九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

名無し君、さようなら   文科系

2020年05月07日 20時19分24秒 | その他

 これで4日以降、ここに10年以上居着いた君のコメントを6つ削除した。このブログのコメントを二重投稿のうちの一つ以外で削ったのは、ここの15年でも初めてのこと。が、今後君のは永久に削るから、せめて常連なのに卑怯極まりない名無しというペンネームは止めて、また違うパソコンで、名前を付けて出直しておいで。ここに来たいならばね。

 さて、これで「いつでも君を没にできるが、今までは一度もそうしなかった」と分かったよね。そしてまた、何か君の発言内容になんらか価値があって、あるいは何らかの事情で、削れなかったのではないということも分かったよね。それどころか、僕はここに関係したみんなから、こう言われていたんだよね。「あんなのを何でのさばらせておくのか?」とね。でも僕は、君と違ってこんな格言がとても好きでね。「君の意見には反対だ。だけど、君の発言権は守りたい」。こんな人のこの気持ち、君には全くわからんでしょうが。

 名無し君。君とのお別れついでに、もう一度念を押しておく。君のコメントは一切価値がない。ぼくがよく言ってきたように、「枯れ木も山の賑わい」という以外には。コメントというよりも文章としてどこが「枯れ木」でしかないのかと改めて述べてみよう。
①君の何らかの言い分は、その形式からして独断だけ。その独断命題に何の証拠も着けない独り善がりの独断だ。証拠が何も付いていない裁判の判決みたいなものばかりだった。何か事実を何も勉強しようとしないで、気の利いた結論が言えると考えているかのような。
②そういう独断で他人を批判するだけの文章内容が、何か、どこか気が利いているように考えているとしか思えなかったのが、また笑えるだけでなく、ここの品格を落とすこと甚だしい。昔から他の常連さんもいつも君に言ってたでしょ。「いつも2,3行の文章しか書けなくては、他人は到底批判などできない」
③以上①②が誰が見ても明らかなのに、そしてそれを何度指摘しても、具体的に一つでも正したことがない。この、10年以上ね。

 こうして、もしもう一度ここに来たかったのなら、普通の議論態度と口調でやってくることだ。ただ、それが君にできるならばという話だが。別のパソコンを使って、新たにペンネームを付けてね。

 名無し君、さようなら。

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続、「ドス黒い承認欲求」論議  文科系

2020年05月01日 22時32分19秒 | その他

    エントリー「政治論以外も書くわけに因んで」に起こった、名無し君との論議をまた紹介したい。現代社会では、整理がとても大切な議論と考えるからだ。正しい主張と、虚栄や虚飾との違いと言うべきかも知れない。
 
『 追加の一言 (文科系) 2020-04-29 05:44:43
 このブログを始めたのは、僕の大学時代からの親友お二人。僕は彼らに誘われて、発足直後からここに関わり始めた。その彼らが僕の「ここに書く、このスタイル」を認めてくれたからこそ、僕は今日まで15年、ここで書き続けてこられた。このブログのこの副題は、僕が要望して付けてもらったものだ。この表現自身は今は亡きまもるさんが考えられたのだが。
『九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)
憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!』

 それにしても「どす黒い承認欲求」って、「あまりに人間的な・・・」で、返ってイイヨ!!』

『 Unknown (Unknown) 2020-04-29 17:41:09
どす黒い承認欲求の、産物なのね。』

『僕がどす黒ければ・・・ (文科系) 2020-04-30 23:09:29
 僕は承認欲求は強い人間だと、十分すぎるほどに自覚しているよ。だからこそ、虚栄、虚飾など、嘘を語らないようにとは、留意している。
 例えば僕が君の言うようにドス黒ければ、僕を貶めるだけを目的にここに来ている中身のない文章専門の君など、ここの品格も落ちることとて、とっくに出入り禁止にしている。これを10年以上もしていないのもまた、僕の正しい承認欲求のなせる技。これでもって君はここで好きなことが述べられているわけだ。ちょうどこのようにね。
「僕は君の発言が馬鹿馬鹿しく思えて仕方ない。だけど、そういう君の発言権だけは守ってあげるよ」
 って、こんな文章内容は君には、分かるのかなー?』

『Unknown (Unknown)
2020-05-01 17:13:21
虚栄、虚飾など、嘘・・だらけじゃん(笑) 』

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エントリー「政治論以外も書くわけ」に因んで  文科系

2020年04月29日 05時06分47秒 | その他

 何日か前に「僕が政治論以外も書くわけ」何度目かのエントリーをした。そしたら、これも恒例になっているここに10数年居着いた名無し君から訳の分からないのともう一つ、コメントが付いてきた。よほどご自分の「承認欲求」なるものが気になっているお人らしい。それに回答した僕の文章とともに、ご紹介してみる。今の時代、人によっては結構切実で、大事な問題だと思うので。そしてまた、「僕が政治論以外も書くわけ」の大事な主旨への解説にもなることだし。

【 Unknown (Unknown) 2020-04-27 17:04:06
南京ネタとか・・
中国様への非難の矛先を外す為だよね?】

【Unknown (Unknown) 2020-04-28 18:49:07
もし、文ちゃん論通りなら、自身のブログで完結していればいいし、何だったら、そこへリンク張って、「見てね」で、いい。
文ちゃん自身のドス黒い承認欲求から、目を逸らして、この話をするのは・・簡単に言って「嘘」だよね。】

【 可哀想なお人だ! (文科系) 2020-04-29 05:04:57
「ドス黒い承認欲求」??
 こんな言葉を使うって、可哀想なお人だ。気の毒になるほどに。「承認欲求」って、人間の本性。単純にいえば「他人に認めてもらいたい」とは、人間の本能といって良い。他人と「協働」し合ってこそマンモスをも倒せて生きて来られたからこそ、他人と心まで通わせ合うべく「言語」を生み出して今の「精神」を持ったのが、人間。

 これにからんで問題になるのは、このこと。中身がない(事を意識している)からこそ下らん「見栄」を張ったり、嘘も含めてまさに「虚飾」で己を飾る人。「一芸が飛び抜けてあることから、あるいは団体での地位が高かったりするから、その人間自身が立派と錯覚したように振る舞う人」もこれに入るだろう。
 この点で僕には、嘘はないよ! 連れ合いも、子らもそれはきっちりと認めてくれている。同人誌やギター仲間のみんなもね! こういう多くの方が、ここを読んでくれているから、嘘を書いてればすぐに分かる仕組になっているんだよね。】

