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慰安婦問題、当時の当局文書二通   文科系  

2024年11月26日 02時44分37秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 名無し君がまた相変わらず、「慰安婦は普通の売春婦」などとコメントしてきたから、このことについての旧稿を載せることにした。以下2通いずれも「従軍慰安婦」に関わる当時の当局文書である。

『 慰安婦問題の当時の政府文書二通   文科系
2018年01月27日 07時28分50秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など

 日朝関係史、南京虐殺と続けてきましたから、慰安婦問題でもある決定的資料をそのまま再掲しておきましょう。以下の文書には、強制のことも軍がこのように認めています。このように。

『故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ或ハ募集ニ任スル者ノ人選適切ヲ欠キ為ニ募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等注意ヲ要スルモノ少ナカラサルニ就テハ』


【 慰安婦問題、当時の関連2通達紹介  文科系2014年09月22日

 以下二つは「日本軍の慰安所政策について」(2003年発表)という論文の中に、著者の永井 和(京都大学文学研究科教授)が紹介されていたものです。一つは、1937年12月21日付で在上海日本総領事館警察署から発された「皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件」。今ひとつは、この文書を受けて1938年3月4日に出された陸軍省副官発で、北支那方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒、陸支密第745号「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」です。後者には、前に永井氏の説明をそのまま付けておきました。日付や文書名、誰が誰に出したかも、この説明の中に書いてあるからです。

『 皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件
 本件ニ関シ前線各地ニ於ケル皇軍ノ進展ニ伴ヒ之カ将兵ノ慰安方ニ付関係諸機関ニ於テ考究中処頃日来当館陸軍武官室憲兵隊合議ノ結果施設ノ一端トシテ前線各地ニ軍慰安所(事実上ノ貸座敷)ヲ左記要領ニ依リ設置スルコトトナレリ
        記
領事館
 (イ)営業願出者ニ対スル許否ノ決定
 (ロ)慰安婦女ノ身許及斯業ニ対スル一般契約手続
 (ハ)渡航上ニ関スル便宜供与
 (ニ)営業主並婦女ノ身元其他ニ関シ関係諸官署間ノ照会並回答
 (ホ)着滬ト同時ニ当地ニ滞在セシメサルヲ原則トシテ許否決定ノ上直チニ憲兵隊ニ引継クモトス
憲兵隊
 (イ)領事館ヨリ引継ヲ受ケタル営業主並婦女ノ就業地輸送手続
 (ロ)営業者並稼業婦女ニ対スル保護取締
武官室
 (イ)就業場所及家屋等ノ準備
 (ロ)一般保険並検黴ニ関スル件
 
右要領ニヨリ施設ヲ急キ居ル処既ニ稼業婦女(酌婦)募集ノ為本邦内地並ニ朝鮮方面ニ旅行中ノモノアリ今後モ同様要務ニテ旅行スルモノアル筈ナルカ之等ノモノニ対シテハ当館発給ノ身分証明書中ニ事由ヲ記入シ本人ニ携帯セシメ居ルニ付乗船其他ニ付便宜供与方御取計相成度尚着滬後直ニ就業地ニ赴ク関係上募集者抱主又ハ其ノ代理者等ニハ夫々斯業ニ必要ナル書類(左記雛形)ヲ交付シ予メ書類ノ完備方指示シ置キタルモ整備ヲ缺クモノ多カルヘキヲ予想サルルト共ニ着滬後煩雑ナル手続ヲ繰返スコトナキ様致度ニ付一応携帯書類御査閲ノ上御援助相煩度此段御依頼ス
(中略)
昭和十二年十二月二十一日
         在上海日本総領事館警察署 』


『 本報告では、1996年末に新たに発掘された警察資料を用いて、この「従軍慰安婦論争」で、その解釈が争点のひとつとなった陸軍の一文書、すなわち陸軍省副官発北支那方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒、陸支密第745号「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」(1938年3月4日付-以後副官通牒と略す)の意味を再検討する。
 まず問題の文書全文を以下に引用する(引用にあたっては、原史料に忠実であることを心がけたが、漢字は通行の字体を用いた)。

支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為内地ニ於テ之カ従業婦等ヲ募集スルニ当リ、故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ或ハ募集ニ任スル者ノ人選適切ヲ欠キ為ニ募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等注意ヲ要スルモノ少ナカラサルニ就テハ将来是等ノ募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於イテ統制シ之ニ任スル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ其実地ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連携ヲ密ニシ次テ軍ノ威信保持上並ニ社会問題上遺漏ナキ様配慮相成度依命通牒ス』

 さて、これを皆さんはどう読まれるでしょうか。なお、この文書関係当時の北支関連国内分募集人員については、ある女衒業者の取り調べ資料から16~30歳で3000名とありました。内地ではこうだったという公的資料の一部です。最初に日本各地の警察から、この個々の募集行動(事件)への疑惑が持ち上がって来て、それがこの文書の発端になったという所が、大きな意味を持つように僕は読みました。】


