礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

少年よ大空へ(陸軍少年飛行兵志願案内)

2021-07-21 00:15:06 | コラムと名言

◎少年よ大空へ(陸軍少年飛行兵志願案内)

 最近、雑誌『航空少年』の緊急増刊「少年飛行兵号」を入手した。第二〇巻第一〇号、一九四三年(昭和一八)九月一五日発行である。
 中に、陸軍航空本部による「少年よ大空へ 陸軍少年飛行兵志願案内」という記事があった。三段組で、全二〇ページ。
 リードには、「御国は、君たちの蹶起を待つてゐる/君たちの大空へ進む道はこれだ!」とある。
 本文には、「爆音とどろく太平洋」「航空決戦は若鷲を呼ぶ」「金丸少尉の奮戦」「少年飛行兵となるにはどうしたらよいか」「志願の仕方」「受験準備」「受験から合格まで」などの見出しが並んでいる。
 本日は、このうち、「少年飛行兵となるにはどうしたらよいか」の節を紹介してみよう。

   少年飛行兵となるには
   どうしたらよいか
 少年飛行兵がどんなに大切であるか、祖国日本が一人でも多くりつぱな少年飛行兵を求めてゐるかを知つたら、愛国の血にたる少年は、だれでも志願せずにはゐられないであらう。
 次に陸軍少年飛行兵となるにはどうしたらよいかをお話ししよう。
陸軍少年飛行兵となるには、まづ東京陸軍少年飛行兵学校か、大津陸軍少年飛行兵学校に入学するのである。たくさんの志願者の中から、心身ともにすぐれた少年たちを選ぶのであるから、採用試験がある。しかし、試験ぐらゐを恐れるやうでは、将来、敵空軍を撃滅する荒鷲の卵となる資格はない。
 少年飛行兵を志願して、二度も失敗。それでもやむにやまれぬ気持から、失敗のもとであつた弱い体を鍛へあげ、三度目に見事合格。りつぱな荒鷲となつて大東亜戦争に出陣し、あつぱれ殊動を立てた少年もゐるのである。「志願者が多いから、自分などはとてもだめだ」などと考へるのは日本少年の恥である。
 そこで、決心がついたら、まづ、自分が試験を受ける資格があるかどうかを、しらべてみるのである。
 (イ) 年 齢
 陸軍少年飛行兵学校生徒は、四月と十月の二回採用するが、昭和十九年(来年)四月採用のものは、昭和二年四月二日から、昭和四年四月一日までに生れたものである。この年齢に適してゐたら、だれでも試験が受けられる。年齢のたりないものは、時がくるまで待たなければならない。年齢のすぎたものは少年航空兵にはなれないが、現役志願をしてそれから陸軍航空隊に入隊することもできる。現役志願については各地の連隊司令部、各役場の兵事課で相談するがよい。
 (ロ) 学歴その他
 学歴に何のきまりもない。つまり国民学校初等科を出ただけでも、どんな職場に働いてゐたものでもよい。日本男子であれば、だれでも志願ができる。半島人でも本島人でも一向さしつかへない。現にこれらの人々が、学校を卒業してりつぱにお役に立ち、この戦争で大きな手柄を立ててゐるものがたくさんゐる。
 (ハ) 身 体
 航空隊は体が丈夫なことが第一である。だから身体検査はしつかり行はれる。といつても、人なみの体格であれば大丈夫なのである。病気も将来飛行兵としてさしつかへないもの、また将来なほる見こみのあるものはさしつかへない。しかし、たとへ病気はなくても、あまりに体格のよくない者は不合格となる。
 体はよいに越したことはないのであるから、平生十分注意して、なるべく心身共に両立させて鍛錬してほしい。
 要するに体格は、特別によくなくてもよいので、普通の標準程度の者であればさしつかへないのである。
 眼は飛行兵にとつてはもつとも大切で、検査も厳重であるが、近視、遠視、乱視などでも軽いものは、それぞれ適当な方向に進めるやうになつてゐるから、あまり心配することはない。【以下、次回】

