礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

突如、ヘレン・ケラー女史が僕のアパートに

2021-09-10 00:08:28 | コラムと名言

◎突如、ヘレン・ケラー女史が僕のアパートに

 須磨弥吉郎『外交秘録』(商工財務研究会、一九五六)から、「ケ女史へ秋田犬」の章を紹介している。本日は、その後半。

 女史が称える忠実さ
 昭和十三年の十月であった。神風号がディステムバー〔distemper〕にでも冒されたのではないか、それともニュー・ヨークの気候の変化が祟っているのではなかろうか。なんぼ呑気な僕でも、こんなことが気になりかけた頃、突如女史がブロードモアの僕のアパートに現われた。
「疾うに、お礼に来るはずなのに、ついかけ違って失礼しました。神風号は全く、世界のどこの犬も及ばない鋭敏な犬です」
「鋭敏ですか? 私は実に鈍感と思っていましたが」
「いや、私はこんな不自由な身体ですから、神風号の耳の動き方と、あの房々した尾の振り方の触感から、実に濃やか〈コマヤカ〉な感触を受けるのです」
「それは驚きましたが、外に何か特質がありますか」
「吠えないで忠実なこと(バークレス・ロイヤルティ)は、世界中の犬の中で特有なものでしょう」
「そうですか。それで想い起しますが、秋田犬は、喧嘩をして吠えた方が負けになります」 「それでは、秋田犬は決して負け犬(アンダー・ドッグ)にはなりません」
「そう、そう」 僕は声高らかに答えながら、自分でもおかしさがこみ上げてきた。というのは、その頃アメリカの方々に演説に出かけて、日華問題について話すと、その後の質問には、必ず一つ二つ、日本は友邦をアンダー・ドッグ扱いにして怪しからん、という表現のあることが、この女史の言葉で急に僕の頭に甦ってきたからであった。

〔※「昭和十三年の十月」とあるが、昭和十二年(一九三七)の十月の誤りであろう。日本から、すでに神風号が到着し、まだ元気だった時点での話と思われる。「ブロードモアの僕のアパート」とあるのは誤記か。ブロードモア(Broadmoor)は、コロラド州にある観光地である。〕

 神 風 号 の 急 死
 二人で笑い合ってから女史は続けて云った。
「それから、秋田犬は何となく頼もしいですよ」
「けれども僕の印象では、シェパードなどに比べて気が利きませんですね」
「そうでしょうね。けれどもそこが良い点ですね」
「というのは?」
「私の印象では、秋田犬は黙々として忠実であって、仮にシェパードのようにすばしこくは立ち居振舞はしないが、永い一生の間には、何時かは大きなサーヴィスを示すだろうことは明らかに分ります」
「なるほど、そんなことがどこで分りますか」
「私はその耳と尾とそして鼻からそれを感じます」
と自信ありげにいった後で、さらにつけ足した。
「もちろん、それは分りませんよ。一生そんなことがなくて終るかも知れませんが、ともか く、そういう質〈タチ〉の犬ですね」
 僕は自分のことを褒められるよりも、一層嬉しかった。
 しかし薄倖の神風号は、それから間もなく女史が南の口スアンジェルスに連れて行ってから、気候の急変で死んでしまった。
 終戦後、女史が日本を訪れた時には、秋田犬を買っていった。その犬は今どうしていることか。僕のところには総あかの牡、鳥海太郎と、牝の照号のほか、当選祝いに阿仁合〈アニアイ〉の方から頂いたごまの阿仁王号がいる。いずれも元気でピンピンしている。秋田犬保存協会の会長である僕が、その一生一度のサーヴィスを想像してみるのも面白いことである。

「ケ女史へ秋田犬」の章は、ここまで。ヘレン・ケラーと秋田犬との関わりに興味をお持ちの方には、秋田犬新聞「ヘレン・ケラーと秋田犬の深くてうるわしい関係」(https://akitainu-news.com/archives/935)の参照をおすすめする。ヘレン・ケラーが秋田を訪問したときの新聞記事、神風号の死を伝えるヘレン・ケラーの手紙などが引用されている。
 須磨弥吉郎の『外交秘録』は、この章に限らず、厳密さに欠ける(信用しかねる)記述が目立つ。しかし、そのことを承知しながら読めば、有益にして興味深い「史料」と言えるだろう。同書の紹介は、明日以降も続ける。

