九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

霊は存在するか?  文科系

2024年10月31日 19時10分29秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 霊という言葉が、新聞などの広告も含めて当たり前に、実在するもののように使われている。心霊スポット、心霊現象という場合の心霊、背後霊や水子の霊。よく言われるスピリチュアルもその存在を認めてこそ成り立つものだろう。
 漢字には一つ一つ意味があるわけであって、霊を辞書で調べるとこうあった。「肉体に宿り、または肉体を離れて存在すると考えられる精神的実体。たましい」。ところで僕は、この存在などずっと認めてこなかった。「肉体を離れて存在する心」などないと考えてきた。僕の生前に、つまり肉体誕生の前にも僕の魂があったとか、肉体死滅後もこれが残るとか。だからこそ、永遠の命を説く宗教も信じないのである。霊などと言うものはおそらく、往古の昔の夢の説明に使われたものだろう。肉体が寝ていても、心が「動いている」のだから、霊があると考えたにちがいない。だが今は、夢はもちろん、赤子の肉体が経験を経ることによって「心」を持っていく筋道も科学的に解明が進んできたはずだ。人の心は、その肉体を離れては存在し得ないという科学と宗教との関係いかんという問題は、今でも難しいように、霊と科学の関係も難しい問題なのだろう。例えば、肉体を離れて霊が存在するとすれば、その霊はどこで生まれたのかという必然的な問いから、神の世界も想定されるというものだ。

 ここでただ、科学と宗教の関係について一つだけ問題提起をしておきたい。アメリカのキリスト教福音派が、旧約聖書の創世記と進化論とを二つとも認めるおかしさである。神が万物を造ったということは、進化論と矛盾するのである。それを福音派は、一方を信仰として認め、他方を科学として認めると述べてきたはずだが、これはおかしいだろう。

 こんなことを書くと、いろんな大科学者が宗教信者である例などを挙げた反論、あるいは「そういう人が魂の不死をこう述べている」という反論なども続出するはずだ。「霊の科学的実在証明がある」とか「仮の死後体験として、霊が存在したという科学的証明」とか。逆にだからこそ、この文章を書かねばならぬと考えた。現代人は、霊などという言葉をあやふやに使うべきではないと力説したい。
 最近の日本では、青少年の自殺が急増しているが、そこにこういうあやふやな感覚、「知識」が漠然と影響しているのではないか。「死んでも、僕の魂は存在するのだから・・・」。こんなのは「魂実在論者」が世に流す害悪の典型例じゃないかと思う。霊実在論者は、肉体の死を実質軽視することになる? ちょうど、無罪のあの世に憧れれば、この世や肉体が「たましい」に比べて醜い、罪深いものと感じられるように。
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二つの画期的癌治療を受けてきた、その説明   文科系

2024年10月30日 20時27分43秒 | #闘病
 僕は二つの癌治療療法を受けて、83歳までの命を長らえることが出来てきた。いずれも高価な最新式の治療法で、一方は16年(75歳)に前立腺癌に対する陽子線療法、もう一つは22~3年に膀胱(癌)摘出の後にオプチーボという免疫チェックポイント療法と呼ばれるものを。いずれも凄く高価なものだが、前者は高度医療保険にはいっていたからこれでまかない、後者はこの名古屋市では医療保険適応になっているのである。このふたつについて、いろんな人々に知って欲しいと思い医学的概要、効果などを書いてみたい。

 陽子線治療とは、放射線治療の一つだが、特別な性格がある。放射線は癌のように若く成長が激しい細胞を殺すものだが、同時に癌周辺の細胞を広く殺してしまう。これに対して陽子線は、癌に対してピンポイントで照射されるから、照射部位周辺や前後の細胞を痛めることが少ないので、強い治療が可能になる。ただし、こういう性格を持つから、照射対象が動く臓器には使えない。僕は前立腺のある部分にピンポイントで照射したわけだが、前立腺自身は痛めつけられていないと痛感できたものだ。要約して言えば、手術後もちゃんと「出来た」のである。つまり、その後6年の81歳に膀胱摘出で前立腺を取るまで立派に出来たということだ。なお、僕の場合はこの治療を通院で行った。名古屋の西部医療センターに通ったのである。

