礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

秩父宮は「反逆の皇子」だったのか

2021-02-08 02:45:44 | コラムと名言

◎秩父宮は「反逆の皇子」だったのか

 石橋恒喜『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、「三 要注意青年将校の出現」の章を紹介している。本日は、その三回目(最後)で、「秩父宮に近づく」の節、および「秩父宮は〝反逆の皇子〟だったか」の節を紹介する。

 秩父宮に近づく
 また、彼〔西田税〕の手記によると、翌二十二日〔大正十年七月二十二日〕にも御付武官・厚東篤太郎〈コウトウ・トクタロウ〉らの目を盗み、「宮を擁して論争を敢てした」と述べている。その際、〔秩父宮〕殿下から「日本の無産階級は果たしていかなる思想状態にあるか」とのおたずねがあったとのことだ。これに対して彼の答えは、あらまし左のような意味のものであったと記している。
「わが国のいはゆる無産労働階級は、極度にしいたげられて、その生活すでに死線を越える奴隸の位置にあり、それは国民の大多数なるとともに、彼らは一部少数の特権階級資本家等のために天皇のご恩沢に浴し得ざる窮状に沈淪【ちんりん】している……日本改造すべくんば天皇の一令によらざるベからず……さらにこの明白なるを見る。天皇は国際的無産労働階級たる日本の首領にあらずや。国民の大多数を占むる無産労働階級と天皇とは離るベからざる霊肉の関係にあるもの。そが敵は日本を毒する外国と国内に巣くへる特権階級資本家どもなり……」
 そして、殿下は「余は境遇やむを得ず。漸次下層社会の事情に疎遠を来すに至る。必ず卿らはしばしば報ぜよ」とおっしゃったと書いている。
 七月二十八日、秩父宮は陸士をご卒業、東京麻布の歩兵第三連隊へ赴任された。連隊長は武川寿輔〈ムカワ・ジュスケ〉で、第六中隊へ配属された。この六中隊はのちの二・二六事件に際し、安藤輝三の指揮下に反乱の主力となった部隊だ。

 秩父宮は〝反逆の皇子〟だったか
 それでは、秩父宮は果たして〝反逆の皇子〟であったのだろうか。これについては、筆者の到底うかがい知るところではない。ここでは側近に奉仕した二人の「日記」を紹介して、読者の判断にまかせることとする。まず第一は、二・二六事件当時、侍従武官長だった本庄繁の「本庄日記」だ。日記は次のようにいう――
「当時(昭和六年末より同七年の初頭)は満州事変勃発に伴ひ、国内の空気自然殺気を帯び、十月事件の発生を見る等特に軍部青年将校の意気熱調を呈し来れる折柄、或日、秩父宮殿下参内、
 陛下に御対談遊ばされ、切りに〈シキリニ〉陛下の御親政の必要を説かれ、要すれば憲法の停止も亦止むを得ずと激せられ、陛下との間に相当激論あらせられし趣なるが、其の後にて
 陛下は侍従長に、祖宗の威徳を傷つくるが如きことは自分の到底同意し得ざる処、親政といふも、自分は憲法の命ずる処により、現に大綱を把持して大政を総攬せり。之れ以上、何を為すべき。又憲法の停止の如きは明治大帝の創制せられたる処のものを破壊するものにして、断じて不可なりと信ずと漏らされたりと。誠に恐懼の次第なり」
 いま一つは、当時、宗秩寮〈ソウチツリョウ〉総裁兼内大臣秘書官長だった木戸幸一の「木戸日記」だ。それにも天皇のお言葉として興味深い一文が記されている(二・二六事件さ中の昭和十一年二月二十八日の部)――
「……各皇族の御態度につき広幡〔忠隆〕(侍従次長)に御感想を御漏〈オモラシ〉になり、参考に総裁〔木戸幸一〕にも伝へよとのことなりしと。
 高松宮が一番御宜しい。秩父宮は五・一五事件の時よりは余程お宜しくなられた。梨本宮〔守正王〕は泣かぬ許りにして御話であった。〔閑院宮〕春仁王は宜しい。朝香宮〔鳩彦王〕は大義名分は仰せになるが、尖鋭化して居られて宜しくない。東久邇宮〔稔彦王〕の方が御判りになってゐる」
 いずれにしても、殿下は兵士や庶民の悩みを自らの悩みとして受けとめられるお方であったように拝察する。従って歩兵三連隊内ではもちろんのこと、当時の新聞や国民の間の人気は絶大であった。確か昭和七年三月のことだったと記憶する。第一次上海事変で日本軍が苦戦に陥った時、東京第一師団の一部にも緊急出動命令が下った。歩兵第三連隊からは機関銃大隊が戦場へ馳せ向かうこととなった。「一部将校」のリーダーの菅波三郎中尉も出動部隊の一員であった。出動前夜、連隊内の大食堂で出動将兵に対する歓送会が開かれた。時の連隊長は巨漢の山下奉文〈トモユキ〉であった。
 私はこの模様を記事にするため、カメラマンと連隊を訪れた。殿下は徳利を片手に居並ぶ下士官兵の席を回りながら、〝からだに気をつけよ〟と、いちいち激励のお言葉をかけられていた。翌朝の新聞に、私の感激をぶっつけたこの記事が、大きく紙面を飾ったことは説明するまでもなかろう。
 また、同年九月、殿下は参謀本部第一部第二課勤務を命じられて、三宅坂へ通勤されることとなった。そして、昼休みになると陸軍省内馬場で乗馬の訓練にいそしむのを日課とされていた。私はいつも馬場の柵に寄りかかってこれを拝見していたが、色のあせた着古した軍服を召された謙虚な態度――もし一般の国民がこの場に居合わせたとしたら、誰も〝お直宮〟とは気づかなかったのではないだろうか。進級に際しても皇族として待別扱いされることを非常に嫌われて〝同期生並みにせよ〟と抜擢【ばつてき】進級を拒否されていたことも有名である。

