礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

錦旗革命、その合言葉は「天皇―中心」

2021-02-13 04:10:51 | コラムと名言

◎錦旗革命、その合言葉は「天皇―中心」

 石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、「錦旗革命」関係の記述を紹介している。
 本日は、その三回目で、「慄然とするその内容」の節を紹介する。

 慄然とするその内容
 橋本〔欣五郎〕の計画は次第に軌道に乗った。北京から脱走した長〔勇〕とロシア班の田中(弥)、小原〔重孝〕がその片腕である。長は無断で任地を離れる時、武器庫から手榴弾を持ち出した。そして、太刀洗〈タチアライ〉からは陸軍機に便乗、荒天をおかしてようやく東京へたどり着いたのだ。全く決死の東京入りであったという。隊付将校たちの力を結集するため、神楽坂、渋谷、大森などで懇親の宴がはられた。ロシア班は藤塚〔止戈夫〕ただ一人が執務しているだけで、田中(弥)、小原や語学将校の天野〔勇〕らは革命決行の準備に明け暮れていた。やがて襲擊目標も決まった。
 それによると、元老・西園寺〔公望〕をはじめ牧野〔伸顕〕内大臣、一木〔喜徳郎〕宮内大臣、若槻〔礼次郎〕総理大臣以下全閣僚、政党首領、財界の巨頭らは一挙にこれを殺害。南〔次郎〕陸相、金谷〔範三〕参謀総長以下陸軍上級者も監禁あるいは殺害する。
襲撃の指揮官には総理大臣官邸は少佐・長勇、警視庁は大尉・小原重孝、陸軍省、参謀本部、陸相官邸は第十八連隊長の大佐・佐々木到一、幣原〔喜重郎〕私邸は通称〝野田又〟こと中尉・野田又雄、内相・安達〔謙蔵〕邸は中尉・菅波三郎、内大臣・牧野邸は海軍側の藤井〔斉〕が〝抜刀隊〟を組織して、これに当たることを内定。この抜刀隊には翌年の五・一五事件に参加した海軍中尉・三上卓〈タク〉、同・古賀清志、同・山岸宏、同・中村義雄、同・林正義、海軍少尉・黒岩勇、同・村山格之、同・伊東亀城、同・大庭春雄らも含まれていた。また、〝軟弱外交の総本山〟外務省に対しては、それぞれ襲撃を終わってから、武力によって全職員に制庄を加えることを決めた。
 このため指揮官にあてられた各将校は、殺害目標の高官官邸、私邸の偵察に全力をあげた。たとえば、近衛師団きっての剣豪をもって鳴る「野田又」は、植木屋に変装して幣原邸に入り込んだ。小原は公務と称して軍服のまま警視庁を訪問、くわしい見取図を作っている。田中(弥)もまた、総理大臣官邸の偵察を、海軍側は鎌倉にあった牧野邸の偵察にあたっている。
 決起の日取りは、最初、十月十七日か十九日とし、日中決行するか払暁とするかは、その時の情勢に従って定めることとした。しかし、その後、十七日ごろは小原の指導下にあった陸軍砲工学校の同志学生らが、群馬県の陸軍岩鼻火薬製造所の見学に出張することとなったため、小原の要請により急遽、予定を変更。二十四日の払暁午前三時と決めた。夜間のこととて、敵味方を区別する必要がある。そこで〝合言葉〟をつくった。「天皇―中心」がそれだ。〝天皇〟と呼べば、〝中心〟と答える仕組みである。
 革命の本部は陸地測量部庁舎に置くことを決めた。ここは桜田門から官庁街一帯を一望のもとに見おろせる要衝だ。しかも、ここを占拠すると、陸軍省、参謀本部ののど首を抑えることができる。そして、決起と同時に測量部の屋上から大幟〈オオノボリ〉をつるして、「維新革命本部」であることを天下に誇示する。その大幟は幅八メートル長さ三十メートルぐらいの白布とし、そこに「昭和維新」と大書する段取りとなった。
 革命内閣の構成についてははっきりしないが、首相に教育総監部本部長の荒木貞夫中将をかつごうとしていたことだけは確実。ほかに外務大臣兼陸軍大臣に参本〔参謀本部〕第一部長の建川美次〈タテカワ・ヨシツグ〉少将、内務大臣には橋本みずからが就任。大蔵大臣には「三月事件」以来の盟友大川周明、海軍大臣には小林省三郎少将、警視総監には長勇、参謀総長には関東軍参謀の石原莞爾を配する計画。一説には西田税〈ミツギ〉や隊付将校を味方につける作戦として、北一輝を司法大臣に起用する案も立てられたといわれる。そして、約二時間で各所の襲撃を終わると、血刀をひっさげた長らが東郷平八郎元帥と閑院元帥宮〈カンインゲンスイノミヤ〉を擁して参内。荒木中将に組閣の大命が降下するよう上奏する。東郷はロシアのパルチック艦隊を全滅させた世界的な名提督。全国民から崇敬の的となっていた〝国宝〟である。では、なぜこの老元帥を煩わすことになったのか? それは革命決行とともに、西園寺以下重臣という重臣は抹殺される。すると、天皇に後継首班を推薦するものはいなくなる。残るは東郷だけだ。しかも東郷は国家革新運動の理解者として知られている。橋本が目をつけたのは当然のことといえよう。【以下、次回】