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コロナから、肺炎の起こり方   文科系

2020年04月04日 06時04分19秒 | その他

 コロナで最も怖いのが、肺炎。そこで、表題の知識をずっと求めて来たのですが、僕として参考になった文章をご紹介します。「マスコミに載らない海外記事」のサイト3日に転載された「2020年3月31日 Moon of Alabama」の記事の一部です。

『 数日間、のどで自己複製した後、ウイルスは、のどから、より下の肺へと移行し、そこで一層急速に自己複製して、本物の破壊を起こし始める。大半の健康な人々の免疫機構は、約10から18日後にウイルスを打倒する。だが戦いは、しばしば困難だ。その段階の症状の一部は、ウイルスによるものではなく、免疫機構がそれに反応する方法によるものだ。
 それは、ウイルスに感染された多くの細胞を破壊し、肺組織中に穴を開ける。体は破壊された細胞を直すため、それから炎症反応を始める。このプロセスは肺炎を起こし得る。既に呼吸や循環に問題をもたらす他の状態がある人々には人工的呼吸支援が必要だ。一部の患者は心臓疾患を起こすかもしれない。肺が、循環する血に十分な酸素を供給できなくなれば、人は死ぬ。
 covid-19の生存者は、少なくとも一年間、免疫ができているだろう。SARS CoV-2ウイルスは、いくつかの種に成長したが、若干のインフルエンザ・ウイルスが、しばしばそうするようには、異なった形に突然変異しなかった。それは一度獲得された免疫が、再感染から保護し続ける可能性を高める。』

 

 

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公憤、メガロス水泳教室に②  文科系

2020年02月08日 18時28分15秒 | その他

 野村不動産が全国展開しているメガロス水泳教室に孫二人目の五歳児も通うようになった。一人目を見学し続けてきて思うところがあって、こんな質問メールを12月初めにメールした。近く返事を送ると返信してきたのに、1か月経っても来ない。ここに拙文を掲載する。これは一種の社会問題だとも愚考するからである。子どもらの社会教育施設とい言う役割があることでもあるし。以下は一種の公憤と、受け取っていただきたい。

『 16クラスが30クラスになったのは(最近上達していくグレイドに16クラスあったのを、30クラスと倍ほど多くなる区分けをした)、極めて不愉快。調べてみたら、入門段階と古い1級で多く枝分かれしていた。この前者は、一挙に三つ上がることもあるようだから、大差あるいろんな子に合わせて丁寧に分けたと、まー理解できる。
 が、後者は全く理解不能。1級卒業者(今までは一級が通常の一番上だった。それが6クラスほどに枝分かれした事を指している)をつなぎ止める策としか思えない。こんなことをやるくらいなら、「タイム測定の選手クラス」とでも言うものを設けておくか、従来クラスと違う「それ以降のクラス」を新たに設けるべきではなかったか。1級になった子が4級って、その気持ちを考えなかったのか。子どもの気持ちをちっとも尊重していないという意味で、本当に馬鹿馬鹿しいやり方である。

 もう一つ、質問。クロールの教え方がおかしい。呼吸時に真上以上に、90度を通り越した反対側まで顔が行ってしまっている子も居るほどだ。これでは、身体がいろいろにぶれても来るから、水に抵抗がない身体の使い方にはならない。25メートルクロールクラスが長くかかるのには、このことが関係していると観てきた。悪い癖を直すのに熱心でないスクールと思うばかりだ。

 そして、もう一つ。あるクラス泳法習得卒業時にはその課題が上手く泳げていた子が、以降のクラスで悪い癖をつけることが目立っている。身体に染みついた癖を子どもが直すのは大変。もうちょっとこの対策を考えて欲しい。友人の子らがちっとも進級できない原因はそこにあると観てきた。』


 ちなみに、僕の5歳の孫は、去年11月に僕が教えて「25メートル板キック」完泳をやり切っている。それが、今のクラス分けでは「板キック12・5メートル」クラスの二つ手前のクラスにいる。つまり、あと4か月を全く無駄に過ごすわけだ。その子が何ができるかを試す仕組もないのである。

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今、ブログ討論への戒めとして   文科系

2019年09月13日 16時50分43秒 | その他
 ブログも当然、討論の場所。それも、認識を深めるべき討論の場所のはず。すると、当然、それに相応しいやり方があるというもの。それはやはり、学問研究やその討論のやり方を見習うというか、それに準じるやり方が良い。そんな観点から、名無し君にお答えした拙稿を改変してここに再掲してみます。大事なことなので・・・。 


 皆さんに、名無し君コメントがいかに悲しいものかを示してみたい。僕が書いている、信頼できる良い文を書くこと、そのための方法について最も大事なことが全く理解できない、無知・無理解があります。

 まず、「相当先の話」と「足下の問題」との関係。これは単に時間的な後先などと言う問題などでは全くなくって、思考、論理の問題だということが分かってもらえなかったということ。会社などでいう、長期方針と目先の明日の仕事との区別のような。方針、思考上の目先は、すべからく中長期方針(の思考)を実現するため、これに縛られてあるもの。この区別をしたことがなく、長期目標と今の仕事との区別もつかない思考、論理もあるとは知っていたが・・・情けない。
 もっと言えば、社会のことで理念、目標など中長期問題を見たり考えたりしたことはほとんどないらしく、単なる「今の現状社会で基本すべて結構」という保守、それも言葉通りのそれだけの頭脳を示していないだろうか。
 すると当然、反論コメントはこんなのばかりになるはずだ。
①相手の言い分の中心点は何も語れず、枝葉のところで「矛盾している」とかのあら探しか揚げ足取り「反論」だけ。
②反論の一助として「これを読め」とよく言ってくるが、それについては以下。
③というような反論しかやってこないのに、ご本人は何か気の利いたことを語っているつもりだから、困ってしまう。