 この章は、このあとに、「幻の天剣党事件」、「震撼! 兵火事件」、〝海軍急進士官と「王師会」〟の三節があるが、いずれも割愛。
 明日は、いったん、話題を変える。

今日の名言 2021・2・8

◎憲法の停止の如きは明治大帝の創制せられたる処のものを破壊するものにして、断じて不可なりと信ず

 昭和天皇が本庄繁侍従長に語った言葉。「本庄日記」によるという。上記コラム参照。

◎このブログの人気記事 2021・2・8(8位に珍しいものが入っています)

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日本国民一人の所有し得べき財産限度を三百万円とす

2021-02-07 06:26:49 | コラムと名言

◎日本国民一人の所有し得べき財産限度を三百万円とす

 石橋恒喜『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、「三 要注意青年将校の出現」の章を紹介している。本日は、その二回目。

 西田、北一輝へ傾倒
 〔大正十年〕六月十九日、西田〔税〕は卒業試験のため帰校した。その夜、福永〔憲〕から手渡された日本改造法案を貪るように読みふけった。そして、法案の持つ魅力にとりつかれてしまったのだ。
「――猶存社が具体案として有する此の改造法案こそ吾等一同が魂の戦ひに立つベき最後の日の武器なりと信じて居るのだ。げにそは大川(周明)氏の言ふ如く、日本が有する唯一なる日本精神の体現であり、唯一の改造思想であり、然して同時に世界に誇るべき思想であるのだ」(西田自伝)
 と激賞する。この瞬間、彼と改造法案との結びつきは、もはや離れ難いものとなったのだ。
 ここで改造法案のあらましを説明すると、北〔一輝〕はその著作の中で次のように述べている。
「国民の天皇――天皇は全日本国民と共に国家改造の根基を定めんが為めに天皇大権の発動によって三年間憲法を停止し両院を解散し全国に戒厳令を布く」
「華族制廃止――華族制を廃止し天皇と国民とを阻隔し来れる藩屛を撤去して明治維新の精神を明にする」
「普通選挙――二十五歳以上の男子は大日本国民たる権利に於て平等普通に衆議院議員の被選挙権及び選挙権を有す」
「国民自由の恢復――従来国民の自由を拘束して憲法の精神を毀損せる諸法律を廃止す。文官任用令。治安警察法。新聞紙条例。出版法等」
「国家改造内閣――戒厳令施行中現時の各省の外に下掲の生産的各省を設け更に無任所大臣数名を置きて国家改造内閣を組織す。改造内閣は従来の軍閥吏閥財閥党閥の人々を斥けて全国民より広く偉器を選びて此任に当たらしむ」
「皇室財産の国家下附――天皇は親ら範を示して皇室所有の土地山林株券を国家に下附す」
「私有財産限度――日本国民一人の所有し得べき財産限度を三百万円とす」
 その他、「私有地の限度」「大資本の国家統一」「労働者の権利」「国民の生活権利」「植民地問題」などを規定している。
 要するに法案の示すところは、政治機構では天皇の親政による民主制をとり、経済組織では私人の企業、財産に制限を加えている。そして、国家革新遂行のためにはクーデターの断行を認め、戒厳令を施行して一挙に現政治体制を打倒しようというにある。