 次はオプチーボの説明だが、これを創出した京都大学の本庶佑(ほんじょたすく)先生がノーベル賞をもらったという世界的・画期的な療法である。この効能は説明すると長くなるが、こういうことだ。癌はこれを攻撃するはずの人間の免疫力を寄せつけないバリアを張るものだ。このバリアを壊すのがオプチーボで、人間本来の免疫力で小さな癌は殺してしまうということになるようだ。僕は第2期膀胱癌を膀胱周辺ごと摘出した後、月一度のオプチーボ点滴治療を1年とちょっと受けてきた。つまり、どこかにがん細胞が潜在している場合におこる癌再発という危険性を除いてくれたわけだ。ということで、すでに2年、再発もその心配もないというわけだが、はたしてどうか? このオプチーボ点滴も、僕は通院でやってきた。

 さて、以上最後にお断りを一言。以上はなんせ素人の説明だから、適用を考える場合には、改めて以上を確認していただきたい。どこかに間違いがあっては大変だからである。よろしく。ただ、上記二つ治療とも、出来るところが限られているから、おそらく大都市に通う必要があるだろう。
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バルサのドイツ人監督、大成功   文科系

2024年10月29日 21時06分40秒 | スポーツ
 サッカー・スペインのバルセロナにドイツ人監督が就いて驚いたと、今年7月24日のここにも書いた。ハンズ・フリックのことだが、このたびこの監督のチームが大成果を上げている。チャンピオンズリーグではバイエルンに4対1、スペインリーグでは名将アンチェロッティ率いる宿敵レアル・マドリッドに4対0で勝ったのだ。日本サッカーも、一時のブラジル崇拝から鹿島も含めてヨーロッパ流儀に変わってきたが、スペイン崇拝からもそろそろ抜け出す時期だと思う。なんと言ってもやはり、2010年前後からはドイツ流ゲーゲンプレスが世界を席巻してきたのである。クロップ、トゥヘル、そしてこの度のフリックというわけだ。
 まだまだ当分、当たりの強いショートカウンターの時代は続くと思われる。ついでに、この当たり強さの中では、中央のドリブル突破攻撃はますます難しく、サイドからのスピードに乗ったクロス攻撃による得点が増えている。伊東純也、中村敬斗、三苫らの時代がしばらく続くと考えるのである。つまり、攻守の転換に秀でた組織を持ったチームのサイド攻撃の時代ということだ。こんな時代はまた、メッシのような選手も現れにくいはずだ。メッシは守備を免除されていたが、今そんな選手がいたら、攻守の組織転換でそこが穴になってボールも奪えないし、得点も出来ない。
 
 世界サッカーはますます面白くなっている。この中の日本代表がまた、攻守の転換に優れ、3バックで得点力も増してきているからますます面白い。そろそろW杯ベスト8以上が見えてきたと思うから、アジア予選を観るのもとても楽しみになっている。

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日本会議と自民党    文科系

2024年10月24日 16時36分45秒 | 国内政治・経済・社会問題
 皆さん、日本会議という団体をご存じだろうか。300名近い国会議員が加わった「明日の日本をこんな国にしよう」という団体である。こんな国の内容を、この団体の呼びかけ文「日本会議がめざすもの」からうかがってみよう。自民党大臣らが絶えず靖国神社に参拝するのは、こういう国家観によるものである。

 この文章の最初に「1 美しい伝統の国柄を明日の日本へ」と見出しされた部分があるが、その一節から、彼らの国家観がとてもよく分かるのである。
『私たちは、皇室を中心に、同じ歴史、文化、伝統を共有しているという歴史認識こそが、「同じ日本人だ」という同胞感を育み、社会の安定を導きひいては国の力を大きくする原動力になると信じています。国際化が進み、社会が大きく変動しようとも、常に揺るがぬ誇り高い伝統ある国がらを、明日の日本に伝えていきたいと思います。私たちはそんな願いをもって皇室を敬愛するさまざまな国民運動や伝統文化を大切にする事業を全国で取り組んでまいります』

 次に、「4 日本の感性をはぐくむ教育の創造を」という部分には、こんな表現も入っている。
『特に行きすぎた権利偏重の教育、我が国の歴史を悪しざまに断罪する自虐的な歴史教育、ジェンダーフリー教育の横行は、次代をになう子ども達のみずみずしい感性をマヒさせ、国への誇りや責任感を奪っています』

