九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

随筆 五月蠅い人   文科系

2024年03月19日 18時58分19秒 | 文芸作品
 「五月蠅い人」という人種が存在すると思う。僕が最初にこれに気づいたのは、中学に入ってある種の秀才と仲良くなった時。他人の「誤り」をすぐに訂正する。あるいは「それよりも、こうやった方が良い」と指図めいたことを口に出してくる。親しい間柄になるとこれがどんどん増えていく。こういう「いろんな事に気づき、良くしたい」人が側に居ると、どういうか「五月蠅い」のである。僕の連れ合いを例に取ってみよう。
「今の交差点、危ない運転だったよ。右の人に気づいていなかったでしょう?」
「油炒めをやっている時は、ちょっとでも側を離れてはいけない!」
 と、大きな危険が伴うような行為への注意はまー許そう。が、
「こっちの道行くの? こっちのが良いのに」
「なんで、追い越し車線を走ってるの。もうすぐ左に曲がるでしょう?」というときでも、左折地点ははるか二キロ先などなど、助手席の中でもまー五月蠅すぎる。それで彼女と僕との運転関連比較をすれば、彼女は現在地の東西南北がとんと分からず、地図も読めない。僕はといえばナビ要らずで、地図だけで初めての場所にも行ける人なのだ。という比較を何度「確認し合っても」、彼女の運転「助言」は減らないのである。東西南北が分からなければ、目的地への「斜めの近道」などは手に負えないはずなのに、秀才さんに多い用意周到で、心配性言動が同乗運転中至る所でこれでもかと発揮されて、金婚式を迎えるほどの経験と対話を積み重ねてもなお、一向に減らないのである。

 こういう難問を考え込んでいると、こんな事も思い出す。二人が出会った大学の同じ教室で二年生時の社会思想史の期末試験勉強を一緒にやっていた時のことだ。僕は自分の勉強法についてこう紹介した。この授業1年間のノート記述の目次を作っておいて、「ここが結論、それを証明する重大部分がこことここ。この三箇所をやっておけば優良可の良は、まず間違いなし」
 対して彼女はこう語って、止まない。
「それは分かった。だけど、ここも、こちらも、出るかも知れない。私は全部を何度も読んで覚えていくやり方」
 それで、それぞれのやり方を採用して、結果は二人とも優だった。というように彼女は大変な努力家であって、何と言うかどうも僕がサボり屋の怠け者にしか見えないらしいのである。そして、いったんそう決め込んだ家事分担分野には「助言」がどんどん増えていくという調子だ。連れ合いの勤勉さは尊敬するにしても、「こういう間柄」は五月蠅い。僕の部屋の方が彼女の部屋よりも遙かに綺麗なんだから(これは彼女も認めている。先日初めて「ジーパンが全部、綺麗に四つ折りで一箇所に収納されていて、驚いた」等というのだから)、僕の分担分野である家全体の清掃、整理整頓など黙っていれば良いのである。なんせ僕は手抜きをするが、それにしても我が家の何処も彼女の部屋よりは綺麗なんだから。

 関連して、この問題って案外根の深い難しいものなのだと、何年か哲学を学んだ僕にはよく分かる。紀元前五世紀「あなた自身を知りなさい」のソクラテス以来18~9世紀のカント、ヘーゲルまで、「主観と客観の問題」として、哲学史を悩ませてきた最大の難問だったのだから。等々と僕が思うからこそ、「五月蠅い配偶者」がいまだにますます幅を利かせているのかも知れない。
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日に何度も見る我が家の庭  文科系

2024年03月17日 09時19分23秒 | Weblog
 早春の庭は何度見ても飽きない。今は、日に3度は眺めに出る。

 東西に長い40坪ほどの庭だが、真ん中近くの大きなガラス窓から3メートルほどの正面には、2本のボケが真っ盛りだ。黒が混じった感じの深紅の一本は咲き過ぎてこの花特有の花塊ばかりを呈しているようだが、この色が好きで探し出して来たもの。左の他方は、不適切な時期に枝を払いすぎて花が少ないが、ボケとしては珍しく早く出た葉の緑の影に咲いている朱色が美しく、僕の目を吸い付ける。県営住宅で花畑係だった老人の助手のようなお手伝いをしていた幸せな小学生時代から、木瓜はずっと好きな花である。
 緑の下草の間の所々に黄色の水仙やムスカリがちらほらと顔を覗かせているのも、僕にはとりわけチャーミングだ。これからの庭には、ツツジ、クチナシ、ライラックや卯木の花も見えて来るだろう。

 今の庭は1年で最も良い時。それが、病気のために少々活動力を無くしている82歳の我が身には、すごい救いになっている。ちょうど、人間関係に悩んで人嫌いになった境遇が大自然を親友とする事が多いのと似ているような。こんな時の僕は思う。無宗教で神を信じない僕にとっては、自然こそ神様であるような、有り難いことだ。

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ますます偏重、新聞、マスコミのスポーツ報道   文科系

2024年03月17日 08時34分30秒 | Weblog
 野球について標記のことを感じてならない。地方の高校野球、子ども野球、MLBも含めて、それらの評論記事も加えると、野球記事ばかりが特に最近は多すぎるようになってきたと感じる。まるで「野球記事を増やそう、斜陽の野球を盛り返すためにも」との談合でもあるかのようにこうなっているが、新聞が公器と観るならば、これは明らかにおかしいことじゃないだろうか。ちなみに、歴史的にマスコミが興業野球スポンサーを務めてきた経過があるから、この衰退への抵抗・回復努力と思われて仕方ないのである。野球と同じほど人気があるサッカー初め、あらゆるスポーツ界が「おかしい」と叫ぶべきことではないだろうか?
 ちなみにまた、NHK放映が地上波、BSの両方で大相撲を2重にやっている現実も、僕には不満である。スポーツとして見た場合にはそもそも、大相撲は不健康である。歴代横綱が見事なほど早死にであるという事実、引退しても減量の努力が欠けているように見える現状もその証左だ。僕らの中学時代には学校などでも相撲を取ったが、今は都会などのどこにそんな姿が見られるか。  
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小説 当世子どもスイミングと闘う(2)   文科系

2024年03月10日 08時03分55秒 | 文芸作品
 十二月末のある日曜日三時頃だったか、僕はいつものようにスポーツジムや温水プールも併設する近くの市営公園の周囲を走っている。一周一キロちょっとの公園で、僕の通常のランニングコースなのだ。五年ほど前までは体質的に不要だったウオームアップが今は二〇分以上も必要になっているのに加えて、こんなに寒い日は血管が開かずなかなか調子が上がらない。〈前脚の地面ツツキが甘いから、脚を無理無理前に出して、その膝が曲がりすぎてる。これじゃ、悪循環じゃないか!〉。あるいは〈頭も、顎も前に出ている。身体の姿勢がおかしいと、脚のツツキも甘くなるのだから、腰から頭まで、ちゃんと伸ばせよな!〉。色々工夫してきた新走法もまだまだ身についていなくて、気がつけば出てはならない悪癖がいっぱい出て来るのである。〈腰から頭までちゃんと伸ばして、骨盤の下に持ってきた前脚を伸ばして素早く地面をつついたその反発弾力で走る〉などなどそんなことを復習しつつ二周目が終わりかけた身体をしゃんとし直したその瞬間のことだった。
「ぢーっ、頑張れーっ」。
 すぐに分かった、ハーちゃんの声だ。斜め左二〇mほど前方、子ども遊園地の端っこ、歩道沿いの柵に沿って背伸びした女の子達が見える。同級生らしい女の子二人ほどもその傍らに居て、ハーちゃんを真似て、一緒に両腕を振っている。近づいていき、顎を出してあえぎながら言って見せた。「まだ六周も残ってるのに、こんなに疲れてる。年だねー」。三人がどっと来たのも、針が落ちても笑い合う年頃。「私、○○ちゃんの家に遊びに来てるの。もっと遊んでくからねー!」、と叫んでいる声を尻目に走り続ける。
八周目を終わって、この大きな市営公園の一角にある児童遊園地から、一緒に家に帰ることになった。ハーちゃん家族は、僕ら老夫婦と今は同居しているのである。
「ぢーちゃんはどうしてまだ、そんなに走れるの? 聞かれたから再来年八〇になると答えたら、みんな驚いてた。あの友だちのおじーちゃんたち、膝が痛くて階段も苦労してるって」
「そりゃ、ハーちゃんの水泳と同じで、ずっと科学的トレーニングを重ねてきたからだよ。どこか弱った筋肉が見つけられたら、そこを強くする。水泳と同じでフォームに悪い点、力が損してる点があったら、そこを直す。ただ、いくら直しても短距離走はもうダメだ。ハーちゃんにも勝てないよ。自転車なら、君とずっと一緒にやってきたサイクリングでもう分かってるはず、僕のが強い事確実だけどね」
「あれは、ぢーちゃんの自転車がいーからだ。私にももうすぐ、あーいうの買ってくれるんでしょ。そしたら勝負しよ!」 
「あー、とても楽しみだ。今までは五〇キロまでだったけど、今度は百キロって言ってたよね。いいの? 大丈夫? 自転車の長距離は、技術や筋肉も問題だけど、それ以上に血液循環機能の問題、酸素を吸収する力の問題で、これは水泳も同じだって前に教えたでしょ。これを鍛えられるのは中学三年生ほどまでで、こちらは長年かかるんだよね」
「あーいう自転車に乗れたら、頑張れるよ。それに、この頃、体操で中距離やっても、縄跳びやっても、息がハーハーしなくなってきたし。短距離は学年男子も含めて一番だけど、中距離は二番ね。縄跳びも学年大会の全種目で最後まで残ってたの、ぢーちゃんも授業参観を観に来たから、知ってるよね」
僕のスポーツ好きが乗り移ったようなこの子とのこんな会話は、言うならば、幸せすぎる。今では、こういう会話の前提となる水泳、サイクリングなどのためにも走り続けてやるぞという僕になっている。


