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憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

ピント狂いすぎ反論に、困った話、   文科系

2020年08月31日 00時14分42秒 | 国内政治・経済・社会問題

「日本会議は全体主義」というエントリーで、以下のように箇条書きできる内容を書いた。これに対して、同じく下記概要のようなアサッテの方向向いたピント外れのコメントが返って来た。なぜこれほどにピント外れになったのかをよく考えてみたら、実に面白いことに気づいた。哲学で言えば、凄まじい主観主義なのである。この独り善がりが、実は途方もなく怖い。

  拙稿の概要
①日本会議は、「世界に類例をみないわが国の誇るべき宝」である天皇を敬愛する「同朋感」のない人を切り捨てた憲法を目指している。その意味で、全体主義を目指していることになる。
②あまつさえ、そういう「同朋感」のない人こそが、戦後に現れたやの「(彼らが観る)諸社会悪」の原因であり続けてきたとも延べている。
③このような理念を中心に据えた国家観は、ゲルマン民族の優位を説いたヒトラー全体主義とどこが変わるか。両者の差は、「異質」国民の統制や、他民族蔑視やを自制する程度の差しか残っていないことに気づかないのである。この無意識こそ、今後に向かって実は最も恐ろしいものだ。

  彼の批判の見出しと、内容
『愛国心は。世界の常識』
「愛国心は世界の常識」を延々と展開して、最後の締めが『ゆえに、日本会議は全体主義とは無関係です』。これって、批判になってるの?
『天皇は、日本の代表です』 
 日本の代表=総理大臣。総理大臣の代理=皇室。ならば、日本の代表=皇室。とこう来て、最後が『総理大臣は国民の代表ですから、我々国民が、皇室を日本の代表にしてきた、というのは、客観的な事実です』。これもまた、拙稿への批判になってるつもり?

 拙稿へのこのような「批判」に反批判というのも大人げないほど。簡単に済む。
僕のエントリーのどこにも、「愛国心」など書いてない。この否定はもちろん、肯定も。
 こうして思うに「天皇への敬愛」こそが無条件で愛国心そのものなのであって、この敬愛がない人は愛国心がないと言いたいのだろうが、そういう説明はどこにもなく「言うまでもない必然の論理」のように語っているのが笑えた。ちなみに、僕は人並みの愛国心は持ってます。もちろん、僕がこれを持っていないという証明は彼の文章のどこにもありません。
僕は天皇が日本の代表ではないなどとはどこにも書いていない。憲法に「象徴」という「立派な」言葉が存在するから、そんなこと書けません。「政治権能のない象徴」という「代表」である。
 ところで、こう認めたら、僕のエントリーのどこに彼は一体反論できたことになるのだろう。彼には、「天皇への敬愛」がない人は天皇をこういう代表とは認めないと僕についても勝手に決め込んだのだ。逆に、代表と認めれば敬愛すべきだとも?
 日本国で僕が敬愛するのは、日本国民。天皇も1人の国民という程度には敬愛してますが、少なすぎるのでしょうね。

 みなさんも、この反論、全然反論になってないと思われるはずだ。 


 ところでシンさん、答えるなら僕のようにちゃんと答えてよ。長ったらしい訳の分からぬ文章を不親切にも4~5本も読ませるのではなく、一文にまとめて筋が分かるように要領よくお願いしたいもの。要領よくとは、初心に返って、僕の「日本会議は全体主義」の上記「拙稿概要」3点に即して反論することね。それも、最も見事な批判は、いつものような3点からの思いつきつまみ食いじゃなく、3点全部批判し切ることね。できれば一枚の紙で。いつもそうやってくれれば、討論が深まって、君の国語力も上がると僕は思う。ましな高校生の国語能力なら、それくらいなことはちっとも難しくはないはずだ。相手が、僕のように君が言ってないことまで君の心を読み込んでくれるほど親切な人なんだから

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改めて、「日本会議は全体主義」  文科系

2020年08月29日 12時44分46秒 | 国内政治・経済・社会問題

 全体主義を広辞苑で引くと、こうある。
『個人に対する全体(国家、民族)の絶対的優位の主張のもとに諸集団を一元的に組み替え、諸個人を全体の目標に総動員する思想、体制』
  この文章においては、冒頭の(国民)諸個人を国家の中にどう位置づけるかの近代的理解が当然の前提として存在する。基本的人権を持つとされたありのままの国民諸個人が国の主人公であり、そういう諸個人が、国家の実態でもあり基本法でもある憲法を作るのだと。

 次に、「日本会議がめざすもの」の国家観は、その呼びかけ、論議の出発点からして、既に国民を選別して見せる。
 まず、文章冒頭が、こういう日本史認識で始まる。
『皇室を敬愛する国民の心は、千古の昔から変わることはありません』
 次いで、この歴史認識を国と国民の未来に向けても「(第一の)あるべきもの」と強調する。
『皇室を中心に、同じ歴史、文化、伝統を共有しているという歴史認識こそが、「同じ日本人だ」という同胞感を育み、社会の安定を導き、ひいては国の力を大きくする原動力になると信じています』  
  どうだろう、ここにある『同胞感』を有しない国民は、『社会の安定』にも、『国の力』にも関わりの薄い、疎外された人々と書いてある。あたかもイスラム原理主義国家が「イスラムにあらざれば、国民に非ず」と瓜二つの趣だ。選び除けられた国民には、自称「国家(の価値)」が強制されるのは目に見えている。日本会議とってこれだけ神聖なものに対しては、不敬罪さえ作るかも知れない。

 こうして、『めざすもの』の国家理念は全体主義そのものである。この『同胞感』を「新憲法」の最重要基盤に据えることによって、『国民』を選別しているのだから。あまつさえこの文書は、切り捨てた国民にこんな冤罪の罵詈雑言を浴びせる。
『戦後のわが国では、こうした美しい伝統を軽視する風潮が長くつづいたため、特に若い世代になればなるほど、その価値が認識されなくなっています』
『自国の防衛を他国に委ねる独立心の喪失、権利と義務のアンバランス、家族制度の軽視や行きすぎた国家と宗教との分離解釈、などなど』
『特に行きすぎた権利偏重の教育、わが国の歴史を悪しざまに断罪する自虐的な歴史教育、ジェンダーフリー教育の横行は、次代をになう子供達のみずみずしい感性をマヒさせ、国への誇りや責任感を奪っています』

 このような理念を中心に据えた国家観とは、アーリア人、ゲルマン民族の優位を説いたヒトラー全体主義と一体どこが変わるというのか。異質国民の統制や、他民族蔑視・制圧やをどれだけ自制するかという程度の差しか残っていないことに気づきもしないこの無意識こそ、今後に向かって実は最も恐ろしいものだ。ここに描かれてあるご本尊への神聖感情が国家を握ったその程度に応じて、他者への不寛容、排斥がもたらされぬ訳などないのである。
『125代という悠久の歴史を重ねられる連綿とした皇室のご存在は、世界に類例をみないわが国の誇るべき宝というべきでしょう』

 

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日本会議の「トンデモ国家観」  文科系

2020年08月28日 07時56分22秒 | 国内政治・経済・社会問題

 「日本会議がめざすもの」なる文章を読んだ。結論を一言で評すれば、こういうことになる。近代以降の政治経験がある世界のどの国にも通用しない独りよがりの、しかも、目的実現など不可能な「夢想家の戯言」。この文書のような国家構想に、無数の保守党国会議員、地方議員が賛成の名を連ねているというのは、我が国政治世界における政治史的教養の欠如とさえ、僕には見えるのである。以下に、その証明を試みてみる。全六節から成った3,000字ほどの文書だが、あと三つはそれぞれ「教育」「国防・世界平和」「国際協力」という各論に当たるものなので、国家論総論に当たる1~3節を論評する。なお、以下の『 』文章は全て、本文から抜いたものであることを示している。