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南京大虐殺の史実   文科系

2024年11月25日 12時11分30秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 名無し君があまりにも酷い擁護、弁解を繰り返すから、南京と慰安婦について、旧稿を再掲します。慰安婦は明日、当時の軍部通達、二文書を紹介することになります。

南京虐殺史実の決定版   文科系
2019年09月14日 15時30分47秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など

「あんたも無知丸出しかい? 南京市民より死者が多い三十万人などというヨタ話を、ほんとに信じるの?」
 今度の相手も上から目線でこちらを頭から押さえ込んで来た。いつも同様、僕のブログの過去文章を読んでいないことも丸分かり。丁寧に反論する。

 ①虐殺直前に、日本軍がしかけた上海上陸攻防の大激戦が三か月続いた。そこの中国軍三〇万が揚子江すぐ上流の首都・南京城めがけて潰走し、日本軍がこれを我先にと追撃して出来上がったのが南京城包囲である。城の外、付近の住民も首都軍の庇護を求めて逃げ込んだし、膨大な人数に増えていて当たり前なのである。

 ②次いで、「あんな短期間にそんなにたくさん殺せる訳がない。日本軍はスーパー・サイヤ人か?」とのご批判。これには、こうお応えする。南京城壁は高さ一八メートルで分厚く、一方は揚子江。この城の限られた城門から全軍脱出が敢行されたのが一九三七年一二月一二日の夜から一三日朝にかけて。作戦は完全な失敗。揚子江を渡れた兵はごく少なく、膨大な数の捕虜はその後どうなったか。以降の日本軍中国南下作戦を考えれば、生かして放つはずがない。以降七年半の占領下早い内に、収容施設へ連れて行くように見せかけて秘密裏に殺したと考えるの普通だろう。三一年の満州事変の無法行為で国連を脱退したことを巡る国際的批判と、国内の戦意高揚とのためにも、秘密裏にということが大事だった。

 ③と、僕が返した反論には間髪を入れず、こんなご批判。「それだけ死んだら、死者名簿は? 慰霊祭は? なぜ家族の猛抗議はなかったのか? これらがいまだにないのは嘘である証拠! せいぜい二万人がイーところだな!」。まるで鬼の首でも取ったように勝ち誇って来る。これもネトウヨ本の鸚鵡返しであって、勝ち誇ったこの態度も「自信」の顕れなのである。ただし僕は、一一年ここで闘ってきた勤勉な古参兵。こんなひょろひょろ弾に倒れる訳がない。
 当時の中国政府は、戸籍がないに等しく、兵士は浮浪者が多かった。それも、あの広大な全土から集められた人々。浮浪者が多く、戸籍がないなら、どうやって名簿を創り、家族に知らせるのか。しかも、以降一二年の中国は戦乱と、さらには国共戦争と政権分裂。日本の習慣で思い付いた訳知り顔の屁理屈に過ぎない。現に、中支派遣軍事前教育教科書にこんな記述がある。
『三三年に陸軍歩兵学校が頒布した「対支那軍戦闘法の研究」中の「捕虜の取扱」の項には、(中略)「支那人は戸籍法完全ならざるのみならず、特に兵員は浮浪者」が多いので、「仮にこれを殺害又は他の地方に放つも世間的に問題となること無し」と書かれていた(藤原彰『戦死した英霊たち』)』
(岩波新書「シリーズ日本近現代史全10巻」の第5巻『満州事変から日中戦争へ』加藤陽子・東京大学大学院人文社会系研究科教授、220ページ)

 ④すると今度はまた、こう返ってきた。「どんな理屈を語ろうと、死者数二万という学者の有力説もある。三〇万ははっきり嘘として、数をはっきりさせろよな!」。古参兵はこの数字弾のひょろひょろぶりもよく知っているから、こう反論するだけだ。
 確か小泉内閣の時に日中の学者が集まって虐殺数を検討する会議を持った。日本からも一〇名ほどが出たが、北岡伸一など政府系の学者らが多い日本側の結論は、二~二〇万というもの。なぜこんなに開きが出るのか。「虐殺犠牲者」の定義とか虐殺期間・地域などで一致できなかったからだ。特に虐殺に兵士を含むか否か。兵士の戦死は当たり前、虐殺の数には入らないと。が、これにも反論は容易だ。日本は中国に最後まで宣戦を布告をせず、地中あちこちから折り重なって出てきた膨大な若者人骨は捕虜を虐殺した証拠にもなる。以上から、日本の(政府系)学者らさえ二〇万人の含みを否定できなかったのである。