今日の名言 2021・7・21 

◎半島人でも本島人でも一向さしつかへない

 陸軍航空本部「少年よ大空へ 陸軍少年飛行兵志願案内」に出てくる言葉。半島人でも本島人でも、陸軍少年飛行兵に志願できるの意。上記コラム参照。ここで半島とは朝鮮半島、本島とは台湾を指している。

*このブログの人気記事 2021・7・21

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山本五十六を論じた大木毅氏の新刊

2021-07-20 05:39:41 | コラムと名言

◎山本五十六を論じた大木毅氏の新刊

 大木毅(たけし)氏の新刊『「太平洋の巨鷲」山本五十六』(角川新書、二〇一二年七月)を読んだ。
 私のような基礎知識のない者にとっては、初めて聞くような話が多く、たいへん勉強になった。特に、終章における次の指摘は印象に残った。

 だが、戦略次元になると山本の評価ははね上がる。いきすぎた戦艦温存、日本の航空戦力整備能力の過大評価といった限界はあるにせよ、航空総力戦を予想しての軍戦備の推進、 日独伊三国同盟は必然的に対米戦争につながるとの洞察、さらに対米戦争は必敗との認識。 どれを取っても、山本の戦略的センスが光る。もちろん、太平洋戦争の無惨な敗北をみたのちのわれわれにとっては、自明のことと思われるかもしれない。しかし、現在進行形で状況が展開しているときに、日本必敗論に到達した者はわずかだったし、それを明確に表明した者はもっと少なかったのである。〈三〇四ページ〉
 
 山本五十六が優れた戦略的センスを持っていたことは、本書を読んで、よく理解できた。しかし、本書の主旨は、サブタイトルが示すように、あくまでも「用兵思想からみた」山本五十六の「真価」であるはずだ。その主旨は、十分に貫徹されているようには思えなかった。
 著者には、山本五十六という人物に対する「思い入れ」があるようだ。そのせいだと思うが、個々の作戦における山本の用兵について論じる際、最初から弁護に回っているような、歯切れの悪さがある。岩波新書『独ソ戦』(二〇一九)に見られた冷徹な分析を、この本に期待するのは難しい。
 個人的には、第五章にある、次の記述に注目した。

 しかも、米内〔光政〕や山本は、五相会議、あるいは中堅層の突き上げがある海軍部内だけで闘っているのではなかつた。日独伊の同盟が実現しないのに業を煮やした陸軍に手なずけられた右翼が、米内や山本を屈服させようと脅迫にかかったのだ。なかでも、三国同盟反対の元凶と目されていた山本は、激しい攻撃にさらされていた。当時、海軍省副官兼海相秘書官だった実松譲【さねまつゆずる】は、「聖戦貫徹同盟」なる右翼団体が、白昼堂々と海軍省に乗り込んできて、山本の次官辞任を求め、あまつさえ「斬奸状」を突きつけてきたこともあったと回想している。
 こうした陸軍をバックとする分子による圧力は、論難のみにとどまらなかった。一九三九年〔昭和一四〕七月、隅田川の堤防を徘徊していた不審者が逮捕された。彼らは爆弾を携行していたばかりか、取り調べで「奸賊」山本海軍次官を含む要人たちを暗殺する計画だったと供述したのだ。
 かかるテロの脅威にさらされるなか、山本はひそかに遺書をしたためていた。彼の死後に 発見された「述志」と題された一文である。 
「一死君国に報ずるは素【もと】より武人の本懐のみ。豈【あに】戦場と銃後とを問わんや。…【中略】…昭和十四年五月十四日」〈一四八~一四九ページ〉