『私たちは、皇室を中心に、同じ歴史、文化、伝統を共有しているという歴史認識こそが、「同じ日本人だ」という同胞感を育み、社会の安定を導き、ひいては国の力を大きくする原動力になると信じています』(『1美しい伝統の国柄を明日の日本へ』から)

『わが国の憲法は、占領軍スタッフが1週間で作成して押し付けた特殊な経緯をもつとともに、数々の弊害ももたらしてきました。すなわち、自国の防衛を他国に委ねる独立心の喪失、権利と義務のアンバランス、家族制度の軽視や行きすぎた国家と宗教との分離解釈、などなど』(『2 新しい時代にふさわしい新憲法を』から)

『国民の政治への無関心は民主主義そのものの危機です。
 特に、先の大戦を一方的に断罪するわが政府の謝罪外交は、国の歴史や国難に尊い命をささげた戦没者をないがしろにするものであるとして、国民の大きな非難をうけています。・・・・国の名誉や国民の命を守るべき政治の使命がおろそかにされていることに、多くの国民が危機感を抱いています。
 今こそわが国は、独立国としての名誉と国益を重んじ、国民の生命と財産を守る確固とした政治の再生が求められています』(『3 国の名誉と国民の命を守る政治を』から)

 さて、以上三つの文章は、題名を付した総論3節のそれぞれ「さわり部分」である。そして、この三つの文章を結ぶと、日本会議の歴史認識とそこから導き出されてくるあるべき日本国家観というものが、鮮やかに浮かび上がってくる。

・なによりもまず、この国家観は、これを認めぬ国民を『同胞感』の無い者として切って捨てる。これらの国民を、『社会の安定を導き、ひいては国の力を大きくする原動力』になりえない「日本人」であると観ることによって。

・次に、これら国民に対しては、無責任な「日本人」であるとして、こんなことも迫られ、叩き直していくのであろう。『自国の防衛を他国に委ねる独立心の喪失、権利と義務のアンバランス、家族制度の軽視や行きすぎた国家と宗教との分離解釈、などなど』を戒める新憲法を作るとはそういうことである。

・第3節はこういうことだ。以上のような意味において国の名誉も国民の命も財産も守れなくなった堕落した人々をあるべき政治によって正していきたいのだ、と

 

 さて、これに対してなによりも言いたいのは、こういう国家観は、近代民主主義やそれに基づく立憲主義国家観とは全く相入れない全体主義国家観の一種になるということだ。近代民主主義の国家観は、基本的人権を有するありのままの国民諸個人を国家の主人公としてきた。そして、その諸権利をより豊かに守れるようにせよと、時々の為政者に憲法の実現を命じたものという国家観である。そういうありのままの諸個人が尊い国の主人公であるという考え方を、日本会議の国家観は一種否定しているのである。社会の安定も国民の命も財産も、彼らが言うところの「同胞感」の無い日本人にはこれらを守ることを期待できないとして。
  どうだろう、近代民主主義を表す格言などと、あまりにも異なる考え方ではないか。
「僕は君のその考え方には反対だ。が、それを発言する権利は命を懸けても守る」。これに対して「同胞感」の無い人は、発言を押しとどめられるような文書と言える。『皇室を中心に、同じ歴史、文化、伝統を共有しているという歴史認識こそが、「同じ日本人だ」という同胞感』のことである。
 この「同胞感」は、「天は人の上に人を作らず」や「人民の、人民による、人民のための政治」「自由、平等、友愛」とも異質な国家観にも連なっていくはずだ。

 そしてなによりも、こういうものがこの日本に近く実現できるという、その感覚が僕には不思議に思えた。この「同胞感」になじめぬ国民を強制排除しなければ、実現などあり得ないからだ。国民の3分の2の賛成を得てこの強制排除を遂げようと考えているのだろうが、これが独りよがりの幻想としか見えないのである。こうして位置付けられた天皇も今の象徴天皇も変わらぬ同じような存在だと、日本会議の人々には見えるのかも知れぬ。しかし、普通の人には全くそうは見えないはずだ。現在の象徴に対して、「日本人同胞の同胞として帰一する『125代という悠久の歴史を重ねられる連綿とした皇室のご存在』は。

 

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喜寿ランナーの手記(304)ちょっと厳しい「老いの実感」  文科系

2020年08月27日 14時53分55秒 | スポーツ

 前回書いた18日の1時間8・1キロ以降、20日は8・4キロまで来たのだが、これがもう今の精一杯と、その後に分かってきた。ちなみにこれは夏の僕のラン・スタイル。1回30分の制限時間がある市営ジムでトレッドミル30分2回の距離で、この日は前後半各4・1の4・3キロだった。

 それ以降は、23日5・5キロでギブアップ、26日7・9のLSDと一向に調子が上がらず、かつてない急な弱化を感じているところだ。この2日とも、前半を4・2キロ走ったが、これが今の僕には無理っぽくなっている。僕の場合前半30分の初めはウオームアップ歩行、緩走も含むから、4・2キロを目指そうとすると前半の後15分などは9キロ時ほどで走らねばならず、この無理が後半に祟ってくるようだ。つまり、後半はともかく、前半は4・1キロが限界に近くなっているのである。

 7月上旬の両目白内障手術5日入院による1か月のブランクから、心拍数は時速9キロで150ちょっとと、普通時にまで回復して来た。が、後半になるとこれが10近く上がり、これ以上速度を上げると走行中に激しい身体疲労が襲ってくるから、堪らずスピード・ダウンなのだ。このスピードでも凄く汗をかき、翌日にも股関節内側などに疲れが残るとも分かった。汗の量といったら、厚手Tシャツ両横の腰に近い辺りのごく小さい部分を除いた全部、シャツ前後の裾から袖の先までびっしょりなのである。ジムは冷房が利いていても、コロナ対策でマシンの前の窓が開いているのも影響している。

 近年を振り返ってみれば、最後の1時間10キロは16年3月26日の5・1キロ×2回。その4月には、後半5・2キロもあった。アップの緩走を除いた5キロほどの外走りでもキロ6分20秒切って走ったのが、18年末。そして、今年の春まではこれが6分30秒ほどになっていた。そんな今まで数年と比べて、今回急に初めて覚えた感覚が、表現するとこんなふう。これまでは波はあっても夏のマシンのこの距離で9キロは優に超えられたその感じが、今は8・5キロがやっとという身体になっている。スピードが特に落ちて、スタミナもなくなっているということだ。

 さて、涼しくなって、外を走ったらどうなるのか。それが心中一番気になるところだが、今までの屋内外の比較体験から、このままならまず1時間8・5キロは無理と、言い換えればキロ7分を10秒程度は超えるのではないかと観ている。でも前から決めていたとおりに、僕は無理はしないつもりだ。無理して故障したら元も子もなくなることもあろうし、僕のラン目的がいつまでも走り続けることだからである。来年5月で80歳、不測の病でもない限り、生きている間は走れる身体でいたいと、それが僕が走っている目的なのである。