 ハーちゃんは新型コロナウイルスによるジム休業の前、二〇二〇年一月のテストで旧一級、新四級の百メートル個人メドレー形テストに合格した。そしてこのテスト直後のその夕方、ジムのお向かいのイーオンのベンチに二人して座り込み、今後の中長期計画を相談しあった。合格祝いのサーティンワン・アイスクリームを二人してなめながら。二人ともレギュラーサイズ・ダブルの大判振る舞いで、盛り上がっていた。行きつ戻りつの話をまとめて言えば、こんなものになったと言える。
 今の狙いは、これから三つ先の一級、百メートル個人メドレータイムにあるということ。そのために、二~三級は、ハーちゃんが苦手な方から背泳と平泳ぎとをその順番で選ぶこと。それぞれ合格タイムがはっきりしているのだから、それぞれのテスト前にはどうしてもこれを突破しておくこと。もちろん、この全てを一発で通過していく。そして相談の最後は、ハーちゃんの泳ぎそれぞれの科学的分析。特に、当面の背泳ぎについては念入りにやった。頭はなるべく上げずお臍をもっと上げるような姿勢にして、腕は耳沿いに肩から今よりもさらに大きく前方に振り出して、脚は膝から下をもっと蹴上げる、などなど・・・と。
 この夕の僕は間違いなく興奮していた。
〈こんないーかげんな教室、俺の方が絶対に上手く教えて見せる。二人でやってきた長距離サイクル・ツーリングも併せた循環機能発達を水泳と平行して図った上で、速い子のフォームとの違いにちょっと注意力を働かせる事ができれば、水泳素人でもこれぐらいの達成感を与えられて、子どもを大事にできるんだって、ここからはもっともっと示してやろうじゃないか! 一級まで、全部一発合格、駆け足で抜け出て、子ども本来の力を見せてやろう!〉

その時からしばらくして、新型コロナウイルスによるジム休業。それはとても残念だったが、明けた二〇年七月末の三級テスト背泳タイム、九月の二級テスト平泳ぎと、ハーちゃんは学年女子一番のタイムで通過して行った。学年別ベスト五の名前とタイムが張り出されるから分かるのである。週三回通う育成クラスや特別クラスで特訓を重ねた子も含めた順位だからちょっと凄いのだと、僕は勝手に解釈している。ただし、この教室全体で四年女子がどれほどいるかを僕は全く知らないのだけれど。

 そして、文字通りそれらの締めである一級、百メートル個人メドレー・タイムテスト。これが実に、僕らとしては全く意外な形で向こうからやって来た。九月に二級を通った後、ハーちゃんは誘われていた週三回通う育成クラスにとうとう入っていくことにしたが、このクラスの進級テストは二か月に一度の一般クラスとは違って、毎月末行われる仕組なのである。うかつにも僕はこのことを知らなくて、十月末の練習日がいきなりテストの日になってしまった。その日もいつものように僕は全面総ガラスの三階観覧席から観ていたのだが、ハーちゃんに何かバタフライのタイム試験のようなことが行われた後しばらくして、また彼女が一人で泳ぎだした。何か本格的に泳いでいること丸わかりで、加えるに、プール脇で歩きながらコーチがタイムを取っている。
「えっ、テスト? まさか来月の予行練習だろう。テストは隔月のはずだから」
と観ている間に、バタフライ、背泳、平泳ぎ、クロール各二五メートルが終わった。
 更衣室から出てきた彼女が、僕めがけてすっ飛んできながら叫んだ。
「一級卒業、私、『グランドスイマー』だ」
 彼女が差し出した通知表を引ったくって目を通す。一分五四秒六七と書いてあり、その隣に大きく青い合格マーク。すぐ脇を急いで確認していくと、四年生女子の規定タイムは二分三秒〇、その下を見ていくと中学生女子のそれも一分五八秒〇とあった。また、その日同時にあった二五メートルバタフライの月間タイム測定でも学年一位のタイムを出していると後に分かって、これによって背泳、平泳ぎ、バタフライと最近計測した種目全てでハーちゃんは四年生女子首位になったのである。
 これらを知った時の僕の気持ちはどんなだったか! 〈ハーちゃんと俺が一緒に、この大きなクラブ全体に勝利した。なんせ、週三回泳ぐ育成クラスはここまでたった一か月、特別授業も全くなし、直近一か月を除いて週一回一時間の練習組でここまで来られたのだから。ここの方針や、管理体制がいかにいー加減かを証明してやったんだ〉

 さて、すると間もなくこのすぐ後に、教室の側からこんな声がかかって来たのである。これは、娘から聞いた話なのだが、
「選手クラスに入りませんかって。どうする?」
 このキッズ・スイミングの選手クラスというのは、小学生から高校生までを合計してたったの二〇名弱で週三~四日練習に励み、水泳連盟の競技会などにも出るという、この教室が内外に見せている「顔」なのである。ここの子ども教室の粋を集めた高校生まで二〇名弱が、唯一本気になりすぎている以上に教えられている子どもらと言って良い。やる気満々のハーちゃんを見て、母親である娘と色々話し合った末に結局入っていこうと決めたが、一つ心配があった。週三日一時間づつ泳ぐ「育成クラス」に入ったのでさえこの一か月のこと。そんな三~四回がいつも二時間泳ぎ詰めというこのクラスで、果たして彼女はいやにならずにやっていけるのかどうか。
 ちなみに、この時娘から初めて聞いたことはまた、僕として寝耳に水というほどのもの。新型コロナ休業前二〇年一月の四級合格時点で既に選手クラスを打診されていたのだそうだ。以降娘が迷っていて、今回の僕との相談、決定になったというのである。
 四級個人メドレー形試験の合格時点で、選手コースに誘われていた! あれからほぼ一年、百メートルの個人メドレータイム試験で中学生の合格タイムを三秒以上も突破したんだから、そりゃ、誘われるよな! でもこの一年遅れはかえって良かった。フォームをより完成させて入っていくことになったんだから、これから泳ぎ込む心肺機能鍛錬の効果も、より高くなるというもの・・・。


ボードに両腕を載せ掛けて、四コース一斉にバタ脚だけで泳ぎ始めた。初めての選手コース日に、前面総ガラス観覧席の僕は、最年少が集められたらしい第一コースに注目している。そこの最初はちょっと背が大きい女の子、五~六年生か。次の子は、痩せていて、ハーちゃんよりも小さい女の子(後にリナちゃんと知った五年生。平泳ぎがクロール並みに速い)。次がやはり小さめの男の子と、女の子でその次が、あっ、やっとハーちゃんだ。もう少し腰をしっかりと固めた方が良いと言ったのになー。力もちょっと入りすぎている。みんな速いでも、そんなには遅れてないようだ。あれっ、今隣のコースを泳いでるちょっと日焼けしたようなあの女の子は、五~六年生に見えるけど、脚の回転も強さも凄まじい。心肺機能が高いんだろうが、このクラスで何年やって来たのか(この子は、後にチカちゃんと知った。四年生だけど、中学生選手並みの泳力を持っている。クロールとバタフライが強い)。

前面総ガラスの観覧室はスタート台の真上に設けられていて、スタート台近辺以外は全コースが見える。ガラスに張り付いて、いつものように双眼鏡持参の僕だから、なおさらのことだ。その眼から見ると、ボードを離してまずクロールを泳ぎ始めた皆の中のハーちゃんは、前の子には離され、後の子には追いつかれて、明らかに遅い。それが、距離を泳ぐにつれてどんどん遅れ始めて、小さい子にも追いつかれ横をすり抜けていかれる。それも、明らかに新米を考慮されてなのだが、他の子が泳いでいる時もハーちゃんはよく休んでいる。考えてみれば当然のことなのだ。ついこの九月まで週に一回、一時間しか泳いでいない彼女と、週三回各二時間も何歳からやって来たのかという子どもらとでは、差があって当たり前。初めから特別授業も受けて早くから進級を重ね、一~二年生で週三回の育成クラスにも上がってきた子からの選りすぐりもいるのだろうしでも、こりゃ大変だ。ハーちゃん、今どんな気持かなー、何と言うかなー。観ている俺がこんな敗北感というか、暗い気持になっているんだから。
選手クラス一日目二時間が終わって更衣室から出て来た彼女とは、こんな会話になった。
「疲れたー。みんな、速い速い!」
「頑張ってたねー、続けれそう?」
「なんとか。一つだけみんなに褒められたことがあるし。私、脚が強いんだって。ボードを持って脚だけで泳いだ時は四泳法とも、皆に負けなかったんだよね。初めてで付いてこれるのが凄いって」
「ハーちゃんは学校で今までずっとリレー選手だし、僕との五〇キロサイクリングなんかで心肺機能を鍛えてきてるし、脚も強いんだよ」
ここぞとばかりに思い当たる彼女の特長を強調した。
「でも、脚だけのも、ちょっと長くやってるとだんだん負けていく。なんでみんなあんなに疲れないんだろう」
「疲れるのはね、いつもの『科学的分析』で難しいことをそのまま言うけど、筋肉が疲労して息苦しくならないように、酸素を体中に取り込む能力の問題。心肺機能はこれを正しいやり方でちゃんと鍛えてきた期間の長さで決まるんだけど、これが違うの。たとえば君の横で泳いでた黒い女の子、何年生だろう。凄まじい心肺機能だよ。あんな子は、多分、一年生から週三回やってきたとかね」
「チカちゃんって言う私と同じ四年生なんだけど、中学生並みのクロールだって。いつからここで泳いでるか、今度聞いてみる」
「そうそう。チカちゃんと比べた君なんて、ここで水泳を覚え始めてから去年秋まで週一回一時間しか泳いでないって、覚えときな」
「じゃあ、ここまでの二、三年の『泳ぎ込み』の差は、もう追いつけないということじゃないの? 」
「それも違う。酸素を取り入れる心肺機能以上にフォームこそ大切。君のフォームは、一般クラスや育成クラスの四年女子の中では、少なくとも三泳法は全部一番ね。そして、今までで一番長く泳いだ百メートル個人メドレー・テストで中学生の合格タイムを君が三秒も抜いてるというのは、心肺機能も結構強いということ。心肺機能って中学時代が一番延びるもので君らにとってはまだまだこれからのことだし、チカちゃんたちよりも君の選手クラス出発地点が高いのは間違いないし、心肺機能がついてくればすぐに追いつくよ」
「ふーん、わかったけど・・・」
と、こんな会話から間もなく知ったことなのだが、チカちゃんは一年生で選手クラスに入った四年生。五年生のリナちゃんは三年生末に入ったのだそうだ。と聞いて、心配性の僕もずいぶんホッとしたものだが、はてハーちゃんは心肺機能が追いついてくるまで、続けられるのかどうか。あれこれと、僕自身が不安になって来たという選手コース第一日目であった。
 大丈夫、やっていける。短距離の脚なら今もう同じほどに強いんだし、一年も経てば少なくとも脚だけは勝てるだろう。それに、酸素を取り込む心肺機能が一番伸びる時期は生理学上で中学生時代と確定されている。ただ泳ぎ込ませて二百メートル個人メドレーの月タイムを取っているだけのような練習だし、追いつく余地など十分過ぎるはずだ・・・。俺のランニングに比べたらそう言えること間違いなし。
 こんなふうに懸命に自分に言い聞かせている僕を一年弱でますます度々発見してきたのだが、この執念は自分ながら「ちょっと病気」と訝りたくなるほどのものに育ち上がっていた。我が八十年人生の来し方を彩り、詰め込んだスポーツ好きはもちろんだが、それ以上にハーちゃん好きが加勢した「物事に取り組む姿勢」への「ちょっと病気」は、我ながら手に余るほどのものに膨らんでいる。なんせ、土日の朝七時半から二時間の選手クラス練習にハーちゃんが出る時には、一般向けに玄関が開く八時には僕一人が広い三階観覧席ガラスに張り付いている有様。この巨大なジムが名古屋市北東部全体に手を広げた世の中で僕一人、八〇男がやることかと苦笑いしていたり、いや老い先短いからこそ「俺が役に立てるからこそということじゃないか」と精神分析まがいを試みてみたり。が、こんな程度の分析では手に余りすぎる「ちょっと病気」と、そこへいつも行き着くのだった。

