◎「日本改造法案」を借り、徹夜で写本した(岸信介)
中谷武世『昭和動乱期の回想』(泰流社、一九八九)から、「昭和動乱前期の回想(対談)」を紹介している。本日は、その二回目。
森戸事件と興国同志会の分裂――そして「日の会」の創立
中谷 関係しなかったですね。それで興国同志会が分裂した動機は御承知のように森戸辰男事件で、これは今日の対談の準備に、念の為め一応調べて参りましたが、森戸辰男事件というのは、「大正九年、一九二〇年の一月に東大経済学部の森戸辰男〈モリト・タツオ〉助教授が、経済学部の機関誌の『経済学研究』の創刊号に『クロポトキンの社会思想の研究』という論文を載せた、ところが、この論文は危険思想の宣伝宜伝であるということで、上杉〔慎吉〕一派からクレームが出て、これを大学が取り上げて、結局森戸助教授は朝憲紊乱罪で起訴され、雑誌の名義人である大内兵衛〈ヒョウエ〉助教授は休職を命ぜられ、公判の結果森戸は社会の安寧秩序を乱すものとして禁錮三ヵ月、罰金二十円の刑に処せられ、大内は禁錮一ヵ月罰金二十円を科せられた」とこういう事件だったわけです。これにはいわゆる進歩義的文化団体や著作組合、学者団体等の反発を呼んで、言論の自由を圧迫するものだという反対運動が起こった。そして上杉博士の興国同志会の内部でも上杉さんの考え方に異論が出て分裂騒ぎにまで発展した、ということなんですが、当時渦中に居られた先生からその真相というものを承りたいと思います。
岸 あの時、問題になった森戸君の論文は、主として私有財産制に関する経済思想が紹介されておったのです。それで、われわれの考えている民族主義だとか、あるいは日本の国体問題ということとには直接関係はないじゃないか、そういうことについては、自由な意見の発表というのが、もちろん許されていいのだということ、そういうことから言って、国体に関する問題だとか、あるいは民族の伝統についてわれわれの考えと違うというのなら、これは大いに批判しなければならないけれども、社会主義の研究や、理論的な意味において私有財産制度なんかを論ずるのは一向差支えないじゃないか。今の私有財産制度は、無論我々も絶対のものとは思わない、そういうものに関しての研究なり論議なりは自由でいいじゃないか、それをまで圧迫するということは不合理だ、ということで、上杉博士やその周囲の人達とは我々は大いに意見が違い、到底一緒にやって行けない、ということで、興国同志会を解消して「日の会」を作ることになったわけです。それに森戸辰男という人の人柄が我々の仲間にも好感を持たれておったということもあります。大内君に対してはそうでもなかったが……。だからそういうことで森戸を告発したり、圧迫したりするという立場は我々は取らん、というのが私共の考え方で、それに対しあくまでも追求しようという一派と、我々と意見が合わなかったというわけです。
中谷 上杉先生は学問の点では、岸先生に非常に嘱望されて、大学に残れと言われたこともあるやに承っておりますが、思想的には必ずしもついて行けなかったというわけですね。上杉直系で森戸事件について最も強硬論だったのは、天野辰夫君たちですか。
岸 天野辰夫君だな一番強かったのは。後に内務省の役人や司法官になった連中はやっぱり天野君に引っ張られたわけです。四高の小原〔直〕君あたりも強いほうだったね。
中谷 そこで、その森戸事件がきっかけで先生と一緒に、「日の会」を作った人達が猶存社とか北一輝の方へ接近して行かれた動機はどういうことからですか。