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なぜ、「南京はなかった」なのか?  文科系

2020年08月26日 07時19分14秒 | 国内政治・経済・社会問題

 家永教科書裁判、「100人斬り競争」裁判、「夏淑琴はニセモノ」裁判など、負け続けてもなお「南京はなかった」と頑張る理由があるようだ。今回のシンさんとの打ち続いた議論で、初めて分かった思いがした。にわかには信じ難いが、どうも日本国をこのように変えたい人々が、有名な日本会議を中心に存在することから来ているようだ。以下のような国を作ろうとすると、「南京、慰安婦はなかった」「東京裁判は不当なもので、大日本帝国は立派な国」と、国民にどうしても認めてもらわねばならない。これが彼らの方針なのである。シンさんは、こう述べた。

『自主憲法をつくるならば、神道を国教とし、ただし、信仰の自由は認める。天皇は神と規定し、ただし、政治に口を挟まない。とするべきだと思う。
天皇とは神であり、日本は千年以上にわたって、神道が国教だったというのは、歴史的事実です。国教になると、信仰の自由がなくなるとか、無神論者が信仰を強制されるとか、あり得ないから。国教がある国はたくさんありますよ。国教だと、その宗教の宗教行事に税金が使われるという事であって、それは、現在、ただ今、使われています』

 そして、ネットで見つけた「日本会議がめざすもの」という文書は、こんな書き出しになっている。
『  1 美しい伝統の国柄を明日の日本へ
 皇室を敬愛する国民の心は、千古の昔から変わることはありません。この皇室と国民の強い絆は、幾多の歴史の試練を乗り越え、また豊かな日本文化を生み出してきました。多様な価値の共存を認め、人間と自然との共生を実現してきたわが民族は、一方で伝統文化を尊重しながら海外文明を積極的に吸収、同化して活力ある国を創造してきました。
 125代という悠久の歴史を重ねられる連綿とした皇室のご存在は、世界に類例をみないわが国の誇るべき宝というべきでしょう。私たち日本人は、皇室を中心に同じ民族としての一体感をいだき国づくりにいそしんできました。
 しかし、戦後のわが国では、こうした美しい伝統を軽視する風潮が長くつづいたため、特に若い世代になればなるほど、その価値が認識されなくなっています。私たちは、皇室を中心に、同じ歴史、文化、伝統を共有しているという歴史認識こそが、「同じ日本人だ」という同胞感を育み、社会の安定を導き、ひいては国の力を大きくする原動力になると信じています。国際化が進み、社会が大きく変動しようとも、常に揺るがぬ誇り高い伝統ある国がらを、明日の日本に伝えていきたいと思います。私たちはそんな願いをもって、皇室を敬愛するさまざまな国民運動や伝統文化を大切にする事業を全国で取り組んでまいります。』

 こういう書き出しから、以下「2 新しい時代にふさわしい新憲法を」と繋がっていく「めざすもの」の「新憲法を!」なる文章を、一体どう見たら良いのだろうと、僕は一種悲しい気分に陥ってしまった。『皇室を敬愛する国民の心は、千古の昔から変わることはありません』等という感覚・感情が憲法に書き込まれたら、これぽっちも敬愛しない僕のような日本人は一体どう見られ、待遇されるのか。僕が自分の心をちょっとでも口に出したら、相手は間違いなく「非国民」と対するから、「敬愛してません」等と言える国ではなくなっているだろう。そんな国の国会議員等は皆、こういう「心」を持つ人物になるだろうし。現憲法の「象徴」下でさえ、河村たかし名古屋市長のように「表現の不自由展における天皇の扱いは日本人の心を踏みにじるもの」と叫ぶ輩がいるのである。こんな「美しい伝統の国柄」を憲法にしたらどうなってしまうのだ。ぞっとして、悲鳴が出るのである。日本会議の人々ような感覚・感情を持っていて、これを国民にも広げたいと考えていれば、そりゃ、南京も慰安婦も、そして東京裁判も、ない事にしたくなるよな!

「皇室を敬愛する国民の心」「皇室のご存在は、世界に類例をみないわが国の誇るべき宝」を憲法にし直した国って、僕から観たら全体主義国家そのものである。そういう「心」を国のあらゆる所、場面で押しつけられるに決まっているからだ。これと異質な人間、その言動に出会ったら即座に「日本人の心を踏みにじるもの」と反応されるなどによって。河村たかし名古屋市長の言動は、そういうこと全てを今既に示している。そして、河村氏ご本人にはそんな自覚もないのだから、僕から観たらまことに恐ろしい人種になる。

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南京虐殺の経過と史実  文科系

2020年08月24日 13時05分58秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など

 「あんたも無知丸出しかい? 南京市民より死者が多い三十万人などというヨタ話を、ほんとに信じるの?」

 今度の相手も上から目線でこちらを頭から押さえ込んで来た。いつも同様、僕のブログの過去文章を読んでいないことも丸分かり。丁寧に反論する。

 ①虐殺直前に、日本軍がしかけた上海上陸攻防の大激戦が三か月続いた。そこの中国軍三〇万が揚子江すぐ上流の首都・南京城めがけて潰走し、日本軍がこれを我先にと追撃して出来上がったのが南京城包囲である。城の外、付近の住民も首都軍の庇護を求めて逃げ込んだし、膨大な人数に増えていて当たり前なのである。

 ②次いで、「あんな短期間にそんなにたくさん殺せる訳がない。日本軍はスーパー・サイヤ人か?」とのご批判。これには、こうお応えする。南京城壁は高さ一八メートルで分厚く、一方は揚子江。この城の限られた城門から全軍脱出が敢行されたのが一九三七年一二月一二日の夜から一三日朝にかけて。作戦は完全な失敗。揚子江を渡れた兵はごく少なく、膨大な数の捕虜はその後どうなったか。以降の日本軍中国南下作戦を考えれば、生かして放つはずがない。以降七年半の占領下早い内に、収容施設へ連れて行くように見せかけて秘密裏に殺したと考えるの普通だろう。三一年の満州事変の無法行為で国連を脱退したことを巡る国際的批判と、国内の戦意高揚とのためにも、秘密裏にということが大事だった。

 ③と、僕が返した反論には間髪を入れず、こんなご批判。「それだけ死んだら、死者名簿は? 慰霊祭は? なぜ家族の猛抗議はなかったのか? これらがいまだにないのは嘘である証拠! せいぜい二万人がイーところだな!」。まるで鬼の首でも取ったように勝ち誇って来る。これもネトウヨ本の鸚鵡返しであって、勝ち誇ったこの態度も「自信」の顕れなのである。ただし僕は、一一年ここで闘ってきた勤勉な古参兵。こんなひょろひょろ弾に倒れる訳がない。
 当時の中国政府は、戸籍がないに等しく、兵士は浮浪者が多かった。それも、あの広大な全土から集められた人々。浮浪者が多く、戸籍がないなら、どうやって名簿を創り、家族に知らせるのか。しかも、以降一二年の中国は戦乱と、さらには国共戦争と政権分裂。日本の習慣で思い付いた訳知り顔の屁理屈に過ぎない。現に、中支派遣軍事前教育教科書にこんな記述がある
『三三年に陸軍歩兵学校が頒布した「対支那軍戦闘法の研究」中の「捕虜の取扱」の項には、(中略)「支那人は戸籍法完全ならざるのみならず、特に兵員は浮浪者」が多いので、「仮にこれを殺害又は他の地方に放つも世間的に問題となること無し」と書かれていた(藤原彰『戦死した英霊たち』)』
(岩波新書「シリーズ日本近現代史全10巻」の第5巻『満州事変から日中戦争へ』加藤陽子・東京大学大学院人文社会系研究科教授、220ページ)