 ここにある「隅田川の堤防を徘徊していた不審者が逮捕された」事件というのは、当ブログが、本年六月七日から一五日にかけて取り上げた「不穏事件」と見て、ほぼ間違いないだろう。
 ここで著者は、「山本海軍次官を含む要人たち」という言い方をしているが、これは「天皇側近、海軍関係者、外務省関係者」と言い換えるべきであろう。大谷敬二郎『昭和憲兵史』によれば、この事件では、湯浅倉平内大臣、松平恒雄宮内大臣ら天皇側近が、「暗殺」の危機にさらされていたという。
 平沼騏一郎内閣時代の出来事である。同内閣で内務大臣の職にあった木戸幸一は、米内光政海相と協議したり、警視総監を呼んで右翼の取り締まりを懇請したりしていたという(大谷前掲書)。同年七月の「不審者」逮捕は、警視庁が、そうした木戸の要請に応えた懸命の努力の成果だったと考えられる。
 なお、「隅田川の堤防を徘徊していた不審者」というのは、この「不穏事件」の首謀者・杉森政之介のことであろう。彼は、浅草区山谷の木賃宿に、同志・野口藤七を訪ねたところを検挙されている。浅草区山谷といえば、すぐ東側に隅田川の堤防がある。なお、この一味が持っていた「爆弾」というのは、杉森が栃木県下のマンガン鉱山で入手した「爆薬」のことであろう。
 いずれにしても、「山本海軍次官を含む要人たちを暗殺する計画だったと供述した」云々の出典を知りたいところである。

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萬葉集における歌の記法は、梵語音訳と同じ

2021-07-19 02:17:35 | コラムと名言

◎萬葉集における歌の記法は、梵語音訳と同じ

 橋本進吉のエッセイ「萬葉集は支那人が書いたか」(初出、一九三七)を紹介している。本日は、その三回目(最後)。

 漢訳仏典は、梵語を漢語に訳したもので、勿論漢文で書いたものであるが、人名地名其他、訳し難い語や大切な名目は飜訳せす、たゞ漢字によつて原語の音を写したまゝで漢文の中に収めてある(「阿羅漢」「舎利弗〈シャリホツ〉」「菩薩」「文殊師利〈モンジュシリ〉」など)。但し、これ等は単語であつて日本の歌の如く文を成した語でないが、歌に最〈モットモ〉近いのは陀羅尼〈ダラニ〉即ち呪文であって、般若心経、法華経、金光明最勝王経〈コンコウミョウサイショウオウキョウ〉其他の諸経にその例が極めて多い。これも漢字で原語の音を写したもので、その漢字を支那語に於ける如く読めば、梵語に近い音となるのであつて、之を音訳といつてゐる。法華経陀羅尼品〈ホン〉から一例を挙げれば (漢文の部分も挙げておく) 
  爾時毘沙門天王護世者、白仏言、世尊我亦為愍念衆生、擁護此法師故、説是陀羅尼、即説呪曰
  阿□那□▲那□阿那盧那履拘那履【アリナリトナリアナロナビクナビ】
かやうな記法は、実に漢文中に外国語の語又は文を挿入する正式な方法である。それ故、もし支那人が、萬葉集の如く漢文を用ゐて支那式に作られた書に日本語の歌を入れるとすれば、必ず梵語の場合と同様に、漢字の音を以て日本語を写したであらうと思はれる。
 然るに我国に於て、歌をしるすにすべて漢字の音を以てしたものがあるが、それは正に支那に於ける梵語音訳と同一の方法によつたものである。日本書紀の歌謡の如きその代表的の例であつて、漢文中に歌を挿んでその音を漢字の音を以て写してゐるばかりでなく、之に用ゐた漢字までも梵語の音訳に用ゐた文字を襲用したものが多いと私は見てゐるのである。さうしてかやうな、歌の記法は萬葉集にも少くなく〈スクナクナク〉、巻五や巻十五の歌の大部分の如き、この類に属し、巻十四、巻十七、十八、二十の各巻の歌の多くも、多少不純な所があるけれども、やはりこの種のものと見るべきである。萬葉集の歌はすべて日本式の記法によるものであると考へられてゐるにも拘はらす、その中のかなり多くの部分は、右の如く支那人が漢文中に外国語を挿む揚合と同様な方法によつたものであるとすれば、萬葉集に於ける漢文の勢力はたゞに題目や題詞や序や左註にのみ止まらない事が知られるのである。
 右のやうな記法以外の萬葉集の歌は、大概一首の中に漢字の正用と仮用〈カヨウ〉とをまじへた萬葉仮名まじりのものであつて、その中、正用の漢字は概して漢文に於ける用法と一致し、支那人にもわかるけれども、それは唯一つ一つの語や句だけであって、一首全体としては漢字でありながら支那人が読んでも意味がわからす、又日本語にもならないのである。即ちかやうな記法は、純粋に、日本語を写して日本人に読ませる為のものであつて、日本独特のものである。かやうな記法による歌が集中の多くの部分を占めてをり、且つ一首全部が漢文になるやうに書かれたものが無い故に、萬葉集の歌はすべて日本式の記法によつたもののやうに解せられるのであるが、この考方が必ずしも正当でない事は既に述べた通りである。
 以上は、萬葉集の体裁及び記法の上に見られるその漢文性の一斑である。これはもとより漢文の立場から見た萬葉集の一面観であつて、なほ他の立場からの観察も必要であるが、それでもかやうな見方によつて、従来観過せられ易かつた萬葉集の一面が明かになつたと思ふ。近来萬葉集の研究は非常に盛になつたが、漢文の方面からの研究はまだ不十分であつて、集中の漢文の解釈すら未だしい〈イマダシイ〉所があるやうに感ぜられる。或は今後、かやうな方面からの研究によつて、各種の問題に新な光が投ぜられるのではあるまいか。
 かやうに考へ来れば、かの某氏の問は、必ずしも愚問として棄て去るべきでは無い。之を愚問とするのも賢問とするのも聞く者の心がけ一つである。