 さて、ここの選手クラスでは月一回第一木曜日に二〇〇メートル個人メドレーで全員のタイムを取る。それまで一か月間の練習成果を確認するためなのだが、ハーちゃんの最初三か月はこのように伸びていった。四分一四秒、四分六秒、そして三分五九秒。この最後の日、三月初めの結果をしっかりと確認、記録した僕らは、帰りがけにこんな会話を始めることになった。
「全体ではまた七秒縮めたけど、一つだけ、今までで本当に今日初めて後退が起こったのは知ってるの?」
「背泳でしょ? ゆっくりと泳いだんだけど、どれくらい悪かったの?」
この子はまだ、自身のタイムも気にしていないのか、それとも僕任せにしているのか。
「一分八秒で、前が一分二秒だよ。六秒も落ちてる。この二か月の全種目通して、落ちたのはこれが初めてだけど、こういうのが一番いけない。なにかあったの?」
「飛び込んだ時に左の眼鏡がずれて半分くらい水が入ってね、最初のバタフライは我慢できたけど、次の背泳だけは上向きで泳ぐから、分かるでしょ、左目の上で水がチャプチャプしてて、いろいろなことをやってはみたんだけど駄目で、後はそのまま最後まで。とにかく、泳ぎにくかったー」
「へーっ! そのこと、先生に話した?」
「いや、みんなにも笑われるかと思って、恥ずかしくてー」 
「そんなら言うけど、これって凄いことなんだよ。背泳が前と同じタイムなら、今日全体で一三秒も縮めたことになる。そして、来月は、初めて起こったこの六秒のマイナスが一〇秒以上のプラスになって返ってくることも決まってるようなもんだ。来月の全体タイムがこの背泳だけでもう三分五〇秒を切ったも同然ってことなんだけど、分かるかなー。これから一か月は特に背泳の練習を頑張ろう」
 幼い無頓着というのか、豪胆というのか、そういうこの子に僕は、懸命に言い聞かせたものだ。対する彼女は笑顔も見せぬどころか、憂鬱そうにこう返して来た。
「でもチカちゃんは、今日とうとう三分切ったって、みんなが騒いでた。凄いよねー!」    
「そうか、うん、君と一分の差があるのね。でもとにかく、これからの二人の伸びしろは、君のが大きいに決まってる。チカちゃんの一月は一二月より悪かったと張り出された記録表で読んだ覚えがあるけど、君のこの二か月平均のように月一〇秒ずつ彼女との差を縮められれば、半年で追いつくんだよ。とにかく一週間に一時間しか泳いでなかった君が、六時間も泳ぐようになったんだから、それで心肺機能が伸びた分で全ての泳ぎが急に速くなっていくんだし。そんな時には、今遅い後半が特に速くなる。そしたら一体、どんな記録が出るようになると思う!」
 チカちゃんをハーちゃんの身近に引き寄せるべく、懸命に話していた。これも分かったのか分かっていないのか、チカちゃんをうらやましがっているやのただ暗い表情は崩さない。抽象的な言葉よりも、時々の感情の方がまだまだずっと大きく心を支配する年齢なのだろう。そこで僕はこんな時のいつもの切り札として、この言葉で励ましたものだった。
「スポーツでも音楽、ピアノでも、悪い癖が付いた後退や停滞はいつも起こるものだけど、やはり成長が急にやって来るのね。欠点、重要点によく注意してきちんとやり続けていればのことだけど。このことは、君ももう何回も体験してきて、よーく分かったと何度か叫んでたでしょ。セイちゃんの『いきなりボードキック二五メートル』も、覚えてる?」
 ハーちゃんの顔に、作ったように見える微笑みが浮かんだ。人間個人のどんな取り組みにも起こる「急成長の時」。これは、ハーちゃんが得意な縄跳びなどでも既に度々体験して驚きつつ、言葉に出してきちんと確認し合ってきたことだ。この時ハーちゃんに思い浮かんだのは、背泳が急に早くなったあの時だったのか、それとも、セイちゃん初の二五メートル・ボードのあのゴールだったのか・・・。


 それから十日ほどたった練習日の終わり前の光景は、二階席の僕の目に焼き付いて、今もよく蘇って来る。
 二五メートルダッシュ測定をやっていて、その日最年少の最終組で三人並んで泳ぎだした。向かって一番右には五年のリナちゃんが得意の平泳ぎ。大柄な四年生の天野さんは、やはりお得意の背泳である。一番左がハーちゃんで、その日は背泳を選んでいた。そして、なんと、半分ほどまで行っても、ハーちゃんが天野さんをリードしている。そのハーちゃんにちらっと目をやった天野さんが、一気にピッチを上げ始める。ハーちゃんは一目瞭然、精一杯の回転だ。「今はピッチは遅くても良いから、どんな泳ぎも、とにかく大きく泳ごうね」と二人でずっと言い合わせてきたのだけれど。三階から見ていたからすぐに分かったのだが、プール脇の皆が騒然とし始めた。チカちゃんなどは、ゴールの方へ走り出している。どうやら、新入生の予想外の活躍が起こると、皆が目を見張る習慣があるらしい。ましてや高野さんは、チカちゃんの仲良しだ。そんな全員注目の中でのゴールは、タッチの差よりちょっと大きめで、ハーちゃんの勝ち。ハーちゃんがクロールで泳いでも勝てなかったリナちゃんの平泳ぎはこの時は三番に終わっていた。もっともこの時の相手お二人は、ハーちゃんの伸びに気づくまでは、幾分手を抜いていたのかも知れない。こんな光景の中でもとりわけ、チカちゃんがコーチにタイムを訊ねている姿を僕がしっかりと見つめていたのは、後でハーちゃんに見たままをきちんと報告してあげようと思ってのことだ。
 ちなみに、チカちゃんたちのこの様子を帰りがけにハーちゃんに伝えた時には、逆にハーちゃんからこんな報告があった。
「コーチもこう言ってくれたよ。
『なんでお前、こんなに急に速くなったんだ? 今こういうことが起こるって、他の泳ぎもこれから急に伸びていくってことになる』って」
 これでやっと、何とかついて行けるようになったのかな、ここまで三か月ちょっとか。僕のモヤモヤがこれだけ晴れたのだから、ハーちゃんはもっとホッとして、このクラスの一員にはなれた〉という感じだろう。停滞とか失敗とか、これからはもっといろいろあるだろうが、まー元気にやっていけることにはなった。そのためにも、僕のハーちゃん病の方をちょっと直さんといかんだろうな。僕が彼女を手放して自立させるほうが、彼女自身が上達していくことよりもはるかに難しいかも知れない・・・。

(終わりです)


