この文章は、網野善彦元名古屋大学助教授「歴史を考えるヒント」(新潮文庫)の冒頭部分の要約である。日本という「国号」、日本人という「国民」、その決まりに関わる「国の法制」などの歴史上の理解がいかに難しいかという事を示す好例となる記述なのだ。表題のように述べ、その説明をすると屁理屈のようにも聞こえるが、意外に大事な議論と思う。
先ず初めに結論。日本という概念がきちんと決まったのは、天武天皇が編纂を開始し、その皇后・持統が689年に施行した浄御原令(きよみはらりょう)においてのことであるというのが、大方の学者の認めるところである。そこで倭国が日本国に換わって、遣唐使も中国に対してそう名乗り始めた、と。聖徳太子は6~7世紀の人だから、この法令前に死んでいて、この概念は用いられない。
というように、そもそも国号、その領土、国民の歴史的論議自身が大変難しいものなのである。上記結論には今から見ればさらに、こんなことも付け加わってくる。
この浄御原令当時には、東北北部、九州は日本の国土とさえ言えなかったと。つまり、そこの住民は、まだ日本人ではなかったのである。という記述もこの本にはあった。よって、これらの土地の住民には、天皇などいなかったことになるとも。