礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「日本改造法案」を借り、徹夜で写本した(岸信介)

2021-09-05 03:34:48 | コラムと名言

◎「日本改造法案」を借り、徹夜で写本した(岸信介)

 中谷武世『昭和動乱期の回想』(泰流社、一九八九)から、「昭和動乱前期の回想(対談)」を紹介している。本日は、その二回目。

 森戸事件と興国同志会の分裂――そして「日の会」の創立
 中谷 関係しなかったですね。それで興国同志会が分裂した動機は御承知のように森戸辰男事件で、これは今日の対談の準備に、念の為め一応調べて参りましたが、森戸辰男事件というのは、「大正九年、一九二〇年の一月に東大経済学部の森戸辰男〈モリト・タツオ〉助教授が、経済学部の機関誌の『経済学研究』の創刊号に『クロポトキンの社会思想の研究』という論文を載せた、ところが、この論文は危険思想の宣伝宜伝であるということで、上杉〔慎吉〕一派からクレームが出て、これを大学が取り上げて、結局森戸助教授は朝憲紊乱罪で起訴され、雑誌の名義人である大内兵衛〈ヒョウエ〉助教授は休職を命ぜられ、公判の結果森戸は社会の安寧秩序を乱すものとして禁錮三ヵ月、罰金二十円の刑に処せられ、大内は禁錮一ヵ月罰金二十円を科せられた」とこういう事件だったわけです。これにはいわゆる進歩義的文化団体や著作組合、学者団体等の反発を呼んで、言論の自由を圧迫するものだという反対運動が起こった。そして上杉博士の興国同志会の内部でも上杉さんの考え方に異論が出て分裂騒ぎにまで発展した、ということなんですが、当時渦中に居られた先生からその真相というものを承りたいと思います。
  あの時、問題になった森戸君の論文は、主として私有財産制に関する経済思想が紹介されておったのです。それで、われわれの考えている民族主義だとか、あるいは日本の国体問題ということとには直接関係はないじゃないか、そういうことについては、自由な意見の発表というのが、もちろん許されていいのだということ、そういうことから言って、国体に関する問題だとか、あるいは民族の伝統についてわれわれの考えと違うというのなら、これは大いに批判しなければならないけれども、社会主義の研究や、理論的な意味において私有財産制度なんかを論ずるのは一向差支えないじゃないか。今の私有財産制度は、無論我々も絶対のものとは思わない、そういうものに関しての研究なり論議なりは自由でいいじゃないか、それをまで圧迫するということは不合理だ、ということで、上杉博士やその周囲の人達とは我々は大いに意見が違い、到底一緒にやって行けない、ということで、興国同志会を解消して「日の会」を作ることになったわけです。それに森戸辰男という人の人柄が我々の仲間にも好感を持たれておったということもあります。大内君に対してはそうでもなかったが……。だからそういうことで森戸を告発したり、圧迫したりするという立場は我々は取らん、というのが私共の考え方で、それに対しあくまでも追求しようという一派と、我々と意見が合わなかったというわけです。
 中谷 上杉先生は学問の点では、岸先生に非常に嘱望されて、大学に残れと言われたこともあるやに承っておりますが、思想的には必ずしもついて行けなかったというわけですね。上杉直系で森戸事件について最も強硬論だったのは、天野辰夫君たちですか。
  天野辰夫君だな一番強かったのは。後に内務省の役人や司法官になった連中はやっぱり天野君に引っ張られたわけです。四高の小原〔直〕君あたりも強いほうだったね。
 中谷 そこで、その森戸事件がきっかけで先生と一緒に、「日の会」を作った人達が猶存社とか北一輝の方へ接近して行かれた動機はどういうことからですか。
  私は何かの機会に、誰に連れられて行ったのかはっきり記憶しないけれども、二~三人の学生と一緒に牛込の猶存社へ行って北一輝に初めて会ったわけだ。それまでに北一輝の書いた「日本改造法案」を、私は誰かからそれを借りて、一晩徹夜でそれを写本したことがあるが、あの考え方に非常に強い印象を受けていた、それでまあ猶存社に行って北に会うことになったのだと思う。私はあの北一輝の風貌に非常に魅力を感じた。彼はその時、辛亥革命の話をして、まず第一に、大学の制服を私は着ていたのですが、そしたら北一輝はそれを指差して、「この金ボタンの制服を見ると私は革命を思う、それは辛亥革命の時に、日本から帰ってきて革命に投じた若い中国人が、皆その金ボタンの服を着ておった」というのです。そういう話を聞いて私は非常に深い印象を受けた。大学時代は上杉先生には相当私も私淑もしておったし、上杉先生に対する尊敬の念は変わらないけれども、その外の人では、北一輝の印象が一番深く、今でもその時の感動を忘れ得ません。
 中谷 私の場合も全く同じなんです。私が行った時は猶存社は牛込から千駄ヶ谷に移っていまして、例の虎大尽といわれた山本虎三郎の屋敷で、フランスの詩人のポール・リシャールのおった家です。そこで北一輝に会った時、彼が最初に言った言葉がいま先生がいわれたのと同じなんです。金ボタンの学生がみな革命をやったんだ、革命は学生と兵士が主力だ、こう言うのです。例の独眼龍で、こちらの眼を見据えながら語る。非常に魅力的で、陸軍の青年将校なども、西田税〈ミツギ〉の手引きでこうして彼にひかれて行ったのだと思います。私としても、大学の講義を聴くよりは北一輝の話の方が面白く、それから屡々猶存社通いをし、時には毎日のように行ったこともあります。大学は、ちょうど上杉先生は森戸事件の後外遊中でして、憲法は美濃部〔達吉〕さんと筧〈カケイ〉〔克彦〕博士の競争講義で、私は両方聴きましたが、理論的には一応美濃部さんは筋が通っておったが、非常に独特なのは筧さんの講義でしたね。
  そうだったね。筧さんの講義は変わっていたね。
 中谷 ユニークな講義で、教室に入って来ると先ず黒板の方に向ってパンパアーンと拍手〈カシワデ〉を打ってから講義を始める。未だに私の思想の中に、筧さんの影響がかなり残っていると思います。神道哲学に基づく皇国憲法。皇学的法理論。非常に深い感銘を受けました。北一輝さんからも影響を受けたことは事実です。北一輝さんの思想は、根本はやっぱり民族主義ですね、革命的民族主義ですね。「国体論と純正社会主義」という大きな本がありますが、これは若い頃書いたのですが、これは国家社会主義、或は民族社会主義であって、マルクス・エンゲルス的社会主義じゃありませんね。【以下、次回】

