随筆紹介 明日は S.Yさんの作品
このところ気がつくと俯いて考え事をしていることが増えた。
思い詰めているわけではないが、母親のことを思うと気持ちが沈んでしまう。
二カ月前、母は脳梗塞で倒れてから七年間暮らした老人ホームを退去した。家具や衣類など一時的にホームから実家に運ばれたが、その荷物の大半は私が持ち込んだもの。
兄夫婦から引き取りに来ないと全て処分すると言われて、慌てて実家へ行った。驚いたことにものすごい量。軽トラックいっぱい分ほどある。嫂は母の衣類や趣味の本や編み物などの手芸品など、早く処分したいようだ。どんどんゴミ袋に入れている。いくつもゴミ袋が増えていく。
「ちょっと待って。母さんはまだ生きてるんだから、着れそうなもの少しは残しておいて」
「でも、病院に入っているから衣類はもういらないはず。第一、半身不随で着ることができないでしょ」とけんもほろろ。ここが娘と嫁の違いか……
私だってわかってはいるが、そう簡単には割り切れないし、捨てられない。
母は「成長の家」という団体に入っており、その教本や資料があった。母にとっては大切なものだ。眼鏡や腕時計など、母の身の回りのものなど、とりあえず私が持ち帰る袋に入れていく。ホームで暮らしていたときの写真、本やノートなども。
兄たちはついでに今までの母の部屋も片付けたいのか、座布団や家具なども処分場へ運ぶトラックに積んでいる。
私と夫は引き取ったものを車に積み込み、この日、母との面会の予約が取れている病院へと急いだ。今度の病院は県外に変わって、私たちの住まいからは遠くなるばかり。
母は私たちを見ると満面の笑みになった。私はベッドの背もたれを起こして、窓のカーテンを開けた。眩しそうに外の景色に見入っている母。耳が遠いので、耳元で私も夫も大きな声で話しかける。何か面白かったのか母が声をあげて笑った。ちょうどその時、男性の看護師が入ってきた。母を見て呆然と立ちつくしている。「えっ! こんな表情が? 笑っているなんて……」信じられないといった顔だ。どうやら九十九歳の呆けた寝たきり婆さんだと思っていた様子。そういえば同室の人は皆寝たきりで反応もない人たちだった。脳梗塞で言語障害になり話せなくなったが、「母は、こちらの言うことは全てわかりますよ」と看護師には伝えた。一応、リハビリテーション病院にはなっているが、果たして高齢の母がリハビリをやってもらえているのか疑問は残る。面会時間は二十分とやはり短い。
帰宅して母の荷物を空いている部屋に運び入れた。整理すれば持ち帰ったタンスや整理棚に収められるだろうかと考えていると、分厚い紺色の本が目についた。パラパラとめくると、見慣れた母の字。なんと日記帳だ。七年前にホームに入った日から倒れた日まで毎日書いてある。メモのようなものを書いていたのは知っていたが、こんなにちゃんと日常を綴っていたなんて驚きだ。といってもホームでの変わり映えのない毎日。お天気のことやその日の気持ちが簡単に記されている日もある。だが一日も欠かさずに、これにはただただ驚く。
娘の私から手紙が届いた。荷物が届いた。面会に来てくれた。食事に一緒に出掛けた。いつも心にかけてくれて嬉しい。ありがたいと感謝の言葉が多いのにも驚いた。
私には厳しくて、きつかった母がそんなふうに感じてくれていたなんて。もう涙で読めなくなってくる。義妹や姪っ子もよく母に会いに行ってくれていた。バナナやプリン、カステラを貰った。折り紙や毛糸を貰った。どんなものがいいかなあ、今度はひ孫に帽子を編もうと思う。などと書かれている。
私も七十路になり、自身も終活を考え始めている。が、なかなか実行はできていない。まだ呆けないし、体も動くと思い込んでいるから進まないのだが、唯一、中学生ごろから半世紀以上付けていた日記帳だけは一昨年、全部処分した。こんなものを他人の目に触れさせたくないという思いからだった。
だが母の日記帳は捨てられない。母から来た手紙の束も捨てられない。今日は言葉が出ないが、そのうち、リハビリを続けるうちに少しでも話せるようになるのでは。話せない母本人が一番辛いだろうが、私もこのまま母と話せずにお別れになるなんてイヤだ。
明日は? 明日こそは少しは話せるのではと祈っている。
九月十五日 金曜日 晴れ もう今月も半分過ぎた。明日 娘が面会に来るそうな、
これが日記の最後の書きかけの一行。このあとに倒れたようだ。