 ④すると今度はまた、こう返ってきた。「どんな理屈を語ろうと、死者数二万という学者の有力説もある。三〇万ははっきり嘘として、数をはっきりさせろよな!」。古参兵はこの数字弾のひょろひょろぶりもよく知っているから、こう反論するだけだ。
 確か小泉内閣の時に日中の学者が集まって虐殺数を検討する会議を持った。日本からも一〇名ほどが出たが、北岡伸一など政府系の学者らが多い日本側の結論は、二~二〇万というもの。なぜこんなに開きが出るのか。「虐殺犠牲者」の定義とか虐殺期間・地域などで一致できなかったからだ。特に虐殺に兵士を含むか否か。兵士の戦死は当たり前、虐殺の数には入らないと。が、これにも反論は容易だ。日本は中国に最後まで宣戦を布告をせず、地中あちこちから折り重なって出てきた膨大な若者人骨は捕虜を虐殺した証拠にもなる。以上から、日本の(政府系)学者らさえ二〇万人の含みを否定できなかったのである。


 さて、以下の内容がまた、以上すべてを裏付けるものである。

『 南京大虐殺、一師団長の日記から  文科系 2017年03月09日 

「教育図書出版 第一学習社」発行の「詳録新日本史資料集成 1995年改訂第8版」という高校日本史学習資料集がある。これをぱらぱらと見ていて、南京大虐殺の資料を新たに一つ発見したので、ご紹介したい。408頁に南京攻略軍指揮官の中島今朝吾(けさご)第16師団長日記というのが載っていた。そこの全文を書いてみる。 

『大体捕虜ハセヌ方針ナレバ、片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタレドモ、千、五千、一万ノ群集トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ、唯彼等ガゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノノ、之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ、部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ、十三日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ。シカシナガラ戦勝直後ノコトナレバナカナカ実行ハ敏速ニハ出来ズ。カカル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ、参謀部ハ大多忙ヲ極メタリ。
一、後ニ至リテ知ル処ニ依リテ佐々木部隊ダケニテ処理セシモノ約一万五千、大平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約一三〇〇、其仙鶴門付近ニ集結シタルモノ約七、八千人あり。ナオ続々投降シ来ル。
一、コノ七、八千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ、中々見当ラズ。一案トシテ百、二百ニ分割シタル後、適当ノカ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ。』

 高さ18メートルもある分厚い南京城壁の限られた門から一夜にして日本軍包囲網を脱出しようとした中国軍兵は、その多くが捕虜になった事が示されている。どうせ逃げられないから、捕虜になって助かろうという態度にさえ見えるのである。ところが、これを最初からの方針として、全部殺してしまった。あちこちに分けて連れて行って殺し、埋めたということなのである。そもそも冒頭のこの部分が僕がこのブログで強調してきた要注意か所と言える。

「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ、片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタレドモ」

 最初から捕虜は殺す方針であったことが明確に述べられている。酷いもんだ。こんな資料があるのに、ネトウヨ諸君の種本論客達は、兵士虐殺を否定してきたのである。一師団長が聞いただけで彼等がよく語る「せいぜい2万人」などは、優に超えている。すべて世界に向けては、いや南京攻略兵にすら秘密の仕業であった。なんせ、上の手記にあるように師団長すら虐殺の全貌は知らないのだから。少し前にあった満州事変に対する国連非難囂々に懲りていたのだろう。また、国民の戦意高揚のためにも、敵への残虐行為は極力秘密にするものだ。

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なぜ、嘘の「南京」を書く?  文科系

2020年08月22日 12時52分35秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など

 なぜこんな嘘を書くのだろう。不思議で仕方ない。100人斬りも、夏淑琴さん名誉毀損訴訟も、日本の最高裁まで行ってその判決で確定していることまでを、コメントで堂々と平気で否定している。怖いほどの狂信ぶりは、どこから来るのか。冷静な頭脳とは思えないが、「南京なかった」派がこれだけ裁判に負け続けてきたのも、「嘘に燃え上がった偽りの構図」からなのだろう。

 

 南京事件は百%ありませんでした (シン) 2020-08-22 11:55:29

『百人斬り競争』も夏淑琴さんも、合計しても五百人にも、とおく及びません。そもそも、百人斬りが盛られている事は、百%です。実際は、10人以下でしょう。南京事件は、大量虐殺であり、六週間続く事が必須条件です。しかし、六週間、続く訳はない。なぜなら、人は逃げ出すからです。そして、0人になってしまえば、誰も殺せないからです。どう考えても大量虐殺が6週間続くことなどありえないのです。

また、日本は、国内法では無罪としています。野田少尉も向井少尉も、南京事件の犯人は全員無罪として名誉回復しています。野田少尉も向井少尉も靖国神社に祀られているだけですが、松井大将は、靖国神社に祀られているだけではなくて、殉国七士として、英雄となっています。揮毫したのは、安倍総理のお父さんの岸総理です。


100人斬り最高裁判決結果 (文科系) 2020-08-22 12:41:20

 裁判結果こそ、事実をあらわすもの。100人斬り事件裁判で名誉毀損と訴えた2人の将校遺族側敗訴として、最高裁判決はこうなっています。知らないのでしょうが、反論できます?
 『「100人斬り」訴訟は、2006年12月の最高裁の決定によって、原告側の敗訴が確定した。1970年代におこなわれた「100人斬り」論争について、司法の場においても決着がつけられたのである。「100人斬り」の実態は、戦闘中の白兵戦によるものではなく、投降兵、敗残兵、捕虜あるいは農民を座らせて斬首したのが実態であった』(P242)

 稲田朋美弁護士など原告側はその総力を挙げて151点の資料までそろえて争ったが敗退したと、この本に記してある。この記述が嘘ならば、当然新たな裁判をこの本に対して起こせるはずなのだが・・・それが今日までないということである。「事実」を覆す新資料は今のところ発見できていないということだろう。

(以下は、この8月24日追加分)

 上記シン君のコメントへの反論としては、文中言及してない部分があるので、以下の反論を追加する。

 南京大虐殺があったのは事実ということも、裁判などで確定している。それのみならず、そういう裁判結果などにも従って、外務省ホームページでも「南京大虐殺は事実」という政府見解が掲載されている。以前にも書いたことだが、だからこそ右翼の集会でこんなことが叫ばれるのである。「外務省は、南京虐殺ホームページを削除せよ!」。「南京は事実」という裁判結果の典型は、家永訴訟。これによって、「南京虐殺は事実」と認定されたからこそ、いわゆる歴史事典で「南京虐殺」が事実として載っていないものはほとんどないはずだ。「南京虐殺があった」は、学問的にはすでに決着の付いた問題である。決着が付かず残っている問題は、死者数だけだ。それも20万から3万前後までの幅があるというところだろう。

 こういう決着「事実」を、上にシン君がやっているような「論理的否定」で反論しても既に無意味な段階に到達している。「6週間でそれだけ殺せない。人は逃げるからです」??

