九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

望郷の詩人杜甫に想う その2 飛天

2006年10月31日 09時32分27秒 | Weblog
 765年、洛陽、長安の地を目指して杜甫は家族を連れて成都を旅立ったが、都周辺の情勢は安定していない。杜甫の体の事情もそれを許さない。杜甫は糖尿病を患い、さらに喘息と関節炎が彼を苦しめる。長江を下る途中、やむをえず奉節の地にしばらく留まらざるをえなかった。山中に草庵を設け、約2年間の時を過ごすことになる。川幅が一気に狭まり急流となって流れ落ちる三峡のはじまりが、瞿塘峡である。瞿塘峡を過ぎ巫峡に入る直前に奉節はある。三国志で有名な白帝城のすぐ手前にある。その地での最高の名詩を次にしめす。

 登 高

 風急天高猿嘯哀   風急に天高くして 猿嘯哀し
                      (えんしょう)(かな)
 渚清沙白鳥飛廻   渚清く沙白くして 鳥飛廻る
             (なぎさ)(すな)(ちょうひ)(めぐる)
 無邊落木粛粛下   無辺の落木は粛粛として下ち
             (むへん) (しゅくしゅく) (お)
 不盡長江滾滾来   不尽の長江は滾滾として来る
             (ふじん)  (こんこん) (きた)
 萬里悲秋常作客   万里 悲秋 常に客と作り
                        (かく) (な)
 百年多病獨登臺   百年 多病 独り台に登る
                     (ひと)
 艱難苦恨繁霜鬢   艱難 苦だ恨む 繁霜の鬢
        (かんなん)(はなは)(うら)(はんそう)(びん)
 潦倒新亭濁酒杯   潦倒 新たに亭む 濁酒の杯
            (りょうとう)(あら)(とど)

 病多く、生活にも苦労している杜甫の哀しみが切々と伝わってくる。高台に登って眺める風景が最初の四行まずに示され、続けて杜甫自身の心情を詩いこむという構成がすばらしい。その風景を瞿塘峡の出口で我々も眺めることが出来る。
 三峡下りの船旅の際、白帝城に立ち寄ることになるだろうが、その際、そのすぐ西に杜甫が草庵に住んでいたことを思い出して欲しい。

  登岳陽楼

 昔聞洞庭水   昔は聞く 洞庭の水
                (どうてい) 
 今上岳陽楼   今は上る 岳陽楼
              (のぼ)
 呉楚東南坼   呉楚は 東南に坼け
                     (さ)
 乾坤日夜浮   乾坤は日夜に浮かぶ(乾坤=天地)
           (けんこん)
 親朋無一字   親朋 一字無く(一字=一字の消息)
          (しんぽう)
 老病有孤舟   老病 孤舟有り
              (こしゅう)
 戎馬關山北   戎馬 関山の北 (戎馬=戦争)(関山=関所の置かれた山々)
          (じゅうば)(かんざん)
 憑軒涕泗流   軒に憑れば 涕泗流る
          (のき)(よ) (ていし) 
 
 768年、奉節を去り三峡を下る。杜甫の舟は洞庭湖のあたりを一年数ヶ月もさまよい続ける。そのときには、杜甫一人の放浪の旅である。
 その途次、岳陽楼に寄りこの詩を読む。年老いて、しかも関節炎・糖尿病で身体は自由に動けない。友からの便りは届かない。一人舟に乗って旅をする杜甫の深い哀しみが、この詩を読む人の心を打つ。「憑軒涕泗流」、岳陽楼の上で本当に杜甫はとめどなく涙を流したのであろう。

 770年、岳陽と長沙の間を流れる湘江をただよう舟の上で五十九才の一生を終えることとなった。

 三峡下りの途中、洞庭湖を訪れた私は、岳陽楼に登り洞庭湖を見渡した。水蒸気に霞む水面(みなも)に漂う小船を見たとき、「杜甫はこのように漂っていたのであろう」と思うとともに、杜甫の成都を離れて以降のさすらいの旅と、その終焉に思いを馳せた。杜甫の深い悲しみと望郷の思いに、胸を締め付けられるような感慨を覚えたのを思い出す。

 さらに、赤壁の戦いを前にして、呉の水軍が軍師周瑜の指揮のもとここ洞庭湖で訓練を重ねた歴史事実にも想いを馳せられた。
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望郷の詩人杜甫に想う   その1 飛天