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小説 当世子どもスイミングと闘う   文科系

2024年03月09日 17時43分54秒 | 文芸作品
 更衣室から四年生の女の孫ハーちゃんが、やっと出てきた。その鼻高々と分かる表情を見なくとも、合格という結果だけは試験場プール脇から三皆観覧席にいた僕への合図でもう分かっていたのだが、「タイムは? どれくらい?」、急き込んで僕は訊ねている。通知表が差し出されたのをあわててめくってみると、二六秒一七。横に書かれた四年生女子の二五m平泳ぎ合格規定タイム二七秒一〇をやっと一秒弱、ヒヤヒヤの突破だ。
 これは、二〇二〇年九月末、五年以上通っている子どもスイミングの二級合格テスト。ハーちゃんは今、この巨大なジムの子どもスイミング教室に三〇級ほど設けられた進級クラスの最終段階に差し掛かっている。この最終段階は四つに分かれていて、四~一級はこんな内容になる。四級が、四泳法全部のフォームをテストする百m個人メドレー。二、三級は、その内どれか一つずつの泳法で二五mの規定タイムを突破するテスト。そして、最後の一級が、百m個人メドレーのタイム突破試験である。七月にあった三級試験は背泳で合格、四年女子の合格ライン二四秒一五のところを、二一秒五五で通った。ちなみに六年生女子の合格ラインが、二二秒〇五とあった。というこの背泳と違って、今日の平泳ぎの方は、僕とのテスト対策練習でなかなかタイムが伸びなかったから、事前の特訓に、珍しく二日を費やしたのだった。苦労した分、結果とそれ以上にタイムが待ち遠しく、二人して喜んだ当日だったのである。

 ジムから出て脇の駐車場に歩きながら、この建物全体を改めて見上げた。女性アスリート二人の看板、同じく男女二人の子どもスイマーと、二つの大看板が掛かった、巨大な建物である。南の道路を隔てた向かい側にも、矢張り同じように巨大なショッピングモール。お互いがお互いの客を呼び込みあっているという、そんな戦略がうかがわれる二つが並んでいるのである。名古屋の中心部一等地に近いところにあって、不動産会社が全国展開しているスポーツ・ジムなのだ。そこの子どもスイミングには、これだけ子どもが少ない時代に一体どこから集まってくるのやら、凄まじい数だ。週一時間一コマ・一コースの教室に多い時は二〇名もいるから、それだけで優に五〇名。親同伴の幼児などでとても賑わう土日だけでも計一〇時間としてさえ、先ず五〇〇名は軽く超えるだろう。ウイークデーにも、学校を終えた小中学生が何コースものスクールバスで名古屋市北東部から集められてくるクラスが少なく見て二〇ほども。ハーちゃんが通う日に僕が仲良くなった老夫婦などは、この愛知県の西端、津島市から孫の送迎で通ってくるのだそうだ。最近新聞で見た「子どもの習い事は、水泳が断トツ」というそんな社会現象のまさに最先端、象徴的な存在である。そういう大事業を、親元は日本有数の金融業というこの不動産会社が大々的に全国展開しているのである。

さてこの時から一年程話を遡った一九年一〇月、この教室に対して僕はある気持を抱き始めていた。

「今度は上手な子のように、板を持ったクロール・キックで、向こうの壁まで、二五mやってみる?」
 そのころ間もなく五歳になる男の子、ハーちゃんの弟セイちゃんにそうたずねると、弾んだ声でウンッと応えつつ、僕に微笑みかけている。板で泳いだことなどないはずだから拒否されると思っていた僕は、内心のうれしさを押し殺してさりげなく板の持ち方などを教えて。
 これは、娘に頼まれた、同じスイミングに通い出した弟セイちゃんの初めての水泳特訓三日目のこと。ちなみに、娘と僕はこんな子ども教育観で一致している。
〈物事に正しく取り組む態度を小学低学年までの子どもに身につけさせるには、スポーツと音楽が最適である。より上手くなるために正す点が具体的だし、改善の成果も目に見え、肌で感じられて、分かりやすいものだから〉
 この日も付いてきたハーちゃんと同じ水泳教室の進級テストに二回落ちて四か月を無駄にしたあとに、僕のセイちゃん指導の出番が初めて求められたその一場面なのだ。「普通クラス」の進級テストは奇数月にあるから四か月が無駄になったということなのだが、この日いきなり起こったことに、僕はまーびっくり仰天! 彼が二回落第したテスト課題とは、「フィックス」という二つの浮きを両肩に付けて「五メートルをバタ足できる」というもの。これはもう特訓一回目でできてしまって直後のテストにも合格したから、以降今日もふくめてあと二日はその距離を延ばす練習を企画していた。この間中守るべき大切な基本は、以下の二つである。
 一つは、正しく脱力した蹴伸びから伏し浮きの姿勢が取れること。大きく息を吸ってから壁を蹴ってまっすぐに進むだけの練習を何回もさせる。四肢をゆったりとのばしつつ蹴った後、脱力させた全身を水面と平行に保つ。この時、踵が頭より上に来るほどに腰から下を浮かせ気味にする「脱力した身体の伸び」が要点なのだ。ただこの姿勢は、きちんと教えれば子どもはすぐに覚えるもの。水の抵抗感がなくなる初めてのスタイル・やり方習得が、子どもには楽しくて仕方ないものらしい。自分には難物であった水の中を力も要らずスーッと分け入っていけると実感するからだろう。セイちゃんもこれがちょっとできるようになると、何度も何度も挑戦していたのが、僕にはとても興味深く、幸せな光景だった。今ひとつは、足首と膝を伸ばしてバタ足すること。つまり、頭よりも浮かせ気味にした脚をなるべく根元から動かす。
 さて、テストは五mだったけど、蹴伸びは完璧、バタ足も形になってきたこの日、思いついてこう提案してみた。「できるだけ遠くまで行けるようにやってみる?」。「ウンッ」という返事もろともどんどん距離を延ばし、結局二五mの向こう岸までを泳ぎ切ってしまった。僕はまーセイちゃん以上に、喜んだこと! 半信半疑のままに「もう一度やってみる?」に、やはり「ウンッ」。これもやはりニコニコとやり切ったので、〈この子、心肺機能が強いのかな!〉と、二度目の驚き。そこでこれほど脱力キックができるならこの日のうちにこれを定着させてしまおうかと思いついたのが、冒頭のボード・キックの提案だった。
 何度も言って聞かせてきたのに、笑顔交じりでつい激しくなるバタバタから出てくる膝曲がりもなんのその、やはりパワフルに通しきってしまった。
「セイちゃん、君、凄いことやったんだよ、これ!」
 驚きの連続から、こんな声を連発していた。
〈一二・五mクロールでさえ三つ上のクラスのテスト課題なのだから、手腕の形をちょっと教えればこのクラスもクリアー同然。そもそもこれほど出来る彼が前のテストで二回もどうして落ちたんだ? あんな簡単なテストに〉。
 プールサイドベンチからこのテスト場面の一部始終を見つめていたハーちゃんの所へ飛んでいって、声を掛けてみた。
「ハーちゃん、驚いたろ。セイちゃん、凄いね」
「あんなに簡単に二五mって、前のテストがおかしかったんだよ。ぢーちゃん、教えてなかったんでしょ」
「いやいや、この大進歩は、間違いなく、正しい伏し浮きの大切さを示してるの。君ももう一度改めて、自分の泳いでる姿勢を見直すといい。君のクロールは、呼吸する時に顔が水面から上がりすぎて、水中の上半身よりも足が低い形で身体が斜めになる時が多い。だから、水の抵抗が大きくなりすぎ。これがいつも言う君のクロールの『科学的分析』ね。勉強で言えば、理科の勉強内容の一つで、水泳ができない人でも分かる理屈だ。今月四級の個人メドレー型テストに君が落ちたのも、あの理科の理屈に合わないクロールのせいだ」
「違う、違う。あれは、ぢーちゃんが退院したばかりで、二人の練習ができなかったからだよ。大切な試験だったのに」
「俺のせいにしたら、怒るぞ。自分が『科学的練習』をおろそかにしたというのに。こんな大きな失敗はよーく覚えといて。今後一級までの対策に活かすことだ」

 と、こんなやり取りがあったこのころ、孫二人が通っているこの大きなスポーツジムの水泳教室に以前から抱き始めていた不信感が決定的なものに膨らんで、僕の中で弾けてしまい、教室への質問メールをこの直後に送ったのだった。
『一六クラスが三〇クラスになったのは(最近上達していくグレイド・クラスをこの通り倍ほどに多くなるよう再編成し直した)、極めて不愉快でした。調べてみたら、入門段階と旧一級とで多く枝分かれしています。全く理解不能で、一級卒業者をより長くつなぎ止める策としか思えません。今までは四泳法型テストの一級が通常の一番上だったのを六クラスほどに枝分かれさせたから、一級になった子が四級って、その気持ちを考えたのですか。子どもの気持ちを尊重しないという意味で、なんらか教室の都合によるやり方としか思えません。
 もう一つ質問で、クロールの教え方がおかしい。息継ぎの時に真上以上に、一八〇度を通り越した反対側まで顔が行ってしまっている子もいます。これでは、身体がいろいろぶれても来るから、水に抵抗がない身体の使い方にはなりません。二五メートルクロールクラスで友人の子どもさんらが何度も落第してきたのは、このことが関係していると観ました。悪い癖を直すのに熱心でないスクールと思います。
 そして、もう一つ。あるクラス泳法習得卒業時にはその課題が上手く泳げていた子が、以降に前に習った泳ぎに悪い癖をつけることも目立っています。一度身体に染みついた癖を子どもが直すのは大変。もうちょっとこの対策を考えてください。友人の子らがちっとも進級できない原因はそこにもあると観てきました。』

