礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ドイツは日米国交の改善に尽力すべし(スターマー特使)

2021-09-25 04:42:42 | コラムと名言

◎ドイツは日米国交の改善に尽力すべし(スターマー特使)

 近衛文麿手記『平和への努力』(日本電報通信社、一九四六)から、「三国同盟に就て」という文章を紹介している。本日は、その二回目。引用にあたっては、漢字による表記を「ひらがな」、「カタカナ」に直すなど、原文に少し手を入れた。

 三国同盟は昭和十五年〔一九四〇〕九月廿七日に締結せられたのであるが、その前にドイツ外相リッベントロップ〔Joachim von Ribbentrop〕の特使としてスターマー〔Heinrich Georg Stahmer〕公使来り、同公使は松岡〔洋右〕外相と九月九日十日両日会見懇談した。その時の会談記録は、同盟の具体的目標及成立事情を知る上に於て極めて重要であるから、その一部を左に抜萃〈バッスイ〉する。
 一、ドイツは今次戦争が世界戦争に発展するを欲せず、一日も速〈スミヤカ〉にこれを終結せしむることを望む。しかして特に米国が参加せざる事を希望す。
 二、ドイツはこの際対英本国戦争に関し、日本の軍事的援助を求めず。
 三、ドイツが日本に求むる所は、日本があらゆる方法において米国を牽制し、その参戦を防止する役割を演ずることにあり、ドイツは今のところ米国は参戦せずと思惟するも、しかも万〈バン〉これなきを期せんとするものなり。
 五、ドイツは日独間に了解あるいは協定を成立せしめ、何時にても危機の襲来に対して完全に且つ効果的に備ふること両国にとり有利なりと信ず。かくしてのみ米国が現在の戦争に参加すること、又は将来日本と事を構ふることを防止し得べし。
 六、日独伊三国側の決意せる毅然たる態度明快にして、誤認せられざる底〈テイ〉の態度の竪持と、その事実を米国を始め世界に知悉せしむることによりてのみ、協力且有効に米国を抑制し得、これに反し軟弱にして微温的なる態度を採り、もしくは声明をなす如きは却て〈カエッテ〉侮辱と危険とを招くに止まるべし。
 七、ドイツは日本が能く現下の情勢を把握し、以て西半球より来る事あるべキ危険の重大性と現実性とを自覚し、以て米国始め他の列国をして揣摩臆測〈シマオクソク〉の余地なからしむるが如き、日独伊三国間の協定を締結することに依りてこれを予防するため、迅速且決定的に行動せんことを望む。
 十、まづ日独伊三国間の約定を成立せしめ、しかるのちただちにソ連に接近するにしかず。日ソ親善につきドイツは「正直なる仲買人」たる用意あり。而して両国接近の途上に越ゆべからざる障害ありとは覚えず。従つてさしたる因難なく解決し得べきかと思料す。英国側の宣伝に反し、独ソ関係は良好にしてソ連はドイツとの約束を満足に履行しつつあり。
 十一、枢軸国(日本を含む)は最悪の危険に備ふるため徹底的用意あるべきは勿論なるも、しかし一面ドイツは日米間の衝突回避にあらゆる努力を吝ま〈オシマ〉ざるのみならず、もし人力の能くなし得る所ならば進んで両国々交の改善にすらも尽力すべし。
 十四、スターマーの言はただちにリッベントロップ外相の言葉として受取られ差支なし。
 この会談記録によりても知らるる如く、三国同盟条約締結には具体目標が二つあるのである。第一はアメリカの参戦を防止し戦果の拡大を防ぐことである。第二は対ソ親善関係の確立である。〈一八~一九ページ〉

 ドイツは、アメリカの参戦を警戒していた。そのことは、一、三、六、十一、の各項に明らかである。近衛が指摘する通り、三国同盟の目標の第一は、「アメリカの参戦を防止し戦果の拡大を防ぐこと」にあった。
 スターマー特使は、松岡外相との会談で、ドイツは日米間の衝突回避にあらゆる努力を惜しまない旨を強調し、「進んで両国々交の改善にすらも尽力すべし」とまで言っていた。にもかかわらず、日本は、三国同盟締結から一年数か月、ついにアメリカに対し宣戦を布告した。これにともない、ドイツ・イタリアもまた、アメリカに宣戦を布告することになった。
 日本が英米に対し、宣戦を布告するにいたった経緯は、非常に入り組んでいるが、この宣戦布告が、ドイツの「期待」を裏切るものであったことは間違いのないところであろう。

