連れ合いの「失せ物」家探しを長く笑っていたが、いつの間にかこれが僕にも伝染してきた。先ず眼鏡である。亡くなった連れ合いの母さんが眼鏡の蔓二本に首掛け紐を付けていた理由が今になって年々よーく分かって来るのだ。でもこれは原因思考を繰り返すと探し慣れてくる。「置き忘れた」場所を忘れても、その場所が決まっているからだ。新聞・書物読み、パソコンの近く、そしてトイレなど、主として活字を読む場所である。ただこれも、そこから落ちて床などにあると、知らぬうちにスリッパに引っかけたりして、「訳の分からない所」に飛んでいたりするから、とんでもない難儀をする。
さて、耳穴式耳穴式補聴器となると、困難は何倍にもなる。小さくて、転がりやすいからだ。ただ補聴器は一個十ウン万円もするから、どれだけ時間をかけても探し続けることになる。先日もこんなことがあった。
居間でテレビを見ていて右の機器を外し、座っていたソファの右肘掛け材上に乗せた。それがコロッと下に落ちてしまったのを、「明日探せばよい」とそのままにしてしまったのがいけない。翌日どれだけ探しても見つからぬ。周囲のカーペットの上「すべて」や家具の下などは懐中電灯で照らし回っている間には、日頃の物忘れの多さから、こんなことさえ頭をかすめる。
〈ここで、こうなくしたというのが夢か思い込みだったかも知れない〉。
連れ合いが手伝ってくれても見つからぬままに、3日ほど過ぎた頃、今度は左耳のをなくした。あまつさえ、このたびはどこでどうなくしたかの記憶もあやふやを通り越して、探し方も浮かばなかった。右のをほぼ諦めてから一週間近くたって「両方なくしたら、大変だ。30ウン万円!」、連れ合いも一緒になって必死に探していたら、先ず左が見つかった。僕の書斎の机の上から落ちたらしい全く意外な場所からちょこんとのぞいていたのに偶然目が行ったのである。それからまもなく連れ合いの声「あったよーっ!」で駆けつけると、居間の端っこ、縦長の小さな四つ足飾り台を移動させたら、そこにあったと言う。多分、懐中電灯の光から外れた四つ足窪みのどこかに沈んでいたのだろう。こんな遠くの台を移動させなければ見つからないような形にまで、飛んでいたのである。
家の修繕など出費が多く小遣いがないときだったので、もう嬉しかったこと、活動力が落ちてきた最近としては珍しい人生の幸せ、歓喜だった。
捜し物はやはり思考では手に負えない。連れ合いのような試行錯誤の努力、苦労を厭わぬ者こそ、得意な技になる。