*このブログの人気記事 2021・9・10(10位になぜかムー大陸)

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ヘレン・ケラーと秋田犬「神風号」

2021-09-09 01:44:27 | コラムと名言

◎ヘレン・ケラーと秋田犬「神風号」

 アメリカの教育者ヘレン・ケラー(一八八〇~一九六八)が、日本の秋田犬(あきたいぬ)を高く評価し、実際に飼っていたことは、よく知られている。
 インターネット情報によれば、ヘレン・ケラーは、一九三七年(昭和一二)四月に訪日し、六月には秋田を訪れた。秋田では、「秋田犬が一疋ほしい」と希望し、その希望に答えて、秋田警察署の小笠原一郎巡査が、秋田犬の子犬を贈ったという。
 一方、須磨弥吉郎著の『外交秘録』(商工財務研究会、一九五六)という本によれば、ヘレン・ケラーに秋田犬を贈ったのは、「僕」(須磨弥吉郎)ということになっている。外交官の須磨弥吉郎(一八九二~一九七〇)は、ヘレン・ケラーと面識があり、しかも秋田県の出身であった。秋田犬の贈呈をめぐって、須磨も何らかの役割を果たしたのかもしれない。
 参考のために、『外交秘録』「ケ女史へ秋田犬」の章(一三七~一四二ページ)を、二回に分けて紹介してみたい。なお、引用の途中で、引用者の注〔※ 〕を挿むことがあるので、あらかじめご承知おきいただきたい。

    ケ 女 史 へ 秋 田 犬
 
 ケラー女史と秋田犬
 動物の中で犬ほど賢いものはない。大正の末頃、東京でアイリッシュ・セッターを飼っていたが、電車に轢かれた。荻窪に住むようになってから、ポインターを手に入れたが育たなかった。ヨーロッパではシェパードを育てた。
 しかし、概して西洋種は飼主が変ると直ぐ忘れてしまうのは、いかに畜生とはいえ面白くない。その点ではやはり日本犬、特に秋田犬に及ぶものはない。
 大正十二年の秋、ワシントンに着任して間もない頃であった。ニュー・ヨークに講演を頼まれて行くと、会が終ってからへレン・ケラー女史に紹介された。聾唖ながら慧智の発逹した人であることがひと眼で分った。この頃、もう日華事変が始まっていたから、話は特に限られていた。日本に直接関係ある話はなるべく避けるふうであった。
 それなのに、女史は口を切った。
「日本犬というのは忠実だそうですね」
「ええ、中でも私の郷里である秋田の犬がそれで有名です。忠犬ハチ公というのがありまし て、人間を凌ぐ心意気だというので、渋谷駅の前に銅像まで立っています」
「それは面白いですね。私はもう十七匹もの世界の名犬を飼ってみましたが、まだそんなのに当りませんですよ」

〔※「大正十二年の秋」とあるが、昭和十二年の秋の誤りであろう。須磨弥吉郎が駐米大使館参事官として渡米したのは、昭和一二年(一九三七)であった(月日は不詳)。なお、この年の七月に、日華事変(日中戦争)が始まっている。〕

 神 風 号 を 贈 る
 会話がここまできて僕は急に思いついた。
「試しに秋田犬を飼ってみませんか」
「それは好むところですが、今といってもありませんから」
「もし、お試しなら、ちょうど僕の郷里ですから、一匹取寄せて差上げますが」
「本当ですか、まあ嬉しいこと」
 僕は女史よりも嬉しかった。
 その頃、もう日本品をボイコットする婦人会が組織されるという論があり、女史はその会長に擬せられていたから、この秋田犬のことが縁となって、仮に女史が会長に就任したにし ても、僕の気持はいい。それよりも何にしても秋田犬の世界的価値が判るのだ。人にしてお国自慢でないものはない。僕はこの話で、色々な感情が満たされた。
 二ヵ月と経たないその年の暮頃、総あかの牡犬が届いた。神風号(ディヴァイン・ウィンド)と命名して女史に贈った。
 パナイ号事件〔一九三七年一二月一二日〕はその年のクリスマスに解決はしたものの、日米間係は急角度に悪化した。女史は案の条、日本品ボイコット婦人会の会長に就任した。
 僕はいつでもこんな時には憤らないコツを覚えた。国際交渉でも、個人の場合と同様、憤激する方が損をする。結局は永い眼で物事の推移を静観している方が勝つのだ。
 そうはいうものの、神風のことが気になった。というのは、ちょうど犬が到着した時には 女史は旅行中だったので、秘書に渡したままであったから、この犬に対する女史の感想がまず聴きたかった。