 さて、以下の内容がまた、以上すべてを裏付けるものである。

【 南京大虐殺、一師団長の日記から  文科系 2017年03月09日

「教育図書出版 第一学習社」発行の「詳録新日本史資料集成 1995年改訂第8版」という高校日本史学習資料集がある。これをぱらぱらと見ていて、南京大虐殺の資料を新たに一つ発見したので、ご紹介したい。408頁に南京攻略軍指揮官の中島今朝吾(けさご)第16師団長日記というのが載っていた。そこの全文を書いてみる。

『大体捕虜ハセヌ方針ナレバ、片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタレドモ、千、五千、一万ノ群集トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ、唯彼等ガゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノノ、之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ、部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ、十三日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ。シカシナガラ戦勝直後ノコトナレバナカナカ実行ハ敏速ニハ出来ズ。カカル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ、参謀部ハ大多忙ヲ極メタリ。
一、後ニ至リテ知ル処ニ依リテ佐々木部隊ダケニテ処理セシモノ約一万五千、大平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約一三〇〇、其仙鶴門付近ニ集結シタルモノ約七、八千人あり。ナオ続々投降シ来ル。
一、コノ七、八千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ、中々見当ラズ。一案トシテ百、二百ニ分割シタル後、適当ノカ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ。』

 高さ18メートルもある分厚い南京城壁の限られた門から一夜にして日本軍包囲網を脱出しようとした中国軍兵は、その多くが捕虜になった事が示されている。どうせ逃げられないから、捕虜になって助かろうという態度にさえ見えるのである。ところが、これを最初からの方針として、全部殺してしまった。あちこちに分けて連れて行って殺し、埋めたということなのである。そもそも冒頭のこの部分が僕がこのブログで強調してきた要注意か所と言える。

「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ、片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタレドモ」

 最初から捕虜は殺す方針であったことが明確に述べられている。酷いもんだ。こんな資料があるのに、ネトウヨ諸君の種本論客達は、兵士虐殺を否定してきたのである。一師団長が聞いただけで彼等がよく語る「せいぜい2万人」などは、優に超えている。すべて世界に向けては、いや南京攻略兵にすら秘密の仕業であった。なんせ、上の手記にあるように師団長すら虐殺の全貌は知らないのだから。少し前にあった満州事変に対する国連非難囂々に懲りていたのだろう。また、国民の戦意高揚のためにも、敵への残虐行為は極力秘密にするものだ。実に卑怯、姑息な日本軍である。もっとも命令を出した奴らが卑怯、非道なのであるが・・・。】


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「アルハンブラ宮殿の思い出」   文科系

2024年11月21日 15時48分45秒 | Weblog
 表題は思い出す方々が多いはずのクラシックギターの名曲である。ちょうど「(映画)禁じられた遊び(の主題曲)」をもっと多くの方々がご存じのように。定年退職後にギター教室に通い始めて二〇年、この長い間ずっと折に触れてこの曲を練習し続けてきたが、満足に弾けないままに今日まで来て、最近やっと「来年の発表会には弾けるだろうか?」という地点に届いたもの。この曲を通して、音楽の良さ、その魅力(の一端)を表現してみたい。と言っても、音楽とスポーツは小説にせよ随筆にせよ文学にはなりにくいもの。精一杯頑張ってみよう。
 僕がクラシックギターにのめり込んだ初めは、二〇代の頃。世の中の全てが嫌いになってシャンソンの「枯れ葉」をフランス語で覚えて歌いつつ、よろしく斜めに構えていた時代のことである。まず、この楽器の音色に魅了された。「音域の広い憂愁を醸し出す、憂わしげな音、旋律。これに被さってくる多様な和音の多彩な彩り」に惹かれて、セゴビアなどのレコードを聴きまくった。まもなく「カルカッシ教則本」を買ってきて独習を始めたのだが、これは切れ切れに定年まで続いて、教則本の四分の三ほ何度か何度か進んだのだけれど、肝心の音色が今一歩。自分でも「ガチャガチャしてる」と感じていた。だからこそ、最初に先生に音出しを習ったときは、胸がときめいたものだ。初めに感じた「クラシックギターらしい音」と感じ入って、この音出しを習うだけで教室に通う価値があると決断した。それから二〇年をすぎた今、このアルハンブラである。
 初めにギター演奏を聴いたときに「二台の楽器で合奏している?」と誤解したのだが、これは旋律と装飾和音とが一台の楽器から同時に聞こえるからのこと。なんせ、太い低音が響いている間ずっと、旋律や別の装飾音が流れているのだから。アルハンブラも、高音の旋律に低音の和音を添えて演奏していくが、高音旋律を八分音符の長さの三連音符トレモロ連続で聴かせ、和音は三拍と長い通奏最低音に八分音符の半拍音をトントンと重ね添えた作りである。そして、この高音旋律と和音との相乗作用から、過ぎた日の思い出、郷愁に人を浸らせていくといった趣だ。日本の曲で言えば、「ウサギ追いし」の「ふるさと」や、「しずかなしずかな『里の秋』」のような。俳句で言えば「面白うてやがて哀しき鵜舟かな」とか「行く春を近江の人と惜しみけり」の趣を音の流れに変えたような。ただ、この曲の演奏は難しい。くっきりとしてかつさりげなく右手中三本の指で鳴らすトレモロ奏法が難しいのである。ある指の音が擦れたり、強すぎたりして、プロでも安定させにくい技術なのだ。このトレモロは、一拍五〇以下というレントの遅さでゆっくりと練習を重ねて安定させていき、そうして初めて七〇ほど、本来のアンダンテ以上の速さへと固めていく。ちょっとでも乱れたらまたレントにかえって練習といったものである。僕の場合はレントで弾いてさえ、トレモロの人差し指音が小さく、低音伴奏の親指が強すぎるのが常だったのだけれど、それが今回やっと直ってきたのである。嬉しかったから、この一ヶ月ほどは毎日二~三時間もこの曲各部を指にしみこませてきたものだ。なお、音楽の三要素、旋律、和音、リズムの内、この曲のリズムは四分の三拍子である。これがまた、人の心を踊らせ揺さぶるようにしみこんでくる。
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闘争本能戦争論は誤り   文科系

