九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

随筆  ネットウヨクというもの  文科系

2016年03月30日 12時32分29秒 | 文芸作品

  この三月六日の拙ブログに「子ども甲状腺癌、楽観風評を排す」と、原発原因説に肩入れする何度目かのエントリーをした。すぐに例によって、ネットウヨク諸君共通の一理論による反論が来た。激しくやり合った末の、相手と僕との最後の遣り取りが、こうだ。
 『( 僕が述べた、福島の子ども甲状腺癌の家族たちへの「悲しみ」という言葉に対して)少しも悲しそうな印象を受けない。逆に自説が悲劇に因って肯定されるのを待ち望むかのようだ。福島の子供の為を思うならば、可能な限り不安や悲劇的なお話を語らず、静かに見守る事が最善なのだが、ここの人は違うようなので失礼する。再訪はしない』
 『「静かに見守る事が最善なのだが、ここの人は違うようなので失礼する。再訪はしない」。こんな言葉は、聞き捨てならないものとして戦後日本には既視感が無数だろう。イタイイタイ病、水俣病、薬害エイズ、四日市公害などなど。これらを「静かに見守」っていたら、被害者たちの人生そのものがただの泣き寝入りに終わったはずである。(中略)国が率先して世論をねじ曲げようとする世相は、全体主義の兆候。「国民が憲法によって独走しがちな政権というものを縛るもの」と解されてきた近代憲法理念「立憲主義」の危機とは、とりもなおさず官僚責任のウヤムヤ化、その特権死守の態度ということだ。そんな時に、こう語っているとは、まさに笑止千万!「福島の子供の為を思うならば、可能な限り不安や悲劇的なお話を語らず、静かに見守る事」?』。

 このブログで十年、ネットウヨク諸君とやり合ってきたその遣り口をご報告しよう。
 どんな論争でも幾何学の証明と同じで公理、定理にあたる部分が最も大事だと知らされた。自説の最大論拠のことだ。そして、ネトウヨ諸君の論議は要するに、この最大論拠が全ていい加減だとふり返ることができる。
 甲状腺癌の場合は「スクリーニング効果」議論。三八万人対象の虱潰し調査などはかって無かったことなのだから、余分な患者を無数に拾い上げているという主張だ。これが大々的に流布されたが、反論は極めて容易だった。なんせ現在進行中の事件で、新資料が無数に生まれて来るから、これらが「正直に公表される限り」彼らの議論などどんどん置き去りになっていく。今や百人を優に超える手術患者、その半数近い手術への様子見患者。合わせて166人。この「悪性癌」の数が公表されて、それらほとんどにリンパ節転移、甲状腺外浸潤が見られたと示されたのだから「スクリーニング効果」議論などはね飛ばされてしまうのである。
 慰安婦の場合は、その募集で「誘拐の証拠がない」、「当時、売春は合法。どの国もやっていたことだ」。そして、南京大虐殺の場合は「死者数の証拠がないし、南京人口自身がそんなに多くはない」。対する僕の論議は、こういうものだった。
 慰安婦では当時の陸軍省副官の極秘通達。そこにはっきりと「その募集に誘拐があった」とこの事業の最高責任者自身が認めていると反論した。その点南京事件は難しかったが、直前の大激戦・上海戦争との関わりを指摘した歴史家や、大陸派遣兵士への事前教育に使った陸軍教科書からこんな文章を見つけ出してきた著名な近代史専門学者もおられた。「中国軍の兵士は浮浪者(かり集め)も多く、戸籍も不十分だから、殺害しても国際問題にはならない」。追い詰められた中国軍兵士が浮浪民間人に化けるので、民間人も含んだ「便衣隊」大虐殺が、この理屈から既に事前に始まっていたということになる。ちなみに、こういう歴史学者の仕事には、慰安婦にかかわる前記の陸軍省副官の極秘通達を見つけ出してこられた方などもそうだが、まさに「大沙漠のオアシス」、本当に助けられた。

 さて、この論争体験史から学べたのは、こういったことだ。
①すべてのネットウヨク諸君が、どの一事件も同じ論拠で反論してくるから、どこかでそういう物を製造、出版、流布している専門家、機関があきらかに存在している。そこにはきっと、出世主義者にして曲学阿世である御用学者などがたむろしているのだろう。
②それへの立派な、できれば絶対的反論になるようなことを見つけ出して来る。本物の歴史学者たちは自著にさりげなく、そんな資料を無数に収めていてくれるものだ。
③最後に、こういう論争は必ず勝てる。その根拠は、こういうもの。彼らの背後にいる学者たちの背骨が歪んでいるのである。この大元は結局、右に書いたことになろう。
『国が率先して世論をねじ曲げようとするなどは、全体主義の兆候。現日本における立憲主義の危機とはとりもなおさず、官僚責任のウヤムヤ化、その特権死守の態度』

 二極分化新自由主義世界の権力者らには、金も人もマスコミ機関などもふんだんにある。対する僕らは、金はもちろん、人はもっと少ないようだ。新自由主義下の庶民は生きるのに精一杯にされているからだろう。こんな彼我の、彼ら。要するに民主主義を根っこから否定する出世主義者らがマスコミ総動員で行う世論工作。このブログを始めて十年。その間に僕ももうすぐ七五歳。相当に老いてきたが、この一月末からの週間累計アクセス数が再び千を越え続けていることなどにも勇気を得て、老いたる心を新たにしている。大好きなランニングが続けられる間は、書くことも大丈夫だろうという心づもりの下に。