〝赤〟というとおぞけをふるっていた軍当局が、この法案を〝右翼の仮面を冠った共産主義革命理論〟と断じていたことは、いずれ二・二六事件の項で詳述する。三月事件から二・二六にいたるまでの不穏事件は、大なり小なりこの著作の影響を受けていることは事実である。北一輝は、やはり〝魔王〟であったのだ。
 六月二十六日、士官学校では秩父宮家創立祝賀会が催された。この夜、西田は殿下から「君、酒はいけるだらう。しかし病後だからよく気をつけ給へ」(西田手記)とのお言葉を賜わった。彼は感激した。これについて彼は、
「――常にかしこき御言葉を拝して居た光栄にまして、感涙の頰を下るを禁じ得なかった」
 と、その手記の中で述べている。かくて七月二十一日の夕刻、西田を中心とした宮本〔進〕、福永らの同志は、秩父宮と秘密会合を持つことに成功。そのさい福永の浄書した日本改造法案や支那革命外史を差し上げた。彼はこの時の喜びを「台上最後の戦ひ」と題して次のように述べている――
「幾年の心願――そは秩父宮殿下に接近の大業である。然も至厳なる側近侍臣の警戒を突破して、革命日本建設を論諍し奉ることは決死的壮挙である。さり乍ら、何故に此壮挙を企図するのか――これ実に世の社会運動者と道を異にする所以である。余が多年思索の結果なる哲学的信仰は、その具現を天皇に見得た。二十四年の歩める道を顧るとき、天皇の国――大日本国の一人として出世の本道を真直ぐに(些も横に歩むことなく)、歩み来りし至幸を、降天至寵の恩遇と万謝せざるを得ぬのである。
 余は余の戦闘的精神――最高我を、日本国に於て天皇に求め得た。然もそは日本の外なる一切の人類に通ずべくある。(中略)
 げに革命といひ改造といふも、そは決して最高我の変更でない。そは良心の変更とも言ふべき妄想なるが故だ。又国家を否む者等は人生に戦闘的精神を見出し得ず、理想を設定することに余りに無謀低劣なる浅薄者共だ。げに国家とは戦闘的精神に生くる人類の最上なる力である。然して日本に於けるそが主宰は天皇である」(西田自伝、原文のまま)
 戦後の人びとにはいささか難解な文章だが、要するに当時(大正十三年)彼の提唱する〝大正維新〟あるいは〝昭和維新〟なるものはいわゆる「一君万民――天皇を奉ずる国家改造であって、直宮〈ジキミヤ〉たる秩父宮への思想的接近工作を行うことにより、間接に天皇との思想的な結びつきを図ろうとしたものと察せられる。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2021・2・7(9位に珍しいものが入っています)

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一部将校とはブラックリスト青年将校を指す

2021-02-06 04:50:07 | コラムと名言

◎一部将校とはブラックリスト青年将校を指す

 本日以降、石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、「三 要注意青年将校の出現」の章を、何回かに分けて紹介してみたい。