 さて、僕は、このような『皇室を中心』の『歴史観』など持っていないし、これを踏まえた『同じ日本人だという同胞感』もない。それどころか、こういう国家思想こそ、天皇主権の「大日本帝国憲法」下において、あの大戦や原爆投下にまで至った動向の最大動因の一つだったと考えている。その典型例の一つが「神風が吹くから、日本は結局勝つ」だろう。開戦決定をしたのも大元帥たる天皇だったのだし、ポツダム宣言受諾を遅らせることによって原爆を招いたのも天皇であった。するとこの人らによれば僕は『社会の安定を導きひいては国の力を大きくする原動力』にはなりえないのである。すると、「権利偏重」の「自虐的な歴史教育、ジェンダーフリー教育の横行」の元凶国民の一人ということから、彼らのめざす国の敵になるようだ。

 政治家の今の言動だけを見てはいけない。どんな国を造りたがっているかこそ長期的最重要思考のはずだ。さてあなたは、『皇室を中心に、同じ歴史、文化、伝統を共有しているという歴史認識こそが、「同じ日本人だ」という同胞感』をお持ちかどうか?
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 「人形の家」、七去三従    文科系

2024年10月23日 22時59分03秒 | 国内政治・経済・社会問題
 僕の年代だと、標記の言葉、思想は常識に属することだろうが、若い人々には分かるだろうか? そして、ここに現れた思想こそ、保守政治(家庭論)とそれとの闘いが関わるキーワードの一つのように思ってきた。日米共通してのことだ。例えば、夫婦別姓、アメリカ福音派の「中絶反対」などなど。まとめて言えば、こういうことだろう。女性の社会的自立問題。家庭、子育てを事実上女性にのみ押しつけてきた社会的伝統。

 「人形の家」とは、イプセンのある戯曲名。主人公ノラの「人形から人間への自立」が描かれたものだ。この戯曲から、ノラが女性解放運動の伝統的象徴にされてきたと伝えられている。古い日本でいえば、「元始女性は太陽であった」の平塚ライチョウ、「青鞜社」のように。

 他方、日本女性に押しつけられてきた伝統が七去三従である。三従とはこういう女性道徳である。
「子ども時代は父に従い、結婚したら夫に従え。そして、年を取ったら子(家長を継いだ長男)に従うべし」
 七去は難しいが、とにかくこういうもの。次の七つのどれかがあれば、妻が離縁されても文句も言えないというものである。子がないこと、義父母に従順でないこと、おしゃべり、窃盗、淫乱、嫉妬深い、悪疾があることの七つだ。

 さて、日本の農村などではまだまだこういう風習が残っていて、それが現に女性の自立、生き方を著しく抑え込む問題を生んで来たのではないか。一例、こんな「常識」もここから生み出され、農村育ちの男性などに残っている場合も多いだろう。
「子どもは3歳まで母が育てるべし」。そのために「いったん仕事を辞めても仕方ない」というところから、年齢別女性労働者人口の「M字型」ができあがって来たと言われる。Mの窪みが「いったん退職(後に、悪条件の再就職)」の年齢帯なのである。「母の掌こそ、育児の要諦」との育児思想がまた、このM字をもたらし、我が国の産休明け保育などの低年齢保育を歴史的に堂々と遅らせる口実になってきたのであった。今でこそ、保育、学童保育の「待機児童数」が失政として社会問題になっているが、昔の行政の言動を知る者にとっては、隔世の感があるところだ。

 家事を全くやらぬ男への今の「(熟年)離婚」問題も、「人形の家」や七去三従の類の思想から起こったものとも言えるだろう。こういう高齢男性は、ちょっと前には「ぬれ落ち葉」と呼ばれてきた。「掃いても掃いてもくっついて離れない」ことを指しているようだ。これがまた、少子化問題の原因にもなっているのである。
「この男相手じゃ、第2子なんてとんでもない」。

 自民党男性議員は、ほとんどが「人形の家」派なのではないだろうか。共働きは少ないだろうし。こんなところでも、日本の政治を考えてみることだと思う。夫婦別姓なんて、決して認められないはずだ。
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「乱暴狼藉イスラエル」の、ある解明  文科系