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守衛隊司令みずからが宮城を制圧する計画だった

2021-02-12 04:20:20 | コラムと名言

◎守衛隊司令みずからが宮城を制圧する計画だった

 石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、「錦旗革命」関係の記述を紹介している。
 本日は、その二回目で、「七 不発に終わった錦旗革命」の章の最初の節、すなわち、「二・二六事件以上の規模」の節を紹介する。

 二・二六事件以上の規模
「錦旗革命」については諸説紛々。肝心の関係書類が一切焼き捨てられたこととて、不明な点が多い。ただ、はっきりしていることは、その規模において、二・二六事件なぞ遠くその足もとにも及ばないということだ。
 まず、橋本〔欣五郎〕は革命決行の主力を陸軍の部隊においた。だが、部隊を動かすのには、参謀肩章も天保銭も役に立たない。どうしても隊付の中、少尉の力を借りる必要がある。橋本ら中央部の幕僚が、隊付将校の獲得に狂奔したのはこのためである。そして、さらに藤井斉〈ヒトシ〉海軍大尉をリーダーとする海軍将校の「王師会」と手を結んだ。民間側は全国的に在郷軍人団を動員するほか、大川周明〈シュウメイ〉の「行地社」、岩田愛之助の「愛国社」、北〔一輝〕・西田税派の右翼革新団体、井上日召〈ニッショウ〉の一党、それに大本教の出口王仁三郎〈オニサブロウ〉とも連携して、信者を決起させる手はずを決めた。
 もちろん、陸軍部隊は在京の近衛、第一両師団が主力。兵力は近衛各歩兵連隊から十個中隊と機関銃一隊、第一師団からは歩兵第一、第三両連隊から数個中隊を動員。昼間決行の場合と夜間の場合との二つを想定して、それぞれ異なった案をたてていたようだ。加盟した将校は在京者だけでも約百二十名。戸山学校、砲工学校、歩兵学校所属の将校や士官学校在学中の士官候補生も血盟の同志となった。これらの士官候補生の中には、翌昭和七年の五・一 五事件に参加した池松武志、後藤映範〈エイハン〉、篠原市之助、石関栄ら十二名の名も見える。
 なかでも、軍当局を驚かしたのは、宮城制圧の計画だ。これを担当したのは近衛歩兵第三連隊の大隊長、田中信男少佐。田中が宮城の守衛隊司令にあたった日を決起の時と定め、一挙に重臣など君側の奸〈カン〉を葬り去ろうというにあった。守衛隊司令みずからが、宮城占領の張本人とあっては、側近はひとたまりもなかったろう。そして、田中は、側近を血祭りにあげると二重橋前で割腹。重臣殺害の罪を天皇にわびる決意を固めていたといわれる。また、アッといわせたのは、〝抜刀隊〟の編成である。これは戸山学校の剣術科教官、柴有時〈アリトキ〉大尉を隊長とする切り込み隊。末松太平〈タヘイ〉、大蔵栄一、岩崎豊晴など腕におぼえのある教官や将校学生、下士官学生を選りすぐって、抵抗するものは切って捨てようというのだ。毒ガスも用意された。下志津〈シモシヅ〉陸軍飛行学校からは、飛行機も参加するという。これらのほかに、地方の各師団からも同志の将校が陸続と馳せ参ずることになっていた。たとえば、〝兵火〟事件で知られる青森歩兵第五連隊付大岸頼好〈ヨリヨシ〉中尉などもひそかに部隊をぬけ出して東京にあった。上京将校のためにはホテルも用意された。海軍との連携も着々と進められた。このため橋欣〔橋本欣五郎〕みずから霞ケ浦海軍航空隊に司令の小林省三郎〈セイザブロウ〉海軍少将を訪問、爆撃機の出動を要請している。
 一方、大川ら民間側に対しては特殊の任務を分担させた。それはもっぱら言論機関の占拠にあったようだ。目標は東京日日、東京朝日、時事、報知、国民、読売の各新聞社と中央放送局。特に東京日日と東京朝日に主力をおき、大川一派が見学と称して両社の偵察に行っている。彼ら一派は、決起と同時に革命本部からつけられた部隊の指揮官となって、言論機関を握ろうというにあった。【以下、次回】