 将校生徒時代の西田税 
 次に話題を「一部将校」すなわち〝皇道派青年将校〟の動きに移す。
 一部将校というのはもともと憲兵用語で、ブラックリスト青年将校のことをさす。つまり〝国家革新〟などと不穏な動きを示すやからは、軍の中のほんの〝一部〟に過ぎない、というところから、この名称が生まれたものだ。たとえば、二・二六事件突発直後の陸軍省発表が「本日午前五時ごろ、一部青年将校等が左記箇所を襲撃せり」といっているのがこれである。
 さて、一部将校というと、どうしてもその〝原点〟として革命児・元騎兵少尉西田税〈ミツギ〉の名をあげなければなるまい。西田は明治三十四年十月、鳥取県米子市の生まれ。大正四年九月、県立米子中学から広島地方幼年学校へ入学。成績抜群。地方幼年学校の三か年をつねにトップで通して、校長生島駿以下教官の期待を一身に集めていたものだという。
 この機会に幼年学校なるものについて簡単に説明すると、この学校が創立されたのは明治二十八年の日清戦争直後のこと。ロシア、ドイツ、フランスなど三大国の圧力で、遼東半島を清国に還付しなければならなくなった時、ロシアへの復誓を誓ってつくられた幹部養成のための学校である。
 所在地は旧鎮台のあった東京、大阪、名古屋、仙台、広島、熊本の六ケ所。ここを卒業すると東京の中央幼年学校(陸士予科)で一年九か月、さらに隊忖六か月を経て、陸軍士官学校へ入学することとなっていた。西田の入学した広島校は、長州陸軍の本拠地山口県に隣接していたため、生徒の多くは同県の出身者。〝長州人でなければ人にあらず〟といった空気が校内にみなぎっていた。閥外で、しかも成績が群を抜いているとあっては、西田少年が彼ら一党から憎悪のマトとされたことはいうまでもない。長閥何するものぞ――西田の反骨精神はこの広幼時代につちかわれたといっていい。
 大正七年七月、首席で卒業した彼は、同年九月、牛込市ヶ谷台にあった東京中央幼年学校へ入学した。淳宮〈アツノミヤ〉(秩父宮〔擁仁親王〕)が新入生の一人であった。首席卒業の誇りに燃えていた彼は、当然、淳宮の〝御学友〟に選ばれるものと考えていた。だが、どうしたわけか、その期待はもののみごとに裏切られた。宮様は第三中隊第一区隊で、西田は第一中隊第一区隊に回された。西田の失望は大きかった。彼は当時の悶々【もんもん】の情を〝西田自伝〟「戦雲を麾【さしまね】く」の一節で次のようにもらしている。
「御学友たるの期待は俄然裏切られた。入校式の前日たる八月三十一日に至りて、突如変更せられ、余は殿下を第三中隊に拝しつつ第一中隊生徒舎に起居することになった。今もなほ当時の真相不明である。殿下区隊に余の姓名を誌せる机ありと入校当初同中隊の生徒たちからしばしば耳にしたが、余は早くも一縷の望を絶って、かつての如く魂の修練に心をそそいだ……そは時あたかも米騒動の直後であり天災――全囯にわたれる暴風雨の惨害、労働者の暴動に等しき罷工怠業等を眼のあたりに見、思想界の紛糾混沌は左右両派の衝突、淫蕩文弱の毒潮淫々として横流せる、一々心に応へるもののみであった」(ドキュメント日本人3反逆者から)。
 失意の彼は友を求めては談論風発、まず「世を慨き国を憂える」同志第一号として大阪幼年校出の福永憲を獲得、さらに宮本進らと親交を結んだ。「楊柳青く垂るる江河の岸に飲ふ〈ミズカウ〉馬賊を想ひ、広漠涯なかるべき満蒙の大原野に、報国一片の赤心に鞭つ暗中飛躍の志士に思ひを寄せては、二人(西田と福永)坐臥に堪へぬものがあったのである。余は『馬賊の唄』を作った。『日東男児蒙古行』を作った。そして二人は高唱した。同感の友は漸次にそれらを口吟しはじめた……」
 と書いているところからみると、当時、十七歳の西田少年は、まだ「国家革新」といったような思想的洗礼を受けていないで、もっぱら大陸雄飛の日を夢みていたらしい。原隊として、ことさら北朝鮮羅南の騎兵第二十七連隊を選んだのも、大陸へのあこがれのしからしめたところのように考えられる。
 大正九年三月、中央幼年学校を卒業すると士官候補生として羅南に在隊六か月。同年十月一日、陸士本科へ入学した。本科でも淳宮と同区隊といった望みはかなわず、中隊は同じ第一中隊でも、宮様は第一区隊、西田は第二区隊へ編入された。