 筧克彦博士が、講義の前に、カシワデを打ったという話は有名である。戦後、その講義内容について、批判的、冷笑的な回想をおこなう人が多かったなかで、中谷武世は、「未だに私の思想の中に、筧さんの影響がかなり残っていると思います。神道哲学に基づく皇国憲法。皇学的法理論。非常に深い感銘を受けました。」と回想している。これは、極めて珍しい例であろう。
 なお、法制史学者の嘉戸一将氏は、その著書『主権論史――ローマ法再発見から近代日本へ』(岩波書店、二〇一九)の中で、筧克彦の公法学について本格的な検討をおこなった。このことについては、当ブログでも、少し触れたことがある(二〇二〇年一月一五日)。

今日の名言 2021・9.5

◎菅総理、かわいそうに、ひでえ目に遭っている

 昨4日、TBS系のテレビ番組に生出演したビートたけしさんが語った言葉。「安倍さんと麻生さん、裏であれだけやるなら、自分たちがやればいいじゃん。菅総理、かわいそうに、ひでえ目に遭っている。全部押しつけられて。コロナに押しつぶされちゃって」。菅義偉首相は、「安倍さんと麻生さん」の画策でつぶされたとする解釈である。昨日のネットニュース(中日スポーツ、22:56配信)による。

*このブログの人気記事 2021・9・5(9位になぜか「ナチス」)

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岸・中谷「昭和動乱前期の回想(対談)」を読む

2021-09-04 01:00:03 | コラムと名言

◎岸・中谷「昭和動乱前期の回想(対談)」を読む

 最近、中谷武世(なかたに・たけよ)著『昭和動乱期の回想』上下巻(泰流社、一九八九)を購入した。著者は、昭和期の右派活動家・政治家である(一八九八~一九九〇)。昭和史の裏面(最深部)に関心を持つ者にとって、この本は貴重な「史料」である。
 その冒頭近くで、著者は、岸信介(一八九六~一九八七)との対談を記録した雑誌記事「昭和動乱前期の回想(対談)」(一九七六年一月)を引用している(上巻、三~一四ページ)。以下、何回かに分けて、これを紹介してみたい。