2024年10月19日 08時05分35秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 かねてから想像し、思っていたことだが、標記のことについて、ユダヤ教の聖典(キリスト教の旧約聖書と同じ)のイスラエル的読み方が関わっていることを、改めて知った。雑誌「世界」11月号の「国家神信仰を批判する」(森本あんり東京女子大学学長)によって。なおこのイスラエル流旧約聖書解釈はアメリカ共和党にも当てはまるとも同論文中にあった。イスラエルはどうも、神の預言を実行しているつもりなのではないか。

『ユダヤ民族の帰趨は、ユダヤ人の問題である以前に、まずもってキリスト教の将来に関わる問題と捉えられているのである。というのも、ユダヤ民族のシオンへの帰還は、聖書に予言された終末到来の前提とされているからだ。聖地にイスラエルが復興されることなくして、約束された終末が訪れることはない。(中略)今日のイスラエル国家は、可見的な政治の現実であると同時に、ユダヤ民族の契約を受け継いだキリスト教会にとって強い理念的な関心事なのだ。この傾向は、聖書の言葉を文字通りに受け取ろうとする福音派のキリスト教徒で特に強い。
 そんな神学論議がいったいどれほど現実世界に影響を及ぼすのだろう、と訝しむ人がいるかも知れない。だがアメリカは、そもそも建国以前から「新しいイスラエル」という自己意識を持って出発した国である。聖書の中で隷属状態にあったユダヤ民族がエジプトを脱出して新天地に至ったように、ヨーロッパという旧世界の桎梏と腐敗を脱出して汚れなき新世界を建設する。これが歴史の折り目ごとに繰り返し表明されてきたアメリカの自己理解であった』

 ついで、こういう選民意識、「国家神信仰」にたいして、著者はこういう批判を加えている。
『神がイスラエルに求めたのは、宗教的な祭儀や行事ではなく、社会正義を行うことである。「公道を水のように、正義を尽きない川のように流れさせよ」(第5章24節)という、ごく世俗的な倫理の徹底である。ヤハウェは、契約遵守の内容として、宗教ではなく倫理を求める。それも、庶民の日常生活において実現されるべき平明な世俗倫理を』
『イスラエルの神は全世界を統括するが、イスラエル自身は歴史の中心でも目的でもない』
『神の「絶対的正義」は、しばしば欧米の独善的な覇権主義の淵源のように論じられる。しかし、絶対的正義はあくまでも神の正義であって、それを信じる者の正義ではない』

 さて、以上を読むと我々聖書の素人にも今のイスラエルやアメリカの乱暴狼藉が分かるような気がするのである。かねてから「こうなのだろうな」と推論していた内容が、「やはり!」という形になって。アメリカ福音派とは、進化論と同時に、神を万物の造物主とする旧約聖書の創世記をもかたく信奉している人々なのだ。一方は科学として、他方は信仰としてと語られてきたのだが、矛盾するこの二つをともに受け入れ、生活の指針ともするということは、僕ら日本人には全く理解不能であろう。
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これでも、自民党国会議員を選ぶのか?  文科系

2024年10月17日 16時56分25秒 | 国内政治・経済・社会問題
    自民党とはどんな国会議員の集まりであるか。ちなみに、国会議員とは、税金を給料とし、税金を使って国民の生活を良くしていくためのいろんな法律を作り、それを執行していく行政機関の長を選び、この機関を見張る仕事である。それが以下のごとくでも国民はこれを選ぶのか。

・国民の家庭をめちゃくちゃにしてきた宗教団体の改名をご親切にも密かに認めてやり、その広告塔を努めてきたかわりに、この狂信者らに選挙支援を仰いできた議員たちである。
・違法承知で密かに金を集め、それが咎められてもまだこれが出来る道を残してきた議員たちだ。

 さて、こんな国会議員たちが自分らの本分をまともにやれるだろうか。国民の生活を良くすべく、まともな法律が作れるだろうか? 選挙当選を助け、そのために金をくれる利権屋たちだけの法律をひそかにいろいろ作り、執行させているのではないか。
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サッカーと野球の違い  文科系