 法華経陀羅尼品の梵語音訳のうち、□と▲は、漢字が表記できなかった。□は、「犂」という字の「牛」の部分が「木」になっている漢字。▲は、「省」という字の「目」の部分が「免」の旧字になっている漢字である(免の旧字は、最初の二画が「刀」)。
 このエッセイで橋本は、「萬葉集は支那人が書いたものか」という「奇問」から出発し、萬葉集の「漢文性」について平易に説いた上で、最後に、奇問を「愚問とするのも賢問とするのも聞く者の心がけ一つである」と、キレイに締めている。並みの学者では書けないエッセイである。

*このブログの人気記事 2021・7・19(2位に極めて珍しいものが入っています)

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萬葉集の名そのものが立派な漢語である

2021-07-18 05:35:28 | コラムと名言

◎萬葉集の名そのものが立派な漢語である

 橋本進吉のエッセイ「萬葉集は支那人が書いたか」(初出、一九三七)を紹介している。本日は、その二回目。

 萬葉集は歌集であって国文学書である。漢文ではなく国文で書かれてゐると普通に考へられてゐるやうである。しかし、右に述べたやうに、漢文が正式な文として一般に用ゐられ、文といへば漢文と解せられたらうと思はれる時代に編まれた萬葉集が、歌集であるが故に、独り漢文の勢力を免れ得たであらうか。
 なるほど萬葉集の歌は漢文ではない。一字一音の仮名で書かれたものはもとより、「雖言う【イヘド】」「思者【オモヘバ】」「金風【アキカゼ】」の如く、箇々の語句に於て漢語又は漢文式の記法を用ゐたものでも、一首としては漢文でない。しかしながら、歌以外の部分はすべて漢文である。まづ萬葉集の名そのものが既に立派な漢語である事は、近来殆ど定説になつたといつてよからうし、雑〈ゾウ〉、譬喩〈ヒユ〉、挽歌〈バンカ〉の如き歌の部類の名も漢文に用ゐる語であり、とかく疑問のあった相聞〈ソウモン〉の語も亦支那に用例がある事山田孝雄〈ヨシオ〉氏の研究によつて明かになった。歌の題詞や左註もすベて漢文である。集中に収めた歌や時の序や書翰などが漢文である事はいふまでもない。これ等は皆支那人にもわかる語であり文である。その中の地名人名神名其他の固有名詞と我国にのみ存する事物の名とは支那の文には見えないが、これは当然のことで、たとひ支那人が書いたとしても、同様な結果になる事は疑ない。歌の部分が漢文でないのは、歌である為であつて、歌としては単に意味のみならず、形も大切であつて、国語をそのまゝに写すべき必要があるからである。概していへば、萬葉集は漢文の題目や序や左註の間に日本語の歌が挿まれてゐるのである。それ故、唯漫然、萬葉集は国文で書いたものであると考へるならば、それは少くとも不正確であつて、一方から見れば、萬葉集は漢文で書かれてゐるといふ事も出来るのである。勿論萬葉集は歌集である。歌はその眼目であり生命である。題目や序や左註は歌あつてはじめて意義があるのである。分量から見ても、歌は全巻の大部分を占めてゐる。