 大岸頼好の「兵火事件」については未詳。なお大岸は、「兵火」と題する印刷物を発行していたようだ。

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「ヤミに消えた錦旗革命」について(石橋恒喜)

2021-02-11 01:23:09 | コラムと名言

◎「ヤミに消えた錦旗革命」について(石橋恒喜)

 石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の紹介に戻る。本日以降、同書の上巻から、「錦旗革命」関係の記述を、何回かに分けて紹介してみたい。
「錦旗革命」とは、一九三一年(昭和六)一〇月に起きたクーデター未遂事件で、今日では「十月事件」と呼ばれることが多い。
 本日、紹介するのは、上巻の「六 独走する関東軍」の章の最後の節、すなわち、〝「錦旗革命」陰謀発覚〟の節である。

 「錦旗革命」陰謀発覚
 十月十七日の払暁、私は非常呼集の電報でたたき起こされた。参謀本部の中堅将校による大クーデターの陰媒が発覚、首謀者は今暁いっせいに検挙されたというのだ。この日は国祭日〈コクサイジツ〉の神嘗祭〈カンナメサイ〉。社会部員は懇親旅行のため前日から千葉県の佐原へ出かけていて、私は留守番役。のんびり家庭サービスをすることになっていた。大クーデター計画とは、寝耳に水のオドロキだ。あわてて三宅坂へ車を飛ばした。
 すると、陸軍省も陸相官邸も、憲兵が右往左往している。たちまち門前でつかまった。部外者は立ち入り禁止だという。顔見知りの門衛が記者クラブ員であることを証明してくれたので、ようやく無罪放免。すぐ新聞班へ駆けつけた。
「逮捕されたのはだれとだれか……」
 居並ぶ将校たちに聞いてみたが、一同ニヤニヤしているだけで、さっばり手ごたえがない。ベソをかいた私の顔を見て同情してくれたのか、班員の大久保弘一大尉が耳打ちしてくれた。
「参本の露班(ロシア班)と支那班をのぞいてみたまえ……」
 すぐ参謀本部へ足を向けた。ドアを押して入ると、室内はガランとしている。たった一人、砲兵大尉の将校がたばこをくゆらせていた。
「逮捕されたのはだれとだれか……」
 ここでも同じ愚問を繰り返したが、大尉は撫然【ぶぜん】たる面持ちで取り合ってくれない。私はしつこく食い下がった。とうとう大尉も手を焼いたのか、部屋の片すみにある湯のみ茶わん置き場を指さした。 
「あの茶わんを調べてみたまえ。伏せてある茶わんが事件関係の方たちのものだ」
 これはうまいヒントを与えてくれたものだ。なぜかというのに、そのころ参謀本部員たちの湯のみ茶わんは、すし屋で使っているような無骨なもの。それには「〇〇少佐」とか「××大尉」といったように、専用者の名前が焼き込まれていたからだ。まさしく地獄で仏に会った思いである。この親切な大尉の顔はいまでも忘れられない。が、つい名前を失念してしまったのは残念である。
