礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

時枝誠記と論争して自説をまげなかった小林英夫

2020-11-25 00:03:33 | コラムと名言

◎時枝誠記と論争して自説をまげなかった小林英夫

 三浦つとむ著『言語学と記号学』(勁草書房、一九七七)から、「時枝誠記の言語過程説」という論文を紹介している。本日は、その二回目。

    本質の追求と方法論の反省
 学問の革命に共通して見られる二つの特徴を、われわれは時枝理論にも見出すことができる。一つは本質に対する徹底的な追求で、いま一つは方法論についての反省である。
 時枝は中学生のときすでに国語研究に一身を捧げる決意をかためていた。父親は生活の危険を説いて決意をひるがえさせようとしたが、むだであった。「私は国語に殉ずる一個の国士を以て自ら任じていたのである。(1)」一九二二年の春に東京帝国大学文学部国文科に入学、翌二三年に関東大震火災と帝都復興という状況の中で、言語における本質的な問題の思索へとすすんだのであった。
「荒涼たる都市、物情騒然たる空気の中で、明日の学問の復興の為に、静に書物と対峙したことは悲壮でもあり、また大きな感激でもあつた。物皆蘇るといふ気運の中で、私もまた一切の末梢的な研究を捨てて、学問上の根本問題を思索する接に駆立てられた。それは国語研究の根本に横たはる『言語の本質は何か』の問題であった。(2)」
 そして言語過程説の本質的な部分は、すでに帝大在学中にできあがっていたのである。
「私は言語は絵面、音楽、舞踊等と斉しく、人間の表現活動の一つであるとした。然らば言語と云はれるものは、表現活動として如何なる特質を持つものであるかを考へて、始めて、言語の本質が、何であるかを明かにすることが出来るであらうといふ予想を立てたのであった。」「思ふに言語の本質は、音でもない、文字でもない、思想でもない。思想を音に表はし、文字に表はす、その手段こそ言語の本質といふべきではなからうか。言語学の対象は、 実にそのprocessを研究すべきものではなからうか。ここにおいて、言語学の対象は、音響学の対象とは明かに区別せられるであらう。言語学者が音声を取扱ふのは、音声そのものが対象の如く見えて実は然らず。音声を仲介として思想の表はさるるprocessである。(3)」
 学界の定説をひっくりかえすような革命的な理論を、学問の道に足をふみ入れたばかりの青年が思いついたといわれると、異常なことのように感じる読者もあるであろうが、別に異常なことではない。現在の私の若い友人にも、同じような例がいくつかあるし(4)、私がソ連から輸入されたモンタアジュ論の批判的検討を契機として、時枝と似た結論に達したのも、一九三二年二二歳のときと記憶している。要するに研究者の主体性いかんであって、せっかく革命的な考えかたに到達しながら、自然成長性にまかしておいたために実らなかったという例も、定めし多数にのぼっていることであろう。徹底的に考えぬこうという主体性と努力がないならば、確信が生れない。発表したら周囲から嘲笑され反対されるだろうと、自分で押しつぶしてしまうのである。
「学問研究が、方法論的に一の技術に固定しようとする時、我々は再び立返つて、対象に対する素朴な心の燃焼から出発することは大切なことである。私はイェスペルセン氏と共に『言語の本質は何か』の問を発することから始めようとしたのである。そして、その解答を各時代の先覚に求めようとしたのである。国語学を国語に対する自覚反省の体系と見るならば、私が今求めようとするところのものは、そのやうな自覚反省の展開史であり、即ちそれは国語学の歴史であり、いはゆる国語学史である。私は現代国語学の体系を、国語学史の展開の最先端に求めようとしたのである。ここに、私の国語学の方法論が存在するのである。国語学の方法論は、このように国語学史の伝統を辿ることにのみあるとは考へられないにしても、その重要な方法が、ここにあると私は信じたのである。(5)」