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同人誌月例冊子の後書きから  文科系

2016年03月30日 12時22分06秒 | 文芸作品

  あとがき

 私的な事で申し訳ないが、今号も社会評論の部類を書いてしまった。最近なかなか文芸文にならないのは、世の中、世界にいろいろ腹が立って仕方ないから。それも、子や孫のこれからを思えば居ても立ってもいられないようで、色々学んだ結果がほとんど病気。

 政治、経済の劣化の背後に、人間の劣化が感じられてならない。特に権力者たちから、公共の感じ方そのものが消えてしまったようだ。孔子が観たところの人生最大徳目は、恕。「思いやりの心」として、「己の欲せざるところ、人にほどこすことなかれ」と解説されていたと覚えている。西洋にも「ノーブレス・オブリージ」、「権力者にこそ特に課される道徳的義務」という思想もあったはずだ。それらの美徳が今は、まるで別世界のことだったような。よく言われる人間の「裏表」で言えば、裏がほとんど丸見えの「表」だけで恥じない人間が大道を闊歩しているような。それも、真っ昼間から、日本最大のマスコミ大通りを。こんな見方は確かに、いつの時代にもよくある年寄りの僻みの一種なのだろうが、今の世界を見つめるほどに、自分の生きてきた基準自身が馬鹿にされているとさえ感じるのである。

 

 というわけで、本日次に、この月例冊子に載せた随筆、というか社会評論をエントリーしますので、ご笑覧下さい。。

 

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「よたよたランナーの手記」(157) スポーツ医に行ってきた  文科系

2016年03月29日 16時02分05秒 | スポーツ

 最近色々な箇所を痛めるし、右踵に数か月にわたってごく軽い軽い痛みと違和感が消えないので、本日かねて念願のスポーツ(に詳しい)医者の所へ行ってきた。初診での診断は、こちらは向こうの指示の流れに従うだけ、何も注文した訳でもないのに、以下のように見事な経過だった、凄いものである。僕が通っている名古屋市のジムに一覧表が置いてあったその中の一整形外科病院なのだが、こんなことをしてくれた。

 ①話を聞き、すぐに踵のレントゲン。結果、「骨には小さな異常もないので、軽い慢性的な炎症でしょう。リハビリ室に行って下さい」。

 ②リハビリの30代と思われる理学療法士さんが、先ず詳しく僕に質問、話を聞く。一通り聞き終わると、両脚のいろんな部分の筋力強度をご自分の手で負荷をかけながら調べ始めた。弱点を探す目的らしい。さらに、実際に僕を走らせ、そのフォームを前後左右から見たり、動画に撮ったりした。この間1時間近くもかかったはずである。
 結果、診断は、こう出た。「右脚の蹴り(筋肉)が弱くなっています。それで、右脚を振り出す時に内側に入りすぎる形に流れるという癖もあります」

 ③②へのリハビリ処方箋を三つ提起された。 一つは、左脚より階段二段上に置いた右脚の力で、右脚の段にまで左脚を引き寄せてもも上げ。これを、右手で手すりにつかまりながら10回×3セット。二つ目は、両足を並行にそろえて30センチほど開き、つま先立ち。その際、がに股にならぬよう親指の力中心で真上に上げる要領だ。これを10回やったら、両足それぞれのストレッチ30秒。これも3セット。三つ目はちょっと複雑だが、仰向きに長く寝そべって、お腹をきゅっと上に上げる運動、その際、おしりの筋肉をきゅっと締めるのだが、これは、一つ目から三つ目まで共通の留意点でもある。
 
 さて、以上全てやって貰って3000円弱。僕の保険証は3割負担なのだが、他の病院などとの比較でその安さに驚いたもの!  もっとも、僕がランニングを凄く大切に見ているから、その感覚で安いと思っただけかもしれないが、それにしても! このリハビリ、しばらく続けよう。

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昨日の「櫻井よしこ批判」への追加  文科系

2016年03月28日 09時07分03秒 | 国内政治・経済・社会問題

 昨日の「櫻井よしこ」エントリーへの追加です。二つのコメントを、加筆修正して、エントリーとして載せます。

『 まとめてみると・・・ (文科系)2016-03-27 14:13:18

 上のエントリートを要点度順にまとめてみると、面白いと気付いた。

①櫻井は、現憲法に対して、義務が不足し、権利が多すぎるという。さらには、こういう憲法が、殺人など、日本の「乱れ」の根源のようにさえ語る。

②対して小林は、こう反論した。
A そもそも憲法とは、国民の権利を侵害しがちな政府に対してこれだけの権利を守りますと国民が政府を縛って、約束させたもの。このためにそもそも憲法が作られたのであるというのが、立憲主義の理念である。
B だから、原理的に権利が多くて当たり前だし、義務は例外的に書いてあるに過ぎない。
C さらには現日本国憲法に於けるそれらの権利は、「公共の福祉」に反しない限りという条項によってすべて縛られている。そこでは、公共の福祉への義務として、すべての権利に制限が存在すると言えるのである。

③こうして櫻井の①が誤っているのは、②のA~C全てに無理解であるということだ。①はそういう彼女の不勉強、理解力のなさ、あるいは曲解が示されているに過ぎない。

④こういう国民の権利を縮小する新たなイデオロギー的理論も生まれつつある。それは、団体政治献金制度という「対価」によって政治が買われている実情を正当化するような議論である。こんな批判が出来るだろう。
A 金持ちの権利も憲法によって普通に守られている上に、さらに団体政治献金を認めるというのは、政治・公共サービスをもっと多く買い取るということを認めることである。
B その結果、金持ち減税、ロビー活動による利己的諸施策などの「公共サービス」が出来ることにならないのか。
C これを正当化する議論も生まれてくる理屈だろう。それが「納税は公共サービスの対価だ」とか「私は納税者のためにこそ政治を行う」という議論なのだ。
 国家を金持ちの所有物にして恥じない、前近代的な議論を新たに復活させようとしている事にならないか。