 ということまでを事実でもって丁寧に示している「歴史論争史」としてのこの本は、著者が図らずもその歴史学者人生をかけることになった現在までの集大成と読んだ。平凡社ライブラリー・笠原十九司著「増補 南京事件論争史」。

 

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随筆 死に因んで   文科系

2020年08月22日 10時14分30秒 | 文芸作品

 心臓カテーテル手術をやった。麻酔薬が入った点滴でうつらうつらし始めてちょっとたったころ、執刀医先生の初めての声。
「これからが本番です。眠っていただきます」。
 ところがなかなか眠りに入れない。眠ったと思ったら、間もなく目を覚ます。痛い。するとまた、意識が薄らいでいくのだが、また覚醒。そんなことが三度ほど繰り返されたので、「痛いです」と声をかけた。執刀医の先生、かなり驚いたように何か声を出していた。
 さてそんなときずっと、いやに冴えている頭脳である思いにふけっていた。大事故の可能性もある手術と、意識していたからでもあろう。手術自身はちっとも怖くはなかったのだけれど、こんなことを考えていた。
「このまま死んでいっても良いな。死は、夢を見ない永遠の眠り、か」
 知らぬ間に生まれていたある心境、大げさに言えば僕の人生の一つの結実かも知れないなと、噛みしめていた。

 小学校の中頃友人を亡くして、考え込んでいた。「彼には永遠に会えない。どこにいるのだ」。ひるがえって「僕もそうなる」。それ以来自分が死ぬということを強く意識した。間もなくこれが「永遠の無」という感じに僕の中で育っていって、何とも得体が知れぬ恐怖が始まった。この感じが寝床で蘇って、何度がばっと跳ね起きたことか。そんな時はいつも、冷や汗がびっしょり。そしてこの「症状」が、思春期あたりから以降、僕の人生を方向付けていった。「人生はただ一度。あとは無」、これが生き方の羅針盤になった。大学の専攻選びから、貧乏な福祉団体に就職したことも、かなり前からしっかり準備した老後の設計まで含めて、この羅針盤で生きる方向を決めてきたと思う。四人兄弟妹の中で、僕だけが違った進路を取ったから、「両親との諍い」が、僕の青春そのものにもなっていった。世事・俗事、習慣、虚飾が嫌いで、何かそんな寄り道をしなかったというのも同じこと。自分に意味が感じられることと、自分が揺さぶられることだけに手を出して来たような。こうした傾向を、二十歳の春から五十年付き合ってきた連れ合いはよく知っており、「修業している」といつも評してきたものだ。

 ハムレットの名高い名台詞「生きるか、死ぬか。それが問題だ」でも、その後半をよく覚えている。「死が眠りであって俺のこの苦しみがなくなるとしたらこんな良い終わり方はないと言えるが、この苦しみがその眠りに夢で現れるとしたら、それも地獄だし?」というような内容だったかと思う。この伝で言えば、今の僕のこの「症状」ははてさて、いつとはなしにこんなふうに落ちついてきた。
「夢もない永遠の眠り。それに入ってしまえば、恐いも何もありゃしない」
 どうして変わってきたのだろうと、このごろよく考える。ハムレットとは全く逆で、人生を楽しめているからだろう。特に老後を、設計した想定を遙かに超えるほどに楽しめてきたのが、意外に大きいようだ。ギター、ランニング、同人誌活動、そしてブログ。これらそれぞれの客観的な出来はともかく、全部相当なエネルギーを費やすことができて、それぞれそれなりに楽しめてきた。中でも、ギター演奏、「音楽」はちょっと別格だ。自身で音楽することには、いや多分自分の美に属するものを探り、創っていく領域には、どういうか何か魔力がある、と。その魔力ぶりは僕の場合、こんな風だ。
 この二月から、ほぼある一曲だけにもう十ヶ月も取り組んでいる。南米のギター弾き兼ギター作曲家バリオスという人の「大聖堂」。楽譜六ページの曲なのだが、この曲だけを日に一~二時間練習して先生の所に十ヶ月通ってきたことになる。長い一人習いの後の六十二の手習い七年で上級者向け難曲なのだから、通常ならとっくに「今の腕ではまーここまで。上がり」なのだ。習って二ヶ月で暗譜もし終わっていたことだし。が、僕の希望で続けてきた。希望するだけでは、こんなエネルギーが出るわけがない。やればやるほど楽しみが増えてくるから、僕が続けたかったのである。「この曲はもっと気持ちよく弾ける、その為には」。ギターの構えから、長年の悪癖までを、この半年ほどでいくつ苦労して修正してきたことか。こんな熱中ぶりは、自分でも訝しいほどである。
 ギターを習い始めて、これと同類の事をもういくつも体験してきたように思う。

「何かに熱中したい」、「人が死ぬまで熱中できるものって、どんなもの?」若いころの最大の望みだった。これが、気心の知れた友だちたちとの挨拶言葉のようにもなっていたものだ。今、そんな風に生きられているのではないか。日々そう感じ直している。

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掌編小説  魂は存在するか?  文科系

2020年08月22日 09時42分13秒 | 文芸作品
 
「いろいろ考えてみたんですが……、一番聞いてみたいことで……。Tさんは、人の魂ってあると思われてますか?」
 高校二年と聞いていた細い肩が目立つ小柄なその女の子は、予めMさんから僕が打診されていた相談話の一番の核心をいきなり切り出して来た。母方の祖母であるMさんが孫のRちゃんのことで僕に相談を持ちかけてきたのは、僕が大学院の哲学科を出ていることと、十数人で十年近く続いたギターパーティー常連同士で気心知れた仲とからのようだ。

 この日僕がMさん宅のベルを鳴らしたのは、七月上旬午後の猛烈な日差しの中の、ジャスト二時。白に近いベージュ地に濃いダークブラウンのアクセントを付けた洋風の家は、ここを永住の地と決めて六年前に建てられたばかり。玄関から続く三メートルほどのアプローチ左脇の真っ赤なカンナの花がすくっと伸びた姿に歓迎されるようにして通い慣れたリビングダイニングに通されたのだった。このリビングは二階までの吹き抜けになっているのだが、これも含めて、ギターのホーム・パーティー会場などにと目論んだ空間なのである。

「先ず、君の意見とその理由を聞きたいな。今日は聞き役に回る積もりで来ましたから」
「私は、無いと考えるようになりました。人間の心だけが他の動物のそれとは違うって、おかしいと思うんです。旧約聖書の創世記のような考え方がおかしくって、進化論が正しい訳なんでしょうし……」。
 単刀直入のこんな物言いに驚いた僕は、この子の勉強ぶりをもっと知ってみたくなった。
「アメリカのかなりの州が進化論を教えず、旧約聖書の創世記だけを教えていることも、そして、例えばドーソンの曙人を巡る考古学上の論争史なんかも、勉強されてご存知なんですね? そして、人の魂が無いなら神は居ないと?」
 彼女の目を見ながら話したから、この全てを彼女が肯定しているのは明らかだったが、Rちゃんはすぐにこの世界史に残る大偽造事件、曙人論争部分を引き継いでくれた。
「人類の頭頂骨を古い類人猿の下顔骨にくっつけて考古学的な化粧を施した化石を一九一〇年頃に発見したという事件で、当時の学会を大騒ぎさせてまで人間の心だけが神の似姿なのだと抵抗してきた論争で、人類化石五百万年の発達解明でも完全に否定されたのでしょうし、……… ある人の魂と言っても〇歳と九十歳とでは、全く変わっていく。老人の認知症なんかも含めてみれば、魂って何歳のソレって感じですよね。そして何よりも、神が居なくなる。人間の肉体を離れて魂がないとすれば、その魂の特別な造物主も不要になるからで……」