2024年10月15日 10時15分08秒 | スポーツ
 コメントにしようと思ったことを、書き始めてから、エントリーに換えることにした。 

 日本人は標記のことが分かっているのかどうか? 野球のように、相手を0点におさえるピッチャーのような存在はサッカーには居ない。一人でホームラン得点をする4番バッターもいない。ピッチャー役が得点もするし、「4番バッターが最前線守備もする」上に、「4番バッターの守備が緩めばプレスが利かず、組織が狂い、直ぐに失点」(メッシ・バルサは例外)とか「ピッチャー役にも良いクロスが上がる」のがサッカーだ。

 サッカーは個人だけ見ていてもだめ、組織を見ないと全く何も見えないのである。だからこそ、サッカー歴史上に、こんなことも起こるのだ。新組織を編み出した弱小チームが世界の王者を臨み始める、と。アリゴ・サッキの1990年ミランや、2010年ちょっと前のクロップ・ドルトムントのようなチームが時に出現する。これが面白いのだ。野球が強いとはいえない国に、突如最強チームが現れたようで。サッキのコンパクトプレスがイタリアの全盛期を作ったし、クロップ・ゲーゲンプレスが一時のチャンピオンズリーグ・ドイツ勢全盛を作った。


 ゲーゲンプレスが偉大だったのは、こういうことだ。攻守一体の強化ということ。敵陣地でボールを奪うことが、そのまま得点に最も結びきやすいという戦法だったからである。それを日本人は、「プレス」が付くのは、守備法ってことだろ?としか見られなかった。これを野球的視座と述べたら、誤りになるだろうか?

 さて、こういう視点からしか、守田の偉大さは分からないと思う。攻守両方(のスペース)が見えていずれにおいても得意な選手は、サッカーでは特に重要な存在だ。ドリブルばかりしていると、自分の足下を多く見る習慣が付いて遠いスペースは遠いスペースは見えなくなる。つまり、組織に貢献できないのである。

 
 今日のオーストラリア戦は、遠藤が出られないらしいが、代わりは普通なら田中碧だろう。守田と同じ元川崎同士、空きスペース消しで抜群の連係動作を示すはずだ。それでまた、失点は〇。

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「パスを多くつなぎつくす得点法って?」  文科系

2024年10月14日 11時32分26秒 | スポーツ
  最新の拙コメントで、こういうことを書いた。
『 久保のような攻撃・ドリブル好きは、とても使いにくい時代なのだ。弱者のカウンター攻撃は盛んだし、アジア勢によくやられるのもこれだ。しかも、ゲーゲンプレス流行以来高い守備陣形からのショートカウンターも全盛と言える。
 他方、三苫、伊東は、プレスバックを含めて守備意識も高いし、万能の守田が攻守両方とも得意なのは、周囲がよく見えてプレー判断が速いからだ。
 久保先発は当分ないだろう。彼がいなくとも、両ウイングバックに中村敬斗を含めてサイド攻撃得点力がすさまじいのである。しかも、サイド攻撃は良いカウンターを食いにくい。久保が先発になりたければ、パス攻撃に加えて、プレスの技をもっと磨くことだろう。 』

 これと同じことを今急台頭の町田・黒田監督が語っているのを読んだ。
「パスを七本もつないで得点って、そう言う得点法を語ってきた日本人は多いけど、そんなのだめだ。あらゆる方法で点を取り、あるいは失点を防ぐ」
 こういう日本流のやり方が、21世紀に入って得点法としてのゲーゲンプレスが世界に広まって、スペイン流とともにだめになった。もっともスペイン流と言ってもメッシが居なければ、これだけ広がったかどうか? バルサでも、彼がいないと急に得点できなかったから。2010年前後から一時日本が弱くなったときがあるのは、このゲーゲンプレス時代に乗り遅れて、アジア勢にさえ当たり負けるようになったからである。この間のACL諸ゲームがこれを示していた。