 結びだが、グローバリズム新自由主義が国家論をここまで堕落させてきたと、そんなことが示されていると思う。
 昨今の世の中が公共というものがどこかに消し飛んでしまったように見えるのも、なるほどということだろう。』 

 

『 官僚による工作 (文科系)2016-03-27 20:04:06
 
 国家役人、官僚による世論工作の一部を近頃垣間見た思いである。

①一つは、上の櫻井「理論」。その「アシスタント」による小林節変節工作。
「櫻井は『納税は公共サービスの対価だ』と言っている。これを小林先生のセリフにしてほしい。バシッと決まりますから」
 この言葉は、櫻井による小林の取り込み工作とも見える。が、こんな大きくて、巧妙な工作をば櫻井個人が全く思いつくはずもないし、こんな必要さえ彼女には存在しないだろう。後ろで、野党拡大の最大論客・小林節を懐柔しようとの大きな企みが存在したと確信するのである。そして、この背後には、そういうこと専門の政府部門があるにちがいないと僕は推察してきた。

②ノーベル賞の益川敏英さんの連載手記が中日新聞夕刊に載っているが17日木曜日のここにこんな下りがあったと記憶する。
 益川さんのところに、外務省関係者らが数人やって来た。テレビに出て秘密保護法反対論を述べた途端にやってきたわけだが、「先生の心配するようなことはない」と懸命に説得する。軍事研究に関わらないという名古屋大学平和憲章を変えたいという政府行動の一部でもあったようだ。益川さんは、米原爆製造に携わったオッペンハイマーの話を対置して、彼らを撃退したという。
「オッペンハイマーは、戦争抑止力になるかも知れないと原爆製造に協力したが、広島、長崎によって使わないという約束が破られてしまった。それで次の水爆製造には非協力を貫いたら、スパイの嫌疑をかけられて研究者生活がめちゃくちゃにされた」

 アメリカには国家政策に関わる研究機関が数多くあると聞く。日本にもこれはあろうが、官僚、役人による研究、宣伝、学者工作などが最強なのだろうな、きっと。と、そんなことを思い巡らしていた。
 原子力村でも、最強の音頭を取っているのは間違いなく経産省・文科省。今は、原子力規制委員会事務局。

 国家と学者たちが、どんどん民主主義縮小の戦略に乗っているという姿が目に浮かぶのである。 』

 

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「櫻井よしこさんは知識も良心もない」  文科系

2016年03月27日 00時22分15秒 | 国内政治・経済・社会問題

 阿修羅掲示板に、憲法学者の小林節氏が櫻井よしこさんを評した興味深い記事があった。安倍政権でますます論客のような顔をしている彼女。実は、小林節さんという専門家に対面議論の場である重大な誤りを指摘されて「顔面蒼白」になっても、その後もその論議をくり返すという、鉄面皮な人柄ということだ。右翼論客という存在がそういうものなのだろうか。

 以下のインタビュー、小林節氏の気持ちが本当によく分かるのである。お二人の対面議論の焦点が、憲法、その立憲主義の精神の正に根幹に関わる部分なのだから。ただ僕が思うに、その後の櫻井さんは誤っているというのではなく、開き直っているのではないか。立憲主義(憲法)そのものを否定して、憲法を「政権の承認が必要な国民の約束」に変えようとしているのだから、これで良いのだと。