2006年10月30日 21時53分23秒 | Weblog
 松尾芭蕉も杜甫を好み、傾倒していたようである。芭蕉の遺品のなかに「杜子美詩集」(杜子とは杜甫のこと)があり、生涯を通して杜甫を尊敬していたことが窺える。「奥の細道」の冒頭にも、杜甫の人生のように、「旅の道中」で息を引き取りたいと述べている。
 有名な冒頭の部分を次に記す。「月日は百台の過客にして、行かふ年も又旅人也。‥‥古人も多く旅に死せるあり」と。この「古人」を西行、宗祇などと解釈する場合が多いが、私はそれに杜甫を加えて考えている。
 中尊寺に立ち寄ったときの有名な俳句、「夏草や 兵どもが 夢のあと」の前の文章に、「さても義臣すぐってこの城にこもり、功名一時のくさむらとなる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと」と杜甫の詩「望春」を引用している。

 この「望春」の詩は、安禄山の乱の最中に賊に捕らわれ、幽閉中の作である。都長安は破壊され、幽閉から逃げ出した杜甫は流浪の旅の果て、天険の蜀道を通って成都へ行く。成都では、知人でもある蜀の長官厳武から官職を得て、成都郊外に草庵を営み、やっと安定した生活に戻ることができた。その時代の代表的な名詩を次に示す。
  
 絶句ニ首 其ニ

 江碧鳥逾白   江碧にして 鳥逾いよ白く
           (みどり)    (いよ)
 山青花欲然   山青くして 花然えんと欲す
                   (も)
 今春看又過   今春 看すみす又過ぐ
                (み)     (す)
 何日是帰年   何の日か こ是れ帰年ならん
          (いずれ)      (きねん)

 この平和で落ち着いた生活のなかでも、長安・洛陽への望郷の想いは絶つことはできないのだ。瑞々しい春の情景を歌ったあと、「今年の春もまた過ぎていった。いずれの日に、長安に戻れるのであろうか」と。            

 成都の草庵に住まう杜甫のもとに河南・河北の地が賊の手から回復された知らせが届く。故郷洛陽へ戻ることができるようになった杜甫の喜びがいかほどか。その喜びを胸に次の名詩が生まれる。
         
  絶句四首 其一

 両箇黄鸝鳴翠柳   両箇の黄鸝 翠柳に鳴き
             (りょう)(こうり)(すいりゅう)
 一行白鷺上青天   一行の白鷺 青天に上る
            (いっこう)(はくろ)  (のぼ) 
 牖含西嶺千秋雪   窓に含む 西嶺千秋の雪(成都の北西に聳える雪山)
                   (せいれい せんしゅう)
 門泊東呉萬里船   門には泊す 東呉万里の船(東呉=現在の南京市周辺)

 「洛陽へ向かう」という想いを胸に秘め、窓から見える美しい風景を絵画的に詠っている。
 「東呉萬里船」の語に杜甫の篤い思いは込められていよう。万里離れた東のほうの呉の沢山の船が停泊しているのを見て、杜甫は長江を下り、呉を通って洛陽へ帰れる日を願ったことであろう。
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日本国は君主制か?共和制か?  落石

2006年10月30日 09時38分07秒 | Weblog

日本国憲法第一条
 天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって
 その地位は主権の存する日本国民の総意に基づく。

分かったような分からないような条文。
これって君主制ということかな?
そこで読んだ本が「天皇がわかれば日本がわかる」
               (斎川真)

以下、簡単な紹介。

天皇は、なぜ続いたのか?
   天皇家が滅びなかったから。

なぜ滅びなかった?
   政治の主導権力(武家)が滅ぼさなかった。

なぜ?
   
   天皇を打ち倒し、自分を唯一の権力とする
   政治思想を持たなかった。
   中国のように、「天」「天命」のような抽象的な
   思想が存在しなかった。
   (採り入れなかった。稲作文化は中国では豚の飼育と
    セットであったが、豚は採り入れなかった)

   また、天皇が直属の軍を持っていなかった。
   軍事抗争から離れた位置にいたことが幸い。
   (後醍醐天皇は例外的)

また現在の日本国について、革命がなかったことから、
今日の日本は「大東亜戦争」を戦った日本の後継者である。
としています。

著者の結論は、次々に様々な政治形態が積み重なって
出来ているのが、現在の日本国という考えです。
つまり、

  部族制+律令制(江戸時代まで)
  +イギリス・プロシャ政体(明治から敗戦まで)
  +アメリカ政体の混合政体(敗戦後から現在)

という混合政治体制だそうです。
天皇は律令制で誕生した権威で、確かに、
現在もつづいていますね。

       


そう言われれば、
「日本国民」の総意という部分の「 」のなかが、
武家から日本国民に変っただけかも。


日本は辺境。文化の吹き溜まり。
政治体制も吹き溜まり的? 
結論は君主制???