  大川周明との出会い、そして北一輝、鹿子木員信

 私が東大に入ったのは、恰かも此の森戸事件で興国同志会が分裂し、「日の会」が結成された直後のこと、といってもそれから半年余り経ってからのことである。〔一九二〇年〕九月末の或る日、東大の正門から真直〈マッスグ〉に安田講堂にまでつづいている銀杏〈イチョウ〉並木、此の銀杏の樹も相当の大木になっているが、当時はまだ若木であった―の下をブラブラ歩いて、三十五番教室の前に来ると、そこに法学部関係の掲示板があって、いろんな会合の告示が出ている。その中に「日の会」の会合の掲示が出ているのがふと目にとまった。これは、森戸事件の後で興国同志会が分裂し、「日の会」という新団体の出来たことが少し前の新聞に出ていたので、私は此の会に関心を持っていたからでもある。そこで私は此の「日の会」の会合に出て見ることにした。会合はたしか三十二番教室であったと思う。その頃の教室は、大講堂を除いて木造のものが多かった。この会合に出たことが、私にとっては、いわば運命的な出来事であって、私が自分の全生涯を民族運動に捧げ、八十九歳(昭和六十二年現在)の老齢の今日もなお、日本アラブ協会の会長としてアラブの問題特にパレスチナ民族の解放運勖に関係しているのも、大正九年の初秋のこの日に、「日の会」の会合に出席したことが機縁となってのことである。そして大川周明との最初の出会いも、此の「日の会」の会合に於いてであった。その経緯は、昭和五十一年〔一九七六〕一月号の「民族と 政治」に「昭和動乱前期の回想」と題する岸信介元総理と私との対談に、相当詳しく出ているから、左にその一篇をそのまま引用して、このつづきの記述に代えることにする。

 昭和動乱前期の回想(対談)
  内容目次
 大正八、九年頃の東大とその学生運動
 森戸事件と興国同志会の分裂――そして「日の会」の創立
 北一揮、鹿子木員信、大川周明
 日本の民族主義学生運動とインド独立運動の結びつき
       語る人  岸 信介
       聴く人  中谷武世
       と き  昭和五十年十一月二十一日
       ところ  岸事務所