 常識的に考えると、日本語は特殊な言語であるから、その解明に当って指針となるものは言語の一般的な理論、すなわち言語学だということになる。けれども時枝は、すでにその言語学に対して批判的になっていた。輸入品であるヨーロッパの言語学は言語を表現の一種として位置づけてもいなければ、言語の本質を表現のprocessに求めようともしていなかったからである。さらに、この、輸入された言語学と国語学との間にこれまでむすばれて来た関係も、合理的な正しいものとは思われなかった。時枝にとっては、「対象を直視してこれと取組み、一切の理論と方法と問題を対象に対する省察から生み出さうとする」態度こそ、「『学問する』態度(6)」なのであって、従来の言語学と国語学との関係は「極めて変則的な関係(7)」としか考えられなかったからである。
「明治以後の新国語学は殆ど西洋言語学の理論の上に立つて居るのであるが、この趨勢に就いては、又止むを得ない事情の存在して居つたことも認めねばならない。当時の日本の学界は、兎も角も西洋の学界の水準にまで漕ぎ付けることが最大の急務であつた為に、勢ひ科学的研究の根本精神を深く究めるよりも、先づ理論の輪廓を取り入れて、一応の学問的体裁を整へることに急であつた。新国語学の体系は一応この様にして出来上つた。一例を文法研 究にとるならば、明治初期の文法組織は、西洋文法の組織の中に、国語の事実を組み入れて行くといふ態度で進んで来た。かういふやり方の根本には、西洋の理論に対する盲目的な信頼と、その普通性に対する過信とがあったことを否定することが出来ない。(中略)翻つて西洋の学問の根本精神を考へて見るならば、印欧言語学の輝かしい成果にしても、それは個々の具体的現象を対象として、そこから導き出された理論に他ならないのであつて、決して天来の理論でもなければ、啓示でもないのである。泰西の科学の教へる根本精神は只対象と取組むことにあるのみである。この様に見て来るならば、泰西科学の理論を借用した明治以後の国語学よりも、旧国語学がより科学的精神に立脚して居ると云つても過言ではないのである。若しこの様な科学的精神に立脚せずして、徒に〈イタズラニ〉言語学の理論に追随するとしたならば、言語学は国語学にとつて他山の石となり得ないばかりか、寧ろ国語学の自立的発展に大きな障礙〈ショウガイ〉とならないとも限らない。それは宛も〈アタカモ〉自ら労せずして人の恩恵によって徒食する様なものである。国語学に対する言語学の立場を右の様に解釈することは、決して言語学が国語学にとつて無用であることを主張しようとするのではない。言語学は国語学にとつて一の大きな刺戟であり、未だ完成の域に達して居ない国語学にとつては、確に発展への助言であり、示唆であるに違ひない。しかし、それは何処までも助言であり示唆であつて、研究の主体は必ず我であり、我によつて国語とその理論は発見され建設されて行かなければならないのである。(8)」
 明治以前の旧国語学は、たしかに輪入された言語学のように体系化されてはいないし、学問として独立してもいなかったが、このような形式上の弱点から内容まで軽視してはならない。学問として独立したことは、対象のありかたを無視して思弁的に空想的な関連を持ちこみやすくなったという弱点を伴うのであり、かえって非科学的な体系化へふみはずしていく危険がある。旧国語学が国学あるいは歌道に随伴して発展し、古代文献の解釈や擬古的表現の創造とむすびついてこれらに依存して来たということは、実践的な要求に応えるために指針として役立つ学問にならねばならぬことを意味し、長所ともなっていたのであって、この側面を無視するのは大きな誤謬である。明治以前の国語研究の発展は、そのありかたに忠実に、歴史的=論理的な展開を追跡すべきものであって、現在の理論水準との落差を測定しながら嘲笑したり筆誅を加えたりすべきものではないのである。時枝は彼の国語史観にもとづいて、新しい国語学史を再構成しなければならなかった。これは岩波講座『日本文学』の中の国語学史(一九三二年)として公けにされ、さらに時枝理論の一構成部分として位置づけられて単行本『国語学史』(一九四〇年)となった。学問における革命が、学問の一構成部分としてそれに至るまでの歴史的=論理的なあとづけをふくむというのは、『資本論』における『剰余価値学説史』を見てもわかるように、合理的なのである。