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近衛文麿「三国同盟に就て」を読む

2021-09-24 00:04:01 | コラムと名言

◎近衛文麿「三国同盟に就て」を読む

 日独伊三国同盟の締結は、その後の日本の命運を左右した、極めて重大な事件であった。須磨弥吉郎の『外交秘話』(商工財務研究会、一九五六)を読んで、改めて、その感を強くした。
 三国同盟締結と日本の対米英宣戦との間には、因果関係があるのか。あるとすれば、どういう因果関係があるのか。これを解明するのは、容易なことではない。しかし、因果関係は必ずある、と私は考えている。そして、その因果関係については、わかりやすい説明が必要であるとも考える。
 その「因果関係」を解明するにあたって、まず検討してみたいのは、近衛文麿の「三国同盟に就て」という文章である。
 この文章は、近衛文麿手記『平和への努力』(日本電報通信社、一九四六年四月)に収められている「手記」のひとつである。同書には、「支那事変に就て」、「三国同盟に就て」、「日米交渉に就て」、「覚書」、「補遺」二篇が収められている。「日米交渉に就て」の末尾には、(昭和十九年四月談話筆記)とあるが、「三国同盟に就て」が執筆されたのは(談話筆記されたのは)、一九四五年(昭和二〇)五月以降であろう。というのは、文章中に、「独逸崩壊」という言葉が出てくるからである。
 本日以降、「三国同盟に就て」を、何回かに分けて引用し、その箇所について検討を加えてゆきたい。引用にあたっては、「獨逸」とあるのを「ドイツ」、「蘇聯」とあるのを「ソ連」と直したほか、漢字による表記を「ひらがな」に直すなど、原文に、少し手を入れた。

   三 国 同 盟 に 就 て

 独伊との間に軍事同盟を締結すべしとの議は、昭和十三年〔一九三八〕夏第一次近衛内閣当時、大島〔浩〕駐独武官を通じ、ドイツ側より提案せられたのである。この時の同盟の対象はソ連であつて、当時すでに存在せる日独伊防共協定の延長として計画せられたものである。この同盟締結の議は、昭和十四年〔一九三九〕一月近衛内閣より平沼〔騏一郎〕内閣に引継がれ、同内閣に於ては五相会議を開くこと七十何回に及びたるも議まとまらず、同年八月に至り、ドイツは日本になんら相談なく突如この同盟の対象たるソ連と不可侵条約を結んだ。これがため平沼内閣は複雑怪奇なる国際情勢云々の語を残して退陣し、かくてソ連を対象とする三国同盟の議は立消えとなつたのである。
 しかるに翌昭和十五年〔一九四〇〕春に至り、ドイツは破竹の勢〈イキオイ〉を以て西ヨーロッパを席捲し、英国の運命も、またすこぶる危殆に瀕するや、再び三国軍事同盟の議が猛烈の勢で国内に抬頭し来つた。ただ前年の同盟はソ連を対象としたるに対し、今度は米英を対象とする点において根本的に性質が異るのである。余〔近衛〕が昭和十五年七月第二次近衛内閣の大命を拝したる時は、反英米熱と日独伊三国同盟の要望が、陸軍を中心として一部国民の間には正に沸騰点に達したる時であつたのである。〈一七ページ〉

 三国同盟の対象が、当初のソ連から、「英米」に変わったことなどが簡潔に述べられている。
 最後のところで、「反英米熱と日独伊三国同盟の要望」とある点に注意したい。陸軍を中心とする当時の「世論」においては、「日独伊三国同盟の要望」と「反英米熱」とは、セットになっていた。このことは、三国同盟の締結と日本の対米英宣戦との間に、因果関係があったことを暗示するものである。
 なお、ここで近衛は、「英米」、「米英」というふたつの表現を混用している。対米英戦の前までは、「英米」という言い方が一般的だったが、対米英戦が開始されたあとは、「米英」という言い方に変わったという話を、以前、読んだ記憶がある。ちなみに、いわゆる開戦の詔書の正式名は、「米国及英国ニ対スル宣戦ノ詔書」である。