 これで手がかりはつかんだ。こうなると事件の概要はだんだん分かってくる。逮捕されたのは、ロシア班長の橋本欣五郎中佐、支那班長の根本博中佐をはじめ、北京公使館付武官補佐官の長勇〈チョウ・イサム〉少佐、参謀本部の馬奈木敬信〈マナキ・タカノブ〉(少佐)、同・影佐禎昭〈カゲサ・サダアキ〉(少佐)、同・藤塚止戈夫〈フジツカ・シカオ〉(少佐)、同・和知鷹二〈ワチ・タカジ〉(少佐)、同・小原重孝〈オバラ・シゲタカ〉(大尉)、同・田中弥〈ワタル〉(大尉)、同・天野勇(中尉)と陸軍技術本部の山口一太郎大尉、近衛歩兵連隊付野田又雄〈マタオ〉中尉ら十余名。山口は東大理学部出身の技術将校で、本庄〔繁〕関東軍司令官の女婿であるという。
 私はすぐ自動車を大森の橋本宅へ飛ばしたが、玄関はくぎづけになっていて、人の気配はない。それにびっくりしたのは、中堅将校でありながら、住まいの極めて質素だったこと。おそらくクーデター計画に打ち込んで、家庭をかえりみるいとまもなかったらしい。私は再び陸軍省へ取って返して、省内を駆け回った。桜会の代表で、調査班長の坂田義朗〈ヨシロウ〉の部屋ではねばりにねばった。人のよい中佐は、とうとう音を上げてしまった。
「橋本中佐はわしや樋口中佐(季一郎)をダラ幹扱いしていたので、くわしいことは知らないよ。わしもうち(調査班)の田中大尉(清)からのまた聞きに過ぎないからね……」
 そこで、革命計画の概要を聞けば聞くほど、大規模なのには慄然【りつぜん】とした。もしも、これが決行されていたとすればどうなったか。まさしく屍【しかばね】の山、血の海―身の毛もよだつ惨劇が演じられたであろうことは間違いがない。われわれ記者クラブでは、これを〝錦旗革命〟(十月事件)と呼んだ。
 軍当局が狼狽【ろうばい】したことはいうまでもない。新聞報道は「永遠に差し止め」だという。都合の悪い問題は国民に知らせまいという魂胆である。ロシア班の金庫の中に隠されていた革命計画書や連判状は、焼き捨てられた。これで未曽有の陰謀も、ヤミからヤミへ葬り去られたのである。では、〝ヤミに消えた錦旗革命〟とはどんな事件だったのか。

 ここまでが、「六 独走する関東軍」の章。次回以降は、「七 不発に終わった錦旗革命」の章を紹介する。

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老練なバス運転士を優遇されたい(宮本晃男)

2021-02-10 05:52:59 | コラムと名言

◎老練なバス運転士を優遇されたい(宮本晃男)