『  『月刊日本』4月号
 小林節「公開討論を求める! 嘘だらけ・櫻井よしこの憲法論」より 

<櫻井よしこは嘘つきだ>
── 小林先生は櫻井よしこさんに公開討論を呼びかけています。
 【小林】 もともと民主主義の基本は、正しい情報に基づいて国民が国家の方向性を判断するということです。しかし私に言わせると、安倍政権は嘘キャンペーンを張って、国民を騙しています。そのことで櫻井さんが大きな役割を果たしている。美人で、経歴が良くて、表現力もあるから、一般国民はコロッと行ってしまう。このままでは安倍政権や櫻井さんの嘘に騙されて、国民が判断を誤りかねない状況です。
 私の経験から言うと、櫻井さんは覚悟したように嘘を発信する人です。たとえば私と櫻井さんは日本青年会議所のパネルディスカッションで一緒に登壇したことがあります。そこで櫻井さんは「日本国憲法には、『権利』は19か所、『自由』は6か所も出てくるのに、『責任』や『義務』は3か所ずつしか出てこない。明らかに権利と義務のバランスが崩れている。そのせいで日本人は個人主義的になり、バラバラになってしまった」というようなことを言うわけです。
 それに対して私は、「櫻井さんの主張は間違っています。法律には総論と各論があり、総論は全ての各論に適用されます。日本国憲法では、『公共の福祉』を定めた憲法12条と13条が総論として、ちゃんと各条が認めた個々の人権全てに制限を加えています。そもそも憲法は国民の権利を認めて、国家に義務を課すものです。しかし納税、勤労、教育は国家存続に必要不可欠なので、憲法は国の主の責任として例外的にこの三つの義務を国民に課しているだけです。19個の権利に対応する19個の義務を課せばバランスがとれるという話ではありません」ときっぱり指摘しました。
 そうしたら櫻井さんは顔面蒼白になって、それから目線が全く合わなくなり、その日は挨拶もせずに帰っていった。しかし、その後も櫻井さんは日本国憲法を論じる際には必ずと言っていい程この話を繰り返している。櫻井さんは私の友人に「私は専門分野のないのが弱みなのよね……」とコンプレックスを明かしたそうです。それなら黙っていればいいのに、専門知識を持たずに専門知識の必要な憲法を語るから、こういう間違いを犯すのです。
 他にも櫻井さんは「個人主義的な日本国憲法のせいで、親が子を殺し、子が親を殺す日本になってしまった」というようなことを言います。しかし親族間殺人は明治憲法下の戦前の方が多かったのです。この主張は事実に反する真っ赤な嘘ですし、殺人の原因を憲法に求める思考も非科学的です。
 知識人は自らの知識と良心に照らして正しいと確信したことを述べるべきです。しかし櫻井さんには知識もなければ良心もない。良心があるならば、自分の意見が間違っていると指摘された時、反論するか訂正すべきです。それを私に論破されてギャフンと尻尾を巻いて逃げておきながら、相変わらず確信犯的に同じ誤った情報、つまり嘘を垂れ流し続けるのは、無責任かつ不誠実極まりない。
 櫻井さんに知識人、言論人の資格はありません。言論人の仮面を被った嘘つきです。嘘つきじゃないと仰るならば、公の場で議論しましょう、そしてどっちが正しいかは国民の判断に委ねましょう、ということです。
── 櫻井さんと対談した経験もあるそうですね。
 【小林】 不愉快な思い出しかありません。たとえば以前、『週刊新潮』で外国人参政権の問題について櫻井さんが私にインタビューするという企画がありました。しかし取材当日は本人ではなく、中年男性のアシスタントが聞き手としてやってきた。
 そのやりとりの中で、向こうが「櫻井は『納税は公共サービスの対価だ』と言っている。これを小林先生のセリフにしてほしい。バシッと決まりますから」と言ってきたから、私は「その主張は間違っています。憲法学者として嘘を言うことはできません」と断りました。納税が公共サービスの対価ならば、高額納税者は市道を歩けるが、低額納税者は歩けないという話になる。おかしいでしょう。それなのに掲載誌を見てみたら、堂々と「納税は道路や水道や教育や治安等の行政サービスの対価である」と書いてある。正しくは、納税は収入の対価です。(以下略) 』

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憲法とは。   らくせき・愛知自民を落とそう

2016年03月26日 19時10分38秒 | Weblog

「待遇よくして保育士増やせ!」「保育士なめんな!」。保育士の待遇改善を求めるデモが25日夜、国会前であった。呼びかけたのは、保育士を目指す高校1年の男子生徒(16)。匿名ブログ「保育園落ちた日本死ね!!!」をきっかけに、声をあげる決意をした。

こんなニュースが報じられました。
これが可能なのは現在の憲法が主権在民であり、表現の自由を保障しているからです。
インターネットがようやく国民のものになったという証でもあります。

安倍さんの目指す憲法下では、こうした自由は制限されるでしょうね。

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新聞の片隅に載ったニュースから(225)    大西五郎

2016年03月26日 19時03分12秒 | Weblog

「巫女さんのくせに何だ」 自民・大西氏、また放言(16.3.25中日新聞)

 自民党の大西英男衆院議員(東京16区)は24日、所属する細田派の会合で、4月に投開票される衆院北海道5区補選に関し、神社の巫女に自民党公認候補の支持を依頼し、断わられた出来事を紹介し「『おい、巫女さんのくせに何だ』と思った」と述べた。

 大西氏は補選の応援に北海道を訪れた際、神社で巫女さんに対し自民党候補の名前を挙げ「頼むよ」と依頼したところ、「自民党はあまり好きじゃない」と断わられたという。「巫女さんを誘って札幌で夜、説得しようと思った」とも語った。大西氏の発言後、派閥会長の細田博之氏は「言動には十分注意していただきたい」と苦言を呈した。

 大西氏は昨年6月、安全保障関連法に批判的な報道機関に対し「懲らしめないといけない」と圧力を加える発言をし、党から厳重注意処分を受けた。

 □――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――□

  翌日(26日)の中日新聞には自民党の谷垣幹事長に注意され、大西議員が「巫女発言を謝罪」という記事が出ていました。それによりますと、自民党の谷垣禎一幹事長は25日の記者会見で大西議員の発言について「意味不明であり、誠に不適切な発言だ」と指摘し、「われわれは公人で(あり)、私人として言いたいことを言っていれば済む立場ではない。発言がどう世間に受け止められるか配慮しなければならない」と強調しました。

衆院北海道五区は札幌市の一部(厚別区)や江別市、千歳市などを区域とし、町村信孝元衆議院議長の強固な地盤でしたが、町村氏の死去に伴って補選が行われることになっています。自民党内からは大西議員の発言による補欠選挙への影響を懸念する声が上がったということです

 大西議員は「軽率な発言であったと謝罪し、関係者のみなさまにおわび申し上げる。」というコメントを発表しました。

 「一強」などとマスコミに言われて気分が高揚し、自民党の国会議員の中には自分たちは特別な存在だと勘違いし、一般の人を見下す習性が生まれているのではないでしょうか。「アメリカでは黒人が大統領になった。奴隷の末裔ですよ(丸山和也参議院議員)」とか「東京電力福島第一原発事故に対する除染の長期目標は何の科学的根拠もない(丸川珠代環境相)」という発言が出たりしたりしています。そのような“ゆるみ”が「(国会議員である)私の依頼を単なる巫女の身分で断わったのは分を弁えない振舞いだ」と口を衝いて出たのでしょう。