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アテネ市内を走るマツダのオート三輪

2021-09-23 01:58:28 | コラムと名言

◎アテネ市内を走るマツダのオート三輪

 昨日に続き、ビデオで観た映画の話である。
 数年前、『デビット・ジャンセンの黒の標的』という映画のビデオを入手した。原タイトルは「COVERT ACTION」、主演は、もちろん、デビット・ジャンセンである。㈱ポニーが販売元で、当時の定価は「¥17,800」。
 紙製のケースには、「1979年 アメリカ映画」とあったが、インターネットで調べたところでは、一九七八年に、イタリア・ギリシャの両国共同で作られた映画のようだ。
 舞台は、ギリシャのアテネ。デビット・ジャンセンが演ずるのは、元CIA情報部員のレスター・ホートン。CIAアテネ局長に、アーサー・ケネディ、ホートンの親友フローリオの妻アンナに、コリンヌ・クレリーが扮している。
 あまり盛り上がらないB級のアクション映画だが、ギリシャが舞台になっているところが珍しい。活気あふれる市場、ヒトケのない古代遺跡などが、撮影場所に選ばれている。ちなみに、この映画は、デビット・ジャンセンが出演し、生前に公開された映画としては、最後の一本ではないだろうか。デビット・ジャンセンが亡くなったのは、一九八〇年二月一三日で、まだ四十八歳の若さだった。
 この映画を観ていて最も驚いたのは、冒頭、アテネ市内の大通りを写している場面で、マツダのオート三輪が走っていたことである。まさかと思って、何度も巻き直し、確認したが、やはりマツダのオート三輪である。荷台が割と長いタイプで、塗色は青だった。
 あとで、「ギリシャ オート三輪」で、ネット検索をしてみた。すると、次々と画像があらわれる。ギリシャに旅行した日本人が、現地でマツダのオート三輪を見つけ、珍しいというので投稿したものが多かった。今日でもギリシャでは、マツダのオート三輪が活躍しているのだろうか。

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映画『宇宙からの脱出』(1969)を観る

2021-09-22 01:40:22 | コラムと名言

◎映画『宇宙からの脱出』(1969)を観る

 先日、ジョン・スタージェス監督の映画『宇宙からの脱出』(コロンビア、一九六九)をビデオで鑑賞した。初めて観る映画だった。
 このビデオは、アマゾン経由で入手した。廉価のビデオが出品されていたので、注文したのである。送られてきたビデオはレンタル落ちだったが、問題なく再生できた。発売時の定価は、「¥15,800」。
 出演は、グレゴリー・ペック、リチャード・クレンナ、デビット・ジャンセン、ジェームズ・フランシスカ、ジーン・ハックマンほか(クレジット登場順)。
 ヒューストン基地の司令官キースを演ずるのは、グレゴリー・ペック。冷静にして非情な司令官を、リアルに演じている。出番も多く、文字通りの主役である。
 宇宙船アイアンマン1号の船長プルエットを演ずるのは、リチャード・クレンナ。管制室にやってきた妻と、テレビを通して対話する場面がある。船長の寂しげな表情が、結末を暗示する。『砲艦サンパブロ』(一九六六)を観たときも感じたが、リチャード・クレンナというのは、実にいい役者だ。
 故障したアイアンマン1号の飛行士を救出するため、主任飛行士ドゥハティが、単身、救援ロケットに乗り組む。このドゥハティを演じているのが、デビット・ジャンセン。テレビドラマ『逃亡者』(一九六三~一九六七)で人気者になったためか、この映画で一番おいしい役をもらっている。
 二時間以上ある映画だが、長さを感じさせない。予想を裏切る事態が次々と起きるからである。傑作だと思った。終わり方がシンプルなのも気に入った。

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若き岸信介、私有財産制に疑問を抱く

2021-09-21 00:52:15 | コラムと名言

◎若き岸信介、私有財産制に疑問を抱く

 今月の四日から六日にかけて、当ブログでは、中谷武世(なかたに・たけよ)著『昭和動乱期の回想』上下巻(泰流社、一九八九)から、「昭和動乱前期の回想(対談)」(一九七六年一月)を紹介した。これは、元首相の岸信介(一八九六~一九八七)と昭和期の右派活動家・政治家であった中谷武世(一八九八~一九九〇)との間でおこなわれた対談を記録したものである。
 これを紹介したあと、原彬久(はら・よしひさ)氏の『岸信介』(岩波新書、一九九五)を手に取ってみた。すると、そこに次のようにあった(三二~三三ページ)。