〔※須磨は、日華事変が始まった年(一九三七)の秋に、ワシントンでヘレン・ケラーに会い、秋田犬を贈る旨を申し出た、と書いている。これは記憶違い、もしくはウソである。ヘレン・ケラーは、一九三七年(昭和一二)四月に訪日し、六月一二日には秋田にやってきた。秋田では、「秋田犬が一疋ほしい」と記者団に語っている(「秋田魁新聞」六月一三日朝刊)。これを受けて、秋田警察署の小笠原一郎巡査が、秋田犬の子犬を贈る旨を申し出たという(「秋田魁新聞」六月一五日朝刊)。これらから、同年の秋に須磨が、ヘレン・ケラーに、「一匹取寄せて差上げますが」と持ちかけ、彼女が「本当ですか、まあ嬉しいこと」と応じたことは、ありえない。ただし、この子犬の「取寄せ」にあたって、須磨が関与していた可能性はあるだろう。また、「二ヵ月と経たないその年の暮頃、総あかの牡犬が届いた。」とあるが、「その年の暮頃」というのは正確でない。神風号と名づけられたこの犬は、アメリカに渡ってきたあと、同年の一一月一九日に病死しているからである。〕【以下、次回】

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香港のIDカードのルーツは「良民証」か

2021-09-08 00:23:20 | コラムと名言

◎香港のIDカードのルーツは「良民証」か

 数日前、インターネット上の「理論と知識」(theory-and-knowledge)というサイトで、‶「日本のDXが遅れている理由」香港と比較し、分析した〟という記事を読んだ。執筆は、武田信晃氏である。
 それによれば、香港では、「香港版マイナンバーカードとなるIDカード」が発行されており、香港では自宅から100メートル以上離れるときは、このIDカードを携行しなければならない、などとあった。
 一読して、大いに啓発されたが、個人的には、次の指摘に関心を持った。

 ちなみに、この香港のIDカードの原形は第2次世界大戦中、日本軍が香港を一時占領していた時に、身分証の制度を作ったことから始まる。住民票の制度がないことから、軍が実態を把握して統治しやすくするために創設したもので、終戦後はイギリス統治下に戻ったが、1949年になると、当時の香港政庁も今の形の身分証システムを法律として制定したという背景がある。

 ここに、「日本軍が香港を一時占領していた時に、身分証の制度を作った」とあるが、この身分証というのは、日中戦争の際、日本軍が占領下の住民に交付した「良民證」ではなかったのか。
 戦中に発行された研文書院出版部編・石川雅山書『興亜国語 新辞林』(研文書院、一九四一年三月)という本がある。「日支」辞書を兼ねた実用小辞典である。この小辞典については、当ブログで、一度、紹介したことがある。巻末に、「日華実用会話」という付録がついていて、そこには、次のような「軍用会話」の例が載っている。

    歩 哨(歩哨)
止まれ          住住別走
オイ、一寸待て      唉・等一会児
両手を上げろ       両手挙起来
上げぬと射つぞ      不挙手要打了
お前は何者だ       你是幹甚麼的
立入禁止の布告文を読まなかつたのか
             没看見貼看不準進入的佈告嗎
あつちへ行け       上那辺児去
こちらに来い       到這児来
此処は危険な場所だぞ   這児危険哪
此処はお前達が通る処ではない 這児不是你們走的
荷物を持つて通つてはならぬ 不準帯着東西過去
車を曳いて通つてはならぬ 不準拉着車子過去
今来た方へ戻れ      往回裡走 
良民証を見せろ      把良民證拿出来我瞧々
良民証がなければ此処は通せない 没有良民證不譲過去
    【以上が「歩哨」の項の全文】