 本科へ進学後の西田の動きは活発であった。〝アジア民族の解放〟を目ざして、そのための同志を糾合しようというにある。日曜日ともなると、福永、宮本らと慶大教授の鹿子木員信〈カノコギ・カズノブ〉、玄洋社の頭山満〈トウヤマ・ミツル〉、大陸浪人の川島浪速〈ナニワ〉といった面々を訪問しては、「大アジア主義」について教えを乞うた。そして、同年秋、ひそかに「青年アジア同盟」を結成、校内に檄を飛ばして実践運動に乗り出した。拓大 教授の満川亀太郎〈ミツカワ・カメタロウ〉らを知ったのもそのころである。
 当時、満川は大川周明〈シュウメイ〉、鹿子木員信、安岡正篤〈マサヒロ〉、笠木良明〈カサギ・ヨシアキ〉らとともに「猶存社〈ユウゾンシャ〉」を結成して、「アジア民族解放の戦い」を「日本国家改造の戦い」と結びつけようとしていた。
 満川は猶存社の発足とともに大川を上海に派遣して、当時支那革命に参画していた北一輝〈キタ・イッキ〉の帰国をうながした。「日本が革命になる。支那よりも日本が危いから帰国しろ」というにあった。北は快諾した。そして、「本国の革命指導者のために、革命日本の骨格略図を示そう」といって書き上げたのが「国家改造案原理大綱」(日本改造法案大綱)であった。大川はこれを一読して賛嘆し、猶存社の企図する国家改造の指計とすることを誓ったのであった。
 一方、西田の「青年アジア同盟」は着々と実を結んで、下級生にも強力な影響を及ぼしてきた。だが、才子多病。大正十年二月には胸膜炎と診断されて、陸軍病院へ入院を余儀なくされた。
 ある日曜日のことだった。同志の宮本が西田の病床を訪れて、同人らが猶存社を訪問したてんまつを語った。そして、「真に頼むべきは猶存社ではなかろうか」と力説して、帰りぎわに満川から借りた北一輝著「支那革命外史」を枕頭に置いていった。
 西田はこれを繰り返し繰り返し読みふけった。彼が「手記」の中で、
「爾来一週日、余は魅入らるる如く北氏の書を読んだ。眼界が殊に明るくなる如く覚えた。然して是れこそげに天下第一の書なりと思った」
 と述べているのから察すると、よほど心を打たれたものらしい。アジア民族の解放から国家革新運動へ……彼の思想は大きく転換し始めたのである。
 四月末、退院を許された西田は帰省を前にして猶存社に北を訪れた。しかし、この革命家どもの初めての対面は、さほど〝劇的〟といえるものではなかったようだ。これについて手記の中でも、
「猶存社に北氏と会見した。支那革命外史一巻の寄贈をうけ三時間あまり懇談ののち辞去した」
 と、あっさり片づけている。
 そこで、北一輝についてだが、彼に関しては余りにも知られ過ぎているので、ここでは簡単に触れておくこととする。彼の本名は輝次郎〈テルジロウ〉。明治十六年佐渡ケ島の産。二十歳の時、病気のため右眼を失明したが、これにひるまず、ひたすら社会科学の探求に没頭。弱冠二十四歳で独創的な国史観にもとづく「国体論及純正社会主義」の大著を発表した。これを読んで、当時、思想界のリーダーだった河上肇、福田徳三、片山潜〈セン〉、堺利彦、荒畑寒村〈カンソン〉、矢野竜渓〈リュウケイ〉らは〝天才の著作〟とほめたたえたという。 しかし、時の政府はすぐさまこれを発売禁止処分に付した。その後、中国革命に参画して「支那革命および日本外交革命」を出版。大正八年、上海の宿舎にあって「ヴェルサイユ会議の最高判決」を執筆。これを猶存社の満川に送ったのが動機となって、猶存社に迎えられたことはすでに説明した。丹下左膳の作者林不忘(長谷川海太郎)の父は北が中学生時代の学校長。林は北が隻眼ながら眉目秀麗、人を魅する魔力を持っているところに目をつけて、彼をモデルに「丹下左膳」をものしたものといわれる。
 話を再び西田の動きに戻す。
 西田が郷里で病気の療養につとめている留守中も市ケ谷台における同志の動きは活発であった。猶存社から〝革命の指針〟として秘密出版された「日本改造法案」は福永の手によって校内に持ちこまれた。若い将校生徒たちは、改造法案の行間に流れる魔力に胸をワクワクさせながら読みふけったものである。【以下、次回】