 大正八、九年頃の東大とその学生運動
 中谷 きょうは岸先生の東大学生当時のこと、そしてやがて官界、政界に入って行かれる過程やその頃の日本の社会情勢や思想動向について先生の回顧談を中心に承りたいと思います。そしてその序論といいますか、水先案内の意味で、先ず私の方から、私が東大へ入った前後の事情から申上げることにいたします。といいますのは、私が東大に入って、「日の会」という民族主義の団体の幹事をやり、それから日本の民族主義の運動、やがてアジア・アフリカの独立と解放につながる民族運動に生涯を打ち込むことになっていくその契機になりましたのも、やはり、先生方が東大内にお作りになった「興国同志会」、後に「日の会」というものの関係からなんです。そしてその最初の機縁になりましたのが、私の八高〔名古屋〕時代に、御存知でしょう、先生と同級の塩原時三郎。
  ええ、塩原君。あれは東大時代興国同志会の常任幹事をやって、卒業後は通信省に入り、戦後は一、二回代議士にもなったね。
 中谷 その塩原君が紀平正美〈キヒラ・タダヨシ〉先生と共に東大の学生を四、五名連れて、八高にやってきまして、われわれは東大に「興国同志会」という会を作ったから、君等が東大に来たらこれに入って呉れ、というスカウトに来たわけです。それで私は大正九年の九月東大に入りまして、例の名物の銀杏の樹これは当時まだ若木でしたが、 その下をブラブラしていますと、「日の会」の集会の掲示が出ている、たしか三十三番教室でしたね、よく「日の会」の集会をやったのは……。
  大きなのは三十二番教室で、我々がよく集会をやったのは、あれは三十三番教室でしたかね……。
 中谷 それでその「日の会」の会合に出て見たわけです。当時は九月に高校から大学に入学したわけですから、銀杏の葉がやっと黄ばみ始める頃なんです。
  そう、そうだったね。
 中谷 その日の「日の会」では三十人ばかり学生や先輩が集まっておりまして、誰か背の高いどぎつい近眼鏡を掛けた男が講演しているのです。それが大川周明なんです。
  ほほう、大川周明君。
 中谷 そして、会が終って、大川と二人でお茶の水の駅まで話しながら歩いて行きました。これが私と大川周明との最初の出会いです。当夜の大川の話は、「マルクスは万国の労働者団結せよと言ったが、万国の労働者は決して団結しない。その実例はアメリカのIWWにしても、クークラックス・クランにしても、皆な日本の移民を迫害しているではないか、白人労慟者が有色人の労働者を迫害しているんだ」と言うような趣旨の話でした。おもしろいことを言うなと思いまして、会が終ってから私の方から新人の挨拶をしたわけです。そして 帰りにブラブラ歩きながら、私の方からもアジアの民族運動について関心を持っているという話をしたら、君、明日満鉄に寄ってくれ、紹介したい人がある、というので翌日満鉄に行きましたら、これから北一輝のところに行こうというわけです。それで大川と、そこで紹介された笠木良明〈カサギ・ヨシアキ〉と共に猶存社〈ユウゾンシャ〉に行った。そこで大川の紹介で初めて会ったのが北一輝。当時猶存社は千駄ヶ谷の、今の鉄道病院のあたりに在りました。先生が北一輝とお会いになったのはやはり猶存社ですか。
  私も東大の学生時代に初めて北一輝に会った、やはり猶存社で、しかし猶存社はその時は牛込の南町に在った。それから暫くして千駄ヶ谷の方に移ったようだね。
 中谷 兎に角〈トニカク〉、北一輝には初対面から非常な魅力を感じました。その後、屡々笠木君や島野三郎君(満鉄社員、ロシア通、昭和五十七年三月歿)と猶存社に行って、北一輝の革命論を聞かされたわけです。勿論六ヶ敷い〈ムズカシイ〉講義風に聴いたわけでなく、支那革命の回顧談や、冗談まじりの世間話の合間合間に、革明論をいつとはなく注入されたわけです。
 そこで先生に承りたいのは、私が東大に入った当時の「日の会」は上杉〔慎吉〕博士を中心の「興国同志会」から分裂した直後の「日の会」でしたが、その興国同志会から「日の会」に移る経緯です。私が「日の会」に入るについて、指導者は誰だと聞いたら、興国同志会の時は上杉博士が中心だったが、今度はそういうことではなくて、学生の自主的集まりだ、しかし先輩としては、文学部の講師の鹿子木〈カノコギ〉〔員信〕博士と大川周明だ、というわけです。学生の中心は誰だと言ったら、君等とは入れ変わって卒業してしまったけれども、岸信介というのがおって、これが非常な秀才で「日の会」の規約も岸が作ったのだというのです。その話をしたのが三浦一雄(後の代議士、農林大臣)なんです。
  ああ、三浦一雄ね。あれは二高〔仙台〕組だった。私と一緒に興国同志会から「日の会」を作った一人だ。
 中谷 それでまあ、その頃から一遍先生にお目にかかりたいと思っていたのですが、機縁がなくて、初めて先生にお会いしたのは満州国の実業部の次長をしておられた時です。それで先生と私とは大学は入れ替わりで、先生が残していった「日の会」の仕事を私が引き受けたわけです。そこでお伺いしたいのは、当時「日の会」の幹事をやっておったのは、私の知るかぎりでは今の三浦一雄、それから田原内蔵太郎、これは弁護士になりましたね。
  そう、田原内蔵太郎、大石内蔵之助の内蔵〈クラ〉と書く……。
 中谷 そして笠木良明、皆川豊次〈トヨジ〉、そういう連中でしたね。他にございましたか。
  一高からは田原と石井康〈コウ〉が一緒だった。これは外交官になった。そして笠木君や三浦君は二高です。
 中谷 八高の連中は上杉先生直系が多かったですね。塩原時三郎、天野辰夫。これ等は「日の会」にこなかったですね。
  それに上杉さんの関係で四高の連中がおったね。小原直〈オハラ・ナオシ〉君等もそうだ。それからこれは早く死んだけれども宮島信夫、これも四高、金沢ですよ。
 中谷 当時の「日の会」、前身の興国同志会、それと吉野作造博士が中心の新人会が東大内の学生団体として対立しておった。妙なもので新人会の出身者がそれぞれ後の社会主義政党の指導者になりましたね。そして 興国同志会、「日の会」の先輩が後の保守党、今の自民党の指導者になっている。
  私のクラスで社会主義のほうにいったのは三輪寿壮〈ミワ・ジュソウ〉、あれは私の一高時代からの非常な親友の一人で、大学にいって後は彼は新人会に入るし、私は上杉さんの木曜会に入る、これはその後の興国同志会になったわけだけれども、そこで社会とか国家に対する考え方は三輪君と私とは大分違ったんだけれども、しかし彼の死ぬまで交友をつづけたもっとも親しい友人の一人でした。今言われるように、大学の先生では吉野先生と上杉先生、美濃部〔達吉〕先生は学生運動に関係はしなかった。【以下、次回】

