◎角川文庫版『ドイツ国民に告ぐ』の解説を読む
丸山眞男が「戦後初めての講義」の中で、フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』を紹介していると知って、『ドイツ国民に告ぐ』を読みたくなった。同書の翻訳は、岩波文庫に入っており、学生時代に入手した覚えがあるが、すぐには出てこなかった。国立国会図書館のデジタルコレクションで読もうとしたが、岩波文庫版『独逸国民に告ぐ』(大津康訳、初版1934)は、なぜか、インターネット公開がされていなかった。一方、角川文庫版『ドイツ国民に告ぐ』(小野浩訳、初版1953)というものもあって、こちらは、インターネット公開されていた。
本日以降、角川文庫版『ドイツ国民に告ぐ』の「解説」を、三回に分けて紹介してみたい。解説しているのは、角川文庫版の翻訳者・小野浩(1907~1997)である。
丸山眞男が「戦後初めての講義」の中で、フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』を紹介していると知って、『ドイツ国民に告ぐ』を読みたくなった。同書の翻訳は、岩波文庫に入っており、学生時代に入手した覚えがあるが、すぐには出てこなかった。国立国会図書館のデジタルコレクションで読もうとしたが、岩波文庫版『独逸国民に告ぐ』(大津康訳、初版1934)は、なぜか、インターネット公開がされていなかった。一方、角川文庫版『ドイツ国民に告ぐ』(小野浩訳、初版1953)というものもあって、こちらは、インターネット公開されていた。
本日以降、角川文庫版『ドイツ国民に告ぐ』の「解説」を、三回に分けて紹介してみたい。解説しているのは、角川文庫版の翻訳者・小野浩(1907~1997)である。
解 説
ヴィルヘルム・ヴントはその名著「諸国民とその哲学」(Die Nationen ihre philosophie)においてフィヒテ哲学をドイツ観念論の精華と呼び、かつドイツ理想主義の最も高貴な所産として、ゲーテ、シレルの作品と並んで、教養あるドイツ人の蔵書に欠くことの出来ぬものとして、フィヒテの「人間の職分」、「現代の根本特徴」、及び本講演の三者を挙げかつ附け加へて言つてゐる、「知識学」は疾く忘れられるか、もしくは時代遅れの思想構成として哲学史によつて継続されるかのいづれかであらうが、以上の三書はドイツ国民のあらん限り存続するであらう、と。
フィヒテのこの講演が「現代の根本特徴」の継続であることは、みづからこの講演の開始に当つて述べてゐるが、実にこの書にはドイツ理想主義の精神が圧倒的な力を以て表現されてゐつと言はれてゐる。
そもそもドイツがナポレオン軍の蹄鉄下に蹂躙され、これに慴伏〈ショウフク〉せねばならぬやうな事態はいかにして生じたのか。それは実に全ドイツが啓蒙時代の猛毒に当つてゐたからである。それは「理性の啓蒙ではなく、生活の卑近な目的のために究極目的を逸し去る常識の啓蒙」であり、そして「常識には自分の幸福、有益なもの、快適なもの以外のことは何もわからない」がらである。この場合、「経験が唯一の認識の源泉であり」、従つて「常識は倫理学と宗教とを純然たる幸福説に変へてしまつた」のである。それは本来「啓蒙」ではなく「空疎化」と呼ばるべきものであり、「啓蒙哲学の仕事は一切の理念と理想との排除である」。かうして道義悉く地に墜ち一世を挙げて滔々〈トウトウ〉たる利己主義に堕して行つたのであつた。常識的に膚浅〈フセン〉な個人の解放に眩惑されて全体的な同胞感は悉く忘れ去られてしまつたのである。それは明治末期から大正を通じ昭和の現在にかけての日本の国情に髣髴〈ホウフツ〉たるものがないであらうか。ただし、当時の方がもつと規模が小さかつただけのことであらう。フィヒテは更に同じ「現代の根本特徴」に於いて言ふ、「個人としての自分のことしか考へないものは要するに卑しく小さ悪く而も不幸な人間にすぎない」と。しかし戦後は特にこの種の人間が世の中に横行してゐるのではないであらうか。世には「ただ一個の悪徳がある、それは自分のことしか考へないことである。」そしてフィヒテの本講演はこの種の利己主義の排撃を以て開始される。祖国の悲惨なる敗北は実に、一切悪の根源としてのかかる私慾の跳梁〈チョウリョウ〉に対する必然の懲罰であつた。国民は決然としてそれを棄て去らなければならない。「個人としての自己を忘れること」こそフィヒテによれば「唯一の徳」である。