 ここまでが、「将校生徒時代の西田税」の節である。なお、「将校生徒」とは、陸軍幼年学校の生徒ないし陸軍士官学校予科(のちに「陸軍予科士官学校」)の生徒を指す言葉である。また、文中、「市ヶ谷台」、「市ケ谷台」の表記は、原文のまま。

*このブログの人気記事 2021・2・6(なぜか穂積八束が2位)

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私はもっぱら沈黙を守り続けた(石橋恒喜)

2021-02-05 03:26:38 | コラムと名言

◎私はもっぱら沈黙を守り続けた(石橋恒喜)

 本年に入ってから、石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)という本を紹介した。著者の石橋恒喜(一九〇三~一九九四)については、ほとんど予備知識を持っていなかったが、この本のカバーに、その略歴が載っている。
 また、本書下巻の末尾にある「あとがき」には、著者の自己紹介的な記述も、多少、含まれている。本日は、これらを紹介してみよう。

石 橋 恒 喜【いしばしつねよし】
明治36年3月、千葉県生まれ。大正14年東京外語大卒業。昭和3年東京日日新聞入社。十 余年間にわたって陸軍省詰を担当。主として軍部をめぐる〝国家革新運動〟の取材に当た る。その間満州事変に従軍。同12年支那事変で北京特派員として徳川航空兵団に従軍。同13年社会部副部長。同15年旧蘭印バタビア支局長から帰国後、東京日日南方課長兼調査室幹事。同17年毎日新聞ジャカルタ(バタビア)支局長兼南方総軍報道部嘱託を命じられ、南方第一線の報道にあたる。同19年3月満蒙三国政府合弁龍烟(りゅうえん)鉄鉱株式会社に出向、東京弁事室長となる。同24年日本新聞協会審査室長となりマスコミ倫理懇談会、放送番組向上委員会、新聞即売委員会倫理化審議委員会等の設立に参画してマスコミ倫理運動の普及徹底につとめ、かたわら各誌にマスコミ問題評論を連載執筆。現在、評論家。日本記者クラブ会会員。更生省中央児童福祉審議会専門委員、東京家庭裁判所調停委員、東京 都青少年問題協議会委員等を歴任。