 このメールに対して近く返事を送るとの返信があったまま、いつまで待ってもそれが来ないのである。この質問内容は一種の社会問題だとも考えたものなのに。子どもらの社会教育施設という役割もあることだから僕の怒りは一種の公憤なのだが、僕の指摘が的を射すぎていて、弁護論議も思いつけなかったのだろう。
 さて、進級クラスを倍程に分けたのも、悪い癖を直すのに不熱心なのも、僕には金儲けのためとしか思えなくなっていた。関連して「希望者は個人レッスンを」という特別料金授業に加えて、毎月試験が受けられてどんどん進級もしていく仕組まであるのだ。言い換えれば、特別料金を出さない子どもはみんな悪い癖が付いて進級が遅れていく。そう言えば、ハーちゃんはずーっと週一回の一般クラスだけ、個人レッスンは受けたことはないけど、このジムに近い同じ学童保育から通っている子どもらのなかでは、いつの間にか出世頭だ。とっくに中学生になった子も含めて学童保育の上級生はかなり来ているのに。それぞれ同じ試験を何度も何度も落ちている日の暗い眼差しを見るたびに、どれだけ腹を立ててきたことだろう。
〈子どもは社会の子。その恩恵をやがて今の大人全員が受けていくのだから。地域の子など全部に大人も心してやさしく接してきたという日本古来の風習を踏まえた社会教育的理念が国の法制にも盛り込まれていて、ここにも適用されるはずだ。「規制緩和」ばかりで、そんな「社会的公正、良俗」もどんどん排除されて来てしまったのだろう。『地域の子どもをみる施設』という習慣もなくなってしまって、残ったのは全部、子供商売? 金儲けだけの全国チェーン施設ばかり? 日本国憲法理念で言う社会的『公正、良俗』はここでも一体、どこへ行ってしまったのか? 今の日本、こんなことばっかりだよなー・・・・。〉
 こうして、当時の僕の心中はどういうか、「このクラブがいかに悪いかを、ハーちゃんと俺がどんどん証明してやろう」と、そんな感情、思いが生まれていた。と言っても、コーチたちが悪いのではない。みんな礼儀正しいし、言葉遣いも親切で、子どもにも優しい感じの人ばかりだ。一クラス一時間で、二〇人近い時もあるほどの子どもをみさせられて、一年にコーチが何人もやめていくところを観ると待遇もパート扱いがほとんどなんだろうし、経営・管理体制が問題なのである。『悪癖を付けないように』という程度の専門性さえ求められていないとしたら働いている人にやり甲斐もなく、有能な人ほどどんどん替わっていくんじゃないか。ちなみに教えられる子どもの方は、何年か通うと友人もできるし、学校の同級生とか学童保育仲間も多いから、辞められなくなってくる。これじゃ悪循環、出せる金によってどんどん格差を付けていくぼろ儲け商売じゃないか! 流石にこの不動産会社の親会社があの大証券会社だけのことはある。低所得者住宅関連の金融商品・サブプライムのバブルが弾けたリーマン・ショックの時は、この大都市の近隣法人などにも大損害を与えて、確か訴訟寸前まで行った小金持ち私立大学も県下に二つはあったはず・・・。

 スクールとのこんなやり取りから、ハーちゃんに対する僕の指導は急に何倍かの熱を帯びていくことになった。そういう僕に対して当時のハーちゃんはと言えば、もう三年生。それまでの気まぐれ幼児の態度が消え、僕の言葉が彼女に通用し始めたことによって、いろんな自己規制ができる年齢に入っていた。学校の運動会で欠かさずリレー選手に選ばれ続けたり、僕が知らぬ間に「縄跳び名人」になっていたりして、スポーツの鼻っ柱も取り組み方も、相当なものに育っていた。これに対して僕の水泳は、平泳ぎだけが一定レベルという、ほとんど素人。それでも、たった一時間という特訓だけで身についた悪癖などもほぼ直せると、色んな成果を伴って分かってきたのだった。僕が得意だった色んなスポーツに比べて水泳の物理学的な理屈は極めて単純だったからだし、水の抵抗を上手く避けて推進力を高めるフォームの見本は、教室上級者をガラス張りの三階観覧席からいくらでも観られたのだから。ただ、目では全く見ることができない最重要にして最難関の水泳上達秘訣が一つあるのだけれど、それは僕にとっては現在日々実践中の、最もお得意の分野。これを押し詰めて言えば、酸素の体内循環・吸収力をいかにしてすみやかに高められるかという、水泳フォームのようには目に見えないから遠大で難しい議論・訓練になるのだ。が、このことでは当時七八歳の僕が、二〇年前から現在まで日々なお格闘中、専門家と言って良い身なのであった。

 同じ二〇一九年晩秋のころ、七八歳の僕のことなのだが、シーズンに入ったスポーツ、ランニングはどん底状況に入り込んでいた。この夏胃がんの疑いから胃腺腫皮下削除術という手術で一週間入院。癌の疑いは晴れたのだが、以降一か月の運動禁止から走り始めた時、体力の衰えの酷かったこと! 走らない日がこれだけ続くと筋力以上に心肺機能が衰えて、その回復に苦労し、普通に走れるようになるには低速ランを何日も何日も繰り返さねばならないのである。ところがこの繰り返しを始めて二、三日目には、右足首を痛めた。これだけの老人のこんなスポーツは、ここまでいつも病気や復活、その復活過程における故障との闘いでもあった。三年前の一六年から一七年にかけては、前立腺癌の化学療法と陽子線治療に通って、やはり走力を振り出しに戻している。そこからの復活過程でもやはり無理をして、故障した。あの時もやはり右足首だった。この前立腺癌による停滞から一定復活して二年目に、また胃の手術を抱えたということなのだ。ランニング人生のこういうピンチには、このまま急なじり貧になっていく歳なのかという思いがいつもいつも頭をかすめるのである。一九四一年生まれの七八歳、人はそれが当たり前の歳だと言うかも知れないが、僕は違う。今までもこうやって来たからこれだけ走れている。まだ走れるだけではなく、前立腺癌前一六年の一時間一〇キロという走力復活だってありえないことではないと、まだ目論んでいた。老人は体力は衰えても、それをカバーする知恵だけは細かく増えていくのである。『自分のスポーツの科学的分析』、ハーちゃんにもいつも、この言葉の意味そのものを含めて真っ正面からそう説明してきた言葉、思考を懸命に言い聞かせていたある日、僕がやっているブログでエールを送り合って来たランナーとの間で、こんな会話があった。

【 喜寿ランナーの手記(275)走法を変えたら楽に・・・二〇一九年一二月一七日
 今日はちょっと走法を変えてみた。歩幅やピッチの変更とか蹴り足を強くするとか、膝を伸ばし気味に走るだとか、小さな変化をつけることはいつもよくやってきたが、これだけ変えたのは初めてというほどに、大きく。このブログを訪れたあるランナーのブログを最近よく見に行っていて、そこで教えてもらったことをヒントにして。そのヒントとは、こういう言葉だった。
『最近は気を付けていてほぼなくなりましたが、着地する足が膝より先になっていたこともあります』
 文中「着地する足が膝より先に(なってはいけない)」に、目がとまった。〈ほうっ、これは俺の走り方とは全く違う。俺の知識でいえば、着地脚の膝を思いっ切り伸ばして地面をバーンとたたいたその反発力で走る短距離のやり方だ〉。というわけで、こんな走り方をすぐに実験してみた。後ろ脚で地面を蹴って跨ぐように走っていくのはやめて、前脚で地面を突っつき、その反動で腰ごと浮いた他方の脚を前に出して、骨盤から踵まで垂直気味にしたその前脚でまた地面をつつく。地面をつついたその反動だけで走り、これ以上に脚を前に振り出すことはしないというやり方である。振出脚着地時の曲がった膝を伸ばす時間が不要になったその分一分間ピッチ数は最大一八〇近くと多くすることも可能になって、スピードが出る割に始終疲れが少なくて済んで、(以下略) 】

 というようにとにかく僕は、この年にして初めて長距離ランナーに合った合理的な走法に換える努力を始めたのである。「喜寿ランナーの手記」という題名も二一年からは「八十路ランナーの手記」と変更するつもりのそんな歳の走法変更は身体を痛めると言われてきたのだが。そこはそこ、この年まで慣れ親しんだ細心の注意でやるだけのことだ。なにしろこの走法は、酸素の消費量が少なくて済むと、当時ますますはっきりとしてきたのだから。同じ時速九キロで走っていても、一分間の心拍数が僕で言えば一五五から一四五ほどへと、一〇近くも下がって来ると分かったのである。ゆっくりと長く毎日のように走れば走るほど心拍数が下げられるという酸素吸収力強化のためのランニング理論があるのだが、走法を変えてこれほど心臓への負担が少なくなるのなら、それに越したことはないということである。

