万葉からだ歌(むすび) N・Rさんの作品です
からだの部位を表す言葉こそが基礎語。人のからだの形や機能は変わるものではない。千数百年前の万葉人が手、指といえば現代人も手も指も同じものをさす。
そこで『万葉集』を読む時、基礎語で重ねていけば古典歌の一首、一歌の理解がすすむはず──これを視点に、この一年、目、眉、手、足、指、胸などを数えながら歌を検証してみた。
特に「生活用語にこそ基礎がある」と、性にかかわる歌まで紹介してしまった。おかげで、万葉人の活気あるおおらかで、ためらいのない真っ正直な生活空間に触れることが出来た。
結びにきて、万葉の人々が親しんだ”からだ言葉”は、時代の変化に対応しながら、今に息づいていると知らされた。なかでも、後年の小説『坊っちゃん』では、主人公が万葉人とほとんど同一の言葉でしゃべっているあたりも面白かった。髪だけが出てこないと思ったら、マドンナを「ハイカラ頭の、背が高い美人だった」と髪型のモダンさを描いていた。
いま一つ、名古屋と岐阜の一部では子守歌にからだ言葉でうたう詩があった。母たちは、目、鼻、口と指でかるく触れながらうたい、子どもに大切なからだの部位を教えていた。
─────────
あつたさん(熱田神宮)まいって頭をさげ
松原(まつ毛)越えて目医者へ寄って
鼻一本折られ
みっともない(耳)ことよ
ほうぼう(頬)で笑われ
口おいしことよ、むね(胸)んなことよ
知り(尻)もしないに
おへそが笑う
──────────
節回しは、手鞠歌に似ていて、私はいまもふと口ずさむことがある。
この連載はこれで終わります。なお、この作者は僕等の同人誌の創設者にして、主宰であられたお方でして、2014年に亡くなられています。ここの読者の中にお心当たりの方がいらっしゃるかも知れませんので、略歴を少々。ただし、以下の内容は全く僕個人の主観に依存したものとお断りしておきます。
あの敗戦を、鹿屋の特攻隊基地で迎えられました。その頃の事をたびたびこう語られていたものです。
「死に損なった。天国、雲に向かって詫びてばかりいたよ」
当時までは軍国少年を自認されていましたが、その反動からか文学を志し、某国立大学の国文科を卒業されたかと記憶しています。職業は中日新聞の記者で、確か文芸部であられたとか。「テレビドラマなどの脚本の原稿料などが給料よりも多くなった時期がある」ということで、定年まで数年を残して退職されたと聞きました。そのころのプロ脚本家時代のことを度々こう語られていたのを、僕はとても印象深く想い出すのです。
「あのころは、浮かれて、売文、駄文ばかりを書いていたなー」
それもあってか、このささやかな同人誌には心血を注いでおられたと、ずーっとそんな気がしていました。
ここまで転載してきたものは、僕等の月例冊子に2013年2月まで15回ほど連載されたものです。この冊子は今月で実に289号まで出ています。この間24年と1か月、ずーっと1度の欠刊もなかったはずで、ここにも主宰の執念が乗り移っていたかとふり返っています。
からだの部位を表す言葉こそが基礎語。人のからだの形や機能は変わるものではない。千数百年前の万葉人が手、指といえば現代人も手も指も同じものをさす。
そこで『万葉集』を読む時、基礎語で重ねていけば古典歌の一首、一歌の理解がすすむはず──これを視点に、この一年、目、眉、手、足、指、胸などを数えながら歌を検証してみた。
特に「生活用語にこそ基礎がある」と、性にかかわる歌まで紹介してしまった。おかげで、万葉人の活気あるおおらかで、ためらいのない真っ正直な生活空間に触れることが出来た。
結びにきて、万葉の人々が親しんだ”からだ言葉”は、時代の変化に対応しながら、今に息づいていると知らされた。なかでも、後年の小説『坊っちゃん』では、主人公が万葉人とほとんど同一の言葉でしゃべっているあたりも面白かった。髪だけが出てこないと思ったら、マドンナを「ハイカラ頭の、背が高い美人だった」と髪型のモダンさを描いていた。
いま一つ、名古屋と岐阜の一部では子守歌にからだ言葉でうたう詩があった。母たちは、目、鼻、口と指でかるく触れながらうたい、子どもに大切なからだの部位を教えていた。
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あつたさん(熱田神宮)まいって頭をさげ
松原(まつ毛)越えて目医者へ寄って
鼻一本折られ
みっともない(耳)ことよ
ほうぼう(頬)で笑われ
口おいしことよ、むね(胸)んなことよ
知り(尻)もしないに
おへそが笑う
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節回しは、手鞠歌に似ていて、私はいまもふと口ずさむことがある。
この連載はこれで終わります。なお、この作者は僕等の同人誌の創設者にして、主宰であられたお方でして、2014年に亡くなられています。ここの読者の中にお心当たりの方がいらっしゃるかも知れませんので、略歴を少々。ただし、以下の内容は全く僕個人の主観に依存したものとお断りしておきます。
あの敗戦を、鹿屋の特攻隊基地で迎えられました。その頃の事をたびたびこう語られていたものです。
「死に損なった。天国、雲に向かって詫びてばかりいたよ」
当時までは軍国少年を自認されていましたが、その反動からか文学を志し、某国立大学の国文科を卒業されたかと記憶しています。職業は中日新聞の記者で、確か文芸部であられたとか。「テレビドラマなどの脚本の原稿料などが給料よりも多くなった時期がある」ということで、定年まで数年を残して退職されたと聞きました。そのころのプロ脚本家時代のことを度々こう語られていたのを、僕はとても印象深く想い出すのです。
「あのころは、浮かれて、売文、駄文ばかりを書いていたなー」
それもあってか、このささやかな同人誌には心血を注いでおられたと、ずーっとそんな気がしていました。
ここまで転載してきたものは、僕等の月例冊子に2013年2月まで15回ほど連載されたものです。この冊子は今月で実に289号まで出ています。この間24年と1か月、ずーっと1度の欠刊もなかったはずで、ここにも主宰の執念が乗り移っていたかとふり返っています。