 いろんな周辺知識をネットで調べる現代っ子流儀から得られた限りのもので何回も予行練習を重ねてきたような話しっぷりに若く健全な好奇心、探求心が伺われて、僕は嬉しくって仕方なくなった。紅いセイロン紅茶を運んだ後、顔が見えるキッチンから耳を傾けているやのMさんも、気持ち良さそうな微笑みを彼女に投げかけている。僕は、自分の意見は抑えて聞き手に回ると決めたギリギリの応答内容を今ここで語って、彼女を励まそうと思い立った。

「どんな新聞などにも宗教欄はありすぎるほどあっても、神とか、人を超越した神聖な存在とかを否定する議論の紹介って、君も見たこと無いでしょ。これってやっぱりおかしいと、僕はいつも思ってきたよ。アメリカのいくつもの州みたいに地球や人類の誕生について創世記だけを教えるのと大して変わらないよね。無神論にも一応触れなきゃねー。ところで、神がいないとなった時には、罪とか愛、人生の価値とかはどうなるのだと、この事も考えたんでしょ?」
「はい『それら』もこの世の人間関係の中から生まれたんだと思います。島国に一人で生きてたら、便不便はあっても罪はほぼないのだろうし、物の価値の世界とは別の正義とか愛とかいうのは、他の人や擬人化されるような動物に対してのものなんじゃないかと……」 
 鉛筆を舐め舐め人生そのものへの答案を書いている真っ最中のような彼女は、僕の人生をも洗い直してくれるようだ。

「人の死は、どうなの。神の王国がなくってこれが待っている以上、人生の一切が無意味だという人もいるけど……」
「はい、私がこんなことを考え込むようになったのは、中学時代の親友が一年ほど前突然亡くなってしまったから。彼女はもうどこにも居ません。もちろん、自分がどこにもいないことも知りません。夢も見ない永遠の眠りですから、彼女を覚えている人もやがて誰もいなくなるでしょう。生きている私たちは、そこに至るまでは色々考え、悩むかも知れませんが、たった一度の人生を精いっぱい頑張って良いものにしようということでいいんじゃないでしょうか。Tさんたちがギターを一生懸命やっているように、私もピアノを頑張ってますし、勉強も楽しくやれてます」

 ここにいたって、見事至極と以外の言葉を僕は思いつけなくなっていた。この子は人文系学問の天才である。何よりも言葉による思考の整理・推進力が。こんな力を持っている子なら学科などは授業だけで分かってしまうに違いないのである。ある授業の焦点をすぐに嗅ぎ出して、そこの周辺だけを集中して学ぶことによって。Mさんも語っていたように、あらゆる種類の読書やネット検索を猛然と重ねて来た結果なのだろうが、それにしても……。
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書評 「南京事件論争史」 その最終回   文科系

2020年08月21日 19時32分19秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 「南京事件論争史」の現段階  

 これは、この14日拙稿『書評「増補 南京事件論争史」』の続きで、この内容紹介の三回目に当たるもの。この論争については今や、安倍首相も国会など正式な場所では「事件はなかった」と言えず(国際問題になって負けるから)、「南京なかった」組織に集まった自民党議員らがあちこちで嘘論議を組織的にばらまき続けるなどに落ちぶれている。ここに至った経過について、「南京なかった」側が決定的敗北を喫した事件をもう一度おさらいしてみよう。

 まず始まりは、社会科教科書検定内容を違憲と訴えた・第三次家永訴訟。南京事件の記述をも含んだこの訴訟は最高裁まで争われ、1997年8月に「(この検定は)違憲」という判決が確定している。

 次いで2番目は、稲田朋美弁護士らが訴えた、「南京事件における『百人斬り競争』記事は名誉毀損である」訴訟。これも2006年に最高裁判決が出て、稲田らが敗訴している。つまり、二人の少尉による捕虜など「百人斬り競争」は実際にあったと裁判所が認めたのである。

 三つ目は、南京事件当時8歳で日本兵によって銃剣で刺された被害者、夏淑琴さんを「ニセ被害者」と書いた東中野修道を、夏さんが名誉毀損で訴えたもの。この結末は、こうなった。2009年2月5日、最高裁は東中野と展転社の上告棄却を決定、一審判決通り両者に対し合計400万円の賠償を命令する裁判が確定した。2009年4月16日にこの賠償金は支払われた。

 最後が、以前にも書いた日米学者共同研究の成果について、この共同研究を中国首脳との間で取り決め、スタートさせた安倍首相自身が無視しているに等しいこと。この研究の日本側座長であった北岡伸一が「日中戦争は侵略戦争であった」と認めているのに、安倍はあくまでも侵略とは言わないのである。「侵略の定義が学会でも定まっていない・・・」とか、なんだとか?

 これだけ敗北を重ねてくると、「南京なかった」派は学者などにも屍累々、残っている歴史学者はほとんどいない有様。西尾幹二はドイツ文学者だし、藤岡信勝は教育開発学者である。なのに・・・と、この本の作者は南京虐殺を巡る日本の現状をこう嘆くのである。「日本会議に集まる自民党など多数議員は未だに南京事件はなかったと吹き回っている」。嘘も百ぺん言えば・・をやり尽くして、過去の醜い日本を隠そうとしているのだが、一体何のために。著者は、その「目的」をこう述べている。

『現在に続く、教科書議連の教科書攻撃を組織的に大きく支えているのが、1997年に結成された日本最大の右翼組織「日本会議」である。日本国憲法を「改正」し、天皇中心の日本、「戦争する国」を目指す「日本会議」の方針を、国政において実現しようと同時に組織されたのが、超党派の「日本会議国会議員懇談会」・・・・
「日本会議」は、歴史認識の問題でも、「南京虐殺はなかった」「従軍慰安婦はでっち上げ」「東京裁判は誤り」「首相は靖国神社を参拝せよ」「大東亜戦争は祖国防衛・アジア解放の戦争だった」「植民地支配では良いことをした」などと主張している』

 本気でこんなことを考えているのだろうか。にわかには信じ難いのだが、「『夢』の実現のためには、史実でも何でも乗り越えていく」と、そんな狂信者も多いのかも知れない。ヒトラーの夢は、史実として狂信者のそれと今なら世界が知っているのだが、その狂信者が世界史を握りかけた時期もあったのである。

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米、対イラン戦争続行中  文科系

2020年08月20日 10時58分39秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など

 アメリカがイランに対して、戦争行為を仕掛けたという実証が必要なようだ。去年5、6月以来、アメリカが対イラン参戦有志連合を募った時のニュースが以下である。また、今年1月イランの実質ナンバー2に当たる司令官スレイマニをアメリカがイラクで暗殺し、自分がやったとすぐに公言してみせたが、これも「外交特権がある政府高官暗殺」として、立派に国際法上の戦争に当たる行為だから、この関連拙稿も以下に掲載したい。イラク首相を騙してスレイマニをイラクに呼び寄せさせた上での暗殺だったから、「外国軍は即座にイラクから出て行け」というイラク国会決議まで出ている。無視したアメリカは今でもイラクに居座っているのだが。こういう事実も知らないで、イランを論ずる日本人が多すぎると思う。無知は怖い。

 

『 終に来た「日本参戦」打診  文科系 2019年07月27日 

 今朝の新聞で、終に来た、「日本へ、対イラン参戦打診」。中日新聞見出しは、
『有志連合「日本参加を」 ホルムズ海峡 米国務長官が発言』

 これって、本当に何なんだろう。
 ここまでの「ホルムズ海峡、イランの脅威」って、僕にはほとんど「英米の、近頃ずいぶん下手になった、中学生並の学芸会芸」にしか見えなかった。嘘の理由で開戦に持って行った「イラク戦争」を見てきたこの相手、長年の米の「仇敵」イランに何か言うことを聞かせようという脅迫なのだ。こういうときの米が、国連を一切通さずに相手に対するからそう考えるのである。それも、こういう時のいつもの手「有志国連合」。イラク戦争もこれだったが、要するに国連という世界組織がありながら、これをもっと無力にする方向の国連分裂世界工作でもあるわけだ。