 十二月末のある日曜日三時頃だったか、僕はいつものようにスポーツジムや温水プールも併設する近くの市営公園の周囲を走っている。一周一キロちょっとの公園で、僕の通常のランニングコースなのだ。五年ほど前までは体質的に不要だったウオームアップが今は二〇分以上も必要になっているのに加えて、こんなに寒い日は血管が開かずなかなか調子が上がらない。〈前脚の地面ツツキが甘いから、脚を無理無理前に出して、その膝が曲がりすぎてる。これじゃ、悪循環じゃないか!〉。あるいは〈頭も、顎も前に出ている。身体の姿勢がおかしいと、脚のツツキも甘くなるのだから、腰から頭まで、ちゃんと伸ばせよな!〉。色々工夫してきた新走法もまだまだ身についていなくて、気がつけば出てはならない悪癖がいっぱい出て来るのである。〈腰から頭までちゃんと伸ばして、骨盤の下に持ってきた前脚を伸ばして素早く地面をつついたその反発弾力で走る〉などなどそんなことを復習しつつ二周目が終わりかけた身体をしゃんとし直したその瞬間のことだった。
「ぢーっ、頑張れーっ」。
 すぐに分かった、ハーちゃんの声だ。斜め左二〇mほど前方、子ども遊園地の端っこ、歩道沿いの柵に沿って背伸びした女の子達が見える。同級生らしい女の子二人ほどもその傍らに居て、ハーちゃんを真似て、一緒に両腕を振っている。近づいていき、顎を出してあえぎながら言って見せた。「まだ六周も残ってるのに、こんなに疲れてる。年だねー」。三人がどっと来たのも、針が落ちても笑い合う年頃。「私、○○ちゃんの家に遊びに来てるの。もっと遊んでくからねー!」、と叫んでいる声を尻目に走り続ける。
 八周目を終わって、この大きな市営公園の一角にある児童遊園地から、一緒に家に帰ることになった。ハーちゃん家族は、僕ら老夫婦と今は同居しているのである。
「ぢーちゃんはどうしてまだ、そんなに走れるの? 聞かれたから再来年八〇になると答えたら、みんな驚いてた。あの友だちのおじーちゃんたち、膝が痛くて階段も苦労してるって」
「そりゃ、ハーちゃんの水泳と同じで、ずっと科学的トレーニングを重ねてきたからだよ。どこか弱った筋肉が見つけられたら、そこを強くする。水泳と同じでフォームに悪い点、力が損してる点があったら、そこを直す。ただ、いくら直しても短距離走はもうダメだ。ハーちゃんにも勝てないよ。自転車なら、君とずっと一緒にやってきたサイクリングでもう分かってるはず、僕のが強い事確実だけどね」
「あれは、ぢーちゃんの自転車がいーからだ。私にももうすぐ、あーいうの買ってくれるんでしょ。そしたら勝負しよ!」 
「あー、とても楽しみだ。今までは五〇キロまでだったけど、今度は百キロって言ってたよね。いいの? 大丈夫? 自転車の長距離は、技術や筋肉も問題だけど、それ以上に血液循環機能の問題、酸素を吸収する力の問題で、これは水泳も同じだって前に教えたでしょ。これを鍛えられるのは中学三年生ほどまでで、こちらは長年かかるんだよね」
「あーいう自転車に乗れたら、頑張れるよ。それに、この頃、体操で中距離やっても、縄跳びやっても、息がハーハーしなくなってきたし。短距離は学年男子も含めて一番だけど、中距離は二番ね。縄跳びも学年大会の全種目で最後まで残ってたの、ぢーちゃんも授業参観を観に来たから、知ってるよね」
僕のスポーツ好きが乗り移ったようなこの子とのこんな会話は、言うならば、幸せすぎる。今では、こういう会話の前提となる水泳、サイクリングなどのためにも走り続けてやるぞという僕になっている。


(この小説は、フィクションです。次回に終わります)

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小説 俺のスポーツ賛歌(2)   文科系

2024年03月07日 11時32分28秒 | Weblog
 さて、俺が大学院に入ったとき弟は高校三年生で、その三年間はこんな生活を見せてくれた。授業が終わるとすぐに帰宅、勉強。夕食を食べてまた勉強。ただし、週に三つほど必ず観るテレビ番組を決めていて、その一つは「歌謡番組 夢で会いましょう」。しばしの青春時間というわけだが、これら三つでさえ夕食前後の一時間以内。こうして、彼の一日平均勉強時間は七時間に及び、しかもこれが三年間続いたとあって、これらすべてには何というかとにかく驚かされてばかりだった。これは後にはさらにはっきりと分かるようになったのだが、国語ができなくて、家庭教師についていた。英数の家庭教師ならともかく、国語のそれって珍しいということから、何か鮮かに覚えている。俺に言わせれば、この国語不得意は当たり前だ。小学校から大学までこれだけ人付き合いがなければ、文学や古典の字面、文章はともかくその中身が分かるわけがない。それでいて数学実力テストは父の助けもあって愛知県最難関高校でトップなのだから、まー非常に偏った人間なのである。ちなみに、この弟を当時の母が他の二兄一妹にはやったことがないほどせっせと献身的に押し上げていた。この時の母は、これまで努めていた名古屋市立高校教師の職を定年まで五年以上を残して辞めてしまい、専業主婦になった。それは、弟を東大に入れるために世話を徹底しようという望みから決めたことだ。母が遺した旧女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)愛知県同窓会誌「桜陰」への寄稿にこんな一節がある。
『昭和四〇年三月、○○高校退職。高校三年になって大学進学を前にした末っ子に一年間はすべてをかけてみようと、今まで出来なかった教育ママに徹しました』
  母のこの決心を弟がどう捉えたかは俺には全く記憶がないから、まーそんなに異例、異常なことのようには受け止めなかったということだろう。
 こうして弟は、東京大学理科一類に悠々と入って行った。国語の点数不足などは、彼の数学の高得点でいくらでも補いが付いたということだ。

 さて、中学在学中から普通の移動はほとんど自転車に頼っていた俺だが、バレーボールを止めた後はスポーツ・サイクリングがにわかにクローズアップされていく。
 初めて自転車に乗ったのは小学校中学年のころ。子供用などはない頃だから、大人の自転車に「三角乗り」だ。自転車の前三角に右足を突っ込んで右ペダルに乗せ、両ペダルと両ハンドル握りの四点接触だけで漕いでいく乗り方である。こんな乗り方ながら、初めて走りだせた時のあの気持! 〈速い!〉はもちろんだが、〈自由!〉という感じに近かったのではないか。脚を必死に動かしているわけでもないのに、風がピューピュー耳を切っていく! サドルに座って届かない足を回す乗り方を間もなく覚えてからは、かって味わったことがないスピードでどんどん走り続けることが出来る! 
 以降先ず、中高の通学が自転車。家から五キロほど離れた中高一貫校だったからだ。やはり五キロほど離れた大学に入学しても自転車通学から、間もなく始まった今の連れ合いとのほぼ毎日のデイトもいつも自転車を引っ張ったり、相乗りしたり。
 共働き生活が始まって、上の息子が小学生になったころから子どもとのサイクリングが始まった。下の娘が中学年になったころには、暗い内からスタートした正月元旦家族サイクリングも五年ほどは続いたし、近所の子ら十人ほどを引き連れて天白川を遡ったことも何度かあった。当時の我が家のすぐ近くを流れていた子どもらお馴染みの川だったからだが、俺が許可を出した時に文字通り我先にと身体を揺らせながらどんどん追い越していった、あの光景! 子ども等のそんな自転車姿がまた、俺にはたまらない。
 この頃を含む四十代は、片道九キロの自転車通勤があった。これをロードレーサーで全速力したのだから、五十になっても体力は今の日本では普通の二十代だ。自転車を正しく全速力させれば、体幹も腕っ節も強くなるのである。生涯最長の一日サイクリング距離を弾き出したのも、五〇ちょっと前のこのころ。先ず知多半島先っぽまで。そこから伊良湖岬先端までのフェリーをつかった三河湾一周の最後には豊橋から名古屋まで国道一号線の車道を走ってきた苦労も加えて、メーターが弾きだした実走行距離は百七十キロになっていた。

 五十六歳の時に作ってもらった現在の愛車は、今や二十年経ったビンテージ物だ。愛知県内は矢作川の東向こうの山岳地帯を除いてほぼどこへも踏破して故障もないという、軽くてしなやかな品である。前三角のフレーム・クロモリ鋼チューブなどは非常に薄くて軽くしてあるのに、トリプル・バテッドと言ってその両端と真ん中だけは厚めにして普通以上の強度に仕上げてある。いくぶん紫がかった青一色に注文した車体。赤っぽい茶色のハンドル・バー・テープは最近新調した英国ブルックス社製。部品は普通のサイクリストなら知らぬ人はいないシマノのデュラエース・フルセットである。

 定年近くのこんな俺を、同居生活という近くで見続けてきた母が度々口に出していた言葉がある。
『若い頃順調に一直線で来た男性は老後に苦労する。何らか意味がある寄り道をした人の方が豊かな老後になる。人生プラスマイナスゼロにできてるということなんだろうねー』
 これは、老後が即余生になってしまった父や、当時既にそうなりそうだった弟を見ていて、母なりに出した人生訓なのだ。ちなみに、先にも見た同窓会誌「桜陰」寄稿にもこんな一節がある。
『同居している次男夫婦も共働きですので、昼間は相変わらずの一人暮らしですが、二人が帰宅し、共にする夕食は楽しく、孤独を忘れることの出来るひとときです』。
 俺が五〇歳の頃から俺らは同居を始めて、その二年後に父が亡くなったその後の家庭風景を母なりに描写したものである。なお、この夕食時間は俺にとっても忘れられないものになっている。食卓に、母と連れ合いと二人それぞれの二品ずつほどが並んで、華やかな、楽しい食卓だった。なお、四人の兄弟姉妹の中で、両親が最も望まない青春時代を送った俺が晩年の両親と同居したというのは、皮肉というよりはむしろ当然の結果と今の俺は捉えている。博士号を持った外科医である兄は同じ名古屋市の同じ区内に住んで、八十歳を超えた今もなおパート勤務医として働いているが、父母共に兄夫婦とはいろいろあってむしろ疎遠といって良かったからだ。「一直線」の青春を過ごした息子やその配偶者とは、その親もなかなか親しく付き合えるものではないらしい。まして、全国区の大学を出た妹、弟は、それぞれ東京練馬区と横浜高台の自邸に住みついて、名古屋には帰ってこない。全国有数の大学卒業という優秀な子を持つということは、そんな覚悟も要るということである。なお、妹は母と同じ大学の大学院を出ている。