しかしながら、もし題目や序や左註が無いとしたならば、歌の作者や作られた時や、当時の事情などがわからず、歌を理解し味読するに困難を生ずる事があるばかりでなく、萬葉集そのものが、書として体裁を成さなくなるであらう。かやうな部分が支那の文たる漢文で書かれてをり、唯歌の本文のみが日本風に書かれてゐるのである。それ故、仮に支那人が 日本の歌集を編したとしても、やはりかやうな体裁のものになり得べきわけである。かやうに考へて来れば、萬葉集は支那人の著かといふ質問も誠に尤〈モットモ〉であつて、萬葉集の漢文性について我々の注意をうながすべき有意義なる質問であるといふ事が出来る。
 しかしながら、もし我々が我々の考察をこゝで止めたならば、我々はこの質問をして十分に効力を発揮せしめたものとはいはれない。我々は更に一歩を進めて、もし支那人が萬葉集の如き日本歌集を編したならば、歌をばどう書いたらうと考へて見るべきである。
 単に歌の意味だけを示すならば之を漢訳すればよい。さすればそれは純然たる漢文となる。しかしそれでは原歌の形は全く失はれてしまふ。歌には形が大切である。それでは歌の形をそのまゝに示さうとする場合には、どんな方法を取つたであらうか。
 歌は勿論日本語である。日本語は支那語に対しては外国語である。かやうな外国語の歌を萬葉集の如く漢文の中に置くには支那人は如何なる方法を以てしたであらうか。これは、漢訳仏典中の梵語の例を見ればほゞ推察する事が出来る。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2021・7・18(2位になぜか水野葉舟)

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橋本進吉「萬葉集は支那人が書いたか」(1937)

2021-07-17 00:11:16 | コラムと名言

◎橋本進吉「萬葉集は支那人が書いたか」(1937)

 本年四月一三日のブログに、〝神田喜一郎「『万葉集は支那人が書いたか』続貂」〟という記事を書いた。この「続貂」という言葉は、「ぞくちょう」と読み、ここでは「他人の仕事を受け継ぐことをへりくだって言う」の意味で使われている。つまり、神田以前に、「万葉集は支那人が書いたか」という文章を書いた人があって、神田は、その文章を踏まえて、「『万葉集は支那人が書いたか』続貂」を書いた、と推定されるのである。
 その後、国立国会図書館に赴く機会がなく、神田の同論文は、まだ読んでいない。しかし、先行する「万葉集は支那人が書いたか」なる文章は、確認することができた。国語学者の橋本進吉が、『国語と国文学』第一四巻第一号(一九三七年一月)に寄せた「萬葉集は支那人が書いたか」と題するエッセイである。
 それほど長いものではないが、本日以降、何回かに分けて、このエッセイを紹介してみたい。引用は、橋本進吉博士著作集第五巻『上代語の研究』(岩波書店、一九五一)より。なお、このエッセイのタイトルは、カギカッコが付いた「萬葉集は支那人が書いたか」である。

