九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

「聖徳太子は日本人ではなかった」  文科系

2024年08月28日 15時11分43秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 この文章は、網野善彦元名古屋大学助教授「歴史を考えるヒント」(新潮文庫)の冒頭部分の要約である。日本という「国号」、日本人という「国民」、その決まりに関わる「国の法制」などの歴史上の理解がいかに難しいかという事を示す好例となる記述なのだ。表題のように述べ、その説明をすると屁理屈のようにも聞こえるが、意外に大事な議論と思う。

 先ず初めに結論。日本という概念がきちんと決まったのは、天武天皇が編纂を開始し、その皇后・持統が689年に施行した浄御原令(きよみはらりょう)においてのことであるというのが、大方の学者の認めるところである。そこで倭国が日本国に換わって、遣唐使も中国に対してそう名乗り始めた、と。聖徳太子は6~7世紀の人だから、この法令前に死んでいて、この概念は用いられない。

 というように、そもそも国号、その領土、国民の歴史的論議自身が大変難しいものなのである。上記結論には今から見ればさらに、こんなことも付け加わってくる。
 この浄御原令当時には、東北北部、九州は日本の国土とさえ言えなかったと。つまり、そこの住民は、まだ日本人ではなかったのである。という記述もこの本にはあった。よって、これらの土地の住民には、天皇などいなかったことになるとも。
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随筆  僕は老後生活をこう迎えた    文科系

2024年08月22日 14時29分54秒 | 文芸作品
 表題のことを書いてみたい。もちろん僕の場合を振り返ってが中心になるが、「同居の晩年父母を見て」の体験、教訓から「案外長い老後生活」に対して僕の場合は四十代から準備を始めた。その際第一に考えたのが、これ。「家に居ても長くできること」、従って受動的な趣味ではなく「能動的活動」と言えるようなものを考えた。それまでの生活習慣から音楽とスポーツがすぐに浮かんだが、音楽は長く一人習いで弾いていたギターを選び退職前から一人弾き込みを始めて退職後に先生につき始めた。スポーツは、色々やってきたが「老後は有酸素運動を」とずっと考えてきたので、現役時代の五九歳から職場が加入しているスポーツジムで走り始め、若い頃から年期を積んだサイクリングにも入れ込んだ。ランニング記録は知れていて、六十歳の時の一〇キロマラソンが、四十九分台だ。ちなみにこの二つは有酸素運動として相互に好影響を与え合えるものなのだ。そして五十代にもう一つ、何か新しいものを仕入れようと考えてある文芸同人誌の仲間になった。これは現役時代の五五歳の頃である。それぞれ、良かったこと、僕の楽しみ方などを紹介してみよう。

 ランニングはどこでもできるから、旅行でもやった。海外旅行でも、ナポリ、ローマ、昆明、桂林、ソウル、トロント、シドニーなどの街を走っている。距離が長いサイクリングはもっと変化に富んだ楽しみができるもので、三河湾一周とか、電車で彦根までから鈴鹿山脈越え。西から東への峠越えだったが、帰りは関ヶ原経由の電車を使ったいわゆる輪行だ。三河湾一周は、知多半島先端から伊良湖岬まではフェリーを活用して最後は豊橋から国道一号線で帰ってきて、この一日合計実走行距離一七〇キロは、今は亡き若い親友と二人でやった五〇歳前の僕の、人生一日最長距離という良い思い出になっている。濃尾平野西端、木曽三川西隣の多度山山頂までサイクリングして、平野を一望するという「元旦、初日の出サイクリング」は、現役時代に職場の仲間と五年ほどは続いたと思う。息子と娘の大学時代に、彼らの下宿・八王子まで日をかけて乗っていき、南八ヶ岳のリゾートホテル経由で後は小淵沢から中央線経由の電車で帰ってきた輪行もあった。これは箱根芦ノ湖でも一泊したが、ここも、八ヶ岳も権利を持っているダイヤモンドリゾートのホテルを活用したものだ。

