礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

礫川は決して福沢を嫌ってはいない

2021-02-18 03:11:29 | コラムと名言

◎礫川は決して福沢を嫌ってはいない

 新年に入ってから、アマゾンのページで、拙著『知られざる福沢諭吉』(平凡社新書、二〇〇六)をチェックしたところ、カスタマーレビュー欄に、新しい書評を見つけた。
「a prayer」さんが、一月七日に投稿されたもので、その前半は、次のようになっている。

 著者の執筆動機には、既存の福沢諭吉研究への不満がある。単純に言えば、あまりに聖人化してしまっているというのである。(既存の研究というのは、丸山真男や慶應系が念頭に置かれている)
 そこで本書は、福沢と同時代の人々による福沢評価や、傍流に置かれてきた異端の福沢研究を駆使して、素顔の福沢諭吉像に迫る。
 聖人として祀り上げられた福沢像を壊すという意味では、ポール・ジョンソンの『インテレクチュアルズ』に似ているが、それとも微妙に違う。
 どこが違うかというと、礫川氏は決して福沢を嫌ってはいないのだ。

 的を射た指摘であると思った。ただし、不勉強にして、ここに出てくる、ポール・ジョンソンの『インテレクチュアルズ』という本の存在を、今の今まで知らなかった。
 ポール・ジョンソン著・別宮貞徳訳の『インテレクチュアルズ』(講談社学術文庫)は、二〇〇三年に刊行されているという。まだ、読んでいないので何とも言えないが、その本の性格が、聖人として祀り上げられた著名人の人物像を壊すというものであるとしたら、確かに、私の本にも、『インテレクチュアルズ』と共通するところがある。しかし、「a prayer」さんも指摘されているように、私の本は、それとは「微妙に違う」。
 私の福沢に対するスタンスは、その「品格」に対しては疑問を抱くが、その才気と業績に対しては、限りなく高く評価するというものである。
 私は、この本を書いたあと、『攘夷と憂国』(批評社、二〇一〇)を世に問い、その第四章「幕臣・福沢諭吉の憂国」で、福沢諭吉が「自伝」などで、自己を韜晦している部分について論じた。また、『独学で歴史家になる方法』(日本実業出版社、二〇一八)、および『独学文章術』(日本実業出版社、二〇二〇)では、近代日本語の成立に際して、福沢諭吉が果たした役割に注目した。
 福沢諭吉が、一筋縄ではいかない人物であることは、『知られざる福沢諭吉』を書く前から、よく認識していた。この人物を「嫌ってはいない」のは、「a prayer」さんの指摘される通りである。
 早いもので、『知られざる福沢諭吉』を上梓してから十五年。すでに、新刊書店では手に入らない「古書」となっている。しかし、今でも、この古書に対し、適切な批評をいただけるのは、たいへん光栄なことである。「a prayer」さんには、この場を借りて、感謝の言葉を申し述べます。

*このブログの人気記事 2021・2・18(9位に珍しいものが入っています)

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橋本欣五郎、板垣宛に電報「こと破れたり」

2021-02-17 05:32:06 | コラムと名言

◎橋本欣五郎、板垣宛に電報「こと破れたり」

 石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、「錦旗革命」関係の記述を紹介している。
 本日は、その七回目で、「橋本以下十二名検挙へ」の節を紹介する。