 さて上の②である。現職アメリカ大統領を筆頭としてフェイクニュースがあふれている今、彼の以下の言葉は極めて重要である。
『読めと言われたネタは、絶対読まない宣言の文ちゃん』
 別のところでも述べたように、社会や人間の明日を語る人文社会系の学問・討論では、信頼に足る文献こそエビデンス。フェイクニュース大はやりの昨今では、実証的に見える歴史知識でさえ、誰の本から取ったものかは、極めて重要なことなのだ。僕が彼に返したのはそういうことで、何の信頼もついて回らないどころか、著者さえ書いてないただのネット文章を読めと言われて誰が読むかという話である。
 それも自分が要約なり何なりしてみせればよいのに、その努力もできないらしくてこれを省いてしまって、他人に「あれ読めこれ読め」とネトウヨ文献のすすめが右翼の専門。 そんな人々に返した言葉を、すべての文献を僕が否定してきたと彼が曲解・断言していると、そんな馬鹿馬鹿しいお話でした。彼がチョムスキーとかケインズ、ラッセルの文章とか、森嶋通夫、進藤榮一、孫崎享の文章とかを名前付きで指定してきたら当然読みますよね。というように、人が薦める文献によってその人の言い分の質、思考の深さ、知性程度自身さえも分かる人には分かってしまうというのが、学問の世界。普通の討論でも信頼に足るものにしようとしたら、できるだけこの学問手法を踏まえるべきだと、僕は言ってきたのでした。

 なお、文献の献って、賢ともかくのだそうで、「研究資料になり得ru+もの」のことなんです。広辞苑にそうありました。

 さて、以上は当然ご当人には馬の耳に念仏、蛙の面にナントカ。これは百も承知で書いたこと。だが、真剣な長文を、15年近く書き続けてきた身としては、そしてそんな長文に対して今は週間累積アクセス3000前後になっているサイトとしても、今念を押しておきたかったことなのでした。一つの信用問題ですから。
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僕が「9条バトル」に政治論以外を書くわけ  文科系

2019年09月04日 18時56分49秒 | その他
 政治論のブログでは政治だけというのが、日本人の普通のやり方だろう。が、僕はここを、ある意味日記のように使ってきた。ランニング日誌はまさに日記だし、観るスポーツとしてほぼ唯一熱中してきたサッカーでWカップとかの重大ゲームや注目事項がある時には、これを論評などする。所属同人誌の随筆、小説など自他の作品も載せてきたし、政治以外の論文とか時事問題なども扱ってきた。その理由は、この「9条バトル」ブログの副題にも掲げてあるのであって、その呼び名・副題はこうなっている。
『九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)』
 その真意の詳論は以下を観ていただくとして、簡単に説明すればこういうことである。
 政治文章なんていくらでも嘘が書ける。例えば、政治家としての出世などのためだけに信じてもいないことを書き連ねることもあるだろうし、事実金を貰ってサイト・ウオッチャーになってせっせと反論を書く人々も多いはずだ。さらに厳しく言えば、そもそも論じている内容、哲学に日々どれだけ務めているかも分からない政治論など、全て虚偽の世界の空中戦とさえ言えないこともない。せめて、その人がどう生きているかということが分かれば、その言葉の真実み、どれだけ魂が入っているかも、多少は分かるというもの。だから自分の生活、文化活動、哲学、あらゆる人間活動、社会への知識などなども書く。と、こういうことなのである。

 では、昔から折に触れて載せてきた、表題の本論を・・・。


『 改めて、「僕が政治論以外も書くわけ」 文科系 2012年01月15日 | 文化一般

 表記のことを、改めてまとめてみたい。随筆、サッカー評論などなど一見関係ないようなことを僕はなぜここに書いてきたか。ここが始まった6年前からしばらくはかなり気にしていたことだが、最近はあまりこれを書いたことがなかったと思いついて。

 僕がまだ若い頃から、こんなことが当時の大学で当たり前であった左翼の世界の常識のように広く語られていた。「外では『民主的な夫』、家での実質は関白亭主。そんなのがごろごろ」。そういう男たちの政治論に接する機会があると、正直どこか斜めに構えてこれを聞いていたものだ。どんな偉い左翼人士に対しても。レーニンの著作にたびたび出てくるこういった内容の言葉も、そんなわけでなぜか身に染みて受け取れたものだった。
「どんな有力な反動政治家の気の利いた名演説や、そういう反動政治方針よりも、恐るべきものは人々の生活習慣である」
 こういう僕の身についた感覚から僕の左翼隣人、いや人間一般を観る目も、いつしかこうなっていた。その人の言葉を聞いていてもそれをそのままには信じず、実は、言葉をも参考にしつつその人の実生活がどうかといつも観察していた。誤解されては困るが、これは人間不信というのではなくって、自分をも含んだ以下のような人間認識と言ってよい。人は一般に自分自身を知っているわけではなくって、自分の行為と言葉が知らずに自分にとって重大な矛盾をはらんでいることなどはいっぱいあるものだ、と。こういう人間観は実は、哲学をちょっとでもまじめに学んだことがある者の宿命でもあろう。哲学史では、自覚が最も難しくって大切なことだと語ってきたのだから。ソクラテスの「汝自身を知れ」、近代以降でもデカルトの「私は、思う(疑う)。そういう私も含めてすべてを疑う私こそ、まず第一に存在すると言えるものだ」などは、みなこれと同じことを述べているものだ。

 さて、だとしたら政治論だけやっていても何か広く本質的なことを語っているなんてことはないだろう。そんなのはリアリティーに欠けて、ナンセンスな政治論ということもあるし、「非現実的話」「非現実的世界」もはなはだしいことさえもあるわけである。それでこうなる。生活も語ってほしい。その人の最も生活らしい生活と言える、好きなこと、文化活動なんかも知りたい。どういう人がその論を語っているかということもなければ、説得力不十分なのではないか、などなどと。もちろん、何を書いてもそれが文章である限りは嘘も書けるのだけれど、その人の実際や自覚のにおいのしない政治論だけの話よりはまだはるかにましだろうし、随筆なんかでもリアリティーのない文章は結構馬脚が顕れているものだと、などなど、そういうことである。
 やがて、こんな風にも考えるようになった。幸せな活動が自分自身に実質希薄な人が人を幸せにするなんて?とか、人の困難を除くことだけが幸せと語っているに等しい人の言葉なんて?とか。そういう人を見ると今の僕は、まずこう言いたくなる。人の困難を除くよりもまず、自分、人生にはこれだけ楽しいこともあると子孫に実際に示して見せてみろよ、と。

