◎景教碑は、大秦寺の境内に埋められた
桑原隲蔵『東洋史説苑』(弘文堂書店、1927)から、「大秦景教流行中国碑に就いて」という論文を紹介している。本日は、その三回目。
文中、【 】は原ルビ、〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による補足である。
さて鳳翔府と杭州府とは、相距る〈アイヘダツル〉こと約三千五百支那里である。支那の如き交通や報道の機関の不十分な状態の下に、張賡虞が態々〈ワザワザ〉西安に出掛けて、景教碑の拓本を手にしたのは、勿論その碑の出土後、相当の時日を経過したこと申す迄もない。その拓本を水陸三千幾百里を隔つる杭州府まで送寄するには、必ず多大の時日を要する。現にセメドは、西安杭州間を一ケ月半の行程と記して居る。然もその拓本の杭州に到着したのは、天啓五年〔1625〕の四月であった。此等の事情を綜合して考一考すると、景教碑の出土は、後くも天啓五年の早春か、若くばその一二年以前かも知れぬ。従って陽瑪諾の天啓三年〔1623〕説も、一概に否定し難い様に思う。併しこは重大なる問題で、軽々には論断を下し難い。私は単に一つの疑問というに止める。序〈ツイデ〉ながら私がこの疑問を『藝文』に発表した数年の後ち、曩に紹介した宣教師のアヴレの『西安府のキリスト教碑』を閲読した所が、アヴレも亦この点に就いては、私と略所見を同く〈オナジク〉せることを発見して⑾、頗る我が意を強くし得たことを、茲に附記して置く。
次に景教碑出土の場所に就いては、西安の外に盩厔【チウシツ】説もある。景教碑はもと西安の西南百六十支那里に在る、盩厔県地方で発掘せられて後ち、西安の西郊の金勝寺に移されたという。この説は在支宣教師の中で、一番最初にこの碑を実見したトルゴオルトの初伝で、早く一部の人達に信用されて居った。千六百十三年に出版された、以太利のバルトリBartoliの『支那』を始め、その他の信憑〈シンピョウ〉すべき学者の記録の中にも、この説を載せてあるという⑿。近時では景教碑の研究者として、尤も著聞〈チョブン〉して居る例のアヴレが、この説の熱心なる支持者で、そのアヴレの影響を受けた、英国の宣教師のモウルMouleや⒀、我が佐伯好郎氏なども⒁、同様にこの説を主張して居るが、到底成立し難いと思う。左に簡単にその理由を述べる。
(第一)この景教碑文を作った大秦寺の僧景浄は、長安の大秦寺の僧と認めねばならぬ。殊にこの碑の施主又は建設者である、バルク(王舎城)産のイザドブジド(伊斯?)は、長安の大秦寺の司祭及び司教代理たることは、碑のシリア文に明記してある⒂。景浄やイザドブジドの関係から推して、この碑はもと長安城内の義寧坊に在った大秦寺の境内に建設されたもので、盩厔地方に建設されたものでないことがわかる。
(第二)唐時代に盩厔地方に、大秦寺の存在したという何等の證拠がない。その盩厔地方に、景教碑の建設される筈がないではない歟〈カ〉。
(第三)もと長安に建設された景教碑が、ある時代に盩厔に移転されたとは、到底考えられない。又かゝる移転説を可能ならしむる、何等の證拠も理由もない。
(第四)景教碑を尤も早く親覩した張賡虞もセメドも、皆景教碑は長安若くば長安附近から出土したものと明記して、盩厔の出土を伝えて居らぬ。
(第五)景教碑の発掘された、又同時に安置された西安の西郊の金勝寺は、学者の研究によると、正しく唐代に大秦寺のあつた、長安の義寧坊の旧址に当る⒃。
(第六)景教碑が盩厔地方から出土する訳は、万々有り得べからざることであるが、仮に一部の人達の信ずる如く盩厔で発掘されて、西安に移転されたものとせば、何が故にこの碑を、何等縁故のなかるべき金勝寺の後庭へ安置したであろう歟。今日の金勝寺は、大体に於て唐代の大秦寺の所在地に該当するが、そは学者の研究を待って始めて知られたことで、明末一般の人々が、かゝる智識を有する筈がない。漫然移転された景教碑が、唐代の大秦寺の旧址に安置される結果となったとは、余りに不思議ではあるまい歟。
要するに此等の事情は、景教碑の盩厔出土説を不可能ならしめ、その反対に、長安出土説の確実を保證するものと申さねばならぬ。即ち景教碑はその当初建立された、長安の義寧坊の大秦寺の境内に埋没し、その大秦寺の旧址に当る、西安の西郊の金勝寺の境内から発掘され、大体に於て終始その位置を移動せざりしものと断定する外ない⒄。〈287~291ページ〉【以下、次回】
⑾ Havret; Ibid. II, p.59.
⑿ Havret; Ibid. II, pp. 34-37, 70-71.
⒀ Moule; The Christian Monument at Hsi-an fu. p. 77 (Journal of N.C.B.R.A.S, 1910).
⒁ Saeki; The Nestorian Monument in China. pp. 17-19.
⒂ Lamy et Gueluy; Le Monument Chrétien de Sin-gan-fou. p. 100 (Mémoire de l'Académie Royale des Science etc. de Belgique. Tome Liii).
⒃ 清の陶保廉の『辛卯侍行記』巻三の四枚十枚、『咸寧県志』巻三の四十五枚。
⒄ Pelliot; Chrétiens d'Asie Central et d'Extrême Orient. p. 625.