 なお大西議員は「巫女さんを誘って札幌で夜、説得しようと思った」とも語っていますが、酒食のもてなしをして特定候補への投票を依頼すれば、それは選挙違反になります。そのことに考えが及ばなかったのでしょうか。それとも自民党ではそれは当然のことという風潮があるので、大西議員にとっては、それがごく日常的なこととなっているのでしょうか。

あるいは別の意図で夜に若い女性を誘ったのだとすれば、公人としての行動として適切かどうかが問われます。

                                                   大西 五郎

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ハリルジャパン(59) U23、大金星! 文科系

2016年03月26日 10時41分45秒 | スポーツ

 今日、メキシコに2対1

 日本U23代表が、先日の五輪アジア予選決勝、韓国戦勝利・優勝に次いで、大金星を挙げた。前ロンドン五輪優勝の強豪メキシコとの親善ゲームに、2対1で勝ったのである。この26日になってからほんのさきほど、ポルトガルの地に於いてのことだ。これはサッカー通には非常によく分かるちょっと凄いニュース。現在世界22位のメキシコにはA代表どうしでもなかなか勝てないはずの相手。ましてや現在の世界でジュニア育成が非常に上手く行っているのがメキシコなのである。なお、メキシコのU23も日本と同じで、予選全勝でオリンピック出場を既に決めている。

 2得点に絡んだ中島翔哉

 2得点はここで話題にしてきた中島翔哉と、南野が上げた。中島の得点は前半2分、ペナルティーラインの左コーナー辺りまで持ち込んで、そこからの左足中距離シュート。アジア予選イラン戦と全く同じ得意パターンだったが、今回は相手ディフェンダー3人ほどを交わしながらの見事な得点だった。

 中島はまた、前半33分、南野の得点にも絡んでいる。南野にラストパスを送った久保に、長くて速いグラウンダー・パスを出したのが中島である。中島は、遠藤が敵から奪ったボールを受けたカウンターで自らも走りながら、前に走っていた久保に長いこのグラウンダーパスをぴたりと合わせた。これを久保が、さらにちょっと前を走っていた南野にワンタッチではたいたのである。ぎりぎりオフサイドを逃れた南野がちょっと走り込んでゴールに流し込むだけという、久保のパスも見事だった。敵ボールを奪った遠藤選手から、中島、久保、南野と、皆が全力疾走しながら、正に流れるようなカウンター得点!

 このU23,今風の鋭いカウンターと日本には珍しい守備の堅さとがどんどん厳しいチームに育って行きつつある。若者たちが化ける時、その化合的変化はとても速いのという、一つの典型ではないか。前回優勝国を負かしたということで、日本へのマークは随分厳しくなるだろう。それに適応してこそ、さらなる化学的変化も望めるというもの。次はポルトガルの強豪スポルティング・リスボンと28日に親善ゲームをやる予定で、楽しみこの上ない。

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「よたよたランナーの手記」(156) 欠かせない補強運動  文科系

2016年03月24日 11時32分46秒 | スポーツ

 07年に不整脈がひどくなってきて以降細々と走り、9年末には慢性心房細動から、10年に2回の心臓カテーテル手術。この手術前後3年間は、ラン完全ブランク。12年9月にラン復活に着手して、以降、07年頃の速度まで回復してきた去年辺りから1時間の走行距離にしてこう進んできたと、ここでこれまでに述べてきた。去年1月7日に10キロ、17日に10・1キロ。そして11月7日に10・2キロ。最後が、この1月11日に10・3キロまでこぎ着けた。
 それからはちょっと故障気味で、いわばふらふらしていた。本格的な挑戦ができない身体だったということだ。現在の僕の身体老化に対して、有効なトレーニングを模索してきた時期だと言えばよいだろうか。老人はただ走っているだけではだめで、特別な筋肉補強運動が必要だと、つくづく感じるのである。

 そして3月中旬に入って快調と感じ、この春の内にこれを越えようと挑戦し始めている。3月20日に9・8キロ、本日23日が9・9キロまで来た。何とかまた記録とできるだろうかという地点にまで来ていると感じている。この年でこういう挑戦ができるというのは、とても幸せだと思う。

 僕ももうすぐ5月で後期高齢者の75才。こういう老人には老人特有のトレーニングのやり方があるのだと、ラン復活以来この三年余でつくづく思い知った。毎日走るのは負担が過ぎる。かと言って、走らない日に1日何もしなければ、その1日で筋力が急激に衰えるから無理が利かなくなり、故障につながりやすい。中1(~2)日を置いて走って、走らない日には十分な筋トレをやるというのが、僕の場合最も良いと分かってきた。毎日走るのは、まず心臓が疲れる感じで、また身体の弱い部分が回復できないとも感じて来た。筋トレをやらずただ毎日走っているだけだと、記録は伸びないだけでなく、故障もおこるのだ。

 筋トレはここまで述べてきたように、足首、脹ら脛用の片足爪先立ち各40回と、膝や腰用の正式なスクワット50~100回程度が必要になっている。片足立ちは20回程度でよいと書いてあるランニング本もあったが、20回では脹ら脛を痛めるというのが、こういう老人としての僕の実感である。多分、走行中のちょっとしたふらつきなどに足首が耐えられないのだろう。

 あと400メートル、なんとかまた頑張ってみたい。

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僕の世界観に関わって(13) 宗教観  文科系

2016年03月23日 10時53分53秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 新聞などを見ても、宗教欄などはあっても、無神論のことは案外どこにも書いてないなーといつも観てきました。だからこそ、こんな事を以下のように、いつかどこかで改めて論じてみたいと考えてきました。団体が宗教に触れることは案外難しいことですが、個人としてそう論ずる場合には何の差し障りもないから、自由に話せることでもありますし。