 橋本以下十二名検挙へ
 今村〔均〕が名刺の裏面を見ると、「彼らがやめるといったのはウソだ。あくまでやるんだといきまいている」としたためてあった。この情報はすぐ南〔次郎〕のもとへもたらされた。沈痛な面持ちで南が口を開いた。
「これから自分の決心を述べる。次官はただちに憲兵司令官へ伝達したまえ――外山〔豊造〕憲兵司令官は午前四時までに橋本〔欣五郎〕中佐以下関係者を憲兵隊に保護拘束すべし〟」
 この日、憲兵司令部では、芝浦で懇親会を開いていた。翌日が祝祭日にあたるので、満州事変が突発以来の慰労のためであった。そこへ宿直将校から電話がかかってきた。
「ただいま陸軍大臣からの電話で、緊急事態発生。司令官に至急、陸軍省へ来てほしいとのことです」
 外山は押っとり刀で陸軍省へ。総務部長の二宮晋一大佐以下各憲兵将校は、司令部へとって返して待機した。不穏将校に対する保護拘束の命令は、二宮から東京憲兵隊長の難波光造大佐に伝えられた。難波は特高課長の村野直弘らと協議の結果、十七日払暁を期して一斉に身柄を拘束。東京隊と麹町、渋谷、市川の三憲兵分隊長官舎に収容することを決めた。
 この夜、橋本が金竜亭に現われたのは午前三時。将来の兵器分配場所の偵察のため、アジトを転々としていたのだという。彼は部下の藤塚〔止戈夫〕らの密告によって陰謀が露見したことを知っていた。金竜亭への途中、郵便局に立ち寄って、関東軍の板垣〔征四郎〕にあてて電報を打った――「こと破れたり。同志一同縛〈バク〉につく。貴官の健闘を祈る」
 金竜亭では長〔勇〕と田中(弥)の二人が待っていた。その時、けたたましく電話が鳴り響いた。麹町憲兵隊長の大木繁憲兵少佐からだ。
「橋本中佐に伝えてほしい。事件は発覚した。後刻、憲兵が貴官らを逮捕に向かうから、用意していてもらいたい」
 かねてから橋本は、憲兵隊内部に強力な同志網を配置していた。大木もその一人だ。彼は拘束についての会議中に腹痛と称して席をぬけ出し、こっそり連絡したのだという。
「ついに来るべきものが来たか……」
 長と田中はいきり立った。橋本は憮然として、天井をにらんだ。
 そのころ私服憲兵は深夜の東京を八方に飛んだ。金竜亭には麹町分隊のベテラン曹長・小坂〔慶助〕が、部下をつれて逮捕に馳せ向かった。
「不浄役人の分際で無礼な。大木が出てこい……」
 長は短刀を抜いて、頑強に同行をこばんだ。が、橋本の直属上官・第二部長の橋本虎之助の名刺を示したので、しぶしぶ同行に応じた。名刺には将校としての身分を重んじて、あくまで〝保護のため〟であるむねのことわりが書いてあった。午前六時、橋本、長、田中(弥)の三人と憲兵を乗せた自動車は、大手町の東京隊長官舎に吸い込まれた。残りの同志も、それぞれ夜明けまでに三憲兵分隊長官舎に収容された。
 しかし、橋本ら急進分子を東京に置くのは危険である。新聞記者の目もうるさい。司令部ではこれを地方に分散することを決めた。橋本と根本〔博〕は稲毛、長と馬奈木〔敬信〕は市川、影佐〔禎昭〕、小原〔重孝〕、山口〔一太郎〕は横浜、和知〔鷹二〕、天野〔勇〕、野田(又)〔野田又雄〕らは宇都宮など各地の旅館に軟禁した。だがそれは軟禁というより〝賓客扱い〟。朝から酒池肉林のもてなしであった。しかも、その費用は、総務部長の梅津〔美治郎〕と作戦課長の今村のはからいで、参謀本部の機密費から支出されたのだという。全く驚いた話である。統制なき陸軍かな――岡村〔寧次〕が慨嘆したのも無理がない。
 稲毛へ軟禁後も、橋欣は革命断行の決意をひるがえさなかった。参謀本部からは部員を派遣して説得につとめたが、〝どうしてもやるんだ〟といって承知しない。弱り切った第二部長の橋本〔虎之助〕は、自ら稲毛へ出かけて説得にあたった。虎之助は〝ネコ之助〟といわれるほどの温厚な君子人。橋欣が陸軍大学を出て参謀本部のロシア班付動務将校(参謀見習)となった時のロシア班長だ。やんちゃものの橋欣はさんざん彼に厄介をかけた。従って頭が上がらない。その恩人に涙を流しながら懇々と説かれると、ついに彼も我を折った。〝中止します〟と言明せざるを得なかった。軟禁十五日間、橋欣は釈放された。そして、一味に対する行政処分が決まった。橋本、長、田中(弥)は重謹慎。その他のものは口頭の訓戒で事済みになった。やがて十二月の定期異動が発令された。首謀者の橋本は姫路の野砲兵連隊付に左遷された。当時、姫路の第十師団は、満州派遣が決まっていたので、ていよく満州へ追放されたわけ。田中(弥)はドイツ駐在、和知は関東軍勤務、小原はハイラルの特務機関へ、野田 (又)は善通寺の歩兵四十三連隊付に流された。「桜会」は崩壊した。結成以来一年そこそこであった。