 日本は、こんな手に乗ってはいけない。乗ると必ず次の深化が要求されて、やがてこれまでの有志国のようにその国の若者がアメリカのために多数死ぬことになっていく。そしてその一歩一歩が、世界平和組織である国連の有名無実化に繋がっていくわけだ。今の国連がどれだけ無力でも、これの発展がなければ世界平和は目指すことはできないといいたい。ここでだけ、大中小の国々が対等に尊重されるようになる訳なのだから、大中小の国の存亡を、今のアメリカのような利己的暴力から守るために。

 なお、日本がここに参戦すれば必ず、こういう時代へまっしぐらになっていく。近く必然の米中衝突において、その最前線に日本軍隊が立たされること。この戦争は、金融経済帝国アメリカが物作り経済帝国中国を征服して、世界を金融独裁に落とし込んでいくべきもの。人の職業というものは、金融独裁とは両立し得ないから、世界の貧しい人が生きていけず、この世が地獄になるという方向でもある。オーウェルの「1984年」!
 こんなことは今のアメリカを観れば分かる。金融と一体になった産軍複合体が全てを牛耳って、その大多数国民に対する犯罪・不法を暴いた例えばエドワード・スノーデンが「極悪非道の大犯罪者」にされるという国である。』

 

『「緊張が今世紀最大レベル」と国連事務総長  文科系  2020年1月8日

 アメリカによるスレイマニ暗殺事件が今後にもたらすものに関わって、NATO緊急の大使級会合が6日に開かれた。そこでグテレス国連事務総長が語ったのが、表記のこの言葉。
『地政学的な緊張が今世紀最大レベルに高まっている』
 次いで、こうも語り継いだと報道された。
『より多くの国々に予測不能な結果や、深刻なリスクを伴う予測できない決断をさせようとしている』

「これに相当する報復をやって見ろ」

 これは、この戦争行為に当たる大事件を引き起こしたアメリカ自身が直後にスイス大使を通じてイランに通告してきた挑発言辞なのだそうだ。これは、イラン高官が世界に明らかにしたニュースである。

 アメリカは一体何を考えているのか? そして、こんな地域に、今、自衛隊を出す日本?

 イラクとシリアだけで関連死含めて既に150万人以上を殺しているアメリカにとっては、特に親イスラエルの米国キリスト教福音派の人々にとっては、イスラム教徒の死など何の痛痒も感じないのだろう。だからこそ、こんなバクチのような戦争挑発ができるのだ。が、絶対に戦争はいけない。イランを巡って戦争が起これば、イラク戦争の何倍の死者と、その数の数倍の悲劇がこの地上に生まれる。考えてみただけでぞっとする。

 アメリカは、今時、どうしてこんなことができたのだろう。一昔前の時代で言えば、ヒトラーによるポーランド電撃侵入か東條の仏領インドシナ侵入さながらの「やりたい放題の暴力」、驚くべき所業に見える。』

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喜寿ランナーの手記(303)やっとスタートライン?  文科系

2020年08月19日 11時54分19秒 | スポーツ

 丸1か月の白内障手術ブランク後、初めは筋力補強運動から、26日目に走り出して、原則30分×2回のジム・マシン・ランをこう走ってきた。4日70分で9キロ、6日8・1キロ、10日8・3キロ、12日7・9キロ、15日40分でギブアップ5・1キロ、そして18日8・1キロと。                                    
 昨日の8・1キロで、何と言うか初めてスタートラインに立てたと、今は感じている。15日のギブアップとかそれ以前の疲れの激しさとかの原因は、今振り返ってこう考えている。この暑さの中でなのかどうか、心拍数150(以前なら時速9キロ、今は8・5キロの平均心拍数)以上の今の僕として強度が高い運動は疲れが激しいのを認めず、以前に近いようなスピードアップをしていたから、と。つまり、筋肉・血管系なのだろうが、今の僕として強度が高い運動を以前よりももう少し長く繰り返さないと元には戻れないと観念した。走った後の疲労感とその日のスピードとを比較しながら、記憶力も衰えた頭で3年手帳に書いてある過去記入記録等などとにらめっこしつつ、そう観念した。
「今は、8・5キロ時以上のスピードを30分通せる身体ではない。」

 例えば、足底筋膜が張る。膝や股関節の内側にも走行後に疲労がたまっているようだ。これは、ブログ友達のランナー・ゲタノウラさんに教えてもらった新たな合理的走り方を去年から取り入れて来て、それがまだ実になっていない身体の弱点を示してくれたと考えた。付け焼き刃部分がブランクによってぐらついたというところだろう。
 
 戻れるかどうかは分からないが、とにかくLSDと心拍150前後の運動とを繰り返すしかない。それとも、LSDだけで、150以上の筋力も出来ていくのだろうか? まー色々やってみよう。

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1人の「右」が吠えている姿  文科系

2020年08月19日 11時01分40秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)

  昨日のシンさんとの最新の討論も、僕には大変興味深かった。彼の読解力・理解力がとても良く分かったし、彼の「国家論」?がどんな性格のものかもよく見えたからである。

 昨日彼が展開した二つの長文コメントは、僕のこの記述に関わるもの。「国連は、国の内政問題には介入しない。それは、戦争になるのを避けるためだ」。この拙文は、彼の「イランのイスラム暴力国家をアメリカが潰そうとしたら、民主主義国、日本としてはこれを支援するのが当たり前」への応答だ。
 
 ところが、「国連は内政不干渉」と述べた拙文を、彼はこんな意味にしか理解できなかった。『人権蹂躙を見逃して、自分達さえ、幸せであればいい、というのが九条を守ろうという人の本質という事でしょう』、『あなたは、正義とか人権とかいうものがない』。つまり、この「内政不干渉」を、危うきに近寄らずで自分の身が可愛いというだけで、そこに存在するこんな大きい意味、正義が理解できなかったのである。

 戦争になれば、内政干渉した側も無数に死ぬが、された側こそもっと多く死ぬ。その恨み、憎しみも残るから、次の戦争の種を生み出して、憎しみの連鎖は切りがない。というように歴史上数々起こった悲劇を、イラク戦争で思い出してみるが良いのだ。こうして、国内問題は内政不干渉・その国の解決を待つというのが、国連の知恵の一つになってきた。彼にはこの正義が全く分かっていなくて、ただ闇雲に「あの国は悪、潰せ! それが正義」という単純頭脳。ついでながら、「そういう正義に殉じて、靖国へ行こう!」。

『アメリカが人権を守るために介入すべきだ。と言い、国連が、戦争になるから内政干渉すべきではない、と言った場合、日本はどちらにつくべきか? 靖国神社に行く者ならばアメリカにつくべきに決まっていると全員が答えます。・・・・  あなたは、正義とか人権とかいうものがない。ただ、自分がかわいいだけの卑怯者だから、』

 それにしてもこんな理解力で、「靖国に行く者ならば・・」と吠えている姿って、ちょっと怖い。狂信者というよりも、そのフリだけ? だって、文章理解がトロすぎるもの。

 