 昨日は、『自動車の実務』第二巻第一号(一九五二年一月)から、宮本晃男のエッセイ「九州の旅で」というエッセイを紹介した。本日は、そのエッセイについての雑感である。
 宮本晃男が乗った、山鹿発、熊本行きのバスには、ハンドブレーキ(サイドブレーキ)がなかったという。「ボロボロ車」どころの話ではない。完全な欠陥車である。
 敗戦直後は、こんな欠陥バスが、超満員の乗客を乗せて走るという現実が、全国どこにでも存在したということだろう。
 一九四七年(昭和二二)九月、高知県長岡郡大杉村で、バスが死傷事故を起こした。このバスには、巡業中の美空ひばり(当時、一〇歳)が、母親とともに乗車していた。この事故で彼女は、手首を切る重傷を負い、一週間ほど入院したという。このときのバスも、おそらくは代用燃料車であり、しかも、相当なボロバスだったと推定される。
 さて、最初に宮本のエッセイを読んだとき私は、そこに登場する老練運転士の「ワザ」に注目した。『ワザと身体の民俗学』(批評社、二〇〇八)の「あとがき」で、このエッセイを引用したのも、この運転士の「ワザ」を強調したかったからであった。
 しかし、いま改めて、このエッセイを読んでみて、筆者の宮本晃男が言いたかったことに、初めて気づいた。筆者は、敗戦直後、九州の老練運転士が示した「ワザ」を引き合いに出しながら、バス会社の経営者に向かって、「老練な、運転技術の一芸に通じた老練な運転士を優遇されるよう」訴えようとしたのである。
 ちなみに、このエッセイの載った『自動車の実務』第二巻第一号の全体に目を通してみると、「昭和26年はバス業界にとっては」、「多数の人命を損傷させた大事故を度々引き起こして社会的に非難を受けた年」であった旨の記事がある(一九ページ)。また、「賃金競走〔ママ〕は運転者の素質を低下する」というタイトルで、運転士の賃金切り下げ競争がおこなわれていることを批判する記事も載っている(四七ページ)。
 おそらく宮本は、運輸省技官という立場上、バスの経営者が「経験が浅くて給料の安い運転士」を使いたがり、そのことによって、「重大事故で数千万円と金に代えられぬ貴重な人命をそまつにする」事態が生じていることを把握していたのではあるまいか。
 なお、一説によれば(インターネット情報)、美空ひばりが乗ったバスの運転士は、事故の直前、わき見をしていたために、前から来たトラックを避けきれなかったという。この運転士の年齢や運転歴を知りたいところである。
 明日は、石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の紹介に戻る。

*このブログの人気記事 2021・2・10(8・9・10位に珍しいものが入っています)

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宮本晃男、九州でボロボロの民営バスに乗る(1946)

2021-02-09 05:24:57 | コラムと名言

◎宮本晃男、九州でボロボロの民営バスに乗る(1946)

 以前、『ワザと身体の民俗学』(批評社、二〇〇八)という資料集を編集したとき、その「あとがき」で、宮本晃男(てるお)の「九州の旅で」というエッセイを引用したことがある。
『自動車の実務』という専門誌の第二巻第一号(一九五二年一月)に乗っていたエッセイだったが、その後は、しばらく読み直す機会がなかった。
 今年になって、片付けをしていたところ、その雑誌が出てきた。十数年ぶりに読んでみて、改めて名文だと思った。本日は、このエッセイを紹介してみたい。