森戸事件への対応 これに関連して興味深いエピソードがある。いわゆる森戸事件にたいする岸の対応ぶりがそれである。岸が大学を卒業する年、すなわち大正九年〔一九二〇〕一月、東大助教授森戸辰男はロシアのナロードニキ的社会主義者クロポトキンの思想を『経済学研究』(創刊号)に紹介するが、そのために彼が朝憲紊乱の科【とが】で休職に追い込まれたうえ起訴される(同年三月、禁固二ヵ月の判決)という事件である。
 大学では、社会主義者集団の新人会がこの事件に猛反発して森戸擁護に回り、一方、岸が所属する国粋主義集団の興国同志会は森戸排斥を叫んで、両会は激しく対立する。岸は同事件を機に上杉の興国同志会を脱会するが、その理由が、同事件にたいする上杉と興国同志会の行動にあったことは事実である。岸は、社会主義者森戸辰男にたいする興国同志会の「頑迷固陋」な反対運動に不満をもち、恩師上杉慎吉にこの急進的な反対運動を抑えるよう懇請する。しかし、同会の森戸批判はとどまるところを知らず、上杉もまたこれを黙認する。
 当時を振り返って、岸はこう証言する。「このとき興国同志会を牛耳っていた人々は融通のきかない、頑固一点張りの考えだった。われわれは思想の進歩とか、新しい考え方というものも理解したうえで、反駁するなら反駁すべきなのに、頭から一切理解しないのだ。これには僕はついていけない。……不満だったのは、そういう場合上杉さんという人は、極端な右翼な連中を敢えて抑えようとされないんだ。上杉先生にもそのとき、『あんなの抑えて下さい』といったんだが、仲々そうされないんだ」(同前)
 こうして岸は興国同志会と決別し、その後上杉とも個人的関係は別として、思想的には明確に距離を置くことになる。しかし、岸が興国同志会を離れた理由は、実はこれだけではない。彼は同事件に関連して、そもそも私有財産制を否定するマルクス的社会主義にある種の共感をもっていたからである。岸がクロポトキンはもちろんのこと森戸辰男の思想そのものを支持することはなかったにしても、興国同志会ないし上杉慎吉の単線的かつ極端な保守反動に比べれば、岸の国家主義はいま少し複層的かつ多面的であり、それだけに相矛盾する要素も抱えていたといえよう。
 岸はこう語っている。「私には私有財産制というものを維持しようという考えはなかった。 だから例の森戸辰男の論文にたいしても、私は国体とか天皇制の維持は考えるけど、私有財産制を現在のまま認めなければならないとは思っていなかった。私有財産と国体とを分けて考えるというのは、その当時の我々の問題の基礎をなしていた。したがって私有財産制の維持というものにたいしては非常に強い疑問をもっていた」(同前)。

 ここで(同前)とあるのは、「岸インタビュー」のことで、これは、国際政治学者の原彬久氏が、岸信介に対しおこなったインタビュー(一九八〇~一九八二)を指している。
 さて、以上の記述により、若き日の岸が興国同志会を離れることになった経緯を知ることができる。先に紹介した「昭和動乱前期の回想(対談)」でも、岸は、興国同志会を離れた経緯について触れているが、その説明は、必ずしも明確でなかった。その点、「岸インタビュー」における説明は、非常に明確である。特に岸が、「私有財産制の維持というものにたいしては非常に強い疑問をもっていた」と述べている点は、注目に値する。
 すでに指摘したことだが、岸信介という官僚・政治家は、あくまでも「革新派」である。戦後の自由民主党が、そういう人物を、三代目の総裁に担いだことに注意する必要がある。
 戦後の自由民主党を、単純に「保守党」と捉えてよいのかどうか。「国鉄改革」を断行した「青年将校」中曽根康弘(十一代総裁)にせよ、「郵政民営化」を断行した「変人」小泉純一郎(二十代総裁)にせよ、単なる「保守派」とは呼びがたい。ただし、近年の自由民主党に関して言えば、「反リベラル派」と「保守反動派」の寄合所帯になっているかに思えるが、読者諸氏のご意見はいかがであろうか。

*このブログの人気記事 2021・9・21

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