  あ と が き

 私の記者生活は、きわめて偏ったものであった。数年間の外信部記者と海外特派員勤務を除いては、十余年間を陸軍省詰めで終始したのである。その間、陸軍は、〝激動日本〟の「台風の目」であった。〝体制保守派〟へ向けての、血なまぐさい事件があい次いで突発した。なかでも忘れ難いのは、血に彩られた二・二六事件であろう。この事件は余りにも悲惨である。思い出すだに胸が痛む。事件から四十余年、私はもっぱら沈黙を守り続けた。
 たまたま昭和四十九年二月、かつて私が軍事記者として勤務した毎日新聞社から、「松岡英夫対談、この人と」の欄で〝軍の内側から見た二・二六事件秘話を語れ〟との注文があった。いささかためらいを感じたものの、〝もう話してもよかろう〟と考えた末、当時の「記者手帳」を繰りながら、三日間にわたって松岡氏と対談した。この記事は、約一カ月近くにわたって毎日新聞紙上に連載された。そして、幸いにも好評だった。事件前夜に、〝あすあたり不穏事件が起こるかも知れない〟と予報して、〝バカな!〟と社会部長から一蹴された話とか、「陸軍大臣告辞」、「昭和維新大詔渙発問題」のからくり、あるいは「謎の宮城坂下門占拠事件」など、数々の秘話が語られているというにあった。
 この連載が終わると同時に、桶谷繁雄氏の主宰する「月曜評論」から、「松岡対談」を中心として、陸軍記者の思い出を書いて欲しいとの申し出があった。が、そのころ私は、東京家庭裁判所調停委員の仕事に追われていたので、一応お断わりした。ところが、再度、桶谷氏から〝思ったことを何でも自由に書いてよろしいから……〟との寛大なお話しがあったので快く承諾した。「わが記者生活から見た昭和裏面史」と題して、ペンを執り始めたのが昭和五十年の二月だった。しかし、作業はしばしば停滞した。何分にも資料は、乱雑に書きなぐった「メモ」である。判読に苦しむものが多かった。そのころメモの整理を手伝ってくれていた愚妻が発病した。不治のガンである。病魔と苦悶する枕頭にあっての執筆生活は、身を切られるようにつらかった。何度か筆を投げようと考えたこともあった。
 このようにして、ようやく連載が終わったのは三年九カ月目の五十三年九月のこと。四百字詰め原稿用紙で約千二百枚に及ぶ長編となってしまった。よくも長い間、自由に執筆を許してくれたものだ。桶谷氏の寛容な態度には、心から感謝に堪えない。この拙文を、補筆訂正、あるいは削除したのがこの書である。
 もともと私は一介の社会部記者であって、学者ではない。従って、軍部内に燃えさかった「国家改造運動」を、分析しようなどとは、最初から考えていなかった。ただ、当時、新聞報道を禁止されていた,〝ニュース〟を、「記者手帳」の中から抜き書きするにとどめた。
 戦後、若い学者や作家や評論家の書いた軍の革新運動の記録は、〝二・二六産業〟と言われるほどおびただしいものがある。が、それらは怪文書や一方的な伝聞によっているだけに、無責任な事実誤認を犯していると言ってよい。私は陸軍省担当の社会部記者では最古参だったがために、省部(陸軍省、参謀本部)の統制派系幕僚や隊付の皇道派系〝一部青年将校〟の間を飛び回っては、対立する両派の行動や見解を目にし耳にする自由があった。たとえば、統制派では、同派の理論家、池田純久少佐(陸軍パンフレットの執筆者、のちに中将、内閣綜合計画局長官)、景山誠一主計(のちに大佐、陸軍省軍務局軍務課経済主任)ら、一方、一部将校グループでは、歩兵第一連隊の山口一太郎、戸山学校の柴有時両大尉らは、新聞記者対軍人の立場を離れて秘密情報をもらしてくれた。それだけにこの記述に当たっては、出来るだけ中正公平な立場をとって、客観的に事実を事実として描写することにつとめた。北一輝、西田税両氏の〝首魁〟事件の報道については、あえて自らの恥を暴露した。軍の圧力に屈した私の懺悔録ともいうべきものである。
 なお、二・二六事件の記録は、主として戒厳情報参謀・松村秀逸少佐(のちに少将、大本営報道部長)のブリーフィングなどを、丹念に記録したものである。昭和暗黒時代の裏面史として、ご参考になれば幸いである。
 
 昭和五十四年一月           石 橋 恒 喜

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神を信ずる心をとり返さねばなりません(折口信夫)

2021-02-04 00:48:46 | コラムと名言

◎神を信ずる心をとり返さねばなりません(折口信夫)

 民俗学研究所編『民俗学の話』(共同出版社、一九四九年六月)から、折口信夫の「神道の新しい方向」というエッセイを紹介している。
 本日は、その五回目(最後)。【 】内は、原ルビ、または傍点を示す。

