礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

エンエン長蛇の列、村はじまって以来の人出であった

2022-05-06 04:03:50 | コラムと名言

◎エンエン長蛇の列、村はじまって以来の人出であった

 中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)を紹介している。本日は、その三十二回目で、第二部「農地改革」の9「再調査」を紹介する。例によって、何回かに分けて紹介する。

   9 再 調 査
 運命の〔一九四八年〕四月がやって来た。この村の関ガ原である。調査団が村に来るという前日に、開拓課から遠藤という男が一人で村に来た。明日の下準備のためだという。この男は隣りの葛巻町の病院の息子で、拓大を出た青年である。遠藤は葛巻の名家で、地主意識をもつはずの家柄である。私たちはこの男を警戒していた。彼は役場に来て打合せをして帰ったが、その前後に、前野という地主の養子と連絡をとっていた。前野の養子は、葛巻町の出身で、遠藤とは小学校時代の友人だったらしく、また岩泉龍氏らとは従弟の間柄である。しかも、岩泉兄弟はこの頃では、あまり表面には出なくなり、この従弟たちを代りに押し出して来ていた。追放者が政治活動をしていると、こちらから攻撃したせいでもあろう。遠藤と前野がどんな打合せをしたかは判らなかった。
 翌朝調査団が来るというので、両陣営では出来るだけ多くの味方を動員した。朝からぞくぞくと集まって来て、貧農たちは役場に、地主たちは私の生家の向い、役場のすじ向いにある彼らの農協事務所にかたまった。一行が到着し、順序を打合せた上で、いよいよ出発となった。江刈小学校の上手から山に上って、ずっと溯って来ることにした。私は一行と共に先頭に立った。貧農たちはこれにつづいた。二町ばかり行ってから道の曲り角でふりむいて見たら、まだ後の方は歩き出していなかった。地主たちはうしろについた。蜿蜒〈エンエン〉長蛇の列で、村はじまって以来の人出であった。百数十名の行列である。先頭が山にはいって最初の未墾地にさしかかったとき、遠藤は何か書面をもっていて、「私はここに解決の案をもっているから、それによって現地で両者が話し合って決めよう」という。【以下、次回】

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農民組合長は畜産課の一人を小突きまわした

2022-05-05 01:23:00 | コラムと名言

◎農民組合長は畜産課の一人を小突きまわした

 中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)を紹介している。本日は、その三十一回目で、第二部「農地改革」の8「母の悲しみ―逆襲」を紹介している。同章の紹介としては四回目(最後)。

 四月を待っている間に、味方の結束も固まって来た。そして金を出し合って県に陳情に行こうと皆でいい出した。十数名を選んで盛岡に出た。陳情書を作って、県の農地部長をはじめ、関係各課をまわった。最後に畜産課に行くことになった。実は江刈小学校で私のつるし上げをやった際に、応援に来た二名は、そのときは判らなかったが、畜産課のものだと判ったのである。彼らをやっつけねばならないということになったのである。私は一行と別れ、占領軍の事務所と弁護士のところへまわることになった。再び県に帰ってみたら、一行は畜産課の一人の男をつかまえて、たいした元気で文句をつけていた。農民組合長の山村〔繁蔵〕のごときは相手をこずき廻したという。この男にとっては災難だったわけで、前に江刈に来たのは、小泉〔一郎〕氏に頼まれて、事情も知らずに来てみたに過ぎなかったのだ。それをこんなに脅かされては、面白くなかったに違いない。こんなことをさせたのは、すべて私の命令によるものと考えられた。以後は畜産課の人々には共産党といわれ、しばらくの間嫌がられていた。ところがほかならぬこの男が、あとで私の親友になった高橋義忠氏であった。彼と親しくなるには、それからも時日を要した。
 このときを最初として、こちら側も盛岡にしばしば出るようになった。宿屋に泊れば金がかかるので、知人の家に安く泊めてもらうことにした。その家の寝具には、この人々が行かなくなったしばらく後まで、虱〈シラミ〉がついていて、泊った者には必らず二、三匹はくっついて来たものだ。
 こうして敵が動けば、その後をすぐ洗って、こちらの不利にならぬように陳情して歩いた。これは怠ることの出来ない戦術であったのだ。