 今まで書いてきたことから多分既にお分かりのように、無神論者です。それどころか、霊魂も信じません。もし、人間各人の身体を離れてその霊魂のようなものが存在するとしたら、身体(自身の世界)とは別にそれが生まれた世界というものが想定され、この世のものならぬもの、この世ならぬ世に行き着かざるを得ないことになると考えるからでもあります。こうしてつまり、この世以外のものを僕は信じていないということです。また、霊魂が存在するかどうかというこの問題は、もっともっと普通に論じられて良いことと考えてきました。ここが日本では案外、実質的にタブーのようになっていなかったでしょうか。キリスト教やイスラム教の国とは違って、霊魂を論じる動機、機会も原理的に少なかったからかも知れませんが。こんなところに案外、若者が得体の知れぬ新興宗教、カルトに引き込まれていく原因があったのかも知れないと観てきました。

 宗教と同様に、身体を離れた霊魂が存在するかどうかという問題が、案外原理問題として大事だと観ています。

 なお、無神論というとすぐに出てくるある批判にも、お答えしておきたい。倫理、善悪のようなことはどうなるのか、人生とは食いかつ楽しむだけなのかという批判があります。これに対しては、僕はこう答えます。この世だけが存在すると観ても、人間関係というものがある。人間の倫理とか善悪というのは、人間関係の中から生まれたものだろうと。例えば、孔子が人生の中で最も大切なことは「思いやり」と述べて、恕という言葉をこれに当て、この言葉を「自分が望まぬ事は他人にもしてはいけない」と説明したと、覚えています。倫(理)という言葉も元々はそういう意味だったはずで、仲間とか「人がまもるべき道」とかの意味があり、「人間同士の間でまもるべき道」という意味なのでしょう。これらのことは別にあの世がなくとも、この世自身の中に求められるということです。恕、思いやりって、他人がいるからこういうことはしてはいけない、他人がいるからそれ故こう振る舞うのが善なる、美しいことなのだと、倫理とか善というのは原理的にそういうことなのだと、僕は考えてきました。

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随筆紹介 「老いること」    文科系

2016年03月22日 20時37分51秒 | 文芸作品

  老いること   H・Tさんの作品です

 数年前、私は小笠原の母島で、海の元旦初泳ぎ大会があることを知った。海のない山村育ちの私は、お正月の海で、それも初泳ぎということだけで胸が躍り、名古屋港から船に乗って、一泊。そして朝小舟に乗り換えて、母島着。
 岸辺では、島の人総出の大歓迎。花束で迎えられ、もち投げ、パンパーンと昼間から花火まで。太陽は輝き、波は高かったが海は美しい。
  私も水着に着替えて並んだ。
 出発は、ドラの音合図で泳ぎだした。海の水は冷たいが、快い。
 やがて終わり、また浜辺に整列。
 主催者の挨拶。次に係の人が分厚い初泳ぎ記念証書を手に壇上に上がる。
「今年は参加者が多く、毎年のようにお一人お一人に証書をお渡しできませんから、参加した中の最高齢の方に代表で受け取っていただきます」
  そして、一段と声を大きくして、
「ふかがわあーさんっ」
 私は、めったに出会うことのない同姓の方、どんな人かしらと背伸びして見ている。
「ふかがわーともこさあーん」
 “私だ”、私が最高齢者? “年上”に驚いたが、前に進み、証書を受け取った。
 そして、初泳ぎ大会は終わった。
 “最高齢者” “としうえ”という言葉が頭の中をぐるぐる回り、初泳ぎの達成感や喜びよりも大きく、重く残っていた。

 それからまた、阪神淡路で大災害が発生した時のこと。
 連日ニュースが被害を伝えていた。ある日のそのニュースの中で、障害者の生活援助をして下さる方は……と言っていたのを知り、私も何かの役に立ちたいと申し出た。
 しばらくして、
「おとしの方には、こちらではゆっくりしていただく場所も不足しています。お心だけを感謝して……」と、丁重な断り状が届いた。
 “おとしの方”、その言葉に私は肩を落とした。

 昔は六十歳から老人と教えられたが、現状では七十歳からと言うではないか。家庭も家族も持たない私は“おばあさん”と呼ばれたこともない一人暮らしの六無歳。自分の年齢を考えた事もないのに、六十歳半ばで“最高齢者”、おとしの方などと言われるのは心外と力んでみたもの。歳月人を待たずというように、現在では八十路半ばとなり“おばあさん”と呼ばれても振り向くようになったけれど。

 ある時近くの店で買い物をして、レジの近くに帽子を忘れた。近くにいた初老のご婦人が帽子を手に、「これ、お忘れでは」と届けて下さった。
 すると近くに居た方が、
「お帽子、分かりまして?」
「ええ、このおばあ様がお忘れで……」と、私を指して言った。笑顔貼り付けで頭を下げたが、心の中ではこんな叫び声。そんなに年齢差なしなのに、おばあ様とはと、声にならない声。

 若い時は、地球が勝手に回って年を重ねるだけと思っていたのに、老いるということは大変なことだ。もの忘れ、失せもの探しは数知れず、急ぐことなどもうできない。
 自分ではどうしようもない現実。
 老いという言葉とともに、思いもしないことが私を追いかけてくる。

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ハリルジャパン(58) お願い、FC東京・城福浩監督に   文科系