 たゞいまになって、そう考えるのです。それはこういうことです。
 日本の信仰の中には、他国に多少その要素があっても、日本的にまた世界的にも、特殊であり、すべてに宗教から自由なものといっていいもののあることです。
 それは、高皇産霊神・神皇産霊神といっている――、あの産霊神の信仰です。字は、産むの「産」、「たましい」の霊で、魂を産むというふうに宛てられていますが――、神自身の信仰はそうでなく、生きる力を持つた体中へ、魂をば植えつける、あるいは生命のない物質の中へ魂をば入れる――、そうすると魂が発育するとともに、それを容れている物質が、だんだん育って来る。物質も膨れて来る。魂も発育して来るというふうに、両方とも成長してまいります。その一番完全なものが、神それから、人間となった。それの不完全な、物質的な現れの、もっとも著しく、強力に示したものが、国土あるいは島だ、と古代人は考えました。それが日本の大昔の神話に現れている、大八州国のできたといふ物語り、あるいは神々が生れたという物語りです。
 つまり神によって躰の中に結合せられた魂が、だんだん発育して来る、それとともに物質なり肉体なりが、また同時に成長して来る、その聖なる技術を行う神が、つまり高皇産霊神・神皇産霊神、即むすび【、、、】の神であります。つまり霊魂を与えるとともに、肉体と霊魂の間に、生命を生じさせる、そういう力を持った神の信仰を、神道教の出発点に持っております。それで考え易い誤りがあって、日本は昔から、その産霊神をば、祖先として考えている家々もありました。
 おなじ考え方からして、古代の書物に、これを宮廷の祖先というふうにも考えているのです。
 皇祖とか祖宗とか書いてあります神の中には、この高皇産霊神・神皇産霊神たちを申しておる例も多いのです。しかしよく考えますと、魂を植えつけた神で、人間神ではないのです。しかし日本人は、そういう神々を祖先として感じ易かった。その論理の筋はわかります。
 いまにいたるまで、日本人は、信仰的に関係の深い神を、すぐさま祖先というふうに考え勝ちであります。その考えのために、祖先でない神を祖先とした例が、過去にはうんとあるのです。高皇産霊神・神皇産霊神も、人間としての日本人の祖先でありようわけはないのです。つまり、人間の魂を――肉躰を成長させ、発育さした生命の本になるものを植えつけたと考えられた神なのであります。
 われわれはまず、産霊神を祖先として感ずることを止めなければなりません。宗教の神を、われわれ人間の祖先であるというふうに考えるのは、神道教を誤謬に導くものです。それからして、宗教と関係の薄い特殊な倫理観をすら導き込むようになったのです。だからまずその最初の難点であるところの、これらの大きな神々をば、われわれの人間系図の中から引離して、系図以外に独立した宗教上の神として考えるのが、至当だと思います。そうしてその神によって、われわれの心身がかく発育して来た。われわれの神話の上では、われわれの住んでいるこの土地も、われわれの眺める山川草木も、総てこの神が、それぞれ、適当な霊魂を附与したのが、発育して来て、国土として生き、草木として生き、山川として成長して来た。人間・動物・地理地物みな生命を完了しているのだということをば、もう一度、新しい立場から信じ直さなければならないと思います。つまりわれわれの知識の復活が、まず必要なのです。
 神道教は要するに、この高皇産霊神・神皇産霊神を中心とした宗教神の筋目の上に、さらに考えを進めて行かなければなりませぬ。
その用意もすでに、だいたいできております。それが久しい神道学の準備せられた効果なのです。たゞわれわれにまだ欠けておるのは、それを宗教化するところの情熱です。われわれの前に漠々たるものは、そういう宗教家が、われわれの前に現れて来ることを待っているばかりの、現実です。
 われわれが本当にこの世の中の秩序を回復し、世の中をよい世の中にし、礼譲のある美しい世の中にするのには、もう一遍埋没した神々に、復活を乞わなければなりません。
 もう一遍神を信ずる心を、とり返さねばなりません。そうしない限り、この日本の秩序ある美しい社会生活というものは実現せられないだろうと思います。
 その日まで、われわれはこうして神道の、神学を組織するに努めているでしょう。そうして心静かに、神道宗教の上に、聖【キヨ】い啓示を待つばかりです。

「高皇産霊神」、「神皇産霊神」、「産霊神」の読みは、順に、「たかむすびのかみ」、「かみむすびのかみ」、「むすびのかみ」である。
 文中の「大八州国」は、原文のまま。ここは青空文庫では、「大八洲国」となっている。読みは、「おおやしまぐに」。
 また文中に、〝字は、産むの「産」、「たましい」の霊で、魂を産むというふうに宛てられていますが〟というところがある。おそらくここは、口で説明しただけでは伝わりにくいので、「字」を説明したのであろう。すなわち、この文章が講演を記録したものだった可能性を示していている部分である。
 また、「祖先でない神を祖先とした例が、過去にはうんとあるのです」という箇所があるが、これも同様に、この文章が講演を記録したものだった可能性を示す。ちなみに、同箇所は青空文庫では、「祖先でない神を祖先とした例が、過去には沢山にあるのです」となっている。
 明日は、石橋恒喜著『昭和の反乱』上下巻(高木書房、一九七九年二月)の紹介に戻る。

*このブログの人気記事 2021・2・4(9・10位の力道山は久しぶり)

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