 言語学者にとってまた多くの国語学者にとって、まったく正常なありかたと認められている関係を、きわめて変則的な関係だというだけでなく、現在の言語学に対して本質的に異議をとなえ、科学以前のものと見られていた旧国語学を方法論的に評価するのであるから、言語学者およびその影響下にある国語学者が時枝理論をどう受けとったかは推察するに難くない。国語学が国語の特性を明かにする学問であることは認めても、「国語の諸現象より言語一般に通ずる普遍的理論を抽象して以て言語学の体系樹立に参画し、言語の本質観の確立に寄与しなければならない。(9)」などと主張するのは、身の程を知らぬ傲慢不遜な態度だと受けとられたであろう。時あたかも偏狭な排外的精神が学問全体に暗い影を落していて、非科学的な「日本精神」の信仰が学者に強制されつつあったから、時枝理論も反動的な神がかり学説をもって科学に代えようとするものであるかのように受けとられたであろう。言語学者の側からは、日本語をいかに研究したところでそこから言語学の体系を樹立することはできないのだ、理論的に見てそういう結論になるのだと反対する者もあらわれた。時枝もこれに同じく理論的な反駁を行った。(10) 
(1)  『国語学への道』一七頁
(2) 『国語学史』はしがき一~二頁
(3) 『国語学への道』二八~九頁
(4) 「大体、革命的なことばを口にするいい若いものが、実際にやっていることといえば、『いひがひなき』『名ある人』たちのまねごととは、情ない話ではないか。自分の専門の分野で天下をひっくりかえそうという気概もないのに、前衛をきどるなどはおこがましいといいたくなる。もっと元気を出せよと学生にいうと、『わずか四年くらいの研究では、その道に入ったばかりで、ろくなことはできません』などと答える。はじめからできないものときめてかかるのが、そもそも大きなまちがいだ。歴史に名をのこすような人間は、若いうちにもうチャンとした仕事をしている。私の知人にも、在学中に遠大な研究計画を立て、学生服を身につけていながらその道の先輩を驚かす画期的な業績をあげた者が、何人もいる。大器晩成なんていうけれども、実はこれだってまだ若いうちに努力をつみかさねてしっかり基礎をつくりあげ、晩年に至って全体の完成を見たというケースである。学者に必要な創造的な直観なんてものは、綱わたりの曲芸と同じように、絶えざるきびしい訓練の結果一つの 飛躍として身につく能力で、生れつきの天才が持っているというようなものではない。若いうちのなまけ者が、年をとってからいい仕事なんか できるわけがない。」(三浦つとむ「六月通信」――『日本読書新聞』一九六三年六月三日号)哲学者はハード・トレーニングをやらず、文献に埋没して受動的な解釈ばかりしているから、画期的な業績なんか出てこない。
(5) 『国語学への道』三三~四頁。
(6) 『国語学原論』六頁。
(7) 同上、八頁。
(8) 『国語学史』一六~七頁。
(9) 『国語学原論』三頁。
(10) 時枝と論争してあくまでも自説をまげなかったのは小林英夫である。言語学は言語における普遍的ないし一般的なものを、国語学は特殊的ないし特異的なものをとりあげるという点では、両者の間にくいちがいはないのだが、時枝は普遍と特殊とを対立物の統一として弁証法的にとらえていたのに対し、小林は一般と特異とをカント的にとらえていた。そこから論理的に、国語学から言語学への展開ができる、否できないという相反した結論がみちびかれたのである。(三浦つとむ『認識と言語の理論』(一九六七年)三六八頁以下参照。)