2016年03月20日 23時01分11秒 | スポーツ

 一昨日こういうコメントを書いた。それについて、補足修正を加えた上で、さらなるコメントを少々。

『 FC東京監督・城福浩氏に告ぐ。
 中島翔哉をどんどん使うべきだ。164センチで活躍できれば、他の小型選手も発奮するし、日本の小型のサッカー少年に希望を与えること甚だしいと考える。もし彼が成功するならば、FC東京だけのことではなく、日本サッカー全体にいろんな好影響を与えるはずである。中島の同僚たちもみんながこう語っているではないか。
「これだけやって使われなければ、仕方ないよね。今の練習を続けるしかないと、僕も君にそう語ることしかできないよ」
 同僚にこう言われる中島は、起用すれば必ず相応の実績を上げられると確信している。
 城福さん、こういう問題は目先の勝利だけで考えないでほしい。選手全員が中島の努力を見つめているはずなのだから、そういう選手らの目も、少しは意識したらよいと考えるが、どうなのだろうか。』

 さて、日本サッカー界は、中島翔哉とか、ベルディだったかの高木三兄弟の善朗くんとかを、もっともっと重視して欲しい。165も背がないがテクニックは十分という選手たちのことだ。相撲には、「舞の海人気」というのがあったし、170しかない長友がイタリアであれだけ立派にやっているではないか。体幹さえ鍛えれば、大男相手にもかなり当たり合えるという証拠、証人だろうと考える。守備だって、鍛えた体幹の体高・重心を低くして当たれば、重心が高い大男を崩すことが出来るという理屈もある。舞の海や長友は、古くは中田、新しくは岡崎慎司らが、これを体現してきたはずだ。

 また、こんなこともある。プロ・スポーツは人気も大事。中島や善朗が活躍したら、小さい子どもたちにどれだけ勇気を与えられるだろうか。俊輔、憲剛、本田などのように、中学卒業時に身体がないからと涙を飲む選手が、今でも無数にいるはずだ。それらの子どもらに限りない勇気を与えるのもプロチームの大事な仕事だと、僕は考えてきた。ちなみに、世界にも、特に日本人にはすべて、判官贔屓ってある。それを尊重するのも日本プロスポーツの大事な一発展手段と思う。

  ましてや彼は、U23オリンピック代表のここまで10番を張ってきた選手。それも弱冠21歳である。そんな選手だが、リオ五輪18名と数少ない最終代表には「チームで使われていること」が大きな選考条件となる。つまり、彼がここに残るか否かについて、城福さん、貴方が半分の決定権を持っているに等しいのだ。彼の次の段階への一大成長を信じて、プロスポーツ興行という意味も含めて、今使わない手はないと観る。直接に貴方のお答えが聞きたいほどの心境になっている。

 ちなみに、手倉森誠・五輪監督の中島翔哉評価について、こんな文章もあった。あるサイトからの記事を付け加えておく。
『「クラブで苦しんでいる選手はいますが、僕が選んだときに僕のチームで活躍できるかどうか、僕の求める戦術を理解してやれるかどうかも選出の大事な要素。例を挙げれば中島翔哉は僕のチームで本当に良くやってくれている。理解のある選手だし、僕のところでは活躍してくれるだろうと思っています」。(この言葉を述べた)手倉森ジャパンでは間違いなく彼は輝いている。それは、結果が示している。発足当初からメンバーに名を連ねる中島は14年1月のAFC U-22選手権、同年9月のアジア大会、15年3月のリオ五輪アジア一次予選で背番号10を背負ってきた。そして、ただ招集されるだけでなく、U-22選手権では4試合3得点、アジア大会では5試合2得点、リオ五輪一次予選では2試合1得点と結果を出し続け、リオ五輪アジア最終予選イラン戦までに14試合8得点(U-22選手権、アジア大会、リオ五輪予選)と破格の数字を残している。』

  確かに、この言い分を聞き入れたからと言って、貴方の監督としての今の勝利に何か直接的プラスが生じるという保証はないどころか、チームとして何かマイナスがあるのかも知れない。でも、どうしても言いたかったことだ。
 他の選手と同等程度の技術水準ともし観ているならば、城福さん、中島翔哉を是非使って欲しい。使えるような指導もし切って欲しい。僕は彼に何の縁もゆかりもない人間であるが、75歳の熱烈な一老人サッカーファンとして、孫を思うような心で、以上心からお願いしたい。 

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「よたよたランナーの手記」(155) 復調・快調  文科系

2016年03月19日 06時55分02秒 | Weblog

 左もも裏側の痛みは、疲労蓄積によるものと判明した。どれだけほっとしたことか。よってその前の左フクラハギ痛からの復帰、以降の1時間走行距離を改めて書いてみよう。

 1日7・5キロ、2日8・4キロ、3日8・6キロ、6日8・8キロ、8日9キロ、10日9・4キロで、この後がももの傷みを警戒しての13日8・6キロと15日8・9キロ。そして、痛みが取れた17日には一気に9・6キロまで来た。僕のこの9年間の最長1時間ランまで、あと700メートルである。僕のような年寄りランナーにとっては、身体のどこにも不安な部分がなくてこんな目標を目指せるというのは、なんとも気分の良いものだ。そんなことを再認識しながら、17日はとてもご機嫌で帰ってきた。

 そんな訳で今は、ここまで回復、強化、復帰してきた良かったことをほとんど毎日やっている。特に最も弱点になっていた足首、フクラハギについては、片足つま先立ち(両手で何かにつかまってささえにしつつ)なども今や、一気に40回もやれるようになった。90度まで「後ろに体重をかけるようにした正式で曲げる」比較的速いスクワットも時に百回はやれるとも確認できた。

