礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

古代の朝鮮半島における言語状況

2023-03-28 01:35:58 | コラムと名言

◎古代の朝鮮半島における言語状況

『古事記大成 3 言語文字篇』(平凡社、一九五七)から、河野六郎の論文「古事記に於ける漢字使用」を紹介している。本日は、その二回目。

    四 古代朝鮮半島に於ける言語状況
 朝鮮の漢字使用を論ずる前に、一往当時及びそれ以前の半島に於ける言語状況を知って置く必要があろう。というのは、従来上代の日本語に関連して朝鮮が説かれる場合、往々にして、百済も新羅も、更に高句麗も、恰も同じ言語を話していたかの如くに取扱い、甚しきは現代の朝鮮語を引用するに至る傾向があるからである。残念なことに百済にしても、高句麗にしても、その言語の性格を知るに足る資料を殆ど残していないのであって、百済語若しくは高句麗語が、今日知られているどんな言語に関係づけられるのか不明である。たゞ中国史籍の漠然たる記載と朝鮮・日本・中国の記録に見える片々たる単語によって推測し得るに留っている。
 まず、紀元三世紀頃の朝鮮半島の状況を伝えるという魏志東夷伝に、民族及びその言語に関する記述がある。もとよりこの記述では具体的には何も判らないが、当時の言語状況の輪郭を略々〈ホボ〉察することが出来るであろう。
 魏志東夷伝によると、南満洲に夫余〈フヨ〉なる民族がいたが、その南(今日の平安北道の東北部あたり)に高句麗があった。この高句麗について、
  東夷旧語以為夫余別種、言語諸事多与夫余同
といい、高句麗語と夫余語の近似性を述べている。その南の、今日でいえば江原道〈コウゲンドウ〉辺に濊〈ワイ〉なる民族が居り、
  其耆老旧自謂、与句麗同種、……言語法俗大抵与句麗同 
とある。更に現在の咸鏡道〈カンキョウドウ〉方面には東沃沮〈トウヨクソ〉というものがあって、
  其言語与句麗大同、時時小異 
と述べている。即ち、夫余・高句麗・高句混・濊及び東沃沮の言語は同系の言語であって、方言的差違を示していたらしい。いま、これらの言語を、仮に貊〈ハク〉語系の言語と名づけて置く。
 これら貊族の西には、当時、楽浪郡を中心とする漢民族の植民地があった。ここで話されていた中国語は、漢ノ楊雄〈ヨウ・ユウ〉の方言などの記述から大体河北(燕)系山東(斉)系の方言であったらしい。
 貊族の地と中国の植民地の南には韓族がいた。韓族は馬韓・辰韓及び弁辰のいわゆる三韓に分かれていた。これらはいずれも一王国を形成するに至らず、小集団の連合の形を取っていた。これら韓族の言語と貊族の言語の異同については、東夷伝の著者は一言も触れていない。恐らく両者は別のものと見ていたのであろう。馬韓諸国の中に伯済というのがあり、これが後の百済【クダラ】の基である。辰韓については次の如くに述べている。
  辰韓在馬韓之東、其耆老伝世自言、古之亡人避秦役来適韓国、馬韓割其東界地与之、有城柵、其言語不与馬韓同、名国為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴、相呼皆為徒、有似秦人、非但燕齊之名物也 
この記述はうっかり読むと、誤解し易い。そのまゝ読めば、「其言語不与馬韓同」とあるので、辰韓語は馬偉語とは別系統の言語であるかの如くである。しかし、その前後の文を併せ読めば、この記事は韓族の間に流亡して来た中国人の集団に就いての記事であることが判る。伝説的な箕子〈キシ〉朝鮮に、象徴せられる様に、太古から中国人の流民が集団をなして朝鮮半島に流れ込んで来た。この記事に見える者は秦の頃、本土に居られなくなった流民が、漂泊の旅を続けて遂に韓族の地に流れ着いたものらしく、その言語も当時の中国語と違って秦代の言語を伝えていた様である。例えば国を邦というが如きは、漢高祖劉邦の名を忌んだ以前の用法として知られている。この記事を書いた人の意見として、「有似秦人、非但燕齊之名物也」と云っているのは恐らく正しい。ここに「燕齊之名物」というのは燕すなわち河北と、齊すなわち山東の方言の謂いであって、これは楽浪郡の方言を指しているのである。かくて、この記事は辰韓に居た中国人の言語について言っているので、辰韓語プロパーの記述ではない。しからば、辰韓語はどういうものであったかといえば、それについては何も言っていない。たゞ弁辰の条に、
  弁辰与辰韓雑居、亦有域廓衣服居処与辰韓同、言語法俗相似 
と言っているが、若しこの辰韓を上記中国人と解すれば、弁辰も同じことになるけれども、それは恐らく正しい解釈ではないであろう。この辰韓は或いは韓族の辰韓であって、辰韓には韓族が原住し、その中に中国人の流民が入って来たのであろう。そして、弁辰の言語は辰韓にいた韓族の言語と近似していたのであろう。或いは辰韓に流入した中国人は、若干の語彙を留めながら辰韓語に同化して了った〈シマッタ〉のかも知れない。いずれにせよ、東夷伝の記事から同じく韓族と認められている以上、辰韓も弁辰も馬韓と同じ民族であったと思われ、従ってその言語も方言的相違を持ちつゝも同じ言語であったろうと想像される。
 東夷伝には韓について
  在帯方之南、東西以海為限、南与倭接
と言い、又弁辰の条にも、
  其瀆盧国与倭接界
とある。若しこれらを率直に読めば、倭人が半島の南端に居たことになる。更に弁辰の一国に彌烏邪馬国というのがあるが、これはどうやらミアヤマ又はミワヤマと読めそうで、少なくともその後半部は「山」であるに違いない。もし、そうだとすると、弁辰の間にも倭人の集団があったのかもしれない。〈一七五~一七八ページ〉【以下、次回】

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