 すでにザックが日本の弱みを押さえて、こんなやり方を説いていた。2014年のブラジルW杯に向けてのことである。
「中央パス攻撃にこだわっている選手がいるが、(今の)日本人には向かない。サイド攻撃中心でいけ。サイドバックが二人とも上がると主張する希望もあるようだが、それは極めて危険である。左右どちらかが上がるサイド攻撃なら、カウンターも食いにくい。」
 なお、この中央突破パス攻撃主張は遠藤と本田だったかと思う。この中途半端さがあって、ブラジルの日本は実に惨めであったと覚えている。
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サッカー・サウジ戦観戦記  文科系

2024年10月11日 06時03分56秒 | スポーツ
 早起きして、標記の観戦をした。ダ・ゾーンで。2対0で勝利、これで3連勝だが、他のチームが負けもあるのでダントツトップである。鎌田と小川の得点だが、この勝利は割に難解である。目立ったことを書いてみよう。

 要するに守備が良かったということだ。3ゲームで失点ゼロ(得点14)と言うのがその証拠。どこが良かったか。3バックでも、ボランチ2人が凄く利いているし、2人の得点源、三苫、堂安(伊東)も良く守備に留意していた。サウジが全員脚が速いので「怖いな!」と見ていたが、その全てを走り出す前に潰していたのが目立ったものだ。また、相手のシュートには3~4人でブロックに走り込んでいたことも多く、それが目立った。攻守のかなめ守田がこう言っていたのも、何か特徴的である。
「鎌田が下りてきてくれて、僕がよく前に行けた」
 1得点目が実は、この二人の合作である。守田の右からの折り返しヘッドを、左前方にいた鎌田が前に出てシュートした得点だった。

 この守備という点について特に、2ボランチがすごく利いていたと思う。二人とも強くて位置取りが良いこと、過去の日本人選手では考えられないほどだった。とくに遠藤や守田など、10年代にアジア・クラブ選手権でしばらく勝てなかった時期の日本守備時代を考えると、信じられないほどの力強さを示していた。攻撃の要でもある両ウイングバックが守備に走るのも、このチームの著しい特徴だ。特に、伊東純也の守備意識が僕にはすごく目につくのである。あれでは,堂安も守備に思い切り走らざるを得ないと見た。

 FWもよかった。上田と小川だったのだが、上田には守備力と力強さがあり、小川には鋭さがある。あの高いヘディングは、伊東のクロスもさりながら秀逸としか言えない。そして二人とも守備意識が高い。久保が「日本での僕の評価はスペインにおいてよりも低い」と思っているようだが、やはり守備の問題があるのだろう。ドリブルで持ちすぎるプレーだから、奪われた時のカウンターが監督らには怖いのだろう。今の世界サッカーは、攻撃から奪われた時の守備への転換がとても難しいのだから。今日もそんな場面が2~3見られた。日本が敵陣地内攻撃から守備へと転換するときに備えがちゃんとできているから、3ゲーム無失点になっているのであって、その備えへの中心が2ボランチなのである。



 

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新自由主義経済の自己批判  文科系

2024年10月10日 08時55分33秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 しばらく政経文章を書かなかった。このブログ題名としては、妙なことと言える。が、政経文章中心というのは、そもそも面白くないし、人間としておかしなこととも言える。以下の論文は、2019年に書き、ここにも載せたものだが、日米ともに以下の情勢がますますはっきりと見えるようになったと思う。また、以下を抑えないと、世界情勢は正しく分からないはずだ。日米特に米国がなぜ保護主義経済に走り始めたかとか、日米ともに不安定労働者に依拠して成り立っているとか、バブルがなぜ世界に度々起こるのかとか。ウクライナやパレスティナの状況にも、世界の「石油=ドル価格」体制とかを通じて関わっているはずだとかもある。とても複雑なことを短く書いているから難解とも言えるが、それだけに言いたいことの構図は分かりやすいと言える。最後までお読み願えれば嬉しい。