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三浦つとむの好論文「時枝誠記の言語過程説」

2020-11-24 04:22:32 | コラムと名言

◎三浦つとむの好論文「時枝誠記の言語過程説」

 先週の土曜日、久しぶりに尾崎光弘氏にお目にかかったが、その折、三浦つとむの論文「時枝誠記の言語過程説」のコピーをいただいた。三浦つとむ著『言語学と記号学』(勁草書房、一九七七)に収録されていた論文である。
 数か月前、尾崎氏にメールで、三浦つとむは時枝誠記(ときえだ・もとき)をどう評価していたのか、という質問をおこなったことがあった。同論文を参照せよという即答をいただいたものの、コロナ禍を言い訳に、まだ閲覧を果していなかった。尾崎氏に感謝しながら一読したが、非常に明快、かつ刺激的な好論文であった。
 本日以降、この論文を、紹介させていただくことにしたい。文中、傍点が施されている部分は、太字で代用した。
 なお、同論文は、時枝誠記に対する「追悼の意味をもふくめて」、一九六七年一二月に執筆されたもので、初出は、雑誌『文学』の一九六八年二月号であるという。

  時枝誠記の言語過程説

    は じ め に
 科学の分野で創造的な仕事をしている人びとは、集めた資料に首をつっこんで解釈にあけくれていはしない。その発見した諸現象諸事実をふまえて、ゆたかな想像力にものをいわせ、そこから他の事実や構造や一般的な連関などの存在を予想していく。こうして仮説が立つと、それが真に正しいものであるか否かを実際にあたってたしかめていく。偉大な科学者はいずれもなみはずれた想像をくりひろげ、健康な懐疑精神において時には定説を根底からひっくりかえすような大胆な仮説をつくって、現実に問いかけるのである。科学史学者板倉聖宣〈キヨノブ〉はいう。
「偉大な科学者といわれる人々が今日からみればまったくばかげていると思われるような予想、仮説のもとに、いかにねばり強く自然に問いかけていったかがわかるでしょう。正しい自然観をもとにした広い視野のもとに先入見ともいわれるような強い信念をもって大胆に自然に問いかけていった人々が、もっとも偉大な科学者になったといってもよいのです。少なくとも、筆者はこれまでの科学史研究の結果、科学の歴史をそのような歴史として書かねばならないと考えています。(1)」
 そして国語学者時枝誠記もつぎのように書いている。
「今日、我々の持つ何等かの言語本質観は、凡て〈スベテ〉歴史的に規定されたものであつて、先づ我々は自己の歴史的に所有する処の言語本質観に対して、飽くまでも批判的であることが必要である。」「言語過程説は、我が旧き国語研究史に現れた言語観と、私の実証的研究に基く言語理論の反省の上に成立し、国語の科学的研究の基礎概念として仮説せられたものであつて、いはゞ言語の本質が何であるかの謎に対する私の解答である。(2)」
「学間の至極の妙味は、スぺキュレーション〔憶測〕にあると、僕は思つてゐる。事実を山ほど集めて、そこから素晴しい結論が出るだらうなんて期待するのは、学問の邪道さ。」「地球が円いと考へた最初の人間は、やつぱり大変な思惑師だよ。最初の見込みさへ確実なら、事実は必ずあとからくつついて来るものさ。思惑をやる人間が不精なのぢやなくて、資料の上に安心して寝そべつてゐる人間の方が余程のんきだし、不精だよ。(3)」
 時枝の言語過程説は、まだ充分理論的に仕上げられていなかった。彼の認識論と論理学の弱さにわざわいされて、機能主義的なふみはずしを克服できず、言語規範の把握や認識構造の説明にも混乱が存在していた。『国語学原論』 のソシュール理論批判が、その重要な欠陥をつきながら不徹底なものに終ったのも、その能力の限界を示すものである。けれどもこれらの弱点は、時枝理論が革命的な業績だということを否定するものではない。これまでも言語過程説にはいろいろな疑問や批判が投げかけられているし、的はずれのものも的に当っているものもある。部分的な弱点を指摘するのはけっこうであるが、そこから時枝理論を軽視したり抹殺したりするのは行きすぎである。弱点を訂正して前むきに発展させる方向へすすむのが、われわれのとるべき道である。