 ギターの楽しみは、和音楽器であること。旋律をいろんな和音修飾で色づけていくのが格別の楽しさから、今も続いている。教室発表会にもこの十四年ほど出ていて、今年もこの三一日にバッハの曲(BWVーバッハ作品リストー998番「プレリュード」)で出場する。外国旅行にもギターを持って行き、中国雲南省は麗江、大理の少数民族旅館中庭で日中長く一人弾きしていたのは、とても楽しい思い出になっている。九寨溝の旅館でも弾いたものだ。

 同人誌活動は、文章を書き合い読み合って心知った終生の友を得ることができたと振り返ることができる。毎月書き合うそれぞれの随筆作品などを通じて僕の人生にもいろんな知恵、影響を与えてくれた。文章は、上手く書けたと思えると凄く嬉しいが、年を取るごとに難しくなるから、頭の若さを保つのに役立っているはずだ。

 八十三歳の僕は、他人から若いと言われる。ともすると十五歳ほども若いと言われたこともある。その原因は間違いなく若い頃からの有酸素運動にある。そして、ギターという五感の楽しみと、言語・文字の活動とがあったからなどとも思っているが、老後活動の準備は、四,五〇代からやっておくと良いのだろう。準備期間が長いほどいろんな楽しみ方、知恵も身につくものだ。
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随筆   ブランデー梅酒が美味い  文科系

2024年08月16日 12時32分16秒 | 日記
 今年も5月末にブランデー梅酒ばかりをいっぱい作った。5リットル以上はあるだろう。皆さんご存じかどうか、5月後半頃になるとスーパーの梅酒作り材料コーナーには、梅酒用の焼酎の他に、最近は梅酒用ブランデーも並んでいる。僕の庭の梅の古木2本からとれる梅には、3年前からこれ専門でやってきたが、これが美味い。このブランデーの箱には、この梅酒の作り方が、梅:ブランデー:砂糖の割合なども含めてちゃんと書いてあるから、誰でも美味く作れるのだ。
  ワインの蒸留酒・ブランデーには元々葡萄の甘い香りがあって、それに蒸留酒のアルコールが混じってキュッと飲みやすいのだが、それに梅の味、酸味が混じると明らかに柔らかい飲み口になる。スピリッツと呼ばれる蒸留酒はアルコールが強くって、もともと女性には向かないのだけれど、このまろやかなブランデー梅酒は女性にも好まれる。女性でもオンザロックで飲めるのである。これは、周囲の人々に進呈して証明済みの話だ。僕のギターの先生の妻子両方がそう語ってくれた。社会人になったばかりのお嬢さんのお気に入りなのだそうだ。と言う人が居ると、作るこちらも嬉しい力が入って来るというものだ。今はまだ、去年までのものを飲んでいるが、まもなく24年製を開封できるだろう。その出来具合が、今から楽しみで仕方ない。
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円の急騰、急落にちなんで   文科系

2024年08月14日 12時49分40秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 この7月いっぱいまで円が急騰し、8月に入って5日まで、反転急落したという。こういう時には、投機の一つ空売りを疑うのがこの世界の常識の一つ。22年10月だったかにもこんなことがあったが、以下のようなこういう解説にはどこにもお目にかかれない。まだ分からないのかも知れないが。
 二〇世紀末のアジア通貨危機連続の出発点手口がこれだった。この通貨危機の震源地タイで、バーツが急騰していて、これが突然、急落。バーツ高の時に「将来この高い時の時価でバーツを売る」という莫大な先物契約をしておいて、「バーツ大量空売り・急落」を仕掛ける。空売りというのは、自分のものでない通貨、株などを借りて大量に売りさばき、その後安くなった時点で現物バーツを買い、そのバーツで先物契約の高いバーツでドルを買う。すると莫大な利益が出る。初めがバブル的なほどに高く、それが大きく下がるほど大きな儲けが出るのである。これによって、タイ・バーツで大きく取引していた近隣諸国の通貨、例えば韓国ウオンなども安くなったからこれを見越していれば、ここでも大儲けできたから、アジアの通貨が全体的に下がり、大もうけした銀行などが出たのである。これは日米英のファンド、銀行などであった。と、世界的通貨危機の数だけこんなことばかりしてきた金融・投機機関が07年の米サブプライム・バブル弾けでは今度は大損することになった。
 いつの日か、2024年夏の円空売り解説がなされることを望むものである。人の命が懸かっているような株や通貨を、このように儲けの手段として作ったバブルを大暴落させて大儲けする。こんな仕組みが「新『自由』主義」で認められたやり方の一つなのである。ところが、このやり方が認められているその問題点の解説などがどこにも見られないのはどうしてなのか? サブプライムバブルで潰れた米五大投資銀行(潰れたり、親銀行に吸収されたり)などは、サブプライムローン組み込み証券などの「デリバティブ」と言う金融商品用語、言葉さえ嫌うそうだが。こういう金融商品で過去にどれだけ人を合法的ペテンに引っかけてきたかという、自覚があるからのことである。「信用バブル」と言う得体の知れぬ妖怪が今なお世界を飛び回っている。基本、世界的過剰生産で売れるものがない今、バブルが起こると言うことがおかしいのであるし、だからこそ空売りで大儲けがいつでもできると、こんな仕組みもあるわけなのだ。
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随筆  「家」を守る  文科系