 今村均に「名刺」で重大情報を知らせた人物の名前が記されていない。著者の石橋恒喜は、その人物の名前を知らなかったのだろうか。いや、知っていたにもかかわらず、あえて伏せたのではないだろうか。
「七 不発に終わった錦旗革命」の章は、ここまで。『昭和の反乱』という本の紹介は、このあとも続けるが、明日は、いったん、話題を変える。

*このブログの人気記事 2021・2・17(10位に極めて珍しいものが入っています)

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北京にいるはずのお前が東京にいるとは(荒木貞夫)

2021-02-16 02:04:16 | コラムと名言

◎北京にいるはずのお前が東京にいるとは(荒木貞夫)

 石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、「錦旗革命」関係の記述を紹介している。
 本日は、その六回目で、「荒木は検挙に反対」の節を紹介する。

 荒木は検挙に反対
 午後四時すぎ、総監部から退出した荒木〔貞夫〕は、その足で陸軍大臣官邸へ車を向けた。熊本への出張について、一応、南〔次郎〕へあいさつするためである。荒木の顔を見た南は、複雑な顔付きで彼を迎えた。荒木が不穏計画の首班に擬せられていることを知っていたからだ。
「今夜の出発を延期していただけないか。どうも情勢は険悪である。貴官に東京に残って、不穏を予想される計画の中止に努力して欲しい。いま省部の幹部会議が開かれている。それに出席してご指導願いたい」
 荒木は教育総監部の本部長であって、陸相も参謀総長も直接命令はできない。「おたのみとあれば……」と荒木は承諾した。大臣応接室では激論が闘わされていた。大努は一挙に不穏分子の検挙に傾いていた。が、一味に同情的な重藤〔千秋〕らは、かぶりを振らない。
「諸官は即刻、橋本らを検挙せよ、というが、問題となっている将校たちに、歴然たる証拠があるのか。密告者たちは明早朝決行の計画があるというが、小職の知り得たところでは、そんな事実は全くない。いま一片の密告だけで、これらの有能な将校にキズをつけるようなことがあったら、国家国軍の大損失である。検挙などとはもってのほかだ。自分はあくまで反対する」
 荒木がこれを支持した。そして彼みずから説得におもむくこととなった。だが、一味のアジトについてたずねると、だれも口をつぐんで答えようとしない。荒木はかんしゃく玉を破裂させた。
「諸官が知らぬ存ぜぬというなら、小職としても処置なしである。わが輩は帰る」
 荒木が立ち上がりかけたところへ、〝参謀本部に一味の馬奈木〔敬信〕がいる〟という情報をもたらしたものがあった。そこで、一同を待機させたまま、馬奈木を案内役に築地の金竜亭へ車を向けた。