 なお、以上は政治論だけをやっているのだと、人生の一断面の話だけしているという自覚がある論じ方ならばそれはそれでよく、五月蠅いことは言わない。だが、当時の左翼政治論壇では、こんなことさえ語られたのである。「歴史進歩の方向に沿って進むのが、人間のあるべき道である」と。つまり、政治と哲学が結びついていたのだ。それどころか、戦前から政治が文学や哲学や政治学、そういう学者たちの上位に君臨していたと言える現象のなんと多かったことか。
 そんなわけで僕は、当時では当たり前であった大学自治会には近づいたことがなかった。そして、左翼になってからもこの「政治優位哲学」には常に距離を置いていたものだった。これはなぜか僕の宿痾のようなものになっていた。


 なお、こういう「公的な場所」に「私的な文章」を載せるなんて?という感覚も日本には非常に多いはずだ。こういう「公私の峻別」がまた、日本の公的なもののリアリティーをなくしてはいなかったか。公的発言に私的な事を入れると、まるで何か邪な意図があるに違いないとでも言うような。逆に日本ではもっともっとこんな事が必要なのだろう。政治をもっと私的な事に引きつけて、随筆風に語ること。正真正銘の公私混同はいけないが、私の実際に裏付けられないような公(の言葉)は日本という国においてはそのままでは、こういったものと同等扱いされることも多いはずだ。自分の子供をエリートにするためだけに高給をもらっているに等しい文科省官僚の公的発言、「貴男が男女平等を語っているの?」と連れ合いに冷笑される亭主。


 ややこしい内容を、舌足らずに書いたなと、自分でも隔靴掻痒。最近のここをお読み頂いている皆様にはどうか、意のある所をお酌み取り頂きたい。なお僕の文章はブログも同人誌随筆も、ほぼすべて連れ合いや同居に等しい娘にもしょっちゅう読んでもらっている。例えば、ハーちゃん随筆などは、彼らとの対話、共同生活の場所にもなっている。』
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ここの14年、アクセスなど変遷史   文科系

2019年08月18日 11時36分45秒 | その他
 このブログが始まって14年。週間累計のブログアクセス数などを僕はずっと記録してきましたが、この変遷などを振り返ってみたら、なにか、とても感慨深いものがありました。今でこそ、アクセス2000~3000、閲覧数1万を超えていますが、この14年間は、こんな高低の波を辿って来ものでした。

05年に始まって、最初に週間累計端末数が1000を越えたのは、08年4月13日の週の1048で、その週の閲覧数は2580でした。この時はまた同時に、ほぼ1000を越えるのが当たり前になっていった時期でもあります。

・1500を越えることになったのが、09年6月28日からの週。一挙に1792アクセスで、閲覧数は6117になっています。この時はほぼ同時に2000アクセスも越えて、これが当たり前、普通になっていきました。同時に、このブログの特徴である閲覧数の多さがはっきりしてきたのもこの頃です。約2000のアクセスに対して、時に1万近い閲覧数を弾き出すようになっています。つまり、1人のアクセス者が何か興味ある過去ログを探し出すことによって、1人5面を遙かに超えて閲覧していく。この状態は、11年の夏まで続きますが、この間のピークは、こんな調子でした。

・11年5月の4週のアクセスと閲覧数を書き写してみます。2882の16826、3426の18306、2816の13235,2637の12613。なお、この時期がおそらく第二のピークである今現在以上、ここの最盛期だったのだと振り返ることが出来ます。なにしろ、今は亡くなった方も含めて、書き手が何人もおられましたから。只今さん、まもるさん、あんころもちさん、キャッチホンさん・・。

・ところが、11年夏過ぎから、また2000を割り、14年夏過ぎからは1000も割るようになっていきます。ただこういう時でも、ここの閲覧数の多さは変わっていません。アクセス数が1000を割る週でも、閲覧数が1万を超えるなどはこの間中たびたび起こったことでした。1人10面以上などと、多くの過去ログを読まれる人が多いという特徴がずっと健在だったということ。このアクセス減少はやはり、書き手が居なくなったことが関わっていると思います。

・その後、翌15年の夏以降はまた基本1000を越えるようになり、閲覧数はやはり5000~10000だったと言えます。が、18年半ばからはまた2000前後になり始めて、18年末からはこれを越えるようになり、現在は2500前後、第3回目の山を迎えていると言えるのではないでしょうか。この3週はこうなっています。
 7月28日~ 2452の9451
 8月4日~  3099の11182
 8月11日~ 2900の12617



 ここを訪れるブログ同業の方々、やはり継続は力だと思います。ただし、以上の数字にロボットによる応答が多いというのが実際の話と見てきました。が、この何割か?が実際に読んで下さっていると思うから、まー続けることが出来たわけですね。
 ただ僕、文科系個人として、ここにこんな大きなメリットをずっと感じ続けてきました。まず、ここに書くのが、いろんな勉強の励みになって来たということ。随分いろんな本を読ませて貰ったものです。それと、自分の文化的活動の記録も残せるということ。ランニング日誌、教室に通っているギターやその仲間のこと、そして、同人誌活動の作品掲載などなどのことです。僕としては生活記録、日記の意味も大きいわけでした。
「生きて学んで、それを書き残して、それをまた読みつつまた生きて、書く」
 ここが僕にとって活動年齢を長くする原動力にもなってきたわけです。ということは、こういうこと。自分の活動記録だからこそ、シビアに真面目なものと。上辺だけの真剣ではないことなど、到底書く気にはなれないということです。読んだ本やその内容紹介なども含めて。なんせ、この過去ログ14年間をめくり出せば、自分の文化活動や学んだことをいつでも引っ張り出せるというのは、この年になると凄い力と感じます。記憶力減衰を補ってくれるし、忘れていた知識、大事な自他の事件なども思い出させてくれるわけです。そして、明日の自分や世の中をより詳しく、正確に考えることも出来ていく。一言で言えば、ここが僕の諸活動の原動力になっているということです。願わくば、去年93歳だかで死んだ直前までよい仕事が出来たロナルド・ドーアにあやかりたいものというような気持。これがなければ、ほとんどロボット相手にこんな長文を書く気にはなれなかったと思います。
 ここを定期的にお読み下さっている皆さん、これからもよろしくお願いいたします。
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一週間、書けません!  文科系

2019年07月28日 00時41分18秒 | その他
 文科系より一言

 明日29日から8月初めまで一週間ほどパソコンが使えない場所にいて、このブログが書けません。ご承知下さい。
 
 落石さんなり他の誰かなりが書いて下されば嬉しいのですが。

 以上、よろしくお願いいたします。

 古いものでも、書評、随筆、小説、ランニング日誌などは現在のニュースも同じ。そういうものを、カテゴリー・クリックから読めそうなものを見つけて拾い読みなどしていて頂ければ、嬉しいです。
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明日はギター教室発表会  文科系

