礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

もし一木喜徳郎に会ったら瞬時に叩き斬る(田中光顕)

2018-03-21 02:07:03 | コラムと名言

◎もし一木喜徳郎に会ったら瞬時に叩き斬る(田中光顕)

 昨日の続きである。田中光顕は、一九二五年(大正一四)前後に、高井徳次郎と井上日召の訪問を受けた際に、「ワシは今年で八十三になるが、まだ三人や五人叩き斬るくらゐの気力も体力も持つてゐる」と豪語したという(井上日召『一人一殺』日本週報社、一九五三)。
 昨日のコラムで私は、田中光顕は、このとき、具体的に、その「三人や五人」の名前を挙げたのではないか、と推測した。本日は、そう推測する理由について述べる。
 田中光顕は、井上日召らに対してのみならず、他の訪問客に対しても、同様の発言をおこなっていた可能性がある。先日、たまたま、四王天延孝〈シオウデン・ノブタカ〉著『四王天延孝回顧録』(みすず書房、一九六四)を読んでいたところ、次のような箇所に目が止まった。

 田中光顕翁訪問
 三月十日には静岡県清水市長大石〔恵直〕氏及対米貿易の同地有力者「鈴与」主人(六代目・鈴木与平)と相携えて蒲原に田中光顕翁(元伯爵)を訪れた。東京で立憲養正会総裁田中沢二〈タクジ〉君の選挙応援演説を予が行った際来聴せられたことがあり、面職はあり、思想において予を理解して呉れており、また航空方面においても三保松原方面で苦闘中の民間飛行士を後援するなど、九十二歳の老齢でも決して化石しかかった様な老翁ではなく、幾人かのうら若い女性の奉仕者を持ち精力猶〈ナオ〉旺盛であつた。予が時勢を説き、吾々未熟者の力では頽廃せんとする現状を恢復するのに困難で障碍は余りにも有力であるから、少し力添えを頼むと述べると、少しく不機嫌で吾輩など明治維新当時二十歳前後で身命を抛げ〈ナゲ〉出してやるべきことはやり自ら一切の障碍を排除したのである。君等〈キミラ〉の如きまだ春秋に富むものが吾々老骨の力添えを頼むが如きはその意を得ぬとやられた。
 当時飛ぶ鳥を落す様な元老の大御所西園寺〔公望〕公が程遠からぬ興津〈オキツ〉にいるから時折りは会談されるか伺〈ウカガイ〉を立てると、イヤあの男はワシより若い言わば後輩だから、あちらから先に訪ねて来べきと思うが一向に足を運んで来ないので遇うことは無いと答えられた。また一木[喜徳郎]枢相のことに話が転じた時には彼は宮中の重大事でワシには合す顔は無い筈だ、若し遇ったら〝抜く手は見せん〟と腰の一刀の鞘を払う有様を突際に見せて呉れ、七十年前若い国士として活躍された面影をサッと吾々の目前に現わされた。果してその元気は翁を猶五年も生き長らえさせ九十七歳でこの世を辞されたのである。

「三月十日」とあるのは、一九三三年(昭和八)の同日のことである。[喜徳郎]は、編集者による傍注、〔 〕内は、引用者による注である。
 さて、この一文で重要なのは、もし、一木喜徳郎〈イチキ・キトクロウ〉に会ったら、瞬時に(抜く手も見せずに)叩き斬る、と豪語していることである。田中光顕は、九二歳の老齢にして、なおテロリストとしての心情を失っていないのである。
 ということであれば、これより先、井上日召らの訪問を受けた際、「ワシは今年で八十三になるが、まだ三人や五人叩き斬るくらゐの気力も体力も持つてゐる」と豪語したことはうなづけるし、なおかつ、「三人や五人」の政敵の名前を挙げたことも、十分にありうると思うのである。
 なお、一九三三年の会見において、田中は、一木喜徳郎について、「彼は宮中の重大事でワシには合す顔は無い筈だ」と述べていた。今、この田中の言葉の意味するところについて、コメントできるだけの知識がないことを遺憾とする。
 
*都合により、明日から数日間、ブログをお休みいたします。

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