礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

井上日召から田中光顕への手紙

2018-03-18 02:03:05 | コラムと名言

◎井上日召から田中光顕への手紙

 昨日のコラムで、満島捕虜収容所に収容されていた連合国軍の捕虜たちが、新居駅北側の浜名湖岸から、アメリカ海軍の上陸用舟艇に乗ったという話を紹介した。この話は、上原文雄著『ある憲兵の一生』(三崎書房、一九七二)に出てくる。
 この本の著者の上原文雄氏は、当時、浜松憲兵分隊長を務めていた。舞浜海岸に上陸してきたアメリカ海軍のシンプソン少将に、日本側の責任者として会談したのが、この上原氏であった。捕虜たちを新居町駅まで搬送し、駅北側の浜名湖岸から乗船させるという方法は、この会談の際に、上原氏が提案したものである。シンプソン少将は、その場で、この提案を裁可したという。
 ところで、上原文雄氏は、五・一五事件(一九三二)が起きたときに、東京憲兵隊麹町分隊に所属する憲兵上等兵であった。事件後、氏は、事件の中心人物である三上卓海軍中尉を、浦賀町大津の海軍刑務所まで護送する任務にあたった。このとき、三上中尉が上原氏に向かって、「その持っている拳銃で西園寺を撃て」と言ったという話は、すでに、このブログで紹介したことがある(「その拳銃で西園寺を撃て(三上卓海軍中尉)」二〇一六・一二・二九)。
 一昨日のコラムで紹介した手紙は、その三上卓が、田中光顕に送った手紙である。
 
 ここで、一昨日の話に戻る。本日は、富岡福寿郎著『五・一五と血盟団』(弘文社、一九三三)の第七部「事件関係者の書簡集」から、井上日召〈イノウエ・ニッショウ〉が田中光顕〈タナカ・ミツアキ〉に送った手紙を紹介してみたい。

   ◎田中光顕翁へ   血盟団盟主  井 上  昭 
(前略)――清寿愈よ〈イヨイヨ〉高く老来報国の至誠益々其光を日月と比するもの迂生等〈ウセイラ〉一同仰で〈アオイデ〉以て感銘の外〈ホカ〉無之〈コレナク〉候、往昔〈オウセキ〉は知らず明治維新以来昭和維新亦将に〈マサニ〉近からんとする今日に至るまで、尽忠報国の士必ずしも絶無とは不申候へ共〈モウサズソウラエドモ〉、多くはこれ言句〈ゲンク〉の人、倖〈サイワイ〉にして名声に親む〈シタシム〉や俄ち〈タチマチ〉自家の精神を汚腐せざる者あるを不知〈シラズ〉、唯一人先生あつて徹魂日本精神者の範を後輩共に高示せられ候事〈ソウロウコト〉邦家万々歳の礎と讃仰〈サンギョウ〉の至〈イタリ〉に奉存〈ゾンジタテマツリ〉候、但〈タダ〉願くは迂生自今以後益々自重反正、先生の小指の 端になりと触ることを期するものに御座候
其後迂生心身共頑健を加へ甞て〈カツテ〉数年前高井〔徳次郎〕君に伴はれて宝珠荘に参り初めて拝眉の栄〈エイ〉を得候節誓ひ候一言は、今猶ほ〈ナオ〉迂生の真生命にて其時給はりし先生の御一言も今耳底〈ジテイ〉に新に御座候(下略)―昭和八年九月二十六日―

「井上昭」は、井上日召の本名である。文中、「小指の 端に」のところで、一字欠けているが、これは原文のまま。なお、この手紙を読解するためには、若干の予備知識が必要である。まずは、田中光顕と井上日召の関係を把握する必要がある。これについては、次回。

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