 いかにも、「軍用会話」といった感じだが、「良民證」という言葉が出てくることに注意されたい。
 香港は、太平洋戦争開始直後、日本軍の占領下に入り、「香港占領地」と呼ばれた。占領下の香港住民に対しても、日中戦争で使われてきた「良民證」が交付されたと見てよい。つまり、日本軍が交付した「良民證」が、香港の身分証システムのルーツになった可能性があるのである。
 こころみに、「香港 良民證」でネット検索をおこなってみた。ズバリという情報は発見できなかったが、次のような記事がヒットした。

 無犯罪紀録證明書 (CNCC)
簽發「無犯罪紀録證明書」(俗稱「良民證」)是一項由香港警務処提供的収費服務。本処發出的「無犯罪紀録證明書」,純粹是供有關人士申請各類入境簽證(包括旅遊、升學或居住等),或申請領養小孩之用。為任何其他目的而要求簽發「無犯罪紀録證明書」的申請將不予以受理。

 香港特別行政区政府「香港警務処」のホームページ上の記事である。香港では、香港警務処が発行する「無犯罪紀録證明書」が、「良民證」という俗称で呼ばれているらしい。日本軍の占領下で使われた「良民證」という言葉が、今なお「俗語」という形で残存していることを示唆するものか。

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東亜同志会の顧問はラス・ビハリ・ボース

2021-09-07 01:24:28 | コラムと名言

◎東亜同志会の顧問はラス・ビハリ・ボース

 先週の土曜日、久しぶりに国会図書館に行ってきた。まず調べたのは、「東亜同志会」についてである。一九三九年(昭和一四)七月に摘発された「不穏事件」は、この団体のメンバーによるものだった(当ブログ、本年六月七日以降の記事参照)。
「科学技術・経済情報室」に赴き、永田哲朗編『戦前戦中右翼・民族派組織総覧』(国書刊行会、二〇一四)を開くと、次のようにあった(漢数字を算用数字に改めた)。

 東 亜 同 志 会

創立 昭和13年11月11日 ―― 20年9月14日
所在地 東京市浅草区浅草今戸町2-1 ―― 荒川区日暮里6―328
目的 世界平和と人類福祉に貢献する
役員 理事長 宇佐美元章
   理事  杉森政之助
   主事  杉森政之助
   顧問  坂西利八郎
       ラス・ビハリ・ボース
備考 印度独立、排英運動を起こす、杉森は14年7月、野口藤七と英大使館、松平宮相襲撃準備中検挙

 短い記述だが、重要な情報が含まれている。所在地の浅草今戸町(あさくさいまどまち)は、杉森政之介と野口藤七が逮捕された「山谷の木賃宿」に近い。杉森の名前は、「政之介」ではなく、「政之助」となっている。
 顧問の坂西利八郎(ばんざい・りはちろう)は、陸軍中将、貴族院議員。なかなかの大物である。太田金次郎によれば、坂西利八郎は、土肥原賢二の「北支時代における上官」だった(先月三一日の当ブログ記事参照)。
 一番、驚いたのは、ラス・ビハリ・ボースが会の顧問だったことである。ラス・ビハリ・ボース(ラース・ビハーリ・ボース、Rash Behari Bose)は、日本に亡命していたインド独立運動家である(一八八六~一九四五)。
 この記述を読んだうえで、改めて一九三九年(昭和一四)の「不穏事件」について考えると、東亜同志会が目指していたのは、インド独立を含む東亜の解放であって、その障害となるイギリス大使館、および親英米派(天皇側近、海軍関係者、外務省関係者)を襲撃しようとしたのが、この「不穏事件」だったのであろう。ちなみに、当時の宮内大臣・松平恒雄は、天皇側近であり、その長女は、秩父宮雍仁親王に嫁していた。欧米局長・外務次官・駐米大使・駐英大使を歴任し、親英米派としても知られていた。
 この当時、日独伊三国同盟への加盟をめぐって、国内では激しい政争が生じていた。反英米派が、すなわち三国同盟推進派で、その中心は陸軍および民族派であった。この争いに勝利したのは、三国同盟推進派で、一九四〇年(昭和一五)九月、ベルリンで日独伊三国同盟が締結された。
 結果的に見ると、この同盟を締結したことによって、大日本帝国は、破滅への途を歩むことになったのである。
 よく知られている通り、戦後の東京裁判では、海軍のA級戦犯に対して、ひとりも死刑判決が出なかった。これは、海軍が、最後まで強く、三国同盟に反対していたという事実と、おそらく無関係ではあるまい。