 ヨーロッパでは最近構造主義とよばれる一つの思想的潮流が抬頭し、日本でもその輸入商が生れてある程度の信者をつくり出したが、これは言語学が構造言語学とよばれるもので占められていることと無関係ではない。チョムスキー理論などにしても、この一系列であり、また構造主義者とよばれる人びとは構造言語学の概念や論理を他の個別科学に持ちこんで押しつけにかかっている。たとえばレヴィ=ストロースの「構造人類学」にあっては、婚姻の規則や親族関係の体系を一種の〈言語〉と解釈するのである。これを思想的潮流の発展として、大きな目で見るならば、一方で観念論者、他方で自称マルクス主義者ないしマルクス主義をかじった経験のある思想家が、期を同じくして構造という問題に関心を持ちはじめ、合流し浸透しあって潮流を形成しているのである。主観的観念論の系列、たとえばフッサールやカッシラーの流れをくむ者は、理論的な壁につき当った。現象や機能を論じるだけでは、実体は存在しないので機能の函数的構成があるのみだと思っているのでは、それらをささえる対象の構造へ入りこんで理論を前進させることができない。壁を破ろうとする者は構造に注目するようになる。また自称マルクス主義者は、教科書で抽象的な本質論だけを覚えても、それだけでは対象の立体的なありかたをとらえた体系的な理論は出てこないことに、気づいてくる。「病原菌を殺せば結核は治る」とは疑いのない偉大な真理だが、これだけ覚えても目の前につきつけられた患者をどう治療すべきかの具体的な指針にはなりえない。そこで対象の構造に関心を向けていく。これが、一方では「構造言語学」への関心となり、他方では『資本論』の構造分析への関心ともなる。
 さてこの構造主義の説くところはどうかといえば、お粗末の一語につきる。そもそも「構造言語学」それ自体が、チョムスキー理論をふくめてお粗末なのであり、意味論もつくれない程度のものであるから、その概念や論理を他の個別科学に持ちこんで押しつけたところで、まともな理論の生れるわけがない。けれども自分の力で対象の構造を論理的にたぐることのできない学者は、どこからか構造の論理を借りてこなければならないから、そこで「構造言語学」 によりかかったのである。日本で論じているのを見ても、『資本論』からいまさらのように「過程」と「構造」をとり出してみせる哲学者(4)はまだいいほうで、ヘーゲルの弁証法は「直線的」だとか、その欠陥がエンゲルスにレーニンにスターリンにつながっているから「宗教改革」が必要だ(5)とかいわれると、開いた口がふさがらぬ思いである。ヘーゲル論理学の重層的立体的な全構造が弁証法とよばれたのだということは、三五年前のわれわれの常識であった。弁証法の三法則は矛盾の構造をとらえたもので、ヘーゲルの歴史的=論理的な見かたをマルクス主義は継承したのだと、われわれは理解していた。歴史的=論理的ということばを書き変えると、過程的構造的になる。だからこそ私にしても、時枝が「過程的構造にこそ言語研究の最も重要な問題が存するのである。(6)」といい切っているのを見て、マルクス主義の知識を持たぬ国語学者が自称マルクス主義者よりもマルクス主義的な把握をしていることに、注目しないわけにはいかなかったのである。【以下、次回】
(1) 板倉聖宜・上廻昭〈カミサコ・アキラ〉『仮説実験授業』二七~八頁。
(2) 『国語学言論』序。表記は原文のまま。時枝の著書は著者名を省略。以下同じ。
(3) 『国語学への道』一四四~五頁。
(4) 花崎皋平〈ハナザキ・コウヘイ〉「マルクス主義における科学と哲学」――『現代の理論』一九六七年一二月号。 
(5) 北沢方邦〈キタザワ・マサクニ〉「人間主義の終末?」――『現代の理論』一九六七年一二月号。
(6) 『国語学言論』九二頁。