岸 私は何かの機会に、誰に連れられて行ったのかはっきり記憶しないけれども、二~三人の学生と一緒に牛込の猶存社へ行って北一輝に初めて会ったわけだ。それまでに北一輝の書いた「日本改造法案」を、私は誰かからそれを借りて、一晩徹夜でそれを写本したことがあるが、あの考え方に非常に強い印象を受けていた、それでまあ猶存社に行って北に会うことになったのだと思う。私はあの北一輝の風貌に非常に魅力を感じた。彼はその時、辛亥革命の話をして、まず第一に、大学の制服を私は着ていたのですが、そしたら北一輝はそれを指差して、「この金ボタンの制服を見ると私は革命を思う、それは辛亥革命の時に、日本から帰ってきて革命に投じた若い中国人が、皆その金ボタンの服を着ておった」というのです。そういう話を聞いて私は非常に深い印象を受けた。大学時代は上杉先生には相当私も私淑もしておったし、上杉先生に対する尊敬の念は変わらないけれども、その外の人では、北一輝の印象が一番深く、今でもその時の感動を忘れ得ません。
中谷 私の場合も全く同じなんです。私が行った時は猶存社は牛込から千駄ヶ谷に移っていまして、例の虎大尽といわれた山本虎三郎の屋敷で、フランスの詩人のポール・リシャールのおった家です。そこで北一輝に会った時、彼が最初に言った言葉がいま先生がいわれたのと同じなんです。金ボタンの学生がみな革命をやったんだ、革命は学生と兵士が主力だ、こう言うのです。例の独眼龍で、こちらの眼を見据えながら語る。非常に魅力的で、陸軍の青年将校なども、西田税〈ミツギ〉の手引きでこうして彼にひかれて行ったのだと思います。私としても、大学の講義を聴くよりは北一輝の話の方が面白く、それから屡々猶存社通いをし、時には毎日のように行ったこともあります。大学は、ちょうど上杉先生は森戸事件の後外遊中でして、憲法は美濃部〔達吉〕さんと筧〈カケイ〉〔克彦〕博士の競争講義で、私は両方聴きましたが、理論的には一応美濃部さんは筋が通っておったが、非常に独特なのは筧さんの講義でしたね。
岸 そうだったね。筧さんの講義は変わっていたね。
中谷 ユニークな講義で、教室に入って来ると先ず黒板の方に向ってパンパアーンと拍手〈カシワデ〉を打ってから講義を始める。未だに私の思想の中に、筧さんの影響がかなり残っていると思います。神道哲学に基づく皇国憲法。皇学的法理論。非常に深い感銘を受けました。北一輝さんからも影響を受けたことは事実です。北一輝さんの思想は、根本はやっぱり民族主義ですね、革命的民族主義ですね。「国体論と純正社会主義」という大きな本がありますが、これは若い頃書いたのですが、これは国家社会主義、或は民族社会主義であって、マルクス・エンゲルス的社会主義じゃありませんね。【以下、次回】
筧克彦博士が、講義の前に、カシワデを打ったという話は有名である。戦後、その講義内容について、批判的、冷笑的な回想をおこなう人が多かったなかで、中谷武世は、「未だに私の思想の中に、筧さんの影響がかなり残っていると思います。神道哲学に基づく皇国憲法。皇学的法理論。非常に深い感銘を受けました。」と回想している。これは、極めて珍しい例であろう。
なお、法制史学者の嘉戸一将氏は、その著書『主権論史――ローマ法再発見から近代日本へ』(岩波書店、二〇一九)の中で、筧克彦の公法学について本格的な検討をおこなった。このことについては、当ブログでも、少し触れたことがある(二〇二〇年一月一五日)。
今日の名言 2021・9.5
◎菅総理、かわいそうに、ひでえ目に遭っている
昨4日、TBS系のテレビ番組に生出演したビートたけしさんが語った言葉。「安倍さんと麻生さん、裏であれだけやるなら、自分たちがやればいいじゃん。菅総理、かわいそうに、ひでえ目に遭っている。全部押しつけられて。コロナに押しつぶされちゃって」。菅義偉首相は、「安倍さんと麻生さん」の画策でつぶされたとする解釈である。昨日のネットニュース(中日スポーツ、22:56配信)による。