桑原隲蔵『東洋史説苑』(弘文堂書店、1927)から、「大秦景教流行中国碑に就いて」という論文を紹介している。本日は、その三回目。
文中、【 】は原ルビ、〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による補足である。
さて鳳翔府と杭州府とは、相距る〈アイヘダツル〉こと約三千五百支那里である。支那の如き交通や報道の機関の不十分な状態の下に、張賡虞が態々〈ワザワザ〉西安に出掛けて、景教碑の拓本を手にしたのは、勿論その碑の出土後、相当の時日を経過したこと申す迄もない。その拓本を水陸三千幾百里を隔つる杭州府まで送寄するには、必ず多大の時日を要する。現にセメドは、西安杭州間を一ケ月半の行程と記して居る。然もその拓本の杭州に到着したのは、天啓五年〔1625〕の四月であった。此等の事情を綜合して考一考すると、景教碑の出土は、後くも天啓五年の早春か、若くばその一二年以前かも知れぬ。従って陽瑪諾の天啓三年〔1623〕説も、一概に否定し難い様に思う。併しこは重大なる問題で、軽々には論断を下し難い。私は単に一つの疑問というに止める。序〈ツイデ〉ながら私がこの疑問を『藝文』に発表した数年の後ち、曩に紹介した宣教師のアヴレの『西安府のキリスト教碑』を閲読した所が、アヴレも亦この点に就いては、私と略所見を同く〈オナジク〉せることを発見して⑾、頗る我が意を強くし得たことを、茲に附記して置く。
次に景教碑出土の場所に就いては、西安の外に盩厔【チウシツ】説もある。景教碑はもと西安の西南百六十支那里に在る、盩厔県地方で発掘せられて後ち、西安の西郊の金勝寺に移されたという。この説は在支宣教師の中で、一番最初にこの碑を実見したトルゴオルトの初伝で、早く一部の人達に信用されて居った。千六百十三年に出版された、以太利のバルトリBartoliの『支那』を始め、その他の信憑〈シンピョウ〉すべき学者の記録の中にも、この説を載せてあるという⑿。近時では景教碑の研究者として、尤も著聞〈チョブン〉して居る例のアヴレが、この説の熱心なる支持者で、そのアヴレの影響を受けた、英国の宣教師のモウルMouleや⒀、我が佐伯好郎氏なども⒁、同様にこの説を主張して居るが、到底成立し難いと思う。左に簡単にその理由を述べる。
(第一)この景教碑文を作った大秦寺の僧景浄は、長安の大秦寺の僧と認めねばならぬ。殊にこの碑の施主又は建設者である、バルク(王舎城)産のイザドブジド(伊斯?)は、長安の大秦寺の司祭及び司教代理たることは、碑のシリア文に明記してある⒂。景浄やイザドブジドの関係から推して、この碑はもと長安城内の義寧坊に在った大秦寺の境内に建設されたもので、盩厔地方に建設されたものでないことがわかる。
(第二)唐時代に盩厔地方に、大秦寺の存在したという何等の證拠がない。その盩厔地方に、景教碑の建設される筈がないではない歟〈カ〉。
(第三)もと長安に建設された景教碑が、ある時代に盩厔に移転されたとは、到底考えられない。又かゝる移転説を可能ならしむる、何等の證拠も理由もない。
(第四)景教碑を尤も早く親覩した張賡虞もセメドも、皆景教碑は長安若くば長安附近から出土したものと明記して、盩厔の出土を伝えて居らぬ。
(第五)景教碑の発掘された、又同時に安置された西安の西郊の金勝寺は、学者の研究によると、正しく唐代に大秦寺のあつた、長安の義寧坊の旧址に当る⒃。
(第六)景教碑が盩厔地方から出土する訳は、万々有り得べからざることであるが、仮に一部の人達の信ずる如く盩厔で発掘されて、西安に移転されたものとせば、何が故にこの碑を、何等縁故のなかるべき金勝寺の後庭へ安置したであろう歟。今日の金勝寺は、大体に於て唐代の大秦寺の所在地に該当するが、そは学者の研究を待って始めて知られたことで、明末一般の人々が、かゝる智識を有する筈がない。漫然移転された景教碑が、唐代の大秦寺の旧址に安置される結果となったとは、余りに不思議ではあるまい歟。
要するに此等の事情は、景教碑の盩厔出土説を不可能ならしめ、その反対に、長安出土説の確実を保證するものと申さねばならぬ。即ち景教碑はその当初建立された、長安の義寧坊の大秦寺の境内に埋没し、その大秦寺の旧址に当る、西安の西郊の金勝寺の境内から発掘され、大体に於て終始その位置を移動せざりしものと断定する外ない⒄。〈287~291ページ〉【以下、次回】
⑾ Havret; Ibid. II, p.59.
⑿ Havret; Ibid. II, pp. 34-37, 70-71.
⒀ Moule; The Christian Monument at Hsi-an fu. p. 77 (Journal of N.C.B.R.A.S, 1910).
⒁ Saeki; The Nestorian Monument in China. pp. 17-19.
⒂ Lamy et Gueluy; Le Monument Chrétien de Sin-gan-fou. p. 100 (Mémoire de l'Académie Royale des Science etc. de Belgique. Tome Liii).
⒃ 清の陶保廉の『辛卯侍行記』巻三の四枚十枚、『咸寧県志』巻三の四十五枚。
⒄ Pelliot; Chrétiens d'Asie Central et d'Extrême Orient. p. 625.
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