2019年06月28日 12時12分58秒 | その他
 明日は、教室発表会。酷い癖が付いた拙い1人習いのあと、リタイアー後に先生について音出しから始まって16年になるが、最初の9年は参加無しだったから、今回で7回目の出演になる。今までは、こんな曲を、こんな順番で弾いてきた。

 トリーハ(モレノトローバ)、エンディーチャとオレムス(タレガ)、映画ひまわりの主題歌(の一番難しい編曲)、スケルチーノメヒカーノ(ポンセ)、マリーア(タレガ)、郷愁のショーロ(バリオス)、セゴビア編集ソルのエチュード17番(ソル)などだ。
 そして今年はタレガの小曲ばかりを、4曲。プレリュード10、11番。エンディーチャとオレムス、ゆりかごの順番で弾く。最近としては優しい曲を選んでいるから、ちょっと気が楽な参加になった。

 なにしろこの2年は、無理をし過ぎた。郷愁のショーロやソルの17番などは、年より発心者の弾ける曲なんかじゃない。ただ、とにかく大好きで、暗譜して相当弾き込んで来たから選んだという曲。今までの出演経験からすると、傷が一つでもあれば指が震えかけて、舞い上がってしまう僕だから、それがいくつかあってはまともに弾けるわけなどないのである。もちろん、それ相当のという以上に弾き込み練習はして臨んだのだが。
 ただ、魔笛を何とか仕上げ始めた今年の今にして思えば、これらの傷ももっと直すことが出来たはずだと思える。ということならば、来年はバリオスの大聖堂か魔笛でもやってみようかなとか。これらも、僕の暗譜曲群25曲ほどに入っていて、随分甘いかも知れないが、何とか人前で弾けるかなという所まで来ている。この暗譜曲群は、今でも、月に3~4回りは弾き回している僕のギター生活16年の宝物だ。これらが維持できている間は、発表会にも出られると目論んでいる。

 78歳のこの歳まで健康で、身体のどこも痛めることなくこの難しい和音楽器を長時間練習できていて、演奏会にも出られることを、それだけでも幸せと考えている。さらには、止まってしまい、頭が真っ白にならない限りは楽譜を見ないでも弾けるはずということも、幸せなことだろう。
 
 結果はまた、ここに書き留めておきたいと思う。
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僕の昭和人論    文科系

2019年03月03日 17時55分18秒 | その他
 即席の日本人論と昭和人論を一つ。

1 まず歴史的背景について分かりやすいように、歴史順に箇条書きにしてみましょう。

①織豊時代、戦国時代に、日本の経済力が凄まじく伸びた。

②その力が、徳川の安定期に入って鎖国もあったりして、ほぼ「国内消費」にだけ使われた。回船など国内流通、商業もおおいに発展して、100年もたたないうちに、大都市などでは元禄の町人文化という形で、庶民文化も先進国相当の発展に達した。日本人が1日2食から3食にかわったのも、このころだ。基本的に「生産と消費の国内好循環」は徳川末期まで波はあっても続いていたのではないだろうか。この、アジア有数の力が、明治維新でいわゆる近代化が達成されていく原動力になっていったのだと思う。

③明治維新は一種の革命だったと僕は思う。下級武士により旧来身分制度(の固定化)が崩れ、できる庶民が、あの時代のアジアとしたら差別少なく登用されるようになった。こういう民主主義の一例が、例えば学校制度にある。庶民登用型学校制度という側面のことである。全国に女子と男子二つずつの高等師範学校が、西と東に設けられた。男子は広島と東京、女子は奈良と東京に。この四つは一般帝大よりはるかに難しく、それだけ教師が大切にされていたということだろう。ここには何の身分、家柄はなくとも成績がすごくよい人(今の超難関医学部ほどか?)なら、多少のお金があれば(一般帝大平均よりも貧乏な人でも)入れた。逆に金があっても、家柄がいくら良くても、成績が満たなければ入れなかった。ここを出た人々が、日本教育界の指導者としてそれぞれ東と西の全国に派遣されたから、こういう「立身出世流儀(教育)」が全国に広まっていった。明治、大正時代の世界でもずば抜けた識字率向上は日本人の民主主義的教育水準の高さを示していると思う。

④そして、敗戦である。廃墟からの再建熱と「民主主義的出世流儀」・学校制度のゆえに、60年代まで庶民の教育熱がどんどん広がっていく。この60~80年代ほど大学就学率が高まった国はこのころまでの世界ではちょっと希なのではないか。この平均的教育水準の高さという点は、英仏など過去の先進国からも驚かれている所だ。
 ただしその教育が目指すモノが、戦前とはちょっと変わった。戦前の旧制高校は「弊衣破帽」「末は博士か大臣か」に象徴されようが、戦後は「博士、大臣よりも『大企業の社長』に」というように。つまり、仕事内容よりも金が大事な社会になったのだろう。
 以上が、昭和人なのだと思う。

⑤以上のマイナスの負の部分、側面にも触れねばならないだろう。相当民主主義的で、世界の時代にも合った?ものだったとは言え、基本的に上からの改革であったということだ。各界の戦略、つまり長期的・全体的な方針は「上から下りてきた」ということである。組織、団体の上に上るほど戦略に絡めるが、そういうのはごく少数の人だったし、封建的身分制度の残りかすもあったりして、民主主義の全体的定着は近代化の進展に比べれば非常に弱かったということである。例えばこういうように。
 明治、大正の日本近代文学の最大テーマは、近代的自我であった。村の身分、家柄、本家分家、男女差などなどに押しつぶされる個人の苦しみを描いたものだったということだ。



2 よって昭和人の特徴は

①平均的に世界1と言って良い働き者で、仕事上気も利いて、働きの質も高い。

②上に従い、競争を好む。上の顔色を見ながら、組織人として多分世界でもトップクラスの有能さを示す。ただし、「専門」と「組織」以外には弱い。

③過労死、ノイローゼ・鬱病、自殺の多さなどは、以上の結果でもあるのだろう。以上の反面として、「社会性という習慣、心をも含んだ広い意味での人間関係」に極端に敏感なところがあるということではないか。非民主的な公私混同習慣なども、そうさせているのだろうが。