2024年11月18日 16時36分23秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 現代ビジネスと言う名のネット記事に、以下のような物があった。『意外と知らない、ひとはなぜ戦争をするのか「身も蓋もない答え」』
またぞろ「永続戦争論」の一種だ。これの以下の内容は、闘争本能戦争論と言いかえることもできて、社会ダーウィニズム戦争論とも重なるのである。主要部分を抜粋すると、こんな内容であった。

『 2023年の最も衝撃的な出来事といえば、イスラム主義組織ハマスによるイスラエルへの越境攻撃に端を発した戦闘だろう。イスラエルもハマスも徹底抗戦の構えを崩さないため、犠牲者の増加に歯止めがかからず、ガザ地区はがれきの山になった。 2022年に始まったロシアによるウクライナ侵攻も泥沼化の様相を呈しており、われわれ人類が21世紀になっても戦争をやめられないのは一体なぜなのかという疑問を抱かずにはいられなかった。 そこで手に取ったのが、物理学者のアインシュタインと精神分析家のフロイトの往復書簡『ひとはなぜ戦争をするのか』である。この往復書簡は、1932年に国際連盟からアインシュタインが「今の文明においてもっとも大事だと思われる事柄を、いちばん意見を交換したい相手と書簡を交わしてください」と依頼され、相手としてフロイトを選んだことによって始まった。
 アインシュタインは「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか?」というテーマを選び、フロイトに問いかけた。この問いに対して、エロス的欲動と破壊欲動に関する議論を展開した後、フロイトが導き出したのは次のような結論である。 「人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうにもない!」 身も蓋もない結論で、暗澹たる気持ちになる。これでは答えにならないと思ったのか、フロイトは次のような言葉で結んでいる。 「文化の発展を促せば、戦争の終焉ヘ向けて歩み出すことができる!」 この言葉をアインシュタインはどのように受け止めたのだろうか。』

 人間には攻撃的性格もあるが、文化の発展で戦争はなくせる。 フロイドは、そう語っているようだが、これについては先ず、こんなことが言える。国家の戦争の原因を、「人間の攻撃的性格」に見ることは出来ないはずだ。人間個人と国家とは異なったものだからである。フロイドは「国家を文化的にすれば、戦争はなくせる」と語ったとも読めるが、それ以上のことはここには書いてない。ちなみに、フロイドが生きた20世紀前半は、国連などで戦争違法化の論議、制度がずいぶん進んだと覚えている。それはちょうど、徳川幕府が戦国時代を終わらせて、我が国に300年の平和を実現したように。
 ロシアもイスラエルも、国連の諸法制を無視している真っ最中だが、この両戦争は一刻も早く終わってほしい。
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日本プロ野球機構(NPB)はスポーツ団体にあらず  文科系

2024年11月14日 07時56分01秒 | スポーツ
 今年は非常に珍しいことに、横浜が日本一になった日本プロ野球機構。僕はこの団体をスポーツ団体とは認めない。勝ちを求めているとは思えない大事件があり、今も続いているからだ。落合博満監督の中日退任。以降どこも彼を監督に招かなかったこと。この二つから僕は、スポーツ団体としては決定的な不信感をNPBに抱いて来た。ひるがえって中日ドラゴンズは今年も相変わらず凡庸監督を首にしたようだし。
 落合博満は中日監督時代8年で4回優勝し、Aクラスを逃したことは一度もない。監督初年度2004年などは「現有勢力を底上げすれば十分だ」としてリーグ優勝。以降、たいした金も使わずにこの業績を上げた名監督である。こんな監督をドラゴンズは解任した。それも、2年続きで4回目のセリーグ優勝というその2年目の終わりに。そして以降、この落合を雇うチームがどこにもなかったのである。中日監督を11年やった星野仙一が名監督と言われるが、リーグ優勝はそのうち2回に過ぎないし、日本一は落合1回に対して星野は0回だ。落合監督の解任、「以降、どこからもお呼びがかからず」はこうして、スポーツ団体としてのNPBにとって史上最大のミステリーである。