 今、グローバル経済(学)は破綻した。この四〇年ほど世界を席巻してきた新自由主義経済に対して、世界で重大過ぎる根本的な反省が巻き起こっているからである。まず、二〇一九年の八月二〇日夕刊に 小さな記事だったが、分かる人には分かる重大な出来事が報じられた。「株主最優先を米経済界転換」、こう見出しされたこの中日新聞記事の書き出しはこうなっている。
米主要企業の経営者団体「ビジネス・ラウンド・テーブル」は一九日、株主の利益を最優先する従来の方針を見直し、従業員や顧客、地域社会など全ての利害関係者の利益を尊重する新たな行動指針を発表した。これまで米経済界は「株主利益の最大化」を標榜してきたが、大きな転換点となる』
 こういう反省が真摯なものか否か、実行などする気もない何かの世界政経戦略的な策略なのかどうかなどは置いておいて、次は、一二月三日の米政治週刊誌「ニューズウイーク日本版」が組んだ特集「宗旨変えしたノーベル賞学者」。二人の世界的経済学者らの反省を載せているが、その内容を紹介してみよう。まず、アベノミクスの論客とも言えるポール・クルーグマンは、こう反省しているのだそうだ。
『アメリカの製造業を支えてきた中間層が経済・社会的な大変動に見舞われることに気付かなかった。中国との競争でアメリカの労働者が被る深刻な痛手を過小評価していた』
 他の全米経済ジャーナリストらもこぞって、経済学者らの過去の議論をこう批判しているとも、この記事には紹介してあった。
『多くの経済学者が福祉を犠牲にし、効率性を最優先して「高賃金の雇用を切り捨て、低コストの技術産業に未来を託した」というのだ』
 という「反省」から、このニューズウイーク論文の末尾まとめはこういうものになっている。こちらは、もう一人のノーベル賞経済学者、ジョセフ・スティグリッツが九〇年代から指摘し続けてきたグローバリゼーション反省、批判をまとめた文章でもあるようだ。
『最大の負け組はやはり、アメリカの労働者だ。経済学者はかつて、好況下では労働者は自分たちの賃金を引き上げる力を持つと考えていた。だが最近の見方はちょっと違う。多国籍企業が全世界を自らの縄張りに収めて四半世紀がたち、グローバル化した資本は国内に縛られたままの労働者よりも優位に立った。』

 さて、ここで思い起こす事がある。先進国がどこも、労働者が軒並み貧しくなって、国も家計も赤字だらけとなったことへの反省は、日本の誠実な経済学者達にはもうとっくに起こっていた。中谷巌(三菱UFJリサーチ&コンサルティング理事長、多摩大学名誉学長、一橋大学名誉教授)とか水野和夫(三菱UFJモルガン・スタンレー証券、法政大学教授)らがその代表者と言える。中谷が「中産階級をどんどん没落させたのが、新自由主義経済最大の誤りだった」と反省したのだし、水野はこう述べている。「先進国にもう長い間金融バブル経済しかないというのは、既に資本主義の寿命が尽きて弊害しかなくなったということだ」。それでさて、英米日などの政府は、どういう理論でもって今後の経済運営を行っていけるのか。世界経済のこのような惨状について、日本の主流経済学者であった人々の声も、今是非聴きたい。曲学阿世でなければの話だが。アメリカは「GAFA時価総額バブル」で、日本は「官製バブル」の「経済」?
 その下では、貧困小国化・日本。五〇歳まで一度の結婚もできない低所得男性が四人に一人になって、ここ百三十年なかったほどに出生数も減っているのである。
 日中や産油国への飴と鞭を加え続けざるを得ないアメリカ。もしアメリカから日中や産油国の資金が逃げ出したら、米GAFAバブルなど即沈没だからである。
 なお、南欧とか中南米諸国は日本より遙かに先に貧困に陥っている。これも、世界各国で何度も何度も打ち続けられてきた通貨危機など、世界金融が成し遂げた荒技の歴史的結末と言える。
「供給側を重視した経済」への反省から、国際経済を民のサイドで立て直すのは、国連の出番というしかない。ちょうど、資本主義草創期の無制限の労働時間に対し、公的権力によって八時間労働制が実現してきた時代のように。