2024年08月12日 13時25分14秒 | 文芸作品
 僕は築61年の家に住んでいる。名古屋市の中心部、中区に近い千種区の端にある鉄筋コンクリートの家だ。亡くなった僕の父母が無一物で「手鍋提げても・・・」と結婚してから50歳を超えて初めて建てた、思い入れいっぱいの「自分の家」だ。貧しい家の三男だった父が職場で伊勢湾台風を経験した教訓から、その直後に「丈夫な家を」と特注したものである。最近この家の母屋二階の一部を手直ししたのだが、子、孫の代までずっと住み続けて欲しいなどと思ってのことだ。僕ら夫婦がここに越して来るために建てた新家の方もすでに築34年、そこには子どもが居ない息子夫婦がもう住んでいるが、僕が住んでいる母屋の方には、やがて娘家族が来て欲しいと考えている。僕は墓などはいらぬがこの家は大事にして欲しいと考えてきたからだし、その意を受けた娘もすでにこう語ってくれている。
「両親のどちらかが亡くなったら、ここに越してくる」
 ここの百坪ばかりの土地は、僕が小学生の時手に入れたもの。四人兄弟の家族六人が近くの狭い県営住宅に住んでいて、いつかはここに家を建てようと、共働きだった父母が計画していたのだが、以来子どもの僕はこの土地を折に触れ何度見に来たことだろう。「ここに僕らの家が建つのか!」というわけだが、それ以上に何か、「僕ら家族の土地!」という気持ちもあったと鮮やかに想い出すことができる。家が建ったのが土地を買ってから10年も後、僕が大学に入って1年経った時と記憶する。まだ新家が建っていない広い庭で大きなコリー犬が飛び回っていたというのも、懐かし過ぎる思い出である。

 人は墓や家を相続する。このような土地にある家の相続は大変な税が必要だが、その準備もできているはずだ。子らに託する僕らの思いが実現する金銭などの条件もすでに揃えてあると思うのである。

 僕の書斎兼寝室の大きな机の上には、仏壇よりもはるかに大事なものが一つ飾ってある。縦110センチ、横80センチで、黒の地色の大きな写真パネルだ。僕ら夫婦の一族の歴史を示す写真が納まったものである。僕の父母の子、孫一族と、僕の一族、そして連れ合いの家族などを毎日目にしているのである。ちなみに、写真前者はこの家の2階の和室に両親の子夫婦、孫一同が集合した恒例会食会のもの。つまり正月二日の集合写真である。
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随筆  「老人」と僕   文科系