 これが他のスポーツであればどうだったろう。世界中のサッカーの世界であれば引く手あまたで、その後の落合もサッカーのガルディオラやクロップのように、苦笑いの左団扇だったはず。集団球技の強さについては監督こそ大事で、世界中皆がこのことを知っているからだ。バレー、バスケ、ラグビーなどの日本代表監督は全部外国人を雇って強くなった。世界一の人気スポーツ・サッカーなどは、外人監督が当たり前。発祥の地イングランドのマンチェスター2チーム、アーセナル、リバプールなどの代表的チームはもちろん、イングランド代表監督でさえ、外国人がなる。ところが、NPBでは、この最強監督をどのチームも「要らない」と振る舞ってきたこの不可解! スポーツとして観るなら、実に不思議すぎる歴史である。なぜこんなことが起こったか。

 落合解任は集客、営業の不振からと言われてきた。新聞社などマスコミと落合の仲の悪さも上げられていた。営業不振はまず球団責任だろうし、マスコミ不人気なども球団が仲裁すれば良かったこと。それよりも何よりも、こんな些細な理由から、どうしてその後この優れた「スポーツ人監督」をどこもやとうチームがなかったのだろうか。もっと大きな理由があるとしか思えなかったのである。
 あるチームが勝ち続けると、他のチームとこことのゲームを見に来なくなって、リーグ全体の集客が減ることがある。当たり前だろう、6チームしかないリーグに常勝が出れば、そんなことは必然であって、集客のためには不人気チームを一つでも作ってはならないのだ。6チームがギリギリ財政でやっていれば、「スポーツよりも集客が全て」にしかならないのである。こう申し合わせたように落合監督は永久になくなったと、僕はそう考えてきた。これではスポーツとしての能力アップに日夜励んでいる選手がかわいそうだ。そう考えてみていると、両リーグとも最近は、川上巨人、鶴岡南海、三原西鉄、古葉広島のような常勝的球団は居なくって、時に弱小チームの優勝も起こっている。なるほど、・・・と言うわけだ。だから、弱小中日にも近く光を当てるべき局面が来るんじゃないか、とも思う。6チームの営業互助会、これがNPBの正体なのだ。せめて12チーム一体として、地域に根差して真に切磋琢磨しあう環境を作るべきだろう。そうすれば、サッカーの新潟や鳥栖のようなチームも必ず現れるはずだ。

 野茂、中田ヒデなど有名スポーツ選手がマスコミに腹を立てて、仲違いしてきた歴史も長いが、スポーツマスコミもヒデが馬鹿にした「くだらない質問」などバラエティー化している自分を少しは考え直さないといけないんじゃないか。
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海外旅行の思い出  文科系

2024年11月09日 10時28分19秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 連れ合いの弟が小さな旅行会社に勤めていたので、いろんな旅行に誘ってもらったし、さらには有志で注文して好みの旅を作ってもらったりした。これが、僕の人生に大きな彩りを添えてくれて、人生というものへのある本質的な充足感を与えてくれたと言って良い。これがきっかけとなって、海外旅行は20回は体験していると思う。そのいくつかのことを書いてみよう。

 その最初が「オーストリア・ザルツブルグ音楽祭と、イタリア歌劇観劇の旅」。ロミオとジュリエットの舞台として有名なイタリアはヴェローナの野外円形競技場で観たのは確か、ベルディのオテロ、夜の天空に響き渡るオテロの嘆きの歌が今でも鮮やかに蘇ってくる。ザルツブルグの領主のお城の、領主の間で演じられた弦楽四重奏の一曲は、モーツアルトの「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」。連れ合いが評するには、
「日本で聴いてきた演奏とは全然違うね。爽やかに羽毛が軽々と飛んでいくような美しさだ」