 この対談で、中谷武世は、‶興国同志会、「日の会」の先輩が後の保守党、今の自民党の指導者になっている〟と指摘している。岸信介は、この中谷の指摘を否定していない。
 ここで注意しなければならないのは、「後の保守党、今の自民党」という表現である。北一輝や大川周明に思想的影響を受け、興国同志会、「日の会」のメンバーであった岸信介は、昭和前期の「革新官僚」であった。建国間もない満洲国に赴き、「満州産業開発五カ年計画」を策定し、その後、東条内閣の商工大臣として、商工経済会設置法を成立させている。そういう岸は、断じて「保守派」ではない。あくまでも「革新派」である。戦後の自由民主党は、その岸を、三代目の総裁に担いでいる。簡単にこれを、「保守党」と呼んでよいのか。
 今は、問題提起にとどめておくが、この問題は、いずれこのブログで、ジックリ論じたいと思っている。

今日の名言 2021・9.4

◎菅総理、本当に立派に務めていただいた

 昨3日、菅義偉首相は自民党総裁選に出馬しない旨を表明した。この表明を受けて、安倍晋三前首相が山口県宇部市で記者団に語った言葉。同日のネットニュース(TBS NEWS、16:13配信)による。なお、安倍晋三氏は、岸信介元首相の孫(岸信介の娘の子)に当たる。

*このブログの人気記事 2021・9・4(2位になぜか『かたわ娘』)

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運転手の職務放棄でバスが動かなかった(1945・8・16)

2021-09-03 00:03:12 | コラムと名言

◎運転手の職務放棄でバスが動かなかった(1945・8・16)

 昨日の続きである。終戦の翌日、一九四五年八月一六日(木)に家を出た原田種成一家は、その日は、中之条町折田在住の教え子・折田秀一宅に一泊し、翌日一七日(金)は、長野原町在住の知人・桜井東介氏の紹介で、同町の川原湯温泉・敬業館に一泊した。その際、桜井東介氏から、「宿泊用の米」まで提供されている。敬業館での宿代も、かなり割引いてもらったはずである。ずいぶん、恵まれた身分ではある。
 八月一八日(土)に前橋に戻ると、部屋を借りている農家から、「部屋を明けてほしい」と通告された。このとき、原田種成は考えもしなかっただろうが、「養蚕を始めるので」という農家の言葉は、単なる口実だったと思う。「終戦と知って、すぐに温泉に出かけるような気楽な一家には、もう部屋など貸したくない」というのが、農家のホンネだったろう。露骨に、「出ていってくれ」と言わなかったのは、群馬師範学校教授という身分(高等官)に対する遠慮があったからであろう。
 ところで、昨日、紹介した文章には、次のような一節があった。

 三人の子供を連れ、市内電車に乗って渋川に行き、中之条行きのバスに乗って中之条に着いた。そのころは吾妻線が未完成で、鉄道はなかった。吾妻線は小串鉱山から採れる鉄鉱石と火薬に必要な硫黄を運ぶために突貫工事をしていたがまだ完成していなかったのである。中之条で長野原行のバスに乗換えようとしたが、バスの運転手が戦争に負けたことに腹を立ててどこかへ行ってしまって今日はバスが動かないという。

 当時の交通事情がうかがえる貴重な証言である。「市内電車に乗って渋川に行き」とあるが、この「市内電車」というのは、東武伊香保軌道線(東武鉄道伊香保線)のことである。この電車は、前橋線・高崎線・伊香保線の三路線からなっていたが、原田一家が乗ったのは、前橋から渋川にいたる前橋線であろう。ウィキペディア「東武伊香保軌道線」によれば、前橋線は、一九四五年八月五日の前橋空襲によって、前橋駅前―岩神(いわがみ)間は、しばらく運休となっていた。原田一家は、岩神以北のどこかの駅で前橋線に乗車し、渋川駅前で下車したものと思われる。
 渋川からは、中之条行きのバスに乗ったとある。文脈からすると、このバスは、省営自動車線吾妻線のバスだったと思われる。東亜交通会社『時刻表』第二〇巻第一一号(一九四四年一二月)一六七ページによれば、その当時、東武自動車会社四万(しま)線が、渋川から中之条経由で四万に至るバスを運行していた。原田一家が、この四万線のバスに乗車した可能性も、否定はできない。ちなみに、四万線のバスを利用した場合、渋川―中之条間の所要時間は一時間四五分前後、運賃は一円一〇銭である。
 なお、同『時刻表』同号の一七三ページによれば、省営自動車線吾妻線は、起点が渋川で、終点は、県境を越えた真田であった(長野県小県郡〈ちいさがたぐん〉真田町〈さなだまち〉)。また、ウィキペディア「吾妻線」は、吾妻線は、一九四五年八月五日に、渋川駅―中之条駅間一九・八㎞で、鉄道による旅客営業が開始されたと記している。しかし原田一家は、営業開始間もない、その「鉄道」には乗っていない。渋川―中之条間を鉄道が走るようになった後も、引き続き、同区間を省線バスが走っており、原田一家は、そのバスのほうに乗ったのであろう。
 中之条に着いた一家は、そこで長野原行のバスに乗換えようとした。しかし、運転手の職務放棄という事件があって、バスが動かなかったという。当時、こうした理由による交通機関の運休が、ほかでも頻発していたのかどうか、そうした事例を記録している資料があるのかどうか、ぜひ知りたいところである。

