◎「ゆふけをとふとぬさにおく」の意は?
中山太郎の論文「袖モギさん」(『郷土趣味』第四巻第二号、一九二三年二月)を紹介している。本日は、その六回目。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。
私が初め此の袖モギさんの信仰に注意しだしたころ、古今和歌集覊旅部にある素性法師の『手向にはひづりの袖も切るべきに(註十)。錦にあえる神やかへさん』の短歌を想ひ出して、此の歌の意が袖モギ系統の思想を詠じたものであることを知り、此の信仰がはやくも古今集時代―即ち醍醐朝の頃には存在したものであると信じてゐた。然るに近頃になり雑誌『皇国』二八九号の誌上へ、辱知武田祐吉氏が『万葉に於ける外人の交通』と題して、氏の蘊蓄を披瀝せられた中に、同集巻十一の『あはなくに夕占をとふと幣におく、わが衣手は又もつぐべき』と云ふ短歌を抽出し、その解説として『夕占を問ふとして衣手を裁ちて幣におくのである」と云ふ一節を拝読して、私は直ちに袖モギさんのことを考ひ起し、一方親友であつて当代万葉学者の権威者である折口信夫氏に申送つて高示を仰くと同時に、一方所蔵の万葉集古義を見るとをの解説は武田氏のよりはやゝ詳しく『歌の意は逢ふこともなきことなるに、夕占を問ふために、神祗に幣帛奉るとて、著たる衣の袖を解きてものせしに、そのしるしも更になきを、猶それに懲りずして、又つゞきて夕占の幣に袖を解くべしとなり』とある。その後折口氏からも此の歌に潜んでゐる思想が袖モギさんの古い土俗であることを教へられ、此の信仰が既に万葉時代に厳存してゐたことが証明されたので、私は深く武田氏に敬意を表すると共に、限りなき嘉悦に浸つてゐたのである。
然るに其の後―大正十一年十月の郷土会の例会(註十一)が、國學院大学で開催されることゝなり、その席上て司会者たる折口氏の請求により、私は全不用意のまゝに此の袖モギさんの信仰に就き、極めて朧気なる記臆を辿つて講演を試み、その折に私は「まだ此の土俗に関しては明確なる結論を申し上るまでに腹案が熟してゐない。勿論、多少の心当りはないでもないが、今それを申し述べることは差控たい。何か各位に於いてお気付の事があるならば、幸ひに高示を垂れて私の此の小研究を完成さしてもらひたい』と希望して置いた。然るにその翌々十二月の同例会で、折口氏が私の袖モギの話に就いて批評を試みられた、が、それは批評と云ふよりは、全く私の結論として言ふべきところを氏が発見され補足されたものである。私は折口氏に敬意を表し直ちにそれを以て結論とする。然して氏の談話の梗概は大略左の如きものと承知した。勿論、筆責の私にあることは言ふまでもない。【以下、次回】
註十 流布本には「ひづりの袖」となくて「つゞりの袖」とあるも、ひづりの方古くして正しきやうである、折口信夫氏の説によればひづりとは表裏なきと云ふ意味にて、下の句の神やかへさんのかへるにかゝつてゐるのだと云ふことである。
註十一 郷土会は折口信夫氏を中心としてそれに國學院大学々生の方々が集つて土俗伝説を研究してゐる集りである、金田一京助氏と私は客員と云つたかたちで毎月例会に出席々末を汚してゐる、目今ではゴンムの伝説の形式に就いて会員と輪講をつゞけてゐる。
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