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つらいのは地主から賦役を課せられることだ

2022-05-04 01:58:29 | コラムと名言

◎つらいのは地主から賦役を課せられることだ

 中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)を紹介している。本日は、その三十回目で、第二部「農地改革」の8「母の悲しみ―逆襲」を紹介している。同章の紹介としては三回目。

 このころ、私を苦しめたのは敵だけではなかった。村長の月給が安く、家族を養うことが容易なことではなかった。帰るたびに金が足りない話を聞かされ、思わずかっとなることもある。子供の顔を見れば苦労を忘れると俗にいう。しかし事実は逆である。私はくたくたに疲れて家へ帰り、子供の顔を見ると一層暗い気持になった。何も知らず無邪気に遊んでいるのは可愛いいけれども、こいつらを一体どうして育てて行けるだろうと、反射的に思うのであった。
 そうした憂欝の一面には、私たちの心を鼓舞する事件もあった。或る深夜のことである。役場で三、四人が話していると、突然入口の戸があいて、真白に雪を被った男がはいって来た。誰だろうと皆で緊張した。或る部落の小作人だった。ぼろぼろの着物に、のび放題の髪とひげ、脚には草で編んだ脚絆〈キャハン〉をつけていた。四十代の年輩だが、ひどくやつれている。ぼつぼつと語り出した。――一家は家族は多いが畑は足らず、過ぎた春から夏にはウルイ(山菜の一種)ばかり食って数十日を暮らした。それを採りに山に行くにも、坂にかかれば足が上らない。休み休み何時間もかかって採って来た。これでは死ぬと思って、親類から山羊を借りて来た。その乳を飲んだら、少しずつ元気が出た。そこで息子を励まし、地主から荒地を借り、田を起した。しかしその半分は、地主の世話人のために取り上げられた。何よりつらいのは、自分の田植をしようと思って苗の準備をしたとき、地主から賦役を課せられることだ。一切を投げて行かねばならない。聞けば村長さんは、貧乏人を助けようとしていなさるというが、何分よろしく頼みます。実は私がここへ来るのには、家のものは反対します。私はこっそり抜けて来ました。――
 こんな時は、私は使命感に奮い立った。そうしたときだけが、当時の私には幸福であった。【以下、次回】

 文中に、「賦役」という言葉が出てくる。「ふやく」、「ぶやく」、「ふえき」などと読み、被支配者に課せられる労役の意味。ここでは、地主が配下の小作人に農民に課した労役を指す(いわゆる「経済外的強制」である)。原文にはルビがないが、同じ著者の『回想 わが江刈村の農地解放』(朝日新聞社、一九八九)を見たところ、「ぶやく」というルビが振られていた。

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母は、私を憎むようにさえなってきた

2022-05-03 04:27:40 | コラムと名言

◎母は、私を憎むようにさえなってきた

 中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)を紹介している。本日は、その二十九回目で、第二部「農地改革」の8「母の悲しみ―逆襲」を紹介している。同章の紹介としては二回目。

 私が村の憎まれ者になるにつれて、母や私たちの立場も悪くなった。母にとっては岩泉家は本家であり、私にとってもその家族は恩ある人々である。それが今や仇敵となって争っている。母は最初困惑し、次第に私を憎むようにさえなって来た。初めのころ私に意見をした。「村長というものは、役場に行って新聞を読んでいればよいのだ。大学まで出ながら、こんなところに来て村中から悪くいわれて……」というのであったが、私は「新聞を読むためにこんなところに来ているのではない、大学出でなければやれない仕事をするんだから、黙っていて貰いたい」と強く言い返した。それ以後口には出さなかったが、家の中にいることは私にも辛かった。母に弟夫婦にも、この勝負で私が勝つとは思えなかったに違いない。私は負けてしまえば再び東京に去るだろう。そうすれば、息子が笑い者にされるばかりでなく、後に残った自分たちへの迫害がひどいだろう……。そういうふうに考えるのは当然のことであった。
 それに母にとっては、そもそも大学を出た息子が、こんなところの村長などになり下がったことが気に入らなかったに違いない。こうした空気の中ては、家に帰って飯を食うことも気がひけた。私の家族はすでに八戸市に引き上げて、この村にはいなかった。私は朝起きると、たいていはすぐに役場に来て、一日に一度ぐらいしか飯を食わなかった。集会でもあって、他所でありつけば二度も食ったりした。夜は、役場のストーヴの廻りに川原〔徳一郎〕や助役〔川戸与四郎〕たちと集まって、二時、三時まで起きていた。家に帰ると敷き放しの寝床はあるけれども、部屋には火の気もなく、零下十五度もあるような夜半には、まともに寝られたものではない。オーバーを着たまま、靴下をはいたまま、床にもぐり込むのが毎夜のことであった。
 いよいよ疲れて来れば、機を見て八戸に帰り、一晩夜も眠りつづけたりした。自宅へ帰ると、炬燵〈コタツ〉に向って坐ってもいられなかった。横になればすぐ眠った。しかしこうした休息も容易に許されなかった。ちょっと村を空けると、助役から電話がかかって来る。敵の動きがあわただしく、何事か企らんでいるようだから帰ってくれという。急遽帰ってみると、それほどたいしたことでもなさそうだ。数日してまた盛岡にでも出ると、また電話だ。こんなことがくり返された。助役たちも私がいないと心細かったに違いない。【以下、次回】