しかし禍ひ〈ワザワイ〉の由来するところは深く、これを抜き去ることは容易ではない。そのためには従来の醜陋低卑〈シュウロウテイヒ〉な考へ方を一掃して全体に対する責任感を中核にした清新で雄大な世界観を産み出すための新しい教育が、次の世代に対する真の国民教育が必要である。それはもとより個人を無視するものではない、けだし個人は、全体内における自己の位置と全体に対する自己の使命を正しく洞察して、真に生ける全体の有機的構成員なることを明瞭に自覚したとき、始めて個人としても完成するからである。「同胞を信じ、同胞や一切生命の本源との一体を意識して自己の畑を耕すものは、この信仰なくして山を移すものより限りなくかつ遥かに貴くまた幸福である」(「現代の根本特徴」)。〈281~282ページ〉【以下、次回】
文中、「啓蒙」および「空疎化」という言葉には、カタカナでルビが施されているが、ともに印刷が鮮明でない。啓蒙のルビは、対応する原語から、アウフクラールング(Aufklärung)であろうと推定したが、空疎化のほうは、対応する原語が特定できず、ルビも推定できなかった。博雅のご教示を俟つ。
フィヒテのこの講演が「現代の根本特徴」の継続であることは、みづからこの講演の開始に当つて述べてゐるが、実にこの書にはドイツ理想主義の精神が圧倒的な力を以て表現されてゐつと言はれてゐる。
そもそもドイツがナポレオン軍の蹄鉄下に蹂躙され、これに慴伏〈ショウフク〉せねばならぬやうな事態はいかにして生じたのか。それは実に全ドイツが啓蒙時代の猛毒に当つてゐたからである。それは「理性の啓蒙ではなく、生活の卑近な目的のために究極目的を逸し去る常識の啓蒙」であり、そして「常識には自分の幸福、有益なもの、快適なもの以外のことは何もわからない」がらである。この場合、「経験が唯一の認識の源泉であり」、従つて「常識は倫理学と宗教とを純然たる幸福説に変へてしまつた」のである。それは本来「啓蒙」ではなく「空疎化」と呼ばるべきものであり、「啓蒙哲学の仕事は一切の理念と理想との排除である」。かうして道義悉く地に墜ち一世を挙げて滔々〈トウトウ〉たる利己主義に堕して行つたのであつた。常識的に膚浅〈フセン〉な個人の解放に眩惑されて全体的な同胞感は悉く忘れ去られてしまつたのである。それは明治末期から大正を通じ昭和の現在にかけての日本の国情に髣髴〈ホウフツ〉たるものがないであらうか。ただし、当時の方がもつと規模が小さかつただけのことであらう。フィヒテは更に同じ「現代の根本特徴」に於いて言ふ、「個人としての自分のことしか考へないものは要するに卑しく小さ悪く而も不幸な人間にすぎない」と。しかし戦後は特にこの種の人間が世の中に横行してゐるのではないであらうか。世には「ただ一個の悪徳がある、それは自分のことしか考へないことである。」そしてフィヒテの本講演はこの種の利己主義の排撃を以て開始される。祖国の悲惨なる敗北は実に、一切悪の根源としてのかかる私慾の跳梁〈チョウリョウ〉に対する必然の懲罰であつた。国民は決然としてそれを棄て去らなければならない。「個人としての自己を忘れること」こそフィヒテによれば「唯一の徳」である。しかし禍ひ〈ワザワイ〉の由来するところは深く、これを抜き去ることは容易ではない。そのためには従来の醜陋低卑〈シュウロウテイヒ〉な考へ方を一掃して全体に対する責任感を中核にした清新で雄大な世界観を産み出すための新しい教育が、次の世代に対する真の国民教育が必要である。それはもとより個人を無視するものではない、けだし個人は、全体内における自己の位置と全体に対する自己の使命を正しく洞察して、真に生ける全体の有機的構成員なることを明瞭に自覚したとき、始めて個人としても完成するからである。「同胞を信じ、同胞や一切生命の本源との一体を意識して自己の畑を耕すものは、この信仰なくして山を移すものより限りなくかつ遥かに貴くまた幸福である」(「現代の根本特徴」)。〈281~282ページ〉【以下、次回】
文中、「啓蒙」および「空疎化」という言葉には、カタカナでルビが施されているが、ともに印刷が鮮明でない。啓蒙のルビは、対応する原語から、アウフクラールング(Aufklärung)であろうと推定したが、空疎化のほうは、対応する原語が特定できず、ルビも推定できなかった。博雅のご教示を俟つ。
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