④趣味、文化活動は大いに必要だと思っているが、若い頃にその養いが少ないので、趣味とか、ましてや相当の知識人でも「文化」とかいうようにはなりにくい。戦前までの伝統文化が欧米文化移入によって途切れてしまった事も関係していよう。
 廃墟育ちでもあり、味覚、聴覚、視覚など五感の養いが少なかったからでもあるのだろうが、「好き」ということが弱いと思う。音、形・色、味、運動感覚など(の芸術・文化)というものは好きでなければ極めようもない。飯は掻き込むモノ、古い家は壊して新しくするのがよいという具合である。文化への尊敬、その鑑賞者は結構多いと思うが、アマチュア創造者が少ないのではないか。

⑤その教養・精神は、便宜主義で、哲学がない。あっても、また相当の知識人でも、便宜主義の哲学、生き方ノウハウ論の延長程度である事が多い。物事を突き詰めて考えず、習慣的にだけ反応し、考えてきたのだと思う。常識の範囲から出ることが少ないということだろう。③④が関係しているのではないだろうか。


3 以上と、後の人々、例えば平成成人組などとを比べなければ、昭和人論としてはまだ不十分だろう

 ①の現在は、「平均的には」最も落ちてきていると思う。②は、①ほどではないがやはり平均的には落ちてきていると思う。③は一種もっと深刻になっている。④はオタクというのも含めて、大事にされるようになってきた。ここが、後の人々が昭和人と最も違う「豊か」なところではないか。お祭り好きなど、「楽しい」がすきでもあるし。⑤は相変わらず弱い。日本知識人の最も弱いところだと思う。だからこそ③が整理できず、④がオタクになってしまうのではないか。


4 昭和人受け継ぎ、この国の未来に関わる結論

 少子化の成熟国の子ども、人間は、親、先輩がその成熟を作ったよい所を受け継がず、悪いところを見ていて、反省、改善はするのだが、はてまっとうに改善できるのかどうかといったところ。それで成熟国は、古今東西常に衰えてきたのではないか。その「正しい民主主義度」のエネルギー、「格差固定」の排除があるか無いかによって、現状維持継続期間の長短はありながらも。ちなみに、イギリス、フランス、ドイツなど明治日本がその民主主義で模範にした国々も、今や新たな身分固定社会になり、発展の芽はなくなっているのではないか。これだけめまぐるしい世界、社会になれば、3代目が家をつぶすと言われることが国にも当てはまってくるようだ。

 ワスプなんて習慣があったアメリカだって超大国で100年ほど続いているが、移民と東欧没落がなければとっくに没落していたと思う。明治、大正生まれを祖父とすれば、現日本の中心は丁度3代目だし、移民は毛嫌いしている人がまだまだ多そうだ。


(2010年1月15日のエントリーを、再掲)
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過去の関連記事等の出し方   文科系

2017年08月16日 13時40分05秒 | その他
このブログが、1970さん最近の大奮闘もあってか、現在非常に盛り上がっています。因みに、この事では僕は心底70さんに感謝しているのです。いつも言うように、仲間内だけで「そうだ、そうだ!」とだけ言い合ってみても何の発展性も、面白みも、現実性さえありませんから。そんなこんなで、昨日までこの三日間の累計アクセスが745! 新しい読者も多いはずです。
 又、ここのブログは「昨日のアクセス・ベスト10」を観ても分かるように、古い長文エントリーを皆がよく読んで行かれる。なんせ、こんな長文ばかりなのに、一日のアクセス数の10倍もの閲覧数になるのが常ですから。つまり、200~300人の常連さんが1回10面も読んでいくということで、それだけ読む価値を感ずる記事が多いということなのだと解釈しています。

 さて、そんな事から今日は、古いエントリーの出し方について一言。


1 直近コメントのように、17年3月13日のエントリーと決まっている物ならば、こう出します。
①右欄外カレンダー直下の「バックナンバー」と書いた年月欄をスクロールして、17年3月をクリックする。すると直上のカレンダーがその月に替わる。
②そのカレンダーの中の3月13日をクリックする。すると、エントリー本欄がその日のエントリーだけに替わる。その日に複数のエントリーがあれば、その中からスクロールでお目当てのものを探して下さい。

2 なお、言葉検索から探す方法もあります。このように。
 ブログ右上欄外に「検索」欄があるから、そこに例えば「南京大虐殺」と入れます。同時にその横の「ウエブ」と書いた空欄がありますからそこをクリックして「このブログ内で」を入れます。そして、右端の虫眼鏡マークをクリックします。するとエントリー本欄が南京大虐殺関連記事だけに替わります。一番新しい物から順に古くなっていくという並べ方です。
 「南京」が、「ギター」とか、「安重根」、「慰安婦」、「中田英寿」とかでも同じことです。
 ちなみに、南京大虐殺でもなんでも、ここのなにかを批判してやろうと思い立たれた新入りさんは、是非このやり方でここの水準を調べてから何かを書いて下さい。でないと、あっさりと撃退されてしまいますから。
 言い換えればこういうことでしょう。ここがいつでも、勝つつもりで書いているのか、負けるつもりで書いているのか。少なくとも、僕等は懸命に勉強しなければならないわけです。ただ、はっきりと右思想の方で手強いと思った人は、過去にお一人しか居ませんでした。別エントリーにも書きましたが、「日本主義」という感じ方で書いてくるだけの人はもう、それだけでだめですね。歴史解釈の異論を知らず、言い分が浅いのが普通でした。

3 右欄外の「カテゴリー」から入る方法もあります。
 「小説、随筆」とか「書評」とか、「スポーツ」等はこれが便利です。一度試しに、カテゴリー項目のどこかをクリックして、どう画面が変わるかを見てみて下さい。


 こうしてここの古い記事を求めていくと2005年までさかのぼれますし、以降ずっとバックナンバー全てを読むことが出来るということ。ネットって、いやネットの大元のコンピューターって、本当に凄い物だと感心しきりでした。 
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直近エントリーへの批判  文科系

2017年08月14日 20時02分39秒 | その他
『例の根拠のうす~い心理学』
『安全保障をこれまでに起きた紛争や戦争を下敷きに考えれば、想定外の事態というのはあり得ない。そんなことをまともに語っていた』
『それを否定する為に持ち出してきたのが、訳のわからない心理学ではこっちにしてみればその方がよほど悪い冗談になる。』