一条と九条はセットだそうです。
一条を保障するために九条があるとか。
天皇制は平和とセットということかな?
ならば君主制でも良いか?


   

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私の戦争体験記・・学徒挺身隊での体験、そして終戦。 爺老 77歳

2006年10月29日 00時22分22秒 | Weblog
母の実家も空襲で燃えてしまい、私たちは海部郡の戸田にある親戚の家で間借りをしていて、私はそこから勤労動員に通っていました。
 幸いその親戚は酒造業でしたので、いつも腹ペコの中学生には助かりました。その頃はひどい食糧難で食べ物が手に入りにくかったのです。
 ある日、日本陸軍の印をつけた大きなトラックが来たのです。見るとお米が満載されているではありませんか。降ろすのを手伝おうと近寄ったら 「近寄るな!」と叱られました。お酒を作らせて軍に納めさせる為の物だったのです。
 私たちの楽しみは、酒を搾った酒かすから「直し」を搾った後の粕を頂き、乾燥させて「だんご」や「せんべい」にして食べる事でした。 甘みに飢えていた頃で、甘くてとても美味しかったです。
 私は戸田から毎日工場に通っていました。
 さて、そんなある日、僕たち学徒挺身隊に新しい命令が下りました。
 名古屋駅に集合し、行き先は告げられず汽車に乗せられ、着いた所が豊橋でした。そこからまた田原線で田原まで行き、そこからは歩いて渥美半島の先端までつれて行かれました。
 その晩から、何軒もの農家に分散して寝起きしました。その夜は支給された毛布に蚤が一杯で寝られませんでした。翌朝は早くから蚤取り大作戦でした。
 我々を待っていたのは、渥美半島先端の陣地構築の手伝いでした。
 半島の先端の山の陣地作りで出る土を運び出して、敵に見つからないように草を被せる仕事でした。モッコという土運びの道具を使うのです。大人だったら前後に一つづつぶらさげて運ぶのですが、何しろ腹ぺこの中学生には二人で一つがやっとでした。
 作業していて怖いのは、敵機です。もうその頃はアメリカのグラマン戦闘機が昼夜を問わず飛来していました。
 グラマンは、音を隠すためエンジンを切って海側からフアーッと山の上まで上がって、再びエンジンをかけて機銃掃射するのです。
 動く物は何でも撃ちました。遊びに出たチョコチョコ歩きの子供が撃たれたと聞きました。
 また、夜艦砲射撃の音もよく耳にしました。
 ある日、南の海をみていたら、ずーと沖に帆柱の様なものを沢山見かけました。それが とても速く近づいて来ます。 凄く速い船だな、と見ていたら、どんどん上昇を始めるではありませんか。
 そして水平翼も見え、大きな爆撃機の大群だと気付きました。
 半島の先端では一万メートルの高さです。それは、四・五十機の大編隊でした。
 それが右側に旋回し、東の方で黒煙が上がり始めました。
 豊川には、海軍工廠がありました。そこが大爆撃を受けていたのでした。
 そこには、私たちと同様に多くの男女学徒が働いていたのです。

 山の陣地作りの作業で、掘り進むための鳥居型の木材の運搬を命ぜられました。
 重い丸太を大八車に積んで坂道を登りかけた時、グラマン戦闘機に見つけられ繰り返し攻撃されました。その時 銃弾の破片で足にかすり傷を受けました。幸いかすり傷で済みましたか゛後でリンパ腺が腫れて難儀をしました。

 その頃、広島に新型爆弾が落ちたと聞きました。
 寝泊りしていた農家の人たちも、「どうなるんでしょう?」ととても心配していました。私も「もう皆死んでしまうでしょうね」と言いました。
 その頃私は、本気で近いうちに死んでしまうのだと思っていました。それはその頃、若者や中学生の間でよく読まれていた「葉がくれ」という本があり、その中の「武士道は死ぬことと見たり」という言葉が心に焼き付いていからでした。