 五九歳の時に職場がスポーツジムの法人会員になったのを機会に、ランニングを始めた。その時に分かったことなのだが、入門して間もなくなんの苦もなく走れるようになって行ったのは、それまでのスポーツ好き、自転車人生があったからだった。自分の最高心拍数の七割程度で走りつづけると最も効率よく心肺機能を伸ばすことができるというランニング上達理論があると後で知ったのだが、素人が継続できる高速サイクリング心拍数がちょうどその辺りに来るものなのだ。つまり、俺はそれまでの自転車人生によってランニングに最適な心肺機能訓練を続けてきたわけだ。走り始めて一年ちょうどほど、六十歳で出た十キロレースで四九分台という記録を持っている。そして今七十七になる俺は、週に三回ほど各十キロ近いランニングをしている。その話が出たり、ダブルの礼服を着る機会があったりする度に連れ合いがよく口に出す言葉がこれだ。
「全部、自転車のおかげだよね」
 この礼服は、三十一歳の時、弟の結婚式のために生地選びまでして仕立て上げたカシミア・ドスキンとやらの特上物である。なんせ、俺の人生初にして唯一の仮縫い付きフル・オーダー・メイド。これがどうやら一生着られるというのは、使い込んだ身の回り品に愛着を感じる質としてはこの上ない幸せである。よほど生地が良かったらしく、何回もクリーニングに出しているのに、未だに新品と変わらないとは、着るたびに感じる二重の幸せだ。弟の結婚式から父母の葬式までを見続け、「自分の大人時代を今日までほぼ共に歩んできた礼服」。それも今できる品質なんだろうかとか、今作ったらいくらするんだろうとか思わせるような五十年物なのである。こんな幸せさえもたらしてくれる一六九センチ・五八キロ、体脂肪率十二%内外の「生涯一体形」も、「生涯スポーツ」、特に有酸素運動と相携えあって歩んで来られたということである。もちろん俺は、若い頃に医者に教えてもらったポリフェノールのことも忘れてはいない。酸素を多く取り入れ過ぎてきたその手当をしていないスポーツマンは早死にするとは、医者なら皆が語ること。それは酸素とともに空気から取り入れてしまう活性酸素が細胞を最も激しく老化させる有害物質だからである。これを中和してくれるのが、ポリフェノール。かくして俺の食生活は、晩酌が赤ワイン、野菜は馬みたいに食ってきたし、最も多くする間食は、チョコレートに煎茶だ。つまり、こういう食生活習慣がいつの間にか楽しいものになっているというわけである。

 ランニングとサイクリングの楽しさは、俺の場合兄弟みたいなもの。その日のフォーム、リズム、気候諸条件などが身体各部の体力にぴったり合っているらしい時には、各部最小限の力によって気持ちよくどこまでも進んで行けるという感じの兄弟。そして、そんな時には身体各部自身が協調しあえていることを喜び合っているとでもいうような。
 自転車が五九歳にしてランを生み、退職後はランが自転車を支えて、まだまだ長く続いていきそうな七十七歳の俺の活動年齢。パソコンにぶっ通し五時間座っていても腰背痛にも縁がないし、目も大丈夫と、これらすべて有酸素運動能力のおかげ。「パソコン五時間」というのは、現役時代から仕入れて今も続いている同人誌の編集活動に必須の、現に日夜重宝している能力である。文章創作というこの頭脳労働にまた、有酸素運動が威力を発揮している。走った日の後二日ほどは、老人になって特に感じる朝の脳の冴えと同じものを感じ、走らない日が三日も続くとたちまちどんよりとしてくるのである。人間の身体で酸素を最も多く消費するのが頭脳であるという知識を思い出せば、誰にでも分かる理屈だろう。ちなみに、人間個体が窒息死する時、この死が最も早く起こるのも脳細胞であるらしい。

 週に複数回以上走ることを続けてきたほどのランナー同士ならばほとんど、「ランナーズ・ハイ」と言うだけである快感を交わし合うことができる。また例えば、球技というものをある程度やった人ならば誰でも分かる快感というものがある。球際へ届かないかも知れないと思いながらも何とか脚を捌けた時の、あの快感。思わず我が腿を撫でてしまうというほどに、誇らしいようなものだ。また、一点に集中できたフォームでボールを捉え弾くことができた瞬間の、体中を貫くあの感覚。これはいつも痺れるような余韻を全身に残してくれるのだが、格闘技の技がキレタ瞬間の感じと同類のものだろうと推察さえできる。スポーツに疎遠な人にも分かり易い例をあげるなら、こんな表現はどうか。何か脚に負荷をかけた二、三日あと、階段を上るときに味わえるあの快い軽さは、こういう幸せの一つではないか。これらの快感は、たとえどんなに下手に表現されたとしても、同好者相手にならば伝わるというようなものだ。そして、その幸せへの感受性をさらに深め合う会話を始めることもできるだろう。
 こういう大切な快感は、何と名付けようか。イチローやナカタヒデなどこのセンスが特別に鋭い人の話をする必要がある時、このセンスを何と呼んで話し始めたらいいのだろう。音楽、絵画、料理とワインや酒、文芸など、これらへのセンスの存在は誰も疑わず、そのセンスの優れた産物は芸術作品として扱われる。これに対して、スポーツのセンスがこういう扱いを受けるのは日本では希だったのではないか。語ってみればごくごく簡単なことなのに。スポーツも芸術だろう。どういう芸術か。聴覚系、視覚系、触覚系? それとも文章系? そう、身体系と呼べば良い。身体系のセンス、身体感覚。それが生み出す芸術がスポーツと。スポーツとは、「身体のセンス」を追い求める「身体表現の芸術」と言えば良いのではないか。自分の視覚や聴覚の芸術ならぬ、自分の身体感覚が感じ導く自作自演プラス鑑賞付きの、誰にでも出来る身体芸術である。
 勝ち負けや名誉とか、健康や体型とかは、「身体のセンス」が楽しめるというそのことの結果と見るべきではないだろうか。そういう理念を現に噛みしめているつもりの者からすれば、すっかり体型がくずれてしまった体協の役員の方などを見るのは悲しい。勝ち負けには通じられていたかも知れないが、「身体のセンス」の楽しみはどこか遠い昔に置き忘れてこられたように見えるから。その姿で「生涯スポーツ」を説かれたとしても何の説得力もなく、「言行不一致」を免れることはできない。

 さて、こんな俺のロードレーサーが、先日初めての体験をした。直線距離三〇〇メートルとすぐ近くに住んで、今は週三日も我が家に泊まっていく仲良しの女の孫・ハーちゃん八歳と、初めて十五キロほどのサイクル・ツーリングに出かけた。その日に乗り換えたばかりの大きめの自転車やそのサドル調整がよほど彼女の身体に合っていたかして、走ること走ること! 「軽い! 速い、速い!」の歓声に俺の速度メーターを見ると二十四キロとか。セーブの大声を掛け通しの半日になった。
「じいちゃんはゆっくり漕いでるのに、なんでそんなに速いの?」
「それはね、(かくかくしかじか)」という説明も本当に分かったかどうか。そして、こんな返事が返ってきたのが、俺にとってどれだけ幸せなことだったか。
「私もいつか、そういう自転車買ってもらう!」
 そんなことから二回目には、片道二十キロほどの「芋掘り行」サイクリングをやることになった。農業をやっている俺の友人のご厚意で宿泊までお世話になる企画だった。
 人間の子どもの力って凄い。初めての長距離ツーリングなのに、行きも帰りも俺の速度メーターはおおむね二〇~一五キロ、二時間ほどで乗り切った。名古屋市を、北部から南へ縦断して隣の豊明市までというコースだから歩道を走ったのだし、信号は多いし、海に近い天白川の橋の真ん中から水鳥や魚を探すなどの長い休憩時間も二回ほどとったのだけれど。帰りなどはその上、途中にある大高緑地公園遊園地を二時間以上も飛び回ったうえで、さらに一〇キロ近くを文句も言わずに走り通した。けろっとして本人曰く、「私は身体が強いからね!」。初めは半径三キロ以内はこれまでにすべて征服したと豪語できる公園遊びから始まって、自転車から、正しい走り方までも俺が教えて来たこの小学二年生は、五〇メートルを九秒切って走り、二重跳び三十回とかの縄跳びも大好きなのである。俺のスポーツ好きが乗り移ったようなこの子と、まだまだ一緒に遊べる体力を持ち続けていたい。そして今は、やがて青春を迎えるだろうこの子との一日百キロサイクリング、これが俺の夢だ。俺の経験からいって、今のように週二~三日、一回十キロ近いランニングが出来ているならば、一日百キロのサイクリングは容易だと目論んでいる。ちなみに、そういう高齢者は、サイクリングが盛んな英仏などにはうじゃうじゃいる。そして、彼女がその年齢までサイクリングを熱烈な趣味と出来るか否かは、俺が我が父母の教育力をどれだけ換骨奪胎して受け継ぎ得たかに掛かっていると考えている。
 ハーちゃんは二〇一〇年九月生まれ、今はもういない父母はともに一九一〇年九月生まれ、きっかり百歳の歳の差だ。


(終わりです)



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小説 俺のスポーツ賛歌(1)   文科系

2024年03月07日 11時08分03秒 | 文芸作品
 長らくお休みで済みませんでした。今日から、2日連続で、19年に書いた中編小説を転載させて頂きます。よろしくお願いします。20年近く続いたこのブログをまだまだ続けたいから。


 照明を最小限にしたそのレストランは急上昇中の名古屋駅前地域でも指折りの店と分かった。テーブル一つずつが回りから隔てられた作りで、〈近辺の重役室から抜け出した財界人辺りが商売の探りを入れる会食などに格好の場所だな〉、それとなく見回していた。駅前ツインビルの一角に、六歳違いでまだ現役の弟が久し振りに二人で飲むために予約を入れた店なのである。東京から月一の本社重役会に彼が来名した秋の夕暮れのことだ。
 水を運んできたウェイターに彼が語りかける声が響いた。「このビルの社長さんは、僕の同僚だった友達でしてねー」。〈「せいぜいサービスしなよ」と告げる必要もあるまいに、いつもスノッブ過ぎて嫌な奴だな〉。こんなふうに、彼と会うと俺の神経が逆なでされることが多いのである。でも、その日の彼において最高のスノッブは次の言葉に尽きる。俺の過去について思わずというか何というか、こんなことを漏らしたのだった。
「兄さん、なんで哲学科なんかに行ったの?」
 そう尋ねた彼の表情が何か皮肉っぽくって、鼻で笑っているように感じたのは、気のせいなんかではない。そう感じたから黙っていたらこんな質問まで続くのである。「兄さんは元々グルメだし、良い酒も好きだし、生き方が矛盾してないか?」。まともにこれに応えたらケンカになると感じたので、こう答えた。「お前には分からんさ。世のため人のためという人間が、グルメじゃいかんということもないだろうし」