    「萬葉集は支那人が書いたか」

 三十余年前のことであるが、或高等学校の文科の学生であつた某氏が、国語の時間に萬葉集は支那人が書いたものかといふ奇問を発したといふ話を聞いた事がある。この話は、その人の人がらを知るべき一話柄として語られたのであるが、今にしておもへば、この質問は、その道の学者でもどうかすると閑却しがちな萬葉集の一面を我々に思ひ起さしめるものとして、寧〈ムシロ〉、意味深長なものがあるのではあるまいか。
 右の某氏は、萬葉集が漢字で書いてあるのを見てこのやうな質問を発したのであらうが、勿論萬葉集が支那人の著でない事は疑ふ余地が無い。しかし当時の日本人は、文字としては漢字の外に知らなかつたのであつて、この点に於て支那人と同様であつたばかりでなく、又当時は正式な文としては漢文の外になかつたのである。苟も〈イヤシクモ〉文字あるものは多少漢籍又は仏典を学び、文を書く場合には未熟であつても漢文を書いたのである。英文が英語の文であると同じく、漢文は支那語の文である。たとひ日本人が書いたものであつても、必ず支那人が書いたものと同様に、支那人には理解せらるべきものである。当時我国で漢文をどんなによんでゐたかは未だ確かにはわからないが、もし全部音読したとすればそれは言語としては支那語であり(発音の正しくない為、支那人が聞いてはわからない所があつたかも知れないが)、もし現代に於ける如く、音読せずして訓読ばかりしてゐたとしても、日本人が書いた漢文を支那人が読めば、立派に支那語になるべきものである。たとひ未熟な為に破格な文となつて支那人にわからない所が出来たとしても、ブロークンでも英語は英語であると同じく、漢文はやはり支那語の文であつて、決して日本語を写した日本の文ではない。
 萬葉集の時代は、かやうな漢文が正式な文として認められ、一般に用ゐられてゐた時代である。教養ある人々は漢語漢文に熟達し、立派な漢文を書く能力をもつてゐたのである。さうして日本人であつても、かやうに、支那の文字たる漢字を用ゐ支那語の文たる漢文を書く限りに於て文字文章の点に於ては支那人と同様であつたと見てよいのである。
 勿論当時の日本人は日本語を書く方法を知らなかつたのではない。否、相当巧に又自由に漢字を使ひ、又宣命書〈センミョウガキ〉の如き記法をも工夫して日本語を写してゐる。しかしこれはむしろ已む〈ヤム〉を得ない場合にのみ用ゐたのである。即ち神名とか人名とか、その他特に日本語を用ゐる必要のある場合に限つて、かやうな記法を用ゐたのであつて、さもない所はすべて漢文である。古くは聖徳太子の三経義疏〈サンギョウギショ〉をはじめ、律令〈リツリョウ〉、日本書紀、風土記の類、歌経標式〈カキョウヒョウシキ〉の如きことごとくさうである。古事記は、稗田阿礼〈ヒエダノアレ〉の伝誦せる語を写すのが目的で、これこそ純粋の国語の文、即ち国文であるけれども、なほ漢文式の記法を棄てる事が出来なかつた。古文書の如き実用の文も、また殆ど全部漢文であつて、国文と見るべきものは、数百巻、幾千通の文書の中、僅に〈ワズカニ〉二三十通に過ぎないやうであり、その内容も宣命の如き特に古語を存する必要のあるものの外は、大概は重大なものではなく、不用意に書いたものか又は文筆に熟せざるものの書いたと覚しい〈オボシイ〉ものばかりである。【以下、次回】

 三十余年前に、某氏が、「萬葉集は支那人が書いたものか」と質問したことについて、橋本は、「人がらを知るべき一話柄」と書いている。この書きぶりからすると、某氏は、一九三七年(昭和一二)当時、かなり著名な人物だったのであろう。その名前が知りたいところである。

*このブログの人気記事 2021・7・17(8位に極めて珍しいものが入っています)

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