*このブログの人気記事 2021・9・3(9位の「ぴよぴよ大学」は久しぶり)

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終戦の翌日、温泉旅行に出かけた原田種成一家

2021-09-02 01:46:26 | コラムと名言

◎終戦の翌日、温泉旅行に出かけた原田種成一家

 先日、深い考えもなく、『漢文のすゝめ』(新潮選書、一九九二)という本を買い求めた。著者は、『大漢和辞典』の編纂に尽力したことで知られる漢学者の原田種成(たねしげ)である(一九一一~一九九五)。
『漢文のすゝめ』というタイトルは、同書の内容を正しくあらわしたものではない。この本は、漢学研究を中心とした、原田種成の自伝的回想である。
 どのページを開いても、興味深い記述にぶつかるが、本日は、終戦直後に、一家で温泉旅行に行ったという話を紹介してみよう(一七四~一七五ページ)。

 八月十四日(火) 明日の正午に重大放送があると知らされた。その夜、空襲警報が発令され、高崎・伊勢崎と熊谷が焼夷攻撃された。しかし、これは小規模なものであった。
【一行アキ】
 八月十五日(水) 十一時ごろに〔群馬県勢多郡〕富士見村の須田秀吉氏宅を訪い、正午の玉音放送を聞いた。初めの部分を聞いて、無条件降伏だと覚り、やれやれこれで助かったと思った。軍は本土決戦を呼号し、関東平野が戦場となり、私は家族を連れて逃げまどう姿を想像していたので、心の底からやれやれ助かったと思ったのである。
 緒戦のころ、もしこのまま日本が勝ったり、和平交渉が成立するようなことがあったならば、我が国は軍人が威張り散らす国になって、手がつけられない状態になり、ついには破滅に至るのではないかと私は心配していた。敗戦となり、世間には神風は到頭吹かなかったという声があるが、私は真に日本国家のことを憂えた神が国家の将来を危くした横暴な軍部を一掃するために敗戦という神風を吹かしたのであろうと思った。
【一行アキ】
 私の場合は戦災に遭ってから終戦まで間が十日ばかりであったが、東京で二月三月ごろに戦災に遭い、中には焼け出されて頼って行った先でもまた戦災に遭ったという人もあり、 それ以来、半年ほども罹災者の暮らしをしていた人に比べれば、前橋に住んでいて幸いだと思った。
 敗戦、無条件降伏ということは国民生活の上にどういうことが起るのか。全く予想がつかない。しかし、ともあれ空襲警報のサイレンは鳴らず、長い間の灯火管制の暗い生活から開放され、久しぶりに明るい電灯の下で夜の食事ができた。
 私は妻に言った。長い間、ほこりまみれ、汗まみれの暮らしが続いたので、ここで一つ温泉に入って戦争に負けた垢【あか】をきれいに洗い落そうではないかと。長野原の桜井さんの親戚が川原湯で温泉旅館をやっているので出かけることにした。
【一行アキ】
 八月十六日(木) 三人の子供を連れ、市内電車に乗って渋川に行き、中之条【なかのじよう】行きのバスに乗って中之条に着いた。そのころは吾妻【あがつま】線が未完成で、鉄道はなかった。吾妻線は小串【おぐし】鉱山から採れる鉄鉱石と火薬に必要な硫黄〈イオウ〉を運ぶために突貫工事をしていたがまだ完成していなかったのである。中之条で長野原行のバスに乗換えようとしたが、バスの運転手が戦争に負けたことに腹を立ててどこかへ行ってしまって今日はバスが動かないという。仕方がないので〔群馬県吾妻郡〕中之条町折田【おりた】の予科三年生の折田秀一の家へ行って事情を話して一晩厄介になった。
 翌日、長野原行のバスが動いた。〔吾妻郡〕長野原町大津の桜井氏を訪ね、川原湯温泉への案内を頼んだ。東介さんが宿泊用の米を用意して敬業館という宿へ案内してくれた。座敷へ通され、温泉に入ってたまった垢を落し、久し振りにゆったりした気分になった。別の部屋のほうを見ると学童疎開らしい子供たちが大勢いた。まだ東京へ帰る手はずにならないらしい。
【一行アキ】
 八月十八日(土) 前橋へ帰ると、部屋を借りている農家で、戦争が終ったから養蚕を始めるので部屋を明けてほしいと言われた。前橋市の八割も戦災で焼かれているから、貸家はもちろん貸間も求めることができない。どうすればよいか、思案した。
 そのころ前橋市で罹災者のために戦災住宅を斡旋する話があった。それは焼け跡に六坪の家を建てるものであった。
 しかし、敗敗によって我が国を占領した米軍が、真っ先に解体したのは軍と内務省であったが、その次は教育制度の解体、特に師範教育の改革がなされるであろうと推測した。そうなれば師範学校はなくなりはしないか、教授の職を追われるのではないか、前橋に住んでいることができなくなるのではなかろうかとも思案した。今から思えば杞憂に過ぎなかったことをその当時には真剣に憂慮したのだった。だから、身の振り方が決まるまで、仮の住居を何とかしなければならないと考えたのである。【今回の引用は、ここまで】