 これから熱くなる前に、こんな風に目論んでいる。少なくとも一日置きには通って、その日の調子を見ながら1日につき100メートルは伸ばしていきたい。すると、長くて7日目に10・3キロ、9年間の自己タイ記録だ。ただし無理はしないこと。筋肉の方は、こういう今後一日置きの漸次強化で充分間に合う程度にはしてあるのだから、こんな年齢になると一番の問題は心臓なのだ。僕の場合は心拍数が長く155以上にならぬ事、不安だったらすぐに引き返すこと、こういう戒めを持って臨んでいきたい。

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随筆 「年寄りギター、ある上達の話」   文科系

2016年03月18日 12時19分04秒 | 文芸作品

 長い、思い出したように弾く一人弾きの末に、リタイアー後の62歳に初めて先生についた僕のギター。きちんと習った人を見たこともない一人弾きだったから、やっと楽譜が読めるという以外には何の取り柄もなく、むしろ、悪い癖は無数についていて、人前で弾けるような心境にはなかなかならなかった。教室発表会に初めて出たのも習い始めて10年目に入った時だった。そして今年の5月で4度目の発表会になるという最近、ちょっとした進歩があったから、そのことを書いてみたい。他人が弾くのを止めるころの大きい進歩だから、少々誇らしい心境もあってのことだ。

 二つの癖を直した。いずれも誰にでも起こる、よくある癖のようだ。

 一つは、左手の指が撥ねること。「薬指と小指の分離」が出来ていなくって、相互に連動し合うから余分な力も入るし、ミスも増える上に、そもそも小指が自由にならない。例えば、小指を使ったトリルとかスラーの音などがお話にならない。この癖は、思えば1年前ほどまでに2年ほど掛かって直した。大変な苦労だったが、今になって本当に良かったと思っている。左小指が自由を得た思い、感じなのである。
 二つ目は、右の薬指の音出し。こちらは積年の悩みだったものを、最近になってやっと悪癖の原因、直し方に気付くことができて(記憶が貯まらない年寄りには、こういう複雑な原因分析自身が難しいのである、と、今分かる)、3分の2ほど治ったという感じかな。原因は要するに、こういうこと。まず、ギターの構え、次いで右手の構え。これが不安定だから、身体の調節が効かない年寄りにはその結果が右薬指にすぐに現れてくるということだった。そもそも、ギターの右手は左右にも前後にもどうにでも動くし、その傾き加減も難しい。それによって最も影響を受けるのが、親指と薬指なのだが、この2本に悪癖が現れるのである。そして、反射神経が鈍くなる年寄りには、薬指の自由が真っ先に減少していくということなのだろう。この指は案外使わなくとも済むので普通は無意識に過ごしているが、上級者の曲になるとたちまちこの欠陥が随所に露呈してくるのである。と、そんなことにも最近気付いたのである。

 さて、年寄りは、悪癖が直しにくい。僕の上記一つ目の癖のように、例え「こういう悪癖なのだ」と分かっていても、直すのに途方もなく時間がかかることもある。まして、原因が(分かっているようで)分からない癖などは、直しようもない。でも、重大な悪癖は結局こういう結果をもたらしているのである。美しい音にならない部分が必ず生じ、加齢と共に酷くなっていくから、弾いていてどんどん楽しくなくなっていく。すると、レッスンもさぼりがちになり、更に酷い出来になっていく。その悪循環から結局「もう年だ」という断念に至る。多分こういうことの結果なのだろうが、僕から観ればまだまだ続けられると観ていた同世代のギター先輩たちがもう、どれだけ止めていったことだろう。

 悪癖を直すことは、ギター年齢を延ばすこと。ただ、そのためには身体の強さが必要かも知れない。ランニングによって僕に与えられている有酸素運動能力が、ギターレッスンにどれだけ役に立っているか分からないと痛感するのである。2時間も小指を酷使するようなレッスンを続けてもどこも痛まない身体に、どれだけ感謝したことか。年寄りが何をやるにも、まず身体ということだろうが、その源は有酸素運動能力だと確信している。だから僕は、走り続ける。走れる間は、ギターも弾いていることだろう。

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ハリルジャパン(57) レスター優勝起爆剤こそ、岡崎?  文科系

2016年03月16日 20時54分29秒 | スポーツ

 昨日の拙稿に、名無し君のこんな批判がありました。
『流石は、レスターのお笑い担当!』

 さて、これへの僕の応答がこう。自分ながらなかなか研究し尽くした応えであって、その心をも、以下のように解説したものでした。

『お笑いはお笑いでも、笑いが違う。』

 このバイシクルシュート得点への他選手の感想が出ていましたが、現プレミア得点王である同僚・バーディー初め3人ほど同じことを喋っていましたね。君も読んだでしょ?

「いつもチームのために走り回って僕等を助けてくれる『縁の下の力持ち』が、岡崎。こういう(派手な)得点は(地味な活躍が光る)彼にこそ相応しい」

 そういう祝福の笑いの渦でしたよ。

 また、こういう選手はチームの団結にすごく好影響する。彼を脇で見ていると、なかなかサボれませんから、サボりがちな選手、走れない選手は巾を効かせられなくなります。つまりチーム全体の好循環の起爆剤! ラニエリ監督はおそらく、そういう岡崎の役割を最も重視しているのだ。それで、レギュラー。

 万年2部レスターの歴史に残る奇跡的躍進の秘密はこうして、案外岡崎にあるのかも知れないんです。』

 この応えって、レスターの歴史に残る奇跡的優勝について、案外真相を突いている分析かも知れません。
 いずれにしても、岡崎のこのバイシクルシュートは、レスターのほぼ決まったに等しいプレミアリーグ奇跡的初優勝に関わる最大の逸話として、イングランドフットボール史に語り継がれていくことでしょう。

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