  九 州 の 旅 で   宮 本 晃 男

 終戦の翌年だつた。酷使されて弱り切つたバスを、できるだけ手入してあふれるような旅客を、安全に運ばせたいと、国鉄バスの整備清掃月間が全国の鉄道局一せいに催された。
 優秀な営業所には運輸大臣賞を授与することになり、新米の筆者は審査員長として最も遠方の九鉄管内を一巡することになり、外食券や米袋を背にして、戦前4時間余で飛んで行つた九州え超満員の夜汽車でゆられながら旅立つた。
 各営業所(当時は自動車区といっていた)とも熱心な整備清掃ぶりではあつたが、何分雑帛にする布も、石鹸も、洗油も、塗料も、部分品も、工具類も、みんなないものづくめなので、しみじみ敗戦の苦しさと、戦禍の大きさに考え入ることが多かつた。
 国営バスを見るのが主目的ではあつたが、この機会に民営バスの状況も把握しておこうと、一日〈イチジツ〉わざわざ切符を買つて山鹿〈ヤマガ〉発のバスを待つた。
 車掌に案内された熊本行のバスは、よくもこれまで傷んだものと思われるくらい満身創痍のバスであつた。
 ガラスのない窓、屋根には機統掃射のたまのあと、ラッカーはまだらに残つて、中のご粉〔胡粉〕が見えている。
 ヘッドランプは片方だけついている。テールランプはあるが赤いガラスがない。
 タイヤはきずだらけで、トレツドは減つて中のコード層がむき出しになつていた。
 車内に入つてみて二度びつくりした。座席の内張りは靴ミガキのブラシになつてしまつたのかばねがはみ出しほうだい、床にはところどころ穴があつて地面が見えた。
 私は運転の具合も見たかつたので運転席の橫のシ一トに腰を下した。
 ほこりとあせにまみれ、ひぢに穴があき肩にもつぎのあたつた上衣にもんぺをはいた17,8才の娘車掌の合図でこのたよりないバスは定員の三倍近い超満員の客を乗せて走りだした。
 お召し列車のようにいつ走り出したかわからなかつた。代燃車で力がないから静に出ないとエンジンストツプするからなのかと思いながら運転士を見た。
 戦闘帽に、よれよれの国民服を着た五十を過ぎたやせたおやぢさんだつた。
 計器盤に目をやると車は走つているのにスピードメーターは動かぬ、油圧計は針もガラスもなくこわれている。
 水温計ももちろろんこわれつばなし、アンメーターはガラスはないが曲つた針だけが時々動いていた。
 方向指示器はこわれつばなし、警音器は虫の鳴くようにかすかになることも ある。
 ハンドブレーキはどこえもつて行つたものか全然ない。
 変速テコは(日産バス)ギヤが抜けるので運転士が左足引かけて押えたまゝ走つている。
 全く危険千萬だ。しかし乗つてしまつたことだし、あぶないようなら思い切つて注意してやろうと運転士と前方とを見守つた。
 スピードは大分速く、38粁/時くらいで走り続ける。道はいたみつばなしだ、その凸凹 を私がここは右え、左えと思う通りに避けてハンドルを切る。
 そして速すぎず、遅すぎず、あそこを通ればと思うところを通り抜ける。
 あれ、この運転士は私の気持ちを知つているのかしら、と不思議に思つてきた。
 こんなボロボロ車で、どうしてこんなに超満員でスピードが早く、乗心地よく走れるのだろう。
 この運転士はどんな性質のどんな経歴の人だろう。お客も安心して気持よさそうに乗つている。車掌も楽々と超満員のお客をさばいている。
 私はとうとう安心し切つて居眠りまでしてしまつた。
 三時間余のドライブで無事熊本終点についた。私は乗客が降り終るのをまつて、運転士の肩をたたき、失礼ですがあなたは何年くらい自動車をおやりですかと聞いた。
 運転士ばふしぎそうに、私の顔を見ながら、おはずかしいですが三十二年ばかりやつてますよ、と微笑した。
 私は名刺を出し、私も二十年近く運転をしましたが、さすがにあなたは先輩ですね、あんなボロ自動車を上手に運転なさるので私は本当に感心しました。
 どうぞ元気で続けて下さい。毎日多ぜいの人たちを無事に運ぶ事は大切な仕事ですからねと挨拶して別れた。
 私は今でもあの運転士が生みだすあのバスの中の雰囲気、乗心地、あれも運転士のつくりだす芸の一つだと思つた。
 バスの経営者がとかく年齢の若い、家族手当の少ない、しかも経験が浅くて給料の安い運転士を使いたがる間違いを反省し、重大事故で数千万円と金に代えられぬ貴重な人命をそまつにする愚を繰返すことなく、老練な、運転技術の一芸に通じた老練な運転士を優遇されるようバスに乗るごとに願つている。
 これは乗合自動車事故防止の賢明な一方法でもあるから……

 終戦の翌年というから、一九四六年(昭和二一)の話である。バスは、いわゆる「代燃車」(代用燃料車)で、燃料は薪だったと思われる。当時の宮本晃男の肩書きは不明だが、たぶん、運輸省鉄道総局所属の運輸技官で、国営バスを担当していたのであろう。
 文中、「雑帛」とあるのは、原文のまま。あるいは「雑巾」のことか。
 このエッセイについてのコメントは、次回。

*このブログの人気記事 2021・2・9(10位の「絞首」は久しぶり)

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