 若干、コメントさせていただく。原田種成は、玉音放送を聞いて、「やれやれ助かった」と感じたという。そのように感じた日本人は、少なくなかったと思う。しかし、翌一六日から、温泉旅行に出かけた一家というのは、全国的に見ても珍しかったのではなかろうか。
 ちなみに、原田一家が泊った敬業館は、八ッ場(やんば)ダムの建設にともない、二〇〇八年八月閉館。今は、ダム湖の湖底に沈んでいるはずである。【コメント、もう少し続く】

今日の名言 2021・9・2

◎日本国家のことを憂えた神が敗戦という神風を吹かした

 8月15日の玉音放送を聞いた原田種成は、「敗戦」をそのように理解したという。上記コラム参照。

*このブログの人気記事 2021・9・2(8位の吉本隆明は久しぶり)

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東条さんから多分の弁護料を頂いております(清瀬一郎)

2021-09-01 02:42:49 | コラムと名言

◎東条さんから多分の弁護料を頂いております(清瀬一郎)

 太田金次郎『法廷やぶにらみ』(野口書店、一九五九)から、「東京裁判について」の章を紹介している。本日は、その二回目(最後)。
 
皮肉な法廷市ガ谷台に  東京裁判の法廷は、かつて日本陸軍の中心、陸軍省や大本営陸軍部の立籠った市ガ谷台に設けられた。
 その坂を登りおりする被告たちは、かつて星のマークのついたカーキ色のハイヤーで風を切って登りおりしたものである。それがこんどは米軍の大型バスで、法廷に通いつづけ させられたのだ。しかも、かつてアジアの地図をひろげて「八紘一宇」を豪語、戦争謀議をくりひろげた心臓部のその部屋は、被告の控室となり、東条総理が全陸軍に号令したその大講堂は彼ら自身の夢を裁く法廷とかわったのである。まったく皮肉な運命のめぐりあわせである。
 オーストラリアのウェッブ裁判長は、日本タイムズの社説をとりあげ「ここに私は濠洲第一の判官であると書かれてあるがそれは間違いである。私は濠洲で七番目の判事です」
 と真顔でいったことがある。
 その彼が、証人台に立った米内光政〈ヨナイ・ミツマサ〉元大将に対して、氏の応答がとかく的はずれで審理がさっぱり進まないのにゴウを煮やし、
「証人、今まで幾人かの日本の元首相が証人台に立ったが、その中であなたが一番馬鹿な総理大臣です」
 と、語気するどくいった。なみいる日本人はびっくりしてしまったが、ウェッブ氏自身はその後ケロリとしている。これは吉田〔茂〕元総理大臣が、思わず「バカヤロ!」といってしまったのと同じ心理状態だったのかしれない。とにかく人間は、たまには大きな声で「バカヤロ!」といってみたいものなのである。
 アメリカのタベナー検事は、いかにもヤンキ一といった感じで、ちょっと廊下で逢っても向うから「やあ、どうですか」とニコニコ話しかけてきて、全く嫌味のない好紳士だった。その円満な応酬ぶりは多くの人に好感をもたれた。
 一方、イギリスのコミンズカー検事は、ねばり強くからみついて、狙ったが最後、カミナリが鳴っても逃がさないといった英国人独特の強じんさがある。
 被告たちが異口同音に「デタラメ日記だ」とこきおろした原田〔熊雄〕西園寺日記を反ばく、証拠の中核にして、ともかくグウの音もでないところまで追いこもうとしたやり方なども、この人の性格をよくあらわしている。
「金曜日に窃盗を働きながら、土曜日には善人ですといっても、それはダメだ」
 などと、時にはこんな皮肉まじりのたとえをひくのも英国人らしい。
 とにかく被告にとっては余りありがたくない検事であった。
 この裁判では弁護人として一様に証人のひきだしに苦労した。グレン隊ややくざの裁判に証人をひきだすことがむずかしいように。