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ボース氏をかくまったのは頭山満さんの一派です(中谷武世)

2021-09-06 00:12:23 | コラムと名言

◎ボース氏をかくまったのは頭山満さんの一派です(中谷武世)

 中谷武世『昭和動乱期の回想』(泰流社、一九八九)から、「昭和動乱前期の回想(対談)」を紹介している。本日は、その三回目(最後)。

 北一輝、鹿子木員信、大川周明
  マルクス的社会主義じゃないな。私は北一輝さんにはただ一回しか会っていないのです。しかし、例の「日本改造法案」を徹夜で写した。この本に書かれた日本改造に関する北さんの考え方に共感するところが多かった。私の思想にいろんな面に影響を持っているのはやはり鹿子木〈カノコギ〉〔員信〕博士です。当時、鹿子木さんは鎌倉の禅寺に住んでいたが、私達は時々そこへ訪ねていって話を聴いた。
 中谷 朝日奈宗源〈アサヒナ・ソウゲン〉が管長をしている円覚寺ですね。
  そう、円覚寺に行って、僕は坐りはしなかったけれども。そして、一緒に山登りもした。
 中谷 鹿子木さんは槇〈マキ〉〔有恒〕さんと一緒に登山家でしたね。
  登山家です。そういうことで鹿子木さんとはたびたび会っているし、それから何と言うか、人間的な影響力というものも、鹿子木さんから受けたものが非常に多いと思うのです。だけど、北一輝から受けた感銘も強かったね。火花が散ったような、パアーッと一度だけだけれども、非常に強い印象を焼きつけられたのは北一輝です。
 中谷 鹿子木さんとの関係も私の場合も先生ともほぼ同じなんです。それで岸信介の名前を屢々聞いたのも、鹿子木さんからです。それは私が「日の会」に入って早々の或る日の会合で、三浦一雄君が、是非鹿子木先生に会えと、きょうは来る予定だったが来なかったから、こうこうというところへ行って会えということで、そこへ行って見るとたしか芝高輪の或る高等女学校の教室なんです。そこで鹿子木先生が、そこの高女の卒業生二十名ばかり集まった会合で何かレクチュアされているのです。こういう女性連にこんなに六ヶ敷しい話をしてわかるのかと思う程、熱心にレクチュアしているのです。黒板を見ますと、今でも忘れませんが、「不滅の現代」という題なんです。そしてニイチェを説いて、ニイチェは、われわれの時代に続くこれからの一世紀、約百年は世界史上かつてなき戦争の時代である、かつてなき大戦争の時代が続く、その意味に於て現代は不滅である、というのです。そして、世界はニイチェの予言の通りになりましたが、そういう調子で、ニイチェの哲学と歴史観を口述しているのです。北一輝とはまた違った意味で、非常に新鮮な魅力を感じました。鹿子木先生の人柄、講演の内容よりも寧ろその気魄というか、ヒタ向きに打ち込んで行く熱意。さすがにやはり「日の会」の人達が私淑するだけのことはあると思いました。それからは鹿子木先生が「日の会」の事実上の指導者、私がその常任幹事ということで、先生と私の非常に長い関係が始まるわけです。「日の会」はそういうことで鹿子木先生を中心に、時折大川周明さんが満鉄組をつれてやって来る、というような関係でした。私は大川周明と会ったのは寧ろ猶存社での方が多かった。後に大川さんを中心に「行地社」というのを私達や満鉄組、 そして安岡正篤〈ヤスオカ・マサヒロ〉さんも加わられて、作ることになります。ところで、岸先生と大川周明との出会いはいつ頃ですか。
  それはやっぱりその頃ですが、私は大川周明氏には学生時代に一度か二度会っているけれども、あまり大川さんとの関係は深くはなかった。私と鹿子木さんみたいなところまではいっていなかった。学生時代の大川さんからの影響力というのはほとんどないと思うのです。それよりもむしろ、後に満州に私が行くようになってから、大川氏との交流は笠木良明君を通じてあるようになったわけです。
 中谷 大川さんは当時、東京の丸の内にあった満鉄東京支社の中の東亜経済調査会の主事でしたね。その下に笠木良明とか、今も生きておって、このあいだも「民族と政治」に論文を載せて貰ったのですがロシア通の島野三郎君、それに綾川武治〈アヤカワ・タケジ〉君、こういう諸君がおりまして、われわれのグルーブでは、彼等を満鉄組と称した、そういう連中があそこに蟠踞〈バンキョ〉しておった。それで大川さんはむしろ実行派で、鹿子木先生が思想的指導者、そしてその奥の院に、我々仲間が、特に笠木君などその呼び名をよく使った「魔王」こと北一輝が鎮坐して、法華経を読んでいる。そして何か世間に問題が起ると、あの独眼龍の片眼を光らせて革命を説く、といった陣容でした。これが日本の革命的民族運動、或は民族主義的革命運動の初期、所謂「昭和大動乱」の前期、或は胎動期であったこと御承知の通りです。猶存社には、中心人物の一人に満川亀太郎〈ミツカワ・カメタロウ〉さんという人が居ましたね。あの豪傑共が寄っている中で、満川さんのような、円満で重厚な人格者もおったわけで此の人も熱心なアジア主義者でした。東大の学生の「日の会」の運動が他の大学にも波及しまして、早稲田大学では「潮の会」、慶応大学では「光の会」、拓殖大学では「魂の会」というように学生団体が相次いでできてきまして、猶存社系統の運動というのは、ずっと広がっていったのです。