 料亭の玄関で〝橋本に会いたい〟というと、橋本はいま不在だという。そこへ長〔勇〕が現われたので、すぐ別室へ呼んだ。〝北京にいるはずのお前が東京にいるとは何ごとか〝と聞くと、「国内が混迷に陥っているので、座視するに忍びず、無断で出てきました」とのこと。荒木も開いた口がふさがらなかった。すると長が能弁にまくし立てた。
「重臣、政府、政党、財閥は腐敗し、軍の上級者は無気力で、満州事変に対応する力はない。まさに国家は危機を迎えている。われわれはこれを腕をこまねいて見ているわけにはいかない。よって同志はここに結束を固めて、断固、決起の決意を固めている。この際、閣下の決起をお願いいたします」
「まあ、待て! わが輩の言うことを聞け」
 長広舌となると、陸軍部内で荒木に及ぶものはない。彼は時間のたつのも忘れて、とうとうと暴挙を中止するよう説いた。さすがの長もへきえきした。
「分かりました。ともかく一応、閣下を信じて、決起を中止することにいたします。その代わりに、閣下の責任において国家革新を断行、満州事変をはじめ内外の諸懸案をきちんと解決してくださいますか」
「よろしい。わしにできる限りのことはやる」
 そこで荒木がトイレに立つと、廊下でバッタリ顔見知りの大川周明と霞ケ浦海軍航空隊司令の小林省三郎と出会った。これで荒木は、不穏計画が陸軍だけでなく海軍や民間側も加わった、かなり大規模なものであることを知った。荒木が座敷に戻ると、補任課長の岡村〔寧次〕がしきりに彼を探している。荒木の帰りが余りにも遅いので、迎えにきたのだという。
「閣下、もう帰りましょう」
 岡村がしきりにうながすので、荒木は陸軍省へ帰って再び会議の席へ臨んだ。時計の針は、すでに午後十一時をまわっていた。荒木は説いた。
「首謀者の長は〝一応、中止します〟と言明した。長がやめるといったからは、他のものは各直属上官が懇切にさとしたなら、決意をひるがえすに違いない。彼らの考え方は急進的ではあるが、やはり国を憂えてのことである。憲兵に拘束させるようなことをするとかえって彼らを刺激し、禍根を将来に残すことになろう。ことに諸官は明朝決起と騒ぐが、聞いてみると予定はまだ先のことだ。自分は検挙に反対だ」
 温情主義者の荒木に対して、合理主義者の今村〔均〕、東条〔英機〕、永田〔鉄山〕は真っ向から反対した。ただちに〝検挙すべきだ〟というのだ。議論はなおも一時間も続いた。しびれを切らした外山〔豊造〕が発言した
「もうすでに夜半を過ぎている。即刻、命令を下してくれないと、憲兵司令部としても午前四時前の処置は不可能である」
 この発言の結果、杉山〔元〕、二宮〔治重〕が官邸で待機中の南〔次郎〕に会議の経過を報告、大臣の決裁を求めることになった。杉山らが出ていくのと入れ違いに陸軍省表門の守衛がはいってきて名刺を今村へ手渡した。
「ただ今、背広服姿の男が自動車を乗りつけて〝至急これを今村大佐に届けて欲しい〟と言いおいて立ち去りました」【以下、次回】