 それは「戦犯の弁護のための証言などは真ッ平だ」とか、被告たちの弁護のために有利な証言をすることが、何か当時の風潮に適応しないというような小さな考えから出ているようであるが、わたくしも愛沢誠氏(元奉天特務機関雇員〈コイン〉)を証人として連れだすのには苦心した。
 というのは、彼は当時間組〈ハザマグミ〉の中国語通訳として勤めており、仕事の関係で中国側代表部との連絡にあたっており、土肥原さんのために証人台に立つようなことになれば、中国側との間がうまくないといって会社をクビにされるかも知れぬ、そうなれば一家五名はその日から路頭に迷わねばならないという。
 まことに切実な訴えであった。しかし我々としても絶対必要な証人ときているのでやめるわけにはいかぬ。そこでわたくしは、
「もしあなたが証言台に立ったために会社のほうがダメになるようだったら、わたくしがあとの就職はひきうけましょう」
 といって、まあ本人としても悲壮な覚悟で立ってもらったのだが、幸いにして愛沢証人のクビは無事であったので、わたくしもホッとしたものである。
毎月赤字つづきで弁護  「太田君は東京裁判をやって三年間に三百万円は損をした」などといって、馬鹿にするような同情めいた口ぶりの友人もある。
 もちろん官選弁護人の費用は鵜沢聡明〈ウザワ・フサアキ〉弁護団長はじめ、われわれにも一様に月額四千五百円であった。とうてい足りるわけはない。アメリカ人と一度宴会をやれば、最低三千円はかかる。これを差引けば、わたくしの手取りは千五百円である。したがって毎月赤字つづきであった。
 清瀬〔一郎〕弁護人などは、「私は官選の費用は辞退します。私は東条〔英機〕さんから多分の弁護料を頂いておりますから」といっておられた。
 わたくしは土肥原賢二元大将からは一銭も現金はもらわなかった。そのかわり大将の大切な品を貰っている。
 大将の親友で工学士の上島慶篤氏から、大将の命をうけたといって白玉〈ハクギョク〉の刀を一本、箱入りで届けてきた。
 その時、上島氏は、「土肥原大将はああいう人ですから、お金は全然ありません。よって、この品をお届けするようにというので持ってきました。
 この白玉の刀は非常に貴重なもので、日本でいえば草なぎの剣〈ツルギ〉にもひとしい由緖あるものです。平和条約締結後は、二百万ドルに売れます。どうかそれまで絶対にお売りなさらず、大切に保存しておいて下さい。早まって売り、市中にでれば、中国関係筋に没収されますから、くれぐれもそういうことのないように御注意を願います」
 というのである。
 わたくしは正直にこの言葉を真にうけて、いまなお大事に保管している。
 二百万ドルといえば、邦貨に換算して、まさに七億二千万円である。すでに平和条約も締結され、売ってもよい時機になっているのだが、さてなかなか買手がみつからない。
 幸い買手があってこちらのいう値で売れれば、わたくしは先に三百万円損をしているが、 とにかく七億二千万円は手に入るのである。そうなれば、全国在野法曹六千人の中でも、自慢じゃないが相当な金持になれる。
 広い世間だ、何とか買手はないものかとそればかり念願している。
 わたくしはこれが売れたら郷里三河に帰って、選挙に専念して、少年時代に描いた弁護士、代議士、大臣の希望を実現したいと思っている。いや、冗談ではない、本気である。
 多数の読者諸賢のなかには、ご奇特な方もあるであろうことを確信する。金のある方は ご遠慮なく買っていただきたい。どうか太田弁護士をして、宝の持ちぐされたらしめないよう御協力あらんことを切望する次第である。

 文中に、「白玉の刀」なるものが出てくるが、正体は不明。仮に、由緒あるものだとすれば、土肥原がそれを入手した経緯が問われなければならない。

今日の名言 2021・9・1

◎あなたが一番馬鹿な総理大臣です

 東京裁判において、ウェッブ裁判長が、米内光政元首相に向って放った言葉。上記コラム参照。

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