◎エンエン長蛇の列、村はじまって以来の人出であった
中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)を紹介している。本日は、その三十二回目で、第二部「農地改革」の9「再調査」を紹介する。例によって、何回かに分けて紹介する。
9 再 調 査
運命の〔一九四八年〕四月がやって来た。この村の関ガ原である。調査団が村に来るという前日に、開拓課から遠藤という男が一人で村に来た。明日の下準備のためだという。この男は隣りの葛巻町の病院の息子で、拓大を出た青年である。遠藤は葛巻の名家で、地主意識をもつはずの家柄である。私たちはこの男を警戒していた。彼は役場に来て打合せをして帰ったが、その前後に、前野という地主の養子と連絡をとっていた。前野の養子は、葛巻町の出身で、遠藤とは小学校時代の友人だったらしく、また岩泉龍氏らとは従弟の間柄である。しかも、岩泉兄弟はこの頃では、あまり表面には出なくなり、この従弟たちを代りに押し出して来ていた。追放者が政治活動をしていると、こちらから攻撃したせいでもあろう。遠藤と前野がどんな打合せをしたかは判らなかった。
翌朝調査団が来るというので、両陣営では出来るだけ多くの味方を動員した。朝からぞくぞくと集まって来て、貧農たちは役場に、地主たちは私の生家の向い、役場のすじ向いにある彼らの農協事務所にかたまった。一行が到着し、順序を打合せた上で、いよいよ出発となった。江刈小学校の上手から山に上って、ずっと溯って来ることにした。私は一行と共に先頭に立った。貧農たちはこれにつづいた。二町ばかり行ってから道の曲り角でふりむいて見たら、まだ後の方は歩き出していなかった。地主たちはうしろについた。蜿蜒〈エンエン〉長蛇の列で、村はじまって以来の人出であった。百数十名の行列である。先頭が山にはいって最初の未墾地にさしかかったとき、遠藤は何か書面をもっていて、「私はここに解決の案をもっているから、それによって現地で両者が話し合って決めよう」という。【以下、次回】
*このブログの人気記事 2022・5・6(8位に極めて珍しいものが入っています)