 さて、その帰りに弟の言葉を反芻していた。年収二千万を越えたとかが十年も前の話、東海地方有数の会社の重役に理工系から上り詰めている彼から見ると、俺の人生に意味はないのかも知れぬ。「人生、こういう生き方しかないのだよ」と決めつける押しつけがましさはさらに強まっているようだし。高校の文化祭などは全部欠席して家で勉強していて、俺の目が点にさせられた覚えがあったなー。そこでふっと、こんなことも連想した。「オバマのは、税を納めぬ貧乏人のための政治。私は納税者のための政治を行う」、前々回の米大統領選挙での共和党候補者ロムニーの演説の一部だ。つまり、金のない人々を主権者とさえ見ないに近い発想なのである。弟はこれと同じ人生観を持って、こう語っていたのかも知れない。「兄さんは別の道にも行けたのに、何でそんな馬鹿な選択をしたのか?」と。そこには「今は後悔してるんだろ?」というニュアンスさえ含まれていただろう。

 秋の夜道を辿りながらほどなく俺は、自分の三十歳ごろの或る体験を振り返っていた。大学院の一年から非常勤講師をしていた高校で、「劣等生」に対する眼差しが大転換したときのことだ。二十代はほぼ無意識なのだが、こんな風に感じていたようだ。こんな初歩的ことも理解できないって、「どうしようもない」奴らがこんなにも多いもんか! 彼らがどういう人生を送ってもそれは自業自得、本人たちにその気がないんじゃ仕方ない。この感じ方がその頃、コペルニクス的転回を遂げたのである。〈彼らとて好きでこうあるわけではないし、現にみんな一生懸命生きてるじゃないか〉。その時同時に、家族とは既に全く違っていると思った俺の人生観も、一種我が家の周到な教育方針の結果満載であると、遅ればせながら改めて気づいたのである。勿論、その良い面も含めて。そして、弟よりもむしろ俺の方が、我が両親の良い面を受け継いでいるのだろうとも、少し後になって分かった。彼らは、旧制中学校、女学校で能力のある貧乏な生徒を良く面倒みて、俺が成人になってからもずっと世話していたという例さえ、いくつか覚えている。この両親ともが、愛知県の片田舎、貧乏子沢山の家から東京へ、当時の日本に男女二つずつ計四つしかなかった高等師範学校へと上り詰めた人だった。父の方はさらにその上の大学院のような所も卒業している。母と結婚してから、その母が勤めた旧制女学校の稼ぎによってのことだった。こうして二人はつまり、明治政府が築き上げた立身出世主義人材育成・登用制度を大正デモクラシーの時代に国内で最も有効に活用できた「優秀な庶民」だ。だからこそ、同じような境遇の教え子を可愛がったということだろう。仏壇、長幼の序など古い家のしきたりのようなものはほとんどなかったが、「人生の幸せ=高学歴」および「人は皆平等に大切」と、そんな人間観、人生観と、それに基づく子育て力が非常に強い家ができあがっていたようだ。

 この時またふっと、弟のこんな言葉も甦ってきた。
「私の仕事は初め新幹線の進歩、やがてはリニア新幹線を日本に生み出すという夢に、各年齢では常にその最高責任者として関わってきたんだよね!」
 この誇り高い言葉はまー、あの皮肉っぽい笑みからすれば俺に対してはこんな意味なのだろう。「だけど、兄さんの仕事人生は、一体何が残ったの?」。確かに、最初の仕事を二十数年で辞めたのだから、そう言われるのも無理はない。それも、貧乏な民間福祉団体で休日も夜も暇なく働いた末の、精神疲労性の二度の病のためだったのだし。そこでさらに気づいたこと、これに似た病に、お前も罹ったじゃないか? それも若い頃の入院も含めて一度ならず今も……お互い頑張っちゃう家系だもんなー。

 いろんな言葉や思い出を辿りつつここまで来て、俺の思考はさらに深く進んでいく。弟は何でこんな挑戦的な言葉を久々に会った俺に敢えて投げたのだ? 今も病気が出かけて終わりが近づいている自分の仕事人生と、何よりもこれが終わったその先とを自分に納得させる道を懸命に探している真っ最中だからじゃないか。この推察は、妥当なものと思われた。すると、ある場面がふっと浮かんできた。
〈小学校低学年からアイツは電車が好きだった。我が家に近い母さんの職場・市立高等学校の用務員さんの部屋で母さんを待って一緒に帰る途中にある中央線の踏み切り。あそこでよく電車を見てたと母さんが言ってたよなー。彼は少年時代からの夢を、日本最高度の形で実現させたんだ……〉


さて、ここまでは、今から約一〇年ほど前のこと。この弟、というよりも兄弟妹と俺の四人が育った家族から俺だけが「変わった歩み」を始めたと、今になって初めて分かった時というものを振り返ってみよう。その始まりの出来事こそそもそも、「俺のスポーツ」なのである。
 四人兄弟のなかで、兄も弟も高校の時いったん入ったクラブを間もなく止めさせられている。確かそれぞれボート部と卓球部のはずだ。こんなに時間を取るのでは学業に障りがあるからということだった。妹は卓球部をずっと許されたが、女だからということだろう。これも何か両親らしい。両親と言ってもこの場合、主導したのは父だ。母は消極的に父に賛成した。庇ってくれたこともあったから、そう感じた。確かめたわけではないが、まず間違いないだろう。
 高校に入学してバレーボール部に入ったが、すぐに、「辞めろ!」と命令した父との喧嘩が始まった。父の手が出たことも一度や二度ではないといった、修羅場が初めは連日のように続いた。そんな時の母は、俺と父との周辺をただおろおろ、うろうろしていた。こうして結局、二、三年にはキャプテンになるなど、俺はバレーボールを三年間守り通したのである。
「事前にこの程度に身体を動かしておくと、こんなに楽にプレーができる」
「個人練習なども含めてどれだけ激しく動いても、最後に軽く一キロほど走ると、疲れがこれほど取れるものとは。翌日の身体も全く普通になっている!」
 こんな初歩的な知恵も、誰に教えてもらうということもなくふとした自分の試みから発見したもの。これらの知恵が当時の俺にとって価値が高いという意味でどれだけ新鮮なものだったことか。そして、クラブ活動の後自転車で家路についた時、あの汗と夕陽! 今さらにこれらが好きになっている原点であった。この時に培ったスポーツ好きや足どり軽い身体への愛着とともに。

兄弟でただ一人一浪の後、文学部に入った大学でも、一年の夏にはバレーボールクラブのレギュラーになった。浪人時代も母校のマラソン大会に出て全学二位になったほどに基礎体力を維持した上で、大学の入学式前から春休み中のクラブ合宿に飛び入り参加をして入学式も欠席という意気込みで始めたクラブなのである。そのレギュラー初陣がまた忘れられないもの。夏休みに静岡大学で行われた中部地方国立大学大会で優勝したのだった。その年、愛知の大学バレーボール・リーグ一部中位に属していた結構強いチームだった。県大会常連のような学業成績優秀校のエースなどが集まるこの大学のレギュラー獲得は当時の俺にとって大きな誇りにもなったし、同時に家からの『自立』のさらに大きな一歩を踏み出すものになった。俺の高校クラブが地区大会一回戦勝ち抜けもできない弱さだったから、この誇りはことさらに大きかった。
 ところが、このクラブを一年の秋には辞めてしまった。当時の俺の意識としては、二つの原因で辞めた。一つは、哲学科の大学院へ行きたくなったこと。今ひとつは、体育会系の人間には、友達にしたい人がいないと見抜いた積もりになっていたことである。当時の俺はどう言うか、人生を求めていた。自分の家に規定された貝殻が小さいとしか感じられないようになった宿借りが、次の大きな殻を求めて歩き始めるように。そして、その大きな要求に、スポーツやスポーツ仲間が助けになるとは思えなかったのである。当時の奇妙な表現だけれど、感情や行動におけるほどにスポーツを大切なものとは、頭の中では捉えていなかったということだ。すごく好きだったし、行動上の熱中度も周囲の他の誰にも負けていないという自信さえ発散していたはずだが、当時の意識ではそれを俺にとって数少ない「面白いこと」の一つと捉えていたに過ぎなかった。

 哲学科の大学院に入ったころ、二人の主任教授のうちの一人がその時の授業テーマの説明としてこんなスポーツ論を語ってくれたことがあった。
「西欧と日本とでは、スポーツについての考え方は全く違います。ロダンの『考える人』。あの筋骨隆々たる姿は、なにも立派な軍人が、あるいは陸上十種競技の名選手が、たまたま何かを考えているという姿ではないのです。そもそも人間が何かを深く感じ、考えるということそのものが、あーいうたくましい筋骨を一点に集中してこそ成されていくという、ルネサンス以来の西欧流『考える人』の理想型というものなんです。対するに日本では、深く感じ、考える人ってどんな人でしょう。芥川龍之介みたいな人を連想する諸君も多いのではないでしょうか。貧弱な身体だからこそ文を良くするというような人。このように、日本では文武は分けられていて、文が武よりも上と、そんな感じ方がずっと多く存在し続けてきました。この頃こそ文武両道とよく語られるようですが」
 なるほどと思った以上に、一種ショックを受けた。この小柄ながら均整が取れた老哲学科主任教授が、大学時代にやり投げの全日本クラス名選手だったとも聞いていたことも重なっていた。
〈文武両道は本来なら比例するという相関関係にあるということだろう。それを言行一致して追求してきた人々がいる。それが西欧知識人の一般教養にもなっている。こういう本気の背後には、こんなスポーツ哲学もあるのだ!〉
自分のスポーツ大好きに大きな意味が一つ、初めて生まれてきた瞬間だった。だが、実際にこの哲学の意味、価値を身体で現し、感じられていくのは、まだまだ後の話になっていく。


(あと1回続きます)
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