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『やまとこころ』は一つの歴史的社会的抽象である(古在由重)

2020-11-23 00:01:25 | コラムと名言

◎『やまとこころ』は一つの歴史的社会的抽象である(古在由重)

 古在由重『現代哲学』(三笠書房、一九四六年五月)から、「四 観念論のドイツ的形態」の章を紹介している。本日は、その三回目(最後)。とあるのは、章末にあった原註である。

 しかるに人々はしばしばこのやうな歴史的見地にたつことなしに民族的特性について議論をたててゐる。たとへばある人々は『日本精神』あるひは『日本的なもの』の特徴を『もののあはれ』を感じうる日本人の風雅な心性のうちに発見する。他の人々はおなじものを雄々しい『やまとこころ』のうちに発見する。(3)しかしこれらのものは、はたして日本人の永遠な本質であるか? 決してさうではない。この種のものは特定の歴史的条件のもとで特定の社会階級に生じた特定の生活感情を民族の名において抽象化したものにすぎない。『もののあはれ』といふやうな感情は、封建日本における一定の余裕ある貴族層の生活飽満感または生活倦怠感から生じた一種の耽美的無常感にすぎない。もとより時代の支配的文化は時代の支配的階級の文化にほかならぬから、ある時代の貴族文化はつねにこのやうな感情をたたへてゐるではあらう。しかしその時代においてもなほ、たとへば社会の圧倒的多数をしめる農民にとつてはそれは縁どほいものであつた。『やまとこころ』についても同様である。これは幕末における封建日本の内部に準備されつつあつた民族的統一の先駆的な要望を表現してゐる。そしておそらくそれはなによりもまづ武士道的精神のうちにその典型を見いだすとされるのであらう。しかし武士とはもともと封建日本の一つの社会階級にすぎず、武士道とはここにつちかはれた特殊な生活感情および生活態度にほかならない。しかも封建的分立および差別のもとにおいては、この特殊なモラルさへ決して統一的な形態をとることができなかつた。現実的には単一な武士道のかはりに薩摩武士・三河武士・会津武士等々の諸形態におけるモラルだけが存在した。また武士道といつても『大名気質』と『足軽根性』とを二つの限界として移動する多様なモラルをふくむにちがひない。かくて我々は日本人の一般的心性として抽象された『やまとこころ』もそれ自体としては日本における統一的民族国家成立の過程において発生した一つの歴史的社会的抽象であることを知る。これらのことは哲学におけるドイツ的なものの規定についても銘記さるべきことがらであらう。
 ただしい見地からいへば、真実の意味における民族性の表現としての『ドイツ的なもの』もまた一定の歴史的時代に成立したのでなければならぬ。勿論このやうな場合いつでも我々は鮮明な区画線をひくことはできない。歴史の流れにおいては限界はつねにぼやけでゐる。しかしもし結論的にいふならば、真にドイツ的な哲学が発展したのはまさにかのドイツ古典哲学の時期であるといはねばならぬ。(4)
 カントからへーゲルまでの時代は、あたかも重圧的なドイツ封建制の内部において徐々に市民社会が抬頭しつつある時代だつた。すなはちまたそれは統一的なドイツ民族国家が多大の封建的障碍を克服しながら徐々に成熟しつつある時代だつた。ドイツ古典哲学はそれゆゑに十八世紀から十九世紀へかけての新興ドイツ・ブルジョアジーのイデオロギーを典型的に反映し、まさにこのゆゑに哲学におけるドイツ的なものを結晶させることができた。【以下、略】


(3) このやうな非歴史的立場から『日本精神』の精髄を構成しようとする日本哲学者たちの代表的な試みを我々は紀平正美〈キヒラ・タダヨシ〉氏(たとへば彼の『日本精神』・岩波発行『世界思潮』所載)鹿子木員信〈カノコギ・カズノブ〉氏(たとへば彼の『やまとこころと独逸精神』昭和六年)の著書および論文のうちに見いだすことができる。
(4) 以下の問題の一層詳細な叙述については拙稿『ドイツ古典哲学の二重性について』(『唯物論研究』一九三七年七月号以下所載)参照。