 日本の民族主義学生運動とインド独立運動の結びつき
  そこで、僕の方から聞きたいのは、猶存社や「日の会」の運動がインドの独立運動と結びついたのは何かのキッカケがあったのかね。
 中谷 インド人のラス・ビハリ・ボース氏が亡命して来た時に、これを新宿の中村屋にかくまったのは頭山満〈トウヤマ・ミツル〉さんの一派ですが、これには大川周明氏が関係していたことは御承知と思いますが、直接「日の会」がインドの独立運動に結びついた契機は、当時アタル事件というのが起りました。それは、日本にいたインド人のアタルという東京外語学校の教授が英国の大使館からスパイになれといわれたのを拒否し、ガンディの所謂「真理を把持」して服毒自殺したわけです。その追悼会を「日の会」主催で東大の三十二番教室でやったのです。その会で講演をしたのが鹿子木員信〈カズノブ〉、大川周明、中野正剛〈セイゴウ〉、島野三郎、そして早大の武田豊四郎教授、これはインド通でした。そして亡命中のインド志士ラス・ビハリ・ボース氏も出席して演説はしなかったが、壇上に上って礼拝しました。隠れ家の新宿中村屋から始めて公衆の前に姿を現したわけです。それに北一輝さんがフロックコートを着込んでやって来ていました。演説はしませんでしたが、演壇の直ぐ下に坐り込んでいました。大変な盛況で、私が開会の辞を述べ、以上の各弁士が熱弁を揮い、聴衆に非常な感銘を与え、特に鹿子木さんが、ガンディの思想を紹介しました。これが日本の民族運動とインドの独立運動とが結びついたキッカケとなったわけです。それまでの紋付羽織で桜の棒をついている国家主義団体でなく、革新的で、インドの革命やアジアの解放につながる民族主義運動という「日の会」の性格が、この講演会ではっきりしたわけです。(アタル追悼会については後述)(岸対談終)

 だいぶ前のことだが、テレビで『パンとあこがれ』という連続ドラマを観た。新宿中村屋らしきパン屋の話で、そこにラス・ビハリ・ボースらしきインド人が出てきた。いま、インターネットで確認すると、一九六九年にTBSテレビで放映されていたドラマだった。登場人物は、すべて仮名で、「タクール」というのが、ラス・ビハリ・ボースに相当する人物らしい。このタクールを演じていたのが、若き日の河原崎長一郎だったとは知らなかった(当時、三十歳)。

今日の名言 2021・9・6

◎自らの策に溺れた感がありました

 菅義偉首相の総裁選不出馬表明を受けて、東京新聞記者・望月衣塑子(いそこ)さんが語った言葉。「人事権を行使しようとしても状況を変えられない、人を従わせられないという状況は菅さんにとって相当つらかったと思います。それこそが、菅さんの権力の源泉だったわけですから。」9月4日のネットニュース(AERAdot.8:00配信)による。

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