2024年08月09日 05時56分30秒 | 文芸作品
 僕自身が83歳の老人なのに、この題名はおかしいものだ。この今書けば、「老人と子ども」という題名の方が良いのかも知れない。今この題名に相応しい舞台光景がこんなものだから。
 例えば、孫とその母である娘と道を歩いていて、むこうから子どもが二人やってきたとする。僕はなぜか必ず、声をかけたくなる。
「いーグローブだねー。野球しに行くの?」
「可愛いポシェットだね」
 すると孫が、
「そんなことしちゃだめだよ。びっくりするでしょ?」。
 それどころか娘などは非難というか、こんな警告に及ぶのである。
「今そんなことすると、変質者に思われるよ」。
 ずっとこう言われ続けてきても、僕のこの癖は全く直らない。直らないどころか、確信犯よろしく、年を取るごとにますます増えて来たようだ。なぜなのだろうとたびたびよく考えてきた。その理由は、こうとしか考えられなかった。子どもと言うよりも「老人と子ども(の交流関係)」が根っから好きなのである。「老人と海」とか、主演の加藤嘉が孫に渓流釣りを教える映画「ふるさと」とかには、もうメロメロ。なんとも言いようもない親しみを覚える。それで我が人生で何度も、その淵源を探ってみることになった。それはたった一言、子どもの僕が老人に色々かわいがられたことだ。

 太平洋戦争が始まった年、41年生まれの僕は4歳で母の故郷、渥美半島・田原町三軒家という土地に疎開した。そこで一例、ある老夫婦にとても可愛がられた。「キン先生ご夫妻」と呼んでいたが、ご婦人の方が今思えばなにかお茶かお華の先生をされていた、子どもがおられない品のある老夫婦だった。夫さんの方は仕事はなかったようで、日中もいつも家に居た。この夫さんの方が、僕がその家の前を通りかかるのを見ると、必ず声をかけてくれたのである。それも、彼は庭仕事をしていることが多くて、通りかかるといつも声がかかる。すると必ず、庭仕事の植物などあれこれを教えてくれることになったと記憶する。僕があまりにその家に入り浸りになったので、両親や親類からこんな声がかかったほどだ。
「トモちゃんはもう、キン先生の家の子どもみたいだ。もらわれていくと良い」

 このことの延長が、3年生で名古屋千種区中道町の県営住宅に引っ越してきた後も続いていく。県営住宅の花畑係を務めていたある老人に声をかけられて、その助手のような役割を長く務めることになった。そのときに覚えた花の名前を今も突然思い出すことがあるから、驚くというほどに。

 これら二人のお爺さんが大好きだっただけではなく、身の回りの老人全てと僕は仲が良かった。例えば、周囲の老人ほぼ全ての肩たたき、マッサージ役を務めてきた。連れ合いと結婚するまで生きていた二人の母方祖母、双方の親たち、老人と付き合うと必ずこの役を申し出てきた。この「特技」が今は、連れ合いの役に立っている。そして、現在の僕が連れ合いよりもずっと多く孫係、当番を務めているのも、以上の生いたち、経歴の裏返しとしかどう考えても、思えないのである。なんせ孫からこんな声がかかってくるほど近い関係なのである。
「じいちゃん、今日の昼ご飯を作りに来てくれる?」
 連れ合いではなく、僕に来る注文なのである。子ども時代に付き合ってきた老人のそのまねをしている、子どもと付き合う気分のようなものまで、何か自然にそうなってしまった。人間の性格って、案外そんなものなのではないかとつくづく思えるこのごろだ。    
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パリ五輪観戦記   文科系

2024年08月04日 11時22分09秒 | スポーツ
 テレビでいろんな種類をかってないほどに見た。面白かったもの、その訳などを描いてみたい。やはり球技が面白い。バレー、バスケット、バドミントン、サッカー、卓球などを観たが、意外に面白かったのがバドミントンで、特にダブルスが「凄いっ!」とさえ感じた。
 羽根のついたシャトルコックは打球直後は猛烈に速いが、その後急に速度が落ちるせいか、レシーブの有効性、有効範囲がとても広いのだ。地面すれすれで間に合って返球したり、コートの端から端までの返球になんとか脚が間に合ったり、さらには、短い打ち合いの反応速度、返球フォームの速いことまるで手品でも観ているようだった。このゲームは相手の手前から最後方まで、その四隅を対角線で狙うもので、それに備えて返球後の立ち位置、構えをコート中央に戻って取るようで、打球後に定位置に戻る瞬間移動のフットワークがすさまじいのである。特にダブルスは二人でコートをカバーするから、判断、フットワークの絶妙さに全く驚嘆してしまった。