 古在によれば、この本は、「初版発行と同時にけづりとられた」箇所があるという。まだ、その箇所を確認したわけではないが、第四章について言えば、本日、紹介した部分に、その削られた箇所が含まれているのではなかろうか。
 古在由重『現代哲学』の紹介は、いったん、ここで打ち切り、明日は、話題を変える。

*このブログの人気記事 2020・11.23(8・9・10位に珍しいものが入っています)

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民族と民族性は資本主義社会の形成によって成立する

2020-11-22 06:21:40 | コラムと名言

◎民族と民族性は資本主義社会の形成によって成立する

 古在由重『現代哲学』(三笠書房、一九四六年五月)から、「四 観念論のドイツ的形態」の章を紹介している。本日は、その二回目。
 文中、傍点が施されている部分は、太字で代用した。とあるのは、章末にあった原註である。

 一般的に、いはゆる日本的なものとの関係において見られた『ドイツ的なもの』と『アメリカ的なもの』との対立。特殊的には日本の支配的哲学との関係において見られたアメリカ哲学とドイツ哲学との対立。この問題を系統的に究明することは、おもふに興味ある一つの主題となりうるだらう。しかしいまはただそれについての若干の暗示をしるすにとどめておく。
 一体ドイツ哲学の特性とはどんなものだらうか? それに正確な規定をあたへ、それを根本的に究明することは多大の労力を要求するであらう。しかしそのまへにまづ問題となるのは、ここに特性といはれるものがどんな見地から論究さるべきかといふことである。ドイツ人の哲学だからといつて一切のドイツ哲学が一定の明確な特性を表現するなどとはいへない。ドイツの哲学もまた、他の諸国のそれと同様に、千差萬別である。このやうな意味で哲学におけるドイツ的なもの等々をもとめようとする一切の試みは、あたかも一般に超歴史的なるものを探求しようとする試みと同様に徒労なことであり、愚劣なことである。(2)
 一般に民族的性質が歴史的に発展するだけではなく、そもそも民族および民族性そのものが資本主義社会の形成によって成立するものである。資本主義社会をうみだす諸条件の成熟によつて物質的な(したがつてまた観念的文化的な)封建的分散および制限が揚棄されたければ、民族的統一性についてかたることも統一的民族性についてかたることも同様に無意味であらう。かくて一段に民族あるひは民族性はあきらかに資本主義社会とともにはじめて成立するところの一つの歴史的範疇にほかならない。かくでドイツ哲学の特性が問題とされる場合にも、まさにそれはこのやうな歴史的見地からのみ究明されなければならぬ。【以下、次回】


(2) すでにフィヒテの『ドイツ国民につぐ』(一八〇八年)やシェリングの『ドイツ科学の本質について』(一八一一年・断片)にはかかる試みが存する。ことにフィヒテは『ドイツ性』を問題としてとりあげた最初の一人だらう。現代においてはたとへばミュレル・フライエンフェルスの『ドイツ的人間およびその文化の心理学』(一九二一年・第二版・一九三〇年)は『民族心理学』の立場からのこの種の試みに属する。またナチス的なテオドール・ヘーリングの『ドイツ的哲学とはなにか?――精神的系譜研究への一寄与』(一九三六年)は『精神的人種論』の立場から哲学における超歴史的なドイツ性を規定しようと苦心してゐる。

*このブログの人気記事 2020・11・22(9位になぜか『決闘裁判』)

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浅薄で非科学的な哲学とは

2020-11-21 03:35:24 | コラムと名言

◎浅薄で非科学的な哲学とは

 古在由重『現代哲学』(三笠書房、一九四六年五月)の「新版への序」によれば、同書の初版(一九三七)は、「初版発行と同時にけづりとられた」箇所があるという。それは、第四章の一部、および第八章の一部だという。
 この削られた箇所を確認したいところだが、あいにく、国立国会図書館の利用が制限されていて、すぐには確認できない。とりあえず、「四 観念論のドイツ的形態」を、少し、読んでみることにしたい。
 文中、傍点が施されている部分は、太字で代用した。とあるのは、章末にあった原註である。 