*このブログの人気記事 2021・2・16(8位のセイキ術は久しぶり)

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橋本欣五郎「閣下、決起してください」

2021-02-15 03:36:26 | コラムと名言

◎橋本欣五郎「閣下、決起してください」

 石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、「錦旗革命」関係の記述を紹介している。
 本日は、その五回目で、「閣下決起してください」の節を紹介する。

 閣下決起してください
「過日、橋本〔欣五郎〕中佐が杉山〔元〕次官や建川〔美次〕部長に申した企図断念はウソです。私どもも桜会々員であり、国家改造の必要性は認めますが、暴力革命的行動にはついていけません。思いとどまるよう急進派を説得しましたが、頑として聞きいれません。今夜、彼らは最後の打ち合わせを行うことになっております。私どもは同志を裏切ることになりますが、無謀な行動によって、前途ある将校を葬るにしのびません。憲兵の手で首謀者を拘束するなど、断固たる措逋をとっていただきたいと思います」
 根本らはこう語りながら、拘束を要するものとして参謀本部の中堅幕僚と、青年将校のリーダーとして山口一太郎と野田又雄の名をあげた。そして、拘束に際しては、自分たちもいっしょに検挙してくれるよう申し出た。
 今村はただちに参謀本部第一課長(編成)の東条英機と陸軍省軍事課長の永田鉄山と相談して、午後五時半から陸軍大臣応接室で省部の緊急会議を開いた。集まったものは陸軍省から杉山次官、小磯〔国昭〕軍務局長、中村〔孝太郎〕人事局長、永田軍事謀長、岡村〔寧次〕補任課長ら、参謀本部からは二宮〔治重〕次長、梅津〔美治郎〕総務部長、建川作戦部長、東条編成課長、重藤〔千秋〕支那課長、今村〔均〕作戦課長など、ほかに憲兵司令官の外山豊造〈トヤマ・ブンゾウ〉少将にも立ち合いを求めた。
 この日、教育総監部本部長の荒木〔貞夫〕は、夜行列車で熊本の陸軍教導学校の初度巡視に出かけることに なっていた。荒木にとって熊本は〝第二の故郷〟だ。長閥から嫌われた彼は、歩兵第二十三連隊長、第六師団長と熊本で多年配所の月を見ている。遠足に出かける幼稚園児のように、早朝から起き出して旅じたくに余念がなかった。そこへ予備役海軍中将の小笠原長生〈ナガナリ〉から電話がかかってきた。
「聞くところによると、貴官は本日、東郷元帥と参内されるとのことですが、本当ですか。実は不思議な話なので元帥にうかがったら、〝自分は知らん〟とのことなので、念のため閣下へ電話した次第です」
 小笠原は東郷の秘書役だ。そこで荒木は出勤の途中、小笠原邸をたずねてウワサの出所を調べてみた。どうもおかしい。何か不穏なくわだてがある。かつて憲兵司令官の経験があるだけに、ピンと響くものがあったらしい。早速、総監部に登庁すると、磯谷廉介〈イソガイ・レンスケ〉、工藤義雄ら課長を集めた。いずれも部内には〝異常なし〟とある。やがて昼ごろとなって、橋本が突然、本部長室へやってきた。ただならぬ面持ちである。
「閣下、決起してください」
 やぶから棒の申し出に荒木はあっけにとられた。
「決起しろ、とは何のことかね……」
 突っ込んで問いただしてみたが橋本は答えない。
「閣下を信じてお願いするのだから、このさい何も聞かないでほしい。ともかく決起してください」
 目を血走らせた橋本は、ドスンと軍刀のこじりで床を突くと、肩をいからせながら帰っていった。これで小笠原の電話の件も、おおよそ見当がついた。すぐ陸軍省に電話して、ロシア班長をマークするよう永田に注意した。【以下、次回】

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参謀本部の今村第二課長と相談しよう(池田純久)

2021-02-14 00:22:40 | コラムと名言

◎参謀本部の今村第二課長と相談しよう(池田純久)

 石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、「錦旗革命」関係の記述を紹介している。
 本日は、その四回目で、「決行か中止か」の節を紹介する。