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改憲派、ある国家観   文科系

2020年08月18日 21時47分40秒 | 国内政治・経済・社会問題

 安倍一派のなかには神社神道系の方々も多い聞いてきた。そんなことも思いながら、シンという人と長く付き合ってきたら、とうとうこんな国家観を語るのである。真顔で真剣に、こんな日本国にしたいというのである。現実政治の質疑応答などをやっている時に、こんなのが出てくると、驚くよねー! 「今の憲法は押しつけられたもの。自主憲法を作れ」が次にこう繋がっていく人も日本には多そう。

『自主憲法をつくるならば、神道を国教とし、ただし、信仰の自由は認める。天皇は神と規定し、ただし、政治に口を挟まない。とするべきだと思う。
天皇とは神であり、日本は千年以上にわたって、神道が国教だったというのは、歴史的事実です。国教になると、信仰の自由がなくなるとか、無神論者が信仰を強制されるとか、あり得ないから。国教がある国はたくさんありますよ。国教だと、その宗教の宗教行事に税金が使われるという事であって、それは、現在、ただ今、使われています』

 この人がまた、「政教分離のない教権国家、例えばイランの解放のために世界はすぐにアメリカのイラン対策を支持せよ」等と叫ぶのだから恐ろしい。いくら酷い国家でも内政干渉は戦争の元。国連の「内政不干渉」は戦争を減らす一つの世界史的知恵なのだと、そんな常識も知らないのである。もっとも、今のアメリカは、勝手にどんどん内政干渉をするどころか、国連抜きの「制裁」、革命の輸出を多発している。ベネズエラやイランなど、戦争の脅しをかけるのも、しょっちゅう。

 

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これが、右の典型議論?   文科系

2020年08月17日 21時52分07秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)

 コメントでこんな愚かなやり取りがあったから、ここの1日700端末アクセスほどの読者にご紹介する。1人の愚かな右のお方がどんな考えを持っているかという反面教師になるはずだ。


『まじめな質問 (シン) 2020-08-17 15:55:58
イラン・イスラム共和国の武器禁輸措置に関するものですが、九条や国民主権を掲げるならば、むしろ、アメリカに賛成すべきではないですか? イラン・イスラム共和国は、大統領よりも、イスラム教の最高指導者の方が偉く、実権を握っているというとんでもない国ですよ。さらにいえば、イスラム教こそ真理であり、他宗教は認めない、という国です。さらに言えば、武力で勝れば、他の国に攻めこみ、イスラム教を広げる事こそを正義としている国です。

 このような国に武器禁輸措置をして、日本は戦力を持ってはいけない。あなたの主張は、ただの反日ではないですか? 天皇は、あくまでも、君臨すれども統治せずで、政治の実権は国民が握っているし、そもそも、政治に口を挟むこともありません。ところが、イランの最高指導者の言葉は絶対で、神でこそないですが、ヒトラーみたいな独裁者ですよ。共和国を名乗っているのに、宗教が国民を支配する、このような国を擁護して、君臨すれども統治せずの天皇を非難する、あなたの態度は、ただの反日ではないでしょうか?

承久の乱で幕府が正義だったように天皇の言葉は重く、原則として取り消しはできません。もしも、天皇が君臨すれども統治せずを取り消し、天皇主権に戻すというならば、承久の乱で鎌倉幕府が天皇に弓を引いたように、僕も天皇に銃を向けますよ。
僕を狂信者だの天皇主権者だのと言うのは、濡れ衣もいいところです。あなたが、非難するのは、僕ではなく、イランではありませんか?そして、アメリカのイランへの圧力を応援すべきではありませんか? 』

『これで真面目? (文科系)  2020-08-17 16:35:04
 これで真面目な質問なのか、それともまたバカというだけなのか。まともな文章がちゃんと読める高校生なら分かるような問で、うんざりしていますが、まー答えましょう。短く大事な順に。
① 僕は国民主権第一だから、イスラム国教国にも反対と、意見を聞かれれば答えます。ですがこれは、その国が決めること、ここが大事です。
② そういう国にも歴史があって、いずれは政教分離を次第にはっきりとさせていくと僕は、確信しています。今でも、イスラム原理主義政治(サウジ他)と世俗政治(トルコ、エジプト)との区別があるように。
③ 以上の①②の兼ね合い理解に関わってですが、僕のように反対だという人、国がそこの内政に干渉することは国連で許していません。その干渉による被害が戦争に発展したりして大きすぎると、世界が歴史的に学習してきたからです。

 以上。真面目な質問なら何でも聞いて下さい。安倍晋三よりははるかにまともな答えが出来るはずです。ちなみに、貴方の言う「神道天皇国教国家」は今の日本国憲法よりもはるかに神道原理主義に近くなりますね。だからこそ、国民主権の僕は、寒気がするわけです。』

『 国連の意味がなくなっちゃうよ (シン) 2020-08-17 16:53:23
人権は、人間の権利です。誰も、奪ってはならないものです。どこかの国が人権を蹂躙していれば、助けるのが国連の仕事でしょう?内政干渉してはならん、というのは、人権が守られている場合です。人権が蹂躙されている時、それをその国の権利として認めるのですか? それのどこが人権尊重ですか? それは、人権否定ですよ。
人権が蹂躙されているのに、指をくわえてみているなら、国連に存在価値はないでしょう。
人権蹂躙を国の権利として擁護するのですか? ヒトラーのような独裁者を擁護するのですか?

国連憲章はどうなるのか? それが、あなたの良心ですか?』

『 戦争が起こってしまうから内政不干渉 (文科系) 2020-08-17 17:28:43
 人類史上わずか百年前に初めて出来た世界組織が国際連盟と国連。国連も将来はこうなるでしょう。世界統一法が出来てその裁判所、警察ができる。今はその過渡期で、最低限の法しかないと考えています。主として「戦争はいけない。自衛戦争か、その集団安保以外はだめ。よって、戦争が起こりうる内政問題には干渉するな」。

 ところで貴方、イスラム原理主義で最も厳しいのがサウジだと知ってます? 東京中央広場みたいな所のど真ん中で、罪人の首を偃月刀でちょん切る見せしめをやる国。つい最近まで女性の運転免許がなかったというように女性が世界一不幸な国。それでも、この国に戦争を起こすのはいけません。残念ながら、それが今の世界法律の現段階だ。僕はこれを一種の知恵だと思いますけどね。』

『言い掛かり・・ (文科系) 2020-08-17 17:56:48
 日本国家体制論議で負けて、今度は何? アメリカ擁護? その対外侵略擁護? それとも、これでもって僕の人権、立憲主義にケチを付けられるとでも?
 ちょっと真面目な論議とは思えないから、今後どんな問題を扱うかは「よーく注意して」下さい。本当に無視しますよ! 僕はある「名無し馬鹿」に10年以上付き合ってきたと言うほどに気が長いのですけどね・・・。

 こんな誇大妄想を現実政治論と解釈しているお方なんだよねー、あなたは。
「自主憲法をつくるならば、神道を国教とし、ただし、信仰の自由は認める。天皇は神と規定し、ただし、政治に口を挟まない。とするべきだと思う。
天皇とは神であり、日本は千年以上にわたって、神道が国教だったというのは、歴史的事実です。国教になると、信仰の自由がなくなるとか、無神論者が信仰を強制されるとか、あり得ないから。国教がある国はたくさんありますよ。国教だと、その宗教の宗教行事に税金が使われるという事であって、それは、現在、ただ今、使われています」
 よく覚えときます。』

 

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