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随筆  またまた開催、教室音楽パーティー    文科系

2024年10月04日 21時23分55秒 | 日記
 ここへも何回か書いてきたけど、標記のことがこの6日、日曜日午後にある。中区伏見のある貸し会場を借りて。こういう企画は、僕の晩年への一つの夢だったこと。遡れば2008年から何らかの形でこれを開いて、あるいは開いてもらってきたことになる。
「美味しい料理と良い酒と、そして、音楽を皆で奏で合う」
 僕の教室は先生が二胡も教えているからこれを習う人も含んで、出席総勢12人予定だ。この日に向けて僕は牛肉赤赤ワイン煮とラム酒として世界に名高いロンサカパ・センテナリオを持ち込もうと目論んでいて、牛肉は黒毛和牛の腿400gを注文済みだ。明日作る予定だが、上手くいくかどうか。
 僕が弾く曲だが、一つは先生との二重奏でソル作曲の「月光」、今ひとつはバッハの超有名なチェロ組曲第一番(バッハ作品番号BWVの1007番)のプレリュード。イギリス人ジョン・デユアルテという人のギター用編曲物を予定している。月光二重奏はもう一人のある女性がやると分かっているのだが、これは全く違う編曲物であって、二つ揃って、はてどうかという面白い趣向になっている。

 音楽と美食と酒とは、古から高貴な人々らにとっても最高の楽しみ方の一つ。それを参加享受者自ららの演奏でやるわけだから、楽しさ至極と、若い頃から自分の老後に向けて思い描いてきたものである。料理も酒もそれぞれ皆の持ち寄りだというのも、興味深いことなのだ。女性が多いから料理も面白いし、それが面倒な人は何かのつまみを買って参加すれば良いわけで、その趣向も楽しみになる。

 第2ステージ癌から膀胱摘出で走る楽しみがなくなって、僕に残った音楽と同人誌活動とが人生の支えになっている。この三つのことを晩年活動として準備してきて幸せだったと、色々振り返っているところだ。

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随筆  「失せ物」探し、その思考能力   文科系

2024年10月02日 11時37分09秒 | 日記
 連れ合いの「失せ物」家探しを長く笑っていたが、いつの間にかこれが僕にも伝染してきた。先ず眼鏡である。亡くなった連れ合いの母さんが眼鏡の蔓二本に首掛け紐を付けていた理由が今になって年々よーく分かって来るのだ。でもこれは原因思考を繰り返すと探し慣れてくる。「置き忘れた」場所を忘れても、その場所が決まっているからだ。新聞・書物読み、パソコンの近く、そしてトイレなど、主として活字を読む場所である。ただこれも、そこから落ちて床などにあると、知らぬうちにスリッパに引っかけたりして、「訳の分からない所」に飛んでいたりするから、とんでもない難儀をする。

 さて、耳穴式耳穴式補聴器となると、困難は何倍にもなる。小さくて、転がりやすいからだ。ただ補聴器は一個十ウン万円もするから、どれだけ時間をかけても探し続けることになる。先日もこんなことがあった。
 居間でテレビを見ていて右の機器を外し、座っていたソファの右肘掛け材上に乗せた。それがコロッと下に落ちてしまったのを、「明日探せばよい」とそのままにしてしまったのがいけない。翌日どれだけ探しても見つからぬ。周囲のカーペットの上「すべて」や家具の下などは懐中電灯で照らし回っている間には、日頃の物忘れの多さから、こんなことさえ頭をかすめる。
〈ここで、こうなくしたというのが夢か思い込みだったかも知れない〉。
 連れ合いが手伝ってくれても見つからぬままに、3日ほど過ぎた頃、今度は左耳のをなくした。あまつさえ、このたびはどこでどうなくしたかの記憶もあやふやを通り越して、探し方も浮かばなかった。右のをほぼ諦めてから一週間近くたって「両方なくしたら、大変だ。30ウン万円!」、連れ合いも一緒になって必死に探していたら、先ず左が見つかった。僕の書斎の机の上から落ちたらしい全く意外な場所からちょこんとのぞいていたのに偶然目が行ったのである。それからまもなく連れ合いの声「あったよーっ!」で駆けつけると、居間の端っこ、縦長の小さな四つ足飾り台を移動させたら、そこにあったと言う。多分、懐中電灯の光から外れた四つ足窪みのどこかに沈んでいたのだろう。こんな遠くの台を移動させなければ見つからないような形にまで、飛んでいたのである。
 家の修繕など出費が多く小遣いがないときだったので、もう嬉しかったこと、活動力が落ちてきた最近としては珍しい人生の幸せ、歓喜だった。
 捜し物はやはり思考では手に負えない。連れ合いのような試行錯誤の努力、苦労を厭わぬ者こそ、得意な技になる。
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