 次は、バレーボール。驚いたのは、男子のサウスポー・西田選手の凄さ。背丈が186センチで、国代表サイドアタッカーとしてはとても低い。なのに、2mの相手ミドルブロッカーらをぶち抜いていくのである。これは部外者には分かりにくいことだが、背丈が15センチ違えばその腕の長さもちがうので、最高到達点では30センチ差があることもあるのだ。西田の配偶者である女子キャプテン古賀選手が夫の第一印象をこう評したのがとてもよく分かったのである。
「とてもよく跳ぶ、ゴリラ」
 昔の強豪ソ連バレーにブガエンコフ・イバンというよく跳ぶ選手が居たが、ゴリラとは対照的な190センチほどの細い選手で、高い打点を生かして相手の上から鋭く打ち抜く運動神経の塊。対するに西田は、早い話が相手を打ち抜くために何でもやる。ブロックの内と外とを狙っていく(クロスとストレートとの極端な打ち分け)のはもちろん、ブロックに思いっきりたたき付ける豪快なブロックアウトが多く、完全に3ブロックが揃ったときなどは両手で軽くブロックの手の下の肘か頭周辺にボールを押し込むことも多かった。背の低さを様々な技術で補っているわけだが、なんと言っても目立ったのはその馬力。相手を弾き飛ばす事が多くて、古賀選手が「ゴリラ」と言ったのが、体つきの話だけではなくて、まさにぴったり。この選手、人一倍とてもよく考えてきたのだろう。古賀紗理那夫人よりも4歳ばかり若いと聞いたが、西田選手が話してきた「古賀(を)ストーカー(した)時代のサッカー談義」が猛烈だったらしい。高いブラジル・ブロッカーを唯一ほとんど打ち抜いていた古賀の技術も、西田との間で改良した点、鍛え上げられていったところが多いのではないか。「バレーボール談義を始めたらきりがなかった」(古賀さん談)そうだから。
 なお、僕は180センチそこそこで後に早稲田のエースになった名古屋出身のSという名選手の高校時代をこの目で見続けてきたから、ジャンプの高さでいろんな事ができるという事はよく知っている。こういう選手は本当に魅力的だと思ってきたものだ。 
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今年のギター教室発表会は・・・  文科系

2024年08月01日 23時08分24秒 | 日記
 今年も標記の催しに出る。まだ教室に通っているからだ。8月31日開催なのだが、出演曲はバッハの「リュートかチェンバロのための組曲 ハ短調」のプレリュードを弾くことにして、懸命に練習中だ。クラシック・ギター仲間ではバッハ作品番号で「998番のプレリュード」と呼ばれているものだ。長い間に弾きためてきた僕の「暗譜曲群」の内の一曲なのだが、発表会で弾くとなると色々と直さねばならぬ点が気になって、細々と直し始めた。
  すぐ後に休符がついた装飾低音ばかりだから、その長さを全体的にちゃんとすること、これはいちいち消音技術と呼ばれるものを施さねばならない。また、高音旋律を低音伴奏できれいに響かせることが特に必要と感じる曲だから、その際の雑音を減らす努力がとりわけ必要と考えている。和音楽器で高音旋律を装飾低音できれいに響かせられなかったら、はなはだ気分が悪いのである。ただ、全体的に音が小さいクラシック・ギターという楽器でそれ相応の音量を出そうとすると、雑音が増えるのである。ある弦を爪弾いた右手の指や爪が他の弦に触ったり、左手押弦の抑えが甘いと、音がびびったりする。それらの修正に苦闘中の日々なのである。

 僕のように、癌手術の後遺症でランナー断念をした者には、ギター音楽があることがとりわけ慰めになっている。知らぬ間に2時間も弾き続けていて、首や肩が痛くなっていると気づくことがあるが、これ自身がランナー断念による体力低下の顕れなのだと思い知るのである。でもまー、83歳というこの年齢で2~3時間も弾き続けられるということこそ、幸いと言うべきだろう。ただし、それだけに身体のケアには注意していきたい。ランはできなくとも、階段往復とかロードバイク・ツーリングとかは辛うじてなんとか続けている・・・・。
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