 決行か中止か
 十月四日夜、陸軍省調査班員の田中清大尉のところに、橋本〔欣五郎〕から速達郵便が届いた。「明四日、打ち合わせたいことがあるので、森ケ崎の〝万金〟までお出でを乞う」というのだ。翌日、田中が「万金」へ行ってみると、長〔勇〕、田中(弥)、小原〔重孝〕らが待っていた。彼らは言う――「今や国内変革決行せらる。陸軍省、参謀本部をはじめ近衛、第一師団等すべて国内変革に向かって準備中。海軍また然り。まずクーデターにより政権を軍部に奪取して独裁制をしき、政治変革を行う。この計画に参加して、助力せられたし」、と。田中(清)は陸大を出てから東大に派遣された学究肌の少壮将校。三月事件以来の桜会の同志でもある。同憂の将校たちと、国家革新の研究立案にあたっていることでも知られていた。
 長らは田中に問われるままに、革命計画のあらましを語った。その筋書はすさまじかった。田中は仰天した。彼はその時の感想を、いわゆる「田中少佐手記」の中で次のように綴っている。
「即ち何れの方面より見るも彼等の企図は何等の成果を収むる能はず。而巳ならず此の如きは建軍の本旨に反し国家改造の唯一の力強き源体たるべき軍部を破壊するや大にして其損失甚だ大なりと云はざるを得ず。吾は如何なる手段に訴ふるも之を中止せしむべく而かも其中止に当たりては彼等をして充分納得出来得る如く啓蒙せんと期す……吾は長少佐、田中(弥)大尉、小原大尉に対し彼等の企図しつつある行為の著しく我が国家に不利益を来すこと、国軍を破壊する大、国際関係上の不利益、我が産業財政経済等に及ぼす悪結果等より殆んど成功の絶望なること等を説き思ひ止まるべく説けるも遂に十分其の目的を果たし得ず。唯彼等に反省を促し得たるに止まる」(原文のまま)
 十月十二日の夕刻、陸軍省から帰宅の途中、田中清は首相官邸横を通りかかった。するとそこに田中弥が立って何かやっている。清は陸士二十九期、弥は三十三期出の後輩。弥は同期の山口一太郎と肩を並べて、英才をうたわれた俊秀だ。もちろん陸大では恩賜の軍刀組。そこで清が「何をやっているのかね」とたずねると、彼は肩をそびやかして答えた。
「首相官邸に対する現地偵察ですよ……」そして、今夜、大森の松浅で革命作戦会議を開くからぜひ来ていただきたい、と参加を求めた。田中(清)が松浅へ行ってみると、橋本、馬奈木〔敬信〕、田中(弥)、小原らが額を集めて密談していた。田中(弥)が〝極秘ですよ〟といって計画のあらましを洩らした。彼は慄然とした。警祭署長クラスの小者までも斬撃の目標であるという。橋本の背後には、第一部長の建川〔美次〕と支那課長の重藤〔千秋〕がいることも分かった。
 翌十三日、田中(清)は出勧すると、軍務局徴募課の池田純久〈スミヒサ〉少佐に相談した。池田は彼より陸士は一期先輩の二十八期生で長や馬奈木とは同期。同じく東大の聴講生だ。革新派ではあったが、桜会には加盟していない。池田もびっくりした。
「それはえらいこった。余りにも無謀過ぎるぞ。何とか暴発を食いとめないと、たいへんなことになる。ついては参謀本部の今村第二課長と相談しよう。君もいっしょに行ってくれたまえ」
 今村(均)は八月の人事異動まで陸軍省の徴募課長で、池田の直属上司であった。同夜、二人は世田谷豪徳寺に今村を訪問して、橋本一派の計画を密告した。寝耳に水の今村も仰天した。
「私は絶対にクーデターに反対だ。今もし陸軍が武力で現政府を倒し、軍部内閣を作ったら、国民も列国も滿州事変は陸軍の野望によるものと判断するに違いない。ことにわが将兵が満州で戦っているときに、国内で兄弟がせめぎあうことは大きな間違いだ。私はこれからすぐ建川少将を訪問して、彼らの企図を中止させるようお願いしてみよう」
 今村は、すぐさま渋谷の建川宅を訪れて、情勢を報告した。
 翌朝、今村が登庁すると、隣室の第一部長室で建川と橋本が二時間あまり話し込んでいた。やがて橋本が出て行くと、建川から呼ばれた。
「橋本にゆうべの話を聞いてみた。そして、自分も不同意であるむねを伝えて、中止するよう説得した。なかなか言うことを聞かなかったが、閣下が〝それほどまでにおっしゃるなら、一応やめることにいたします〟といって帰った。これから次長(二宮)のところへ行って、いっしょに報告してくれたまえ」
 建川と今村が二宮〔治重〕に報告していると、突然、陸軍次官の杉山〔元〕がはいってきた。
「いま、露班の橋本中佐がやってきて〝ご心配をかけましたが、もうやらないことにいたしました。ご安心ください〟などと雲をつかむようなことをいう。いったい、何か参謀本部で問題があったのかねえ」
 そこで、今村は改めて橋本一派の企図について説明。建川からは橋本が翻意したむねを語った。
「それはよかった。そんなバカげたことは絶対にいけない」
 そう言い残して杉山は帰っていった。今村はホッと胸をなでおろした。すると十六日の午後四時ごろ、不意に支那班長の根本〔博〕が部下の影佐〔禎昭〕とロシア班の藤塚〔止戈夫〕を伴ってやってきた。【以下、次回】

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