礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

田中光顕、井上日召らの「謀叛」計画に賛同

2018-03-19 03:10:04 | コラムと名言

◎田中光顕、井上日召らの「謀叛」計画に賛同

 田中光顕伯爵と井上日召の関係については、以前、書いたことがある。礫川編『無法と悪党の民俗学』(批評社、二〇〇四)の解説篇「無法と悪党が創った国・日本」の一節である。本日は、その一節「志士・田中光顕と血盟団事件」を、そのまま、紹介させていただくことにする。
 
 志士・田中光顕と血盟団事件
 血盟団事件【*13】の指導者として知られる井上日召【*14】の自伝『一人一殺』【*15】にも、田中光顕についての逸話が出てくる。
 井上日召とその同志・高井徳次郎は、事件の七年ほど前、下総の鹿野山【かのうざん】に活動の拠点を築くべく、土地の借り入れを画策していた。交渉にあたっていた高井は、山の所有者からその計画の責任者は誰かと聞かれ、元宮内大臣の田中光顕伯爵だと答えた。それを聞いて所有者は安心し、「喜んでお貸しする」と言った。しかしこれは、高井がとっさに思いついたウソで、田中光顕はこの計画に何の関わりも持っていなかった。
 やむなく二人は、田中のところに赴き、事情を話して事後承諾をもらうことにした。以下、原文から引用する。
《……私は初めて光顕伯に会つて、
『苟【いやしく】くも人の名儀を借りるからには、予【あらかじ】め御本人の許しを得なければならぬことはよく知つてをります。しかし、今度の事は成行き上、手続きが逆になつて、まことに申訳ないのですが国家のため、枉【ま】げて御諒解を願ひます。』
と縷縷【るる】述べた。すると、田中伯は、
『こんな大きな土地を借りて、一体何をするのか?』
と訊ねた。私は思ひ切つて、
『謀叛をやる積りです!』
『謀叛? どんな計画だ?』
そこで、私は、一方には赤化思想を駆逐し、同時に財閥・政党の弊害を打破して、日本を根本的に改革するために、かくかくの計画を立ててゐると打明けた。
『さうか!』と伯は語気も強く『儂【わし】は今年で八十三になるが、まだ三人や五人叩き斬るくらゐの気力も体力も持つてゐる。君達もしつかりおやり!』
と励まして、快く記名調印してくれた。さうして、私は大層御馳走になり、宮内省の腐敗を慨く話などを聞いた。
 その時、田中伯は
「儂は明治天皇の御恩召に叶はぬ事をした、と判つたならば、即座に腹を切る覚悟でゐる。」
と言つた。私はこれを聞いて、功成り名遂げたこの人にして、いつでも切腹する覚悟を持つてゐるとは、流石【さすが】に維新の志士だけのことはある、と感心した。〈日本週報社版二四一~二四二ページ〉》 
 ここで井上日召は、田中が「いつでも切腹する覚悟を持つてゐる」と述べたことに対し、「流石に維新の志士だけのことはある」と感心している。しかし私はむしろ別のところ、すなわち、田中が「謀叛」という言葉を聞いて異常に興奮し、自分も「まだ三人や五人くらゐ」は叩き切れると豪語したところに「感心」した。功成り名遂げてなお、志士=革命家の心情を捨てていないように見えるからである。
 いずれにせよ井上日召は、この時以来、田中光顕との結びつきを強め、昭和二年(一九二七)には、田中が企画し完成させた大洗【おおあらい】東光台【*16】の立正護国堂を任されることになる。昭和七年(一九三二)の血盟団事件は、立正護国堂という活動拠点なしには起こりえなかったろう。その意味で田中は、「昭和維新」にもまた、深く関与したことになる。「流石に維新の志士だけのことはある」というべきか。
*13 昭和七年(一九三二)に起きた一連の暗殺・暗殺未遂事件。大洗の立正護国堂で井上日召の指導を受けた「血盟団」の団員が、「一人一殺」をめざして、井上準之助蔵相、團琢磨三井合名理事長を射殺した。
*14 群馬県出身の国粋主義者。一九三二年、血盟団事件の指導者として無期懲役となるが、一九四〇年出獄(一八八六~一九六七)。一九五四年、護国団を設立。
*15 井上日召の自伝。一九五三年に日本週報社から刊行されたが、一九四七年同社刊の『日召自伝』がその初版にあたるという。一九七二年に新人物往来社が復刊。
*16 田中光顕は、同所に常陽明治記念館も建設した(現在の「幕末と明治の博物館」)。

 以上は、注も含め、「志士・田中光顕と血盟団事件」の節の全文である。
 高井徳次郎と井上日召が、下総の鹿野山で土地の借り入れを画策していたのは、「事件の七年ほど前」だという。だとすれば、それは、一九二五年(大正一四)前後のことになる。高井徳次郎がこのとき、すでに田中光顕と面識があったのかどうかハッキリしないが、このあたりは、『一人一殺』を再読するなどして、確認してみたい。
 ちなみに、富岡福寿郎著『五・一五と血盟団』(弘文社、一九三三)の「巻頭に」には、「田中光顕翁秘書高井徳次郎氏」への謝辞がある(今月一二日のコラム参照)。
 また、右に、「昭和二年(一九二七)には、田中が企画し完成させた大洗東光台の立正護国堂」と記したが、いま、その典拠が思い出せない。立正護国堂の設立を昭和三年(一九二八)としている文献もあるので、このあたりについても、確認しておかなくてはならない。なお、常陽明治記念館の設立は、一九三九年(昭和一四)である。
 田中光顕(一八四三~一九三九)は、土佐の出身だが、水戸学を信奉していたためか、「水戸」との関わりが深い。一九三〇年(昭和五)には、田中光顕伯銅像建設会(水戸市上市〈ウワイチ〉柵町〈サクマチ〉)から、『青山伯と水戸』という本が出ている。【この話、続く】

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