目的で、地面を掘り下げた。所が彼等は{偶然}一石碑を掘り当てた。{碑の}長さは九empan(手尺)以上、寛さは四 empan 以上、厚さは一 empan 以上に及ぶ。碑の頭部に当るべき一端は、ピラミッド形をなして居る。ピラミッドの寛さは、底部で一empan 以上、高さは二 empan 以上あって、その表面に見事なる十字架が刻まれて、その形は{印度の}メリアプォルMeliapor町に在る、聖トーマスSt. Thomasの墓の彫刻のそれによく類似して居る。十字架は雲形{の彫刻}に囲まれ、その下層には三行に、各行三個の大漢字が刻まれてある。この漢字は支那に一般に通用のもので、極めて明瞭に刻まれてある。碑の全面にも同種類の文字が刻まれ、側面にも文字は刻まれてあるが、それは種類の異った外国字で、誰人も読むことが出来ぬ。
この注意すべき古碑が出土すると、職工達は直にその由を官衙に上申した。知府が現場に出馬して、古碑を検閲した後ち、之を見事な土台の上に安置し、風雨の迫害を保護し、同時に諸人の観覧を自由にすべく、碑の上に碑亭を構えた。珍奇な古碑の出土の評判が四方に拡まると、その古碑を見物すべく、沢山の人々が雲集した。丁度この頃は、キリスト教が可なり支那人の間に知られて居ったから、{キリスト教に関する若干の知識を有する}さる紳士は、この古碑を見て、キリスト教に関係あるものと推測して、{浙江省の}杭州府に在住する彼の友人で、教名を Leo{n}といふ、キリスト教信者の官吏の手許へ、その碑拓一枚を送り届けた。この碑拓は、当時杭州府在住の宣教師達に、想像以上の大なる歓喜を齎らした。》
このセメドは漢名を魯徳照という。彼は西暦千六百二十八年に西安に出掛け、実地に就いて熱心に景教碑を研究した人である。当時支那在留の宣教師の中で、トリゴオルトNicholas Trigault(=金尼閣)を除けば、尤も早く景教碑の実物を親覩〈シント〉した人であるから信用も厚く、従って欧米の学界では、景教碑出土の状況に関しては、セメドの記事が権威と認められて、これに異議を挟む者が尠い。されどセメドの記事以外に、この古碑の出土の場所や事情や年代に就いて、異説がないでもない。出土の事情の異同は些事で、格別考慮するに足らぬが、場所や年代の異同は、一応の査覈〈サカク〉を要する。先づ出土年代に関しては、セメドの所伝以外に、少くとも左の三異説がある。
(第一)清初の銭謙益の景教考(『牧齋有学集』巻四十四所収)――多くの学者はワイリやアヴレさへも、この銭謙益を銭大昕と間違えて居る――には、明の万暦年間(西暦一五七三年乃至一六二〇年)に、長安の住民が地を鋤く間に、偶然この碑を発掘したと記してある⑼。
(第二)清初の林侗の『来齋金石考略』巻下には、明の崇禎年間(西暦一六二八年乃至一六四四年)に、長安在住の官吏が、その幼童の死骸を埋葬すべく、長安の崇仁寺(=金勝寺)附近の地を掘り下げて、この古碑を発見したと伝えて居る。
(第三)明末の陽瑪諾の『唐景教碑頌正詮』の序には、この碑の発掘の次第を述べて、
《大明天啓三年(西暦一六二三)席中官命啓土。于敗墻下獲之。》
と記してある。
以上三説の中、第一第二の所伝は、年代も漠然で、採るに足らぬが、独り第三の陽瑪諾の所伝のみは、幾分の注意を価する。陽瑪諾は洋名をディアズEmmanuel Diazといい、景教碑出土の当時、浙江省杭州府に居って、宣教師の中では、尤も早くこの碑の拓本を見得た一人である。彼は明の崇禎十七年(西暦一六四四)に、漢文で景教碑を解釈して、『唐景教碑頌正詮』と名づけ、杭州府の天主堂で出版したが、その序文に上述の如く、景教碑出土の年代を天啓三年と明記してある。この三年は或は五年の訛かとも疑われるが、併し当時耶蘇会の出版は鄭重を極め、必三次看詳、允付梓とあって、実際この『唐景教碑頌正詮』――私の手許にあるのは、光緒四年の重鐫〈ジュウセン〉ではあるが――も、陽瑪諾の同会のフェルレーラGaspar Ferreira(=費奇規)、アレニJulius Aleni(=艾儒略)、モンテーロJohannes Monteiro(=孟儒望)の訂閲を経て出版したもので、容易に差誤あるべしとは思はれぬ。
尚お又明の李之藻の「讀景教碑書後」といふ一篇がある。こは『唐景教碑頌正詮』の中にも、『方外焚書』などの中にも載せられて居る。この李之藻は、かの有名なる徐光啓と相並んで、当時の耶蘇信徒中の大立者〈オオダテモノ〉であった。彼の教名を Leon といい、当時の洋人の記録には、Leon Li として知られて居る。上に紹介したセメドの記事に、杭州府在住の官吏で教名Leo{n}とあるのは、即ちこの李之藻である。彼の読景教碑書後に、
《廬居霊竺間(杭州府の霊隠寺と天竺寺をいう)。岐陽同志張賡虞恵寄唐碑一幅。曰邇者【チカゴロ】長安中掘地所得。名曰景教流行中国碑頌。此教未之前聞。其即利氏西泰(=利馬竇)所伝聖教乎。余読之良然。》
と書いてある。
この張賡虞は教名を Paul といい、洋人の記録には普通に Paul Tshang として知られて居る。岐陽の産といえば、陝西省鳳翔府管下の人と見える。彼はその以前に、北京で利馬竇にも面会して、キリスト教に就いての智識をもって居った。景教碑出土の噂が四方に伝ると、彼は親しく西安に出掛けて、この古碑を検閲した。当時陝西には一人の宣教師も滞在せなかった故、彼はキリスト教に関係ある人々の中で、尤も早く景教碑の実物を親覩した人である。セメドの『支那通史』の記事中に見える、キリスト教に関する智識を有する或る紳士とは、畢竟この張賡虞を指すのである。張賡虞は已に紹介せる如く、景教碑の拓本をとって、杭州府の李之藻の手許に寄送した。李之藻の読景教碑書後の終末に、
《天啓五年歳在旃蒙赤奮若。日纏参初度。涼菴居士李我存。盥手謹識。》
とあるから、この文は天啓五年(西暦一六二五)乙丑の歳の陰暦四月十六日(陽暦の五月二十一日)に書かれたこと疑を容れぬ(10)。〈281~287ページ〉【以下、次回】
⑻ Semedo; The History of China. p. 157.
⑼ 神田(喜一郎)学士「或る支那学者の景教考に就て」(大正十三年〔1924〕八月号『歴史と地理』所収)
⑽ Havret; La Stèle Chrétienne II partie, pp. 37. 39.
*このブログの人気記事 2024・9・18(10位になぜか小浜逸郎)
- 桑原隲蔵「大秦景教流行中国碑に就いて」を読む
- 十字架の下に「大秦景教流行中國碑」とある
- 礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト30(24・...
- 書中の迷信的記事には註解を施さなかった
- A・フジモリ元大統領の訃報
- バッヂ博士『景教僧の旅行誌』の再版を入手
- 二人の景教僧はエルサレムに向って支那を発った
- 山口の印鑑は後になって平沢宅から発見されている
- 高田保馬、教職不適格者指定を受ける(1946)
- 選良たらんとすることが生の衰弱を意味する風土