 さて、直近エントリーでは僕のここまでの言い分をほぼ全て君が認めたのだから、僕はもうほとんど批判はないよ。唯1点、僕の「心理学」を君が未だに矮小化していることだけを、今回は批判しよう。僕は最初に、これについてこう書いたよね。

『 5日「北朝鮮」のあり得ない前提 2017年08月06日
 昨日の「北朝鮮」論議は、ちょっと物を考える大人の常識で考えてみて、あり得ない前提に基づいた話だと言いたい。
 北朝鮮ミサイル使用論議ではいつも、ここがあり得ない前提だとずっと語ってきた。
『日本や韓国始め東アジアの国々は北朝鮮の核(使用)の恐怖に襲われる』
『北朝鮮のミサイル核開発がここまで来てしまった以上、日本や韓国も今までとは違う安全保障が求められる可能性が出てくることも否定出来ない。つまりは、核開発になる。』

 北が核を先ず使ったら、首領様は自殺するようなものだと、僕はずっと述べてきた。
 今でさえ自分の命が狙われていると十分すぎる自覚もおありだ。「(北が日本に落としても、アメリカが報復してくれるとは限らないので)即時核報復がないかも知れぬとして、日本には落としうる」というのがこのエントリーの「新味」なのだが、どこに落としても「遅かれ速かれの100%自殺が早まるだけ」という自覚は無いはずがない。アメリカの遙か彼方・クェート侵略のフセイン、「化学兵器使用」のアサド、「9・11のビンラディン」も懸命に研究してきたことだろうし。そしてまた、彼の自殺とは、朝鮮民族にとって末代までも重要な一族郎党に連なる大虐殺までも連想されるはずなのである。あたかも、ルーマニアの独裁者、チャウシェスクのように。
 そしてまた、戦後70有余年の世界史で誰も核を落としたことがないという知識も、この独裁者首領様は十分過ぎるほどにお持ちのはずだ。それが何故かぐらいは、多少の馬鹿でも自殺決意の前ほどには考えてみることだろう。こういうのが自殺の時の独裁者にこそ一種切実な現実的思考というものであると愚考する。独裁者の国のことは、独裁者の心理学が重要になるが、それも完全に欠如している議論ということだ。
 そういう事情すべてを含めて、現代国際政治史 独裁者の心理学などが欠如した、純軍事的な微かな可能性の思いつきだけを前提にした、有り難い論議にしか過ぎないと読みました。

 米軍は、自分主導でこの北を引っ張れる所まで引っ張って、中国含みのこのアジアにどんどん緊張を高めていくし、これからもそうしていくはずだ。そのためにも今は、北の馬鹿首領の心理分析は戦略の要になってくる。よって、北について僕が昨日書いた事など、とっくの昔に全て織り込み済みだよ。』


 この場合の「独裁者の心理学」は、これを僕が全部解明したと語っているのではない。文中末尾の方の記述によって、こういうことを指すのは明らかである。『アメリカもそういうことを懸命に研究しているはずだ』。そして、その中には、僕がここで首領様について語っている内容も含まれることになるはずだと。

 ちなみに、僕がこれを解明したと、一体どこに書いてあるのか? ちなみに、この1日後の7日エントリーで僕はこう書いている。

『チキンレースが、米軍主導でどんどん進展した場合、首領様が、どんな段階でどう出る可能性があるかなんて、米軍が専門家に研究して貰っているに決まっているのである。そんなことも推察できないのかと、こちらがむしろ不思議だよ。独裁者の国に対するチキンレース戦略では、彼の心理を見ることは参謀本部の研究の中心になる。第二次大戦で、ヒトラーを必死に研究したようなものだ。そんなことは、当然すぎる話。』

 僕がこう書いた7日以降も、君はずっとこのエントリー冒頭のような「(僕の)心理学」を言い続けているのである。まるで強情な牽強付会だけの馬鹿でしょう? 違うなら違うと証明してご覧なさいね。
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70さんにお応え   文科系

2017年08月14日 12時06分53秒 | その他
 昨日最後の1970さんのエントリーにお応えいたします。


 管理者は3人で、大学時代の親友同士。僕も入っていると自覚しています。職業はそれぞれ別になりましたが、それぞれの職場とは関係なく、お互いの結婚式の実行委員会を今の配偶者らも含めたこの仲間でやりあって来た仲でもあります。
 開設直後に頼まれて参加し、副題をこう付けてくれと頼んで、今の副題ができたから参加したという僕としての経緯もあったとは、何度も述べてきたとおりです。


 また、ここまで70さんに応えてきた言葉は全て本心です。他人の本心をねじ曲げて解釈するのは卑劣な行為です。
 まず、出禁は一度もしたことがないのは誇りであること。ちなみに、出ていった人は居ますが、こういう理由だとここを読んでいればすべてお分かりいただけるはずです。ブログ副題に合わない要望を出し続け、それが入れられないから出ていくということでした。
 それでも、人が死ぬのを嘲笑うも同然の言動があれば出禁にするとも、70さんに述べてきました。


 なお、このような言葉は僕としては全部、こう否定しておきます。

『他人の書いたことをロクに理解も出来ず自分の解釈だけで話を広げたり変な方向に膨らませて勝手にキレる。
アホか、と』


 解釈を間違うのはおおむね貴方でした。僕は他人の文章を読めますし、よく読んでいます。だからこそ、「アホ」等というキレた言葉を使う必要がないのです。こんな会話としてはキレてしまった「結論」言葉だけというやり方ではなく、言葉の説明だけでやってきましたから。解釈を間違ったかどうかは、その論争の時に、その場で言うべきことでしょう。その場を離れて言うのは、これまた卑劣な操作というものです。
 どちらが誤読したかなどということは、ここの長文を読み慣れている200~300人の常連読者にはとっくにお分かり願えていることと、僕は愚考しています。これだけの人がコメントも含めてちゃんと読んできたからこそ、こんな長文ブログが12年も続いて、1日200人のアクセスが、それ以上にアクセスの10倍近い閲覧数があったはずなのです。アホと思う人の文章を読み続ける方いないと考えます。そして多分、ここで一番多くエントリー、コメントを書いてきたのは僕だと自覚しています。
 