 そしてもう一つは、中国南西部の旅行が3度。一度は、桂林・麗江・大理の旅。今ひとつが、九寨溝・黄龍。最後が、ベトナムを北に登って、中国南西部に入り、シーサンパンナなど少数民族地帯を巡ったもの。イタリア旅行も中国の時も、僕は彼に特別な注文をしている。
「いわゆるホテルではなく、民族旅館に泊まりたい」
  麗江と大理のその旅館は特に趣があった。低い建物で囲まれた中庭が大きくって、そこで持参のクラシックギターを弾いた体験は、僕の一生の思い出になった。ちなみに、イタリアからザルツブルグに向かうときのドロミテ山系はコルチナ・ダンペッツォの「ラ・ポスト」と言う旅籠に泊まった。日本で言えば、東海道53次の中の大きな関所の本陣旅館のようなところだ。ベトナムからシーサンパンナ方面への旅行は、南の「絹の道」を辿りたいという希望から作ったものだが、両国国境の川を渡ったときのことは今でも忘れない。中国名は河口、ベトナム名は確かラオカイと言ったと思う。ちなみに、途中の田陽の夕陽に輝く棚田の膨大な光景は「途方もない人類開墾の歴史」を感じさせたもの。それぞれ、近辺の少数民族と親しく接した交流も良い思い出になっている。

 これで味を占めて、さらにいろんな旅行の思い出を作った。娘が海外青年協力隊で赴いた中米ホンジュラスにも、夫婦で出かけた。その時の最高の思い出は、ロアタン島と言うところのカリブ海でスキューバ・ダイビン教室教室)を初体験したこと。短い講習を受けてから直ぐに潜ったのだが、素人は僕一人だったらしく、講師がずっと僕に付いてきてくれたものだった。
 夫婦で行った南ドイツの旅は、いわゆる「ロマンチック街道」物だが、南ドイツの街並みの美しさには驚嘆した。この時はベルギー、オランダにも行ったのだが、ブリュージュで、二人乗りのタンデム自転車を借りて海まで出かけた思い出が強い。
 連れ合いが日本語教師として出かけたのに同行した、シドニーとトロント滞在旅行も、格別な物になっている。自分で買い物をしていろんなワイン、料理を作るのが楽しみだった。オーストラリアでは、あのエアーズロックにも登ってきた。なお、ランナーだった僕は、それぞれの街を走って、そこの思い出を深めてきたと言う体験も持っている。ナポリの港では野犬に追いかけられて、近くの軽トラックの屋根に逃げ込んだ怖い思いもしているのだが。
 
 旅というのは、
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今一度「霊」は存在しない  文科系

2024年11月07日 14時44分42秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 10月31日に、こういう前文で標記のことを書いた。
「霊という言葉が、新聞などの広告も含めて当たり前に、実在するもののようにますます多く使われるようになった。心霊スポット、心霊現象という場合の心霊、背後霊や水子の霊。よく言われるスピリチュアルもその存在を認めてこそ成り立つものだろう。」
  霊とは、その漢字の意味はこういうものだ。
人間の肉体に宿り、または肉体を離れて存在すると考えられる精神的実体。たましい」

 これについて改めて考えたことがない人でも、存在するとしてもどのようなものかということを確かめる方法がある。「自分の肉体が生まれる以前の、自分の心、魂」を考えてみれば良い。なんの記憶もないはずだ。中には、「自分の前の世の姿」を感じることがあるなどと語る人が居るが、それを否定することはできはしない。そもそも「ないものを語る人に、それがないと証明することなど論理的にできはしない」。さらには、「そう感じた物は全て存在する」としたら、ドラキュラも玄武、朱雀、鳳凰も存在することになる。これを言い換えればこういうことだ。肉体が死んだら、その後のその心があるとしてもそれは「自分の赤子出生以前の心」でしかないはずだ。赤子以降自分に生まれたものは、この世や自分の肉体と結びついていて、「生前の自分の骨身などを元にして生まれたもの」でしかないはずだから。この世で大人になった心を、さも永遠に存在してきたもののように、描き上げるのはおかしいことだろう。
 なお、肉体の世界を離れてその心がどこかにあるとすれば、その心はどこから生まれたのかと言う問いから、神の世界まで創造されうるものである。つまり、「この世ならぬ心」は神の世界のものになるだろう。つまり、宗教は霊の存在を前提としているのである。

 そしてもう一つ、宗教って死の問題と結びついている。死が怖い人が、「永遠の命」を考え出したのだろう。ところで、僕は「永遠の命」がなくとも、死は怖くないようになった。死が怖いのは若い人だ。将来への渇望が大きくある人はものすごく死が怖い。が、一応この生を生きて「大体の人生、楽しみは味わったと言える」とか「もうこの先は何もなさそうだ」と言う老人は、「永遠の命」などに執着はしない。


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平河悠選手のプレー画像が贋作であって欲しい   文科系

2024年11月04日 07時06分31秒 | スポーツ
 ネットの「超WORLDサッカー!」で、以下の文章を読み、そのプレー動画映像も見た。これは、大変な問題になると思う。平河悠選手の選手生命にさえ関わってくるのではないか。イングランドでは「信じられない悪辣さ」であって、そのことが日本人選手にはよく教育されていないことも示されているのだから。平河はボールキャッチ寸前の敵キーパーの目前で、ボールを右手パンチ、左斜め前に弾き出してゴールしている。
 僕は、この映像が贋作であることを信じたい。
 例えば、ネイマールは世界最高舞台プレミアに行けなかった。バルサとパリ・サンジェルマンを経てアラブの国に金で買われていっただけの選手生命だったのである。彼の「ネイマール」がイングランドではどれだけ忌み嫌われるかの知識がなかったからだろう。サッカー文化の世界差がそれほど大きいということだ。プレミアに行きたい日本選手は接触時に下手に、大げさにたおれないことだ。それだけでファンが脱げていく国である。