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村民大会が私の知らぬ間に偽造されていた

2022-05-02 00:19:34 | コラムと名言

◎村民大会が私の知らぬ間に偽造されていた

 中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)を紹介している。本日は、その二十八回目で、第二部「農地改革」の8「母の悲しみ―逆襲」を紹介する。例によって、何回かに分けて紹介する。

  8 母の悲しみ―逆襲
 適地選定委員会は問題を保留した。この日から〔一九四八年〕四月の再調査までが長かった。どちらも無為にして待つというわけには行かない。敵の代表たちはしげしげと盛岡に出る。村内の会合もますます盛んである。こちらもじっとしてはいられない。同じようなことをして、気勢をあげねばならない。
 その頃、県開拓課に、江刈村の地主たちの連名で陳情書が出た。私はそれを見せられたとき、驚きを新たにした。乳牛を飼っている全農家の戸別調書が作られ、それに附せられた陳情書には「このように各酪農家にとっては採草地は生命である。それを現村長の政策によって買収されてしまえば、現在六百五十頭もいる乳年は三十五頭に減る計算で、酪農村として著名な江刈村も一挙に壊滅する」という意味のことが書いてあった。計算の根拠は、牛一頭につき三町歩の採草地が必要だということだった。さらに驚いたことには、陳情書には村民大会の決議なるものが添えられていたことである。これは適地選定委員会にも配られたものだったという。江刈村の全村民は、村長の開拓政策に反対で、未墾地の買収は中止するよう要望し、ここに決議したという文書である。村民大会が開かれたことは噂にも聞いたことがなかったが、日付を見たら、農地改革一周年のときの、江刈小学校のつるし上げの日だった。村民大会は私の知らぬ間に偽造されていたのだ。
 私は岩泉龍という人間に対する認識を改めざるを得なかった。この尨大な調書といい、決議書といい、平凡な田舎村長などの思いつくことではない。こういう妙手は私には考えつかなかった。六百五十頭にも山がかけてあるし、牛一頭に三町歩の採草地が要るというのも素人欺し〈シロウトダマシ〉だ。私はすぐにペンをとって、反対の陳情書を書いて提出した。私は「乳牛を減らすつもりで開拓をやるのではない。確実にふやす計画なのだ。今の酪農は地主酪農に過ぎないが、これを全農家のものにするためには、皆にまず耕地を与えねばならない。採草地がなくなるというが、開拓適地の三分の二は山林であることを彼らはごまかしている。また採草地を飼料畑にして使ったら、面積は十分の一でも済むではないか」といった意味のことを書いた。このことは地方新聞にも載った。
 このころから、岩泉龍氏に対する私の憎悪は極端にまで昂まって行ったし、地主たちの私への憎しみも頂点にまで燃えて行った。龍氏は一体何のためにこれほどしつこく私に反対するのか。彼は地主の出ではあっても、彼の所有する未墾地などは一坪もない。兄の浩太郎氏にしても、大事な採草地を一ヵ所もっていることは知っているが、私はそれにふれようとはしていない。一言でよい。自分のところに来て話してくれればよさそうなものだ。われわれは皆同じ根から分かれた人間同士ではないか、などと思ったのだが、現実には妥協すべくもなかった。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2022・5・2(9位の石原莞爾、10位の土方与志は久しぶり)

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