    四 観念論のドイツ的形態

 アメリカの典型的な哲学すなはちプラグマティズムの代表者だつたウィリアム・ジェイムズは今世紀のはじめにいつた――
 『哲学のやうな主題においては、人間性の外気との連結をうしなひ職業的伝統の術語だけで考へるといふことは、まことに致命的なことだ。ドイツでは形式が非常に専門化されてゐて、だれでも講座をしめて本を書いた人ならば、たとへ偏屈偏狭であらうとも、主題の歴史においては琥珀のなかの蝿のやうに永久に異彩をはなつべき正当な権利がある。あとからきた人々はすべて彼の言葉を引用し、自分たちの意見を彼の意見とくらべあはせる義務がある。職業的競技の規則はかうである――彼らは排他的に仲間から、仲問のため、仲間だけで考へたり書いたりする。このやうに外気を排除するにつれて真の展望はすべてうしなはれ、極端な説や奇妙な説が正気として通用し、おなじやうに注意を要求する。そしてたまたま何人かが直接に主題に心をそそいで結論だけについて平易に書けば、それは浅薄〈センパク〉な代物で全然非科学的なものとみとめられる。……さいはひにもイギリスの精神やフランスの精神の方が、なまな技術や野蛮をきらふことによつて、まだ真理の自然らしい姿のちかくにゐる』。(1)
 ヘーゲルを最後の環とするドイツ古典哲学の歴史の終結とともにドイツ人の理論的感覚は『教養ある人々』からドイツ労働者階級へうつされた事実にエンゲルスはいくたびか言及した。 ジェイムズがドイツの亜流哲学者および哲学研究者たちに痛烈な皮肉をむけたのは、決して理由のないことではない。なほそこでジェイムズはいたづらにドイツ哲学のアカデミー的な形式だけをまねるアメリカの若い神学研究者たちにも警告を発してゐる。
 ドイツ哲学への偏執といふ事実はおそらく日本のアカデミー哲学についてもいはれうることだらう。そしてここにおいてもドイツ哲学はおほくの場合に形式的な模倣の形で移植されてゐる。哲学研究のためドイツにおもむいた日本の一留学生がドイツの一哲学教授から『なぜ君たち日本人は、わかりやすいイギリスやアメリカの哲学のかはりに、むづかしいドイツの哲学をえらぶのか?』とたづねられたといふ話を、かつて私は耳にしたやうに記憶する。不幸にして私はこの留学生がどんな答をしたか知らない。しかしいづれにせよこのことは注目すべき一つの事実である。
 ジョン・デューイおよびバートランド・ラッセルはそれぞれ現代のアメリカおよびイギリスの最も代表的な哲学者といへよう。この二人の哲学者はその講演および著作によって隣邦・中華民国の若いインテリゲンチャには多大の感銘と広汎な影響をあたへた。中国にのこした彼らの思想の足跡はいまもなほいちじるしい。しかるに世界戦争後に日本をも訪問したこの二人の哲学者は、なんら永続的な感銘も影響をものこさなかつたやうに見える。日本のアカデミー哲学もまた、少数の例外をのぞいては、イギリスおよびアメリカの哲学を『浅薄な代物で全然非科学的なもの』として軽蔑してゐるやうに見える。それはことに哲学におけるアメリカニズムに対しては完全な黙殺か、さうでなければ神経的な反撥をもつてこたへてゐる。しかし日本に流行するところのドイツ亜流哲学の拙劣な模倣もそれと同様に、――いなそれ以上に浅薄な、非科学的なものではないだらうか?【以下、次回】


(1) ウィリアム・ジェイムズ『多元論的宇宙』一九〇九年・第一講・一七頁以下。

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