『 ブリストル・シティのFW平河悠が移籍後2点目を記録。大きな話題となっている。 FC町田ゼルビアから今夏移籍した平河。パリ・オリンピックでの負傷で出遅れたものの、デビューしてからは毎試合プレーを続けている。 【動画&写真】物議を醸す平河悠の2点目! 史上最悪のハンドとも… 10月19日に行われたミドルズブラ戦では待望の初ゴールを記録した中、2日に行われたチャンピオンシップ(イングランド2部)第13節のプレストン・ノースエンド戦でもゴールを記録した。 右ウイングで先発出場した平河は0-0出迎えた開始6分にいきなり結果を残す。 敵陣でパスを受けたナーキ・ウェルズがアバウトに前線へ蹴り出すと、バウンドしたボールを相手がバックパス。これを狙っていた平河がGKの前で奪い、そのまま無人のゴールへと流し込んだ。 相手の対応の隙を狙った見事なゴールで移籍後2点目を決めた平河。しかし、GKや相手DFがハンドを主張し猛アピール。それでもゴールが認められる形となった。 見事なゴールにも見えたが、イギリス『サン』がこのゴールを特集。「信じられないクソ行為」と題して、故意のハンドだと主張した。 『サン』はゴール裏からの映像のキャプチャを元に伝えており、相手GKフレディ・ウッドマンがボールをキャッチしに行ったところに、平河が右手を伸ばしてボールをパンチング。そのままボールが抜けてゴールを決めたというものだ。 これはSNSでも拡散されており「史上最悪のハンドの1つ」、「信じられない失態」、「マラドーナも誇りに思うだろう」と批判の声が殺到。また、「これは悪ふざけか、それとも単なる不正行為か」と疑問を投げかけていた。 なお、平河はその後にアシストも記録。チームは1-3で勝利を収めていた。
超WORLDサッカー!』
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「古橋亨梧が、マンチェスター・シティーへ?」のニュース   文科系

2024年11月03日 23時01分47秒 | スポーツ
あるサッカーネットに、こういう記事が載った。度々流れる「久保建英移籍か?」よりも遙かに証拠のあるニュースだと感じた。マン・シーは、ウインガーを探しているようだが、古橋にはぴったりではないか。

『 口火を切ったのは米国の総合スポーツメディア『The Athletic』だった。
「マンチェスター・シティが、新たなストライカーの獲得を検討している。彼らはすでにセルティックに所属する29歳の古橋亨梧と、もう1人の若手選手のどちらかに絞り込んでいる。2021年7月にセルティックへ加入して以来、公式戦出場135試合で73ゴールをあげている日本人ストライカーは彼らの目に留まり、古橋自身もシティへの移籍を望んでいる状況を考えれば、個人的な条件は問題ないだろう」
 プレミアリーグ王者の動きを報じる記事を引用する形で、移籍情報に関する確度の高さから、自身のXへの投稿が日本のファンの間で“ロマーノ砲”と呼ばれるイタリア人ジャーナリスト、ロマーノ氏もすぐにXを更新した。
マンチェスター・シティが、ウインガーのポジションの選択肢のひとつとしてセルティックの古橋亨梧の獲得を検討している。すでに最初の交渉が今週行われているが、シティはドイツ代表を引退したMFのイルカイ・ギュンドアンを復帰させる交渉を最優先させて、その後に新たなウイングの獲得を決めたいと考えているようだ」
 シティからはこのオフに、カタールW杯を制したアルゼンチン代表の1人で、過去2シーズンの公式戦で36ゴールをあげたFWフリアン・アルバレス(24)が、ラ・リーガ1部のアトレティコ・マドリードへ移籍。ノルウェー代表FWオスカー・ボブ(24)とブラジル代表FWサヴィオ(20)も怪我で離脱を余儀なくされた。
 特に期限付き移籍先のラ・リーガ1部のジローナでブレークし、大きな期待とともに仏リーグドゥのトロワから加入したサヴィオが、右ウイングで先発したチェルシー戦で負傷退場。手薄になったアタッカー陣からさらに離脱者が相次ぐ緊急事態を受けて、ウイングでのプレー経験もある古橋に白羽の矢が立てられた。
 シティでは昨シーズンからヴィッセル神戸の元監督で、在籍時には古橋を重用したスペイン出身のフアン・マヌエル・リージョ氏(58)が、ヘッドコーチとして同胞の名将ジョゼップ・グアルディオラ監督(56)を支えている。
古橋の獲得にはリージョ氏の助言もあったと見られるなかで、スコットランドメディアの『67 HAIL HAIL』は別の視点で今回の動きを伝えている。
「古橋がヴィッセル神戸からスコットランドリーグに移籍してきたときから、シティはずっと目をつけてきた。シティのスカウト陣は、相手のフィジカル能力に対応する彼の能力が非常に気に入っている。アルバレスの売却とボブ、そしてサヴィオの負傷により、彼らはフォワードでもプレーできる新たなアタッカーに目を向けざるをえなくなった。セルティックのサポーターにとっては、耳を疑うようなニュースとなった」  』
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”ウクライナ戦争のオカシサ”、解禁   文科系

