◎柴五郎少年、鍛冶屋の仕事場で暖をとる
本日も、笹澤魯羊著『宇曽利百話』(下北郷土会、一九六一年第三版)からの紹介。同書の「斗南三題」の章に含まれている「斗南藩の子弟」という節(全文)を紹介してみよう。
斗南藩の子弟 斗南〈トナミ〉移住の際に会津日新館所蔵の図書を全部田名部〈タナブ〉に移して、迎町〈ムカイマチ〉大黒屋立花文左衛門宅を借りて藩学校を開き、同藩子弟の教養に意を用いた。藩士は生計に並々ならぬ困難を甞めた〈ナメタ〉けれども、流石〈サスガ〉に子弟の教養を怠らなかつた為めか、後に斗南移住者の中から著名の教育家・医師・軍人等を輩出して居る。別けても〈ワケテモ〉話題に遺る〈ノコル〉は柴五郎大将である。明治五壬申年、田名部の戸籍簿に柴家は七人家族としてある。
四百廿三番屋敷内借居〈シャッキョ〉 士族
柴 太一郎 壬申年三十二
父 佐多蔵 年六十一
妻 すみ 年十九
弟 五三郎 年二十六
己巳三月東京修行 弟 茂四郎 年二十一
弟 五郎 年十四
大伯父亡東妻 機佐 年六十三
茂四郎〈モシロウ〉は著名な東海散士であるが、会津から直に〈ジカニ〉東京へ修学に出て、斗南へ移住したのは茂四郎を除く他の六人であつた。柴家は最初田名部迎町の農家に間借りしたが、障子を貼る用紙にも事欠くさまにて、雪中に破れた莚〈ムシロ〉を下げて寒風を凌ぐ〈シノグ〉始末、五郎少年は真向ひの二本柳鍛冶屋の仕事場に行き、鞴〈フイゴ〉の火に終日暖を採つたという。後年柴大将はこの鍛冶屋を訪う〈オトナウ〉て、昔の儘の仕事場を彽徊〈テイカイ〉して次の一首を詠み、掛軸として主人へ贈つて居る。
あたたけき宿なつかしみたつね〔訪ね〕来て、昔の冬をしのふ〔偲ぶ〕今日かな。
五郎少年は山桑を摘んで養蚕家へ売り、得たお金の内で明神町の銭湯に浴するを、此の上もなき愉快とした。その頃の入浴料は五厘であつた。一家は後に落ノ沢〈オトシノザワ〉に移つたが、冬も素足に草履を突かけて田名部へ使に出で、途中金谷〈カナヤ〉の鍛冶屋に寄せて貰うて暖を採つた。明治七、八年頃に青森県庁の給仕に採用されたが、出立〈シュッタツ〉に際して田名部の大問屋山本長十郎夫妻から、将来を激励されて贐〈ハナムケ〉に弐朱を贈られた。陸軍大将となつて同家を訪ねた折、山本ひさ刀自〈トジ〉に紅絹〈モミ〉一反に次の一首を添えて贈つた。
世にいつる〔出づる〕かとて〔門出〕をいはふはなむけの、うれしかりしをわれ忘れめや。
兄の柴太一郎〈シバ・タイチロウ〉は明治十九年三月下北郡長に任ぜられて、二十三年十一月まで田名部に在任した。なお斗南藩権大参事〈ゴンダイサンジ〉山川与七郎一家も田名部に移住したが、明治五壬申年戸籍簿に次の如く記載される。
二百七十四番屋敷内 借居
士族 父亡 直江
山川与七郎 壬申年二十八
申年十月福山寄留 母 勝清院 年五十六
弟 健二郎 年十九
申年十月福山寄留 妹 常盤 年十六
辛未十月亜米利加州
米利堅修行寄留 妹 捨松 年十四
山川与七郎は後に浩〈ヒロシ〉と改め、陸軍少将となり、退役して貴族院議員に勅選された。弟の健二郎は東京帝国大学総長となつた。妹の捨松〈ステマツ〉は十三歳で亜米利加へ留学したが、後の大山巌元帥夫人である。海軍大将出羽重遠〈デワ・シゲトオ〉一家は大湊〈オオミナト〉の松ケ丘に住居し、台湾総督となつた石塚英蔵一家は大畑に住居した。
柴五郎、山川健二郎の両人は功成り遂げて後に、少年時に斗南にておしめ〔押布〕を食したことを思出し、田名部から態々〈ワザワザ〉おしめを送つて貰い、往年を漫ろ〈ソゾロ〉に追懐したとのことだ。
柴五郎(一八六〇~一九四五)は、陸軍軍人。清国公使館付駐在武官(陸軍中尉)として北京にいたとき、義和団事件が発生し、他国軍と協力しながら、籠城戦にあたった。映画『北京の55日』(一九六三)では、伊丹十三〈イタミ・ジュウゾウ〉(当時は、伊丹一三〈イチゾウ〉)が、柴中尉(コロネル・シバ)を演じている。
末尾に出てくる「おしめ」(押布)とは、海草の根を刻んで干したもののことで、要するに救慌食の一種であろう。
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