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僕を追い出そうと、10年の執念   文科系

2017年07月25日 18時48分42秒 | その他
 なんやかんやさんとの討論を僕からご遠慮した理由を今の時点で改めて、ここの200名ほどの常連の方々にお伝えしておきたい。
 その要点を先に述べさせて頂けば、彼の「討論」が彼の「狙い」達成まで続かざるを得ないと、僕が見たからである。「私的文章は他所で書け」というのは、僕にとっては「出ていけ」も同じことになる。そのことを知っている彼が再三僕にそう語ってきたのは「ここを出て行って欲しい」ということなのだ。僕が最初から「人間的文章なら何でも良いから」という友人の懇願によってここに参加して、成功のために12年努力を重ねて来て、自分なりに貴重な晩年の情熱を注いできた者に対して、出て行って欲しいと申し出ているのである。何の権利、もっと言えば「どういう動機から」こんな無礼なことを執拗に、言ってくるのか。

 今回のやり取りは、6月20日の拙エントリー「僕が政治論以外も書くわけ」における応答の前後に端を発している。この文章の以下は、これになんやかんやさんがつけられたコメントを初めにご紹介して、二人の最後の応答で終わろうと目論んでいる。
 なお、こんな彼の「狙い」が、彼の言葉で言えば、10年以上前からここにいろんな名前で参加してすぐの頃から彼の中に抱かれていて、ちょくちょく述べてきたことであるらしい。
『私は、ハンドルネームは変えていますが、10年近くここを見ています』
 そう言えばあのAさんも「同じ狙いと、やり口だったな!」とか、僕に思い当たる人は居る。名前を変えてまでこんな理不尽なことになぜ、どうして執念を燃やしてきたのか。読者もいろんな想像を働かせて頂きたいところである。

 なんやかんやさんは、6月20日エントリーにこんなコメントを付けて来られた。エントリーをお読み願えればお分かりの通りに、以下のコメントが、最初の出だしの「公的」、「私的」の意味と、それに付けられた丁寧な解説からしてもう、僕のこれらの使い方を誤読されている。


【 公的?私的? (なんやかんや) 2017-06-20 14:44:39
 政治的な事柄を書くのが「公的」で、随筆などを載せるのが「私的」で、両者を並列に載せればトータルになると言うのはいささか違うのでは。
 政治的なことを書いてもそれがかたくなで現実性や一般性をもち得ず、相互のディベイトの対象にならない場合には、私的なつぶやきにしか過ぎません。
 一見、私的な随想でも、それらが現実を撃つ内容を備えていればじゅうぶん公的なわけです。
 まあ、一般論はともかく、問題は、文科系氏のお載せになる、随筆類がまったく読まれていなくて、その意味ではここのメンバーに全く共有されていないということにあります。
 ここがまったく私的なブログならばそれでもいいのですが、IDもパスワードも公表されていて、誰もがトビ主になることができる公共の場であるとしたら、随筆類やお孫さんのご自慢はとても場違いな気がするのです。
 もちろん、それらをお書きになりたいお気持ちは分かりますし、お書きになることは自由です。
 そこでいかがでしょう、文科系氏の個人のブログをお持ちになって、そうした随筆類はそちらへお書きになり、その都度、「ブログ更新しました」ということでそのブログのアドレスのみをこちらへお載せになるというのは。
 そうなされば、文科系氏の個人のブログも充実し、それに興味をもつ方はこことそちらを自由に往還できるわけです。
 正直いって現状のベネズエラ論議と、ハーちゃんの話の並列は、文科系氏の「これがトータルな自分だ」との言明にかかわらず、なにか木と竹を継ぎ合わせたようで、ひどくブキッチョな自己顕示を押し付けられているな気がしてならないのです。】

 このコメントを読んだ僕の方は、お返事コメントを出さなかった。ちなみに、上の後半の言葉は「出てけ!」と語っているのであるから、出しようが無く、無視したのである。言い分の性質上言い方は柔らかいが、この文章を誰が読んでも、そうとしか読めないだろう。他人にどうしても何事かをさせようという時に使う飴と鞭の前者の「形」なのである。現に、この言い分に僕が無視を返すと、たちまち言葉激しくなって、こんな鞭、捨て台詞を飛ばして来られた。最後の『討論』をご紹介しておこう。

【 やっぱり (なんやかんや) 2017-07-24 16:35:33
 噛み合いませんねぇ。
 こちらはあなたの書いたテキストに沿って実証的に書いているのに、「こんな風にまともにとられても」とか、そんなつもりで書いたのではない(1970さんがいうところの「誤読」)と言われてしまえば、それでおしまいですよね。
 相撲でいったら、あなたに合わせて立ち会おうとしているのに、あなただけさっさと別の土俵へいってしまっているようなものです。
 こうした場でのまともなディベイトというのは、あくまでの相互のテキストに寄り添った記述のはずです。それに即して話をしているのに、それ自身を否定したり、ただ一方的にお前は間違っていると断定するだけなら、これは俺のおもちゃだと抱え込んで駄々をこねている幼児と一緒です。
 安倍氏のいう「こんな人たちに負けるわけに行かないんです」を地で行ったいるのが文科系さんの現状です。この言い方のアポリアは、それ自身が「こんな人たち」を拡大再生産してゆくということです。】

『 Unknown (文科系) 2017-07-24 21:53:30
「相撲でいったら、あなたに合わせて立ち会おうとしているのに、あなただけさっさと別の土俵へいってしまっているようなものです」 
 貴方のお返事がこのようなものだとは、僕には読めませんでした。それは僕の二つのお返事そのもの、特にその冒頭に書いてきたとおりです。
 それでもあなたは土俵に上がりたいと申し出ておられるのですが、これだけ噛み合わない話には、もう僕は上がりません。悪しからず。』

【 どうしようもないですね (なんやかんや) 2017-07-24 22:27:25
 やっぱりまた覗いたのが間違いのようでいた。
 ここはまともに話し合える場ではないことがよくわかりました。
 もうお邪魔しませんから、どうぞ独りよがりのマスターベーションをお続け下さい。】


 最後に、これは事実だから申し上げておきますが、この「出て行け」「止めろ」と、そのための「鞭」には、1970さんと、名無し君がさんざん加勢のコメントを書かれていました。唯物論を自称されるやのなんやさんと、熱烈与党支持者の後2者が期せずして共闘されたというのは、僕には極めて興味深かったです。なんやさんにはこんな共闘の意識など皆無だったでしょうが、熱烈な右の方々の彼への「加勢」には、僕は吹き出してしまったものです。
「敵の敵は、味方」
 面白すぎました。他方なんやさんは、この一方的加勢を今はどう理解されているのでしょうか。他人事ながら、僕には大変興味深いことです。
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