2024年11月01日 14時46分14秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 これは、去年の九月、「ウクライナ反転攻勢」が大々的に喧伝・報知されていたときに書いたもの。その後これ大大失敗に終わって、新たにウクライナ側がロシア領に進出し始めたものだ。この戦争はどう見てもおかしい。当然ロシアも酷いのだが、これに対するG7の対応が狂気に近いものに見える。「兵器はどんどん出す。兵士をどんどん募集してくれ!」などとけしかけるのは、G7以外の国々に支持などされるわけがない。2023年09月07日に書いた物に、後の筆を加えた。

 外務省の元国際情報局長・孫崎享氏がその「つぶやき」ニュース紹介に、去年秋頃から「この戦争の本質を疑い、怪しむ」世界ニュースが多くなったその文章一部を以下に紹介してみよう。ウクライナ戦争についての「ロシア残虐」、「ウクライナへのエール・賛美」、「G7とアメリカの支援賛美」について、日本の情報はアメリカ以上に「賛美」ばかりだったのが、変わって行く雲行きに。こんな今は、この戦争の最初のころに台中戦争に結びつけられて日本軍備が急に進んだことをも思い出している。台中戦争は米中戦争にもなるから、あきらかに「こういう世論操作」をす日本に根強く日本に根強く存在していたのである。NHKも含めてのことと、僕には思える。他方で、少数だが、この戦争をアメリカが2014年政変以前から永年かけて人為的に作り出したと述べる人々もいる。佐藤優、鈴木宗男、東欧関連専門学者らを含めて、東欧情勢に通じている人々の中に「ロシアがアメリカに引っ張り出された戦争だ」と。

『 日本にもとうとうこういう報道が出始めたか。「ウクライナ支援に反対が過半数 揺れる米の“潮目”(TBS NEWS)“ウクライナを支援する予算を承認すべきでない”。これに米国民の55%が賛成したのだ。民主党支持者でも38%。共和党支持者71%がウクライナ支援に消極的  2023-09-07 06:405 』

『 ウクライナ国防相を交代。後任のウメロフ氏はタタール系、元投資銀行家。ロシアとの穀物交渉に従事。戦争の真最中、非軍人の国防相就任は通常は不可思議。主要理由は汚職関連。米国で対ウ軍事援助制限の動き。その論拠がウ軍汚職、米国先週汚職撲滅に向けウ高官3人と会談。2023-09-05 07:29 』

 ちなみに、ノルトストリーム2の完成寸前にこの海底石油パイプ爆破(後に、ウクライナがやったことと判明)によって西欧にロシア石油が無期限に来なくなったり、対ロシア制裁(ロシア海外資金没収も含めて)、円安などで、アメリカの「石油=ドル」体制は莫大な利益を上げている。さらに因みに、イラク戦争の時は「アメリカへの制裁」などは全く問題にもならなかったはずだ。アメリカだけは戦争をしかけても避難の外、許容される例外であると証明されているわけだ。ということが分かっているから、G7以外のインドや南米、グローバルサウスらが国連ロシア非難決議に賛成しないのである。世界各国におけるアメリカ、G7の信用こそ、これからもっと地に落ちていくはずだ。

 戦車対策や制空権含めて、準備期間を十分に使った万全のウクライナ東部ロシア防御体制・塹壕に突っ込んで、突破の見込みなど、最初からなかったのである。なのにずっと「東部占領地へのウクライナ反転攻勢」が大々的に宣伝されていた。これが到底無理と分かったからこその、「ウクライナ西部に近いロシア領をウクライナ占拠」へと世界の目が向けられて来たわけだ。「ウクライナ結構やるわい」という方針なのだろう。が、これからさらにウクライナの若者を何十万人殺していくのか? こんな戦争を導いておいて、自国はどんどん保護貿易主義を取っているアメリカ。株主・株価資本主義の軍事拡大路線終末期として、こういうアメリカ賛美・再興路線という本質が暴露された戦争なのだと僕は考えている。ちょうど、暴虐イスラエルをアメリカが擁護し続けているのと同じ背景があるのだろう。

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