 数日後、「食糧倉庫がやられて食料が無いから」という理由で、私たちは帰されました。リンパ腺で腫れた足を引きずって、やっと戸田へ帰りつきました。
 足を引きずり、髪はぼうぼう、別れに農家からもらつた「わかめ」と「西瓜」を肩の前後に背負いまるで敗残兵の姿でした。途中田原の近くで休んでいたら、近所の農家のお婆さんが、冷たい梅酒の水割りを飲ませてくれました。
 帰宅後、2日間、何も食べず眠り込んでしまいました。
 目覚めたら、電灯が蔽いなしで明るくしてあったので、吃驚しました。
 母から「戦争が終わったよ。」と言われ、やっと納得しました。
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名古屋の空襲について         ネット虫

2006年10月28日 23時51分59秒 | Weblog
・・・ウイキペディアによれば・・・

空襲の始まり

1942年4月18日にアメリカ軍のB-25爆撃機によるドーリットル空襲が行われ、名古屋にも初の空襲があった。

1944年7月、サイパンなどマリアナ諸島をアメリカ軍が制圧し、ここが日本本土に対する空襲の基地となった。同年12月13日、B-29爆撃機90機による、航空機関係の工場であった三菱発動機大幸工場(戦後、のちに三菱重工業名古屋工場、工場撤退後の跡地はナゴヤドーム)に対する初の本格的空襲が行われた。

天候等の関係から思うように爆弾はこの工場に命中せず、その後執拗に爆撃を繰り返し6回のこの工場に対する空襲でやっと壊滅的な打撃を与えた。工場に当たらなかった爆弾は周辺の民家に命中し、民間人の死者を多く出した。また、この12月13日には、「東洋一の動物園」と謳われた名古屋市東部の東山動物園においても、治安維持を理由に猛獣類が多数射殺された。

空襲は、最初は日中に三菱財閥系の工場や名古屋港など軍需関係を中心に行っていたが、1945年頃からは民家への空襲が始まり、3月頃からは焼夷弾による深夜の空襲が多くなった。

2月15日には焼夷弾2万発が市中心部の千種の三菱発動機工場周辺に落とされたが、これは3月の空襲に比べればまだまだ小さいものだった。

大空襲へ

3月12日の夜、名古屋市の市街地に対する大規模空襲が行われ、市の5%が焼失したとされる。

3月19日の午前2時頃、爆撃機230機(310機との説も)による名古屋市の市街地に対する大規模空襲が行われた。この空襲により一夜にして15万1332人が被災し(死亡826人)、家屋3万9893棟が焼失したとされる。中区、中村区、東区などの市中心部は焼け野原となり、1937年に竣工した国鉄名古屋駅の焼けこげた姿が遠くからでもよく見えたという。

6月には熱田空襲が行われ、約1000名にのぼる死者をだした。その後も空襲は行われ、名古屋市は他の大都市と同様に壊滅的に破壊された。

東山動物園では、1944年2月16日に一般観覧が中止され、軍が用地を接収した。戦況の悪化に伴い、いらつく兵士が動物園の重要書類を燃やしてうっぷん晴らしをしたり、食糧不足でドイツの動物園や木下サーカスから買い入れた動物も含めた多くの動物が餓死したりと苦難が続いた。

終戦後、更地となった名古屋市中心部に100メートル道路と呼ばれる久屋大通・若宮大通が作られた。
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「私の戦争体験記」空襲の記憶②       爺老

2006年10月28日 22時30分07秒 | Weblog
 身を寄せていた主税町の母の里がついに空襲に会いました。
 ちようどその日は叔父叔母は子供たちの疎開していた長瀬へいっていました。
 その晩は、私と姉と叔父の友達と昔からいた女中さん二人といました。しばらくすると空襲警報の合図。隣の山口夫妻と一緒に防空壕にとびこんで間もなく、あたり四面を震動せるような轟音がして、しばらくして見ると庭一面に火が飛散していました。 幸い、庭に落ちたのは油脂爆弾一発が書斎の外側の壁際に落ちただけで、火はそこから東側の池を中心にしたあたりに小さい炎になって一面に燃えているだけでした。炎は小さかったので手で水をかけたらすぐ消えるほどでした。消し終わって東の方を見たら、炎の赤い照り返しが見えたので、あわてて大屋根に登って見たら、隣の川瀬さんの家が焼け落ちて火の海、これはいかんと表に出て消防ポンプ隊を呼びに行き「永田さんの家に火が入る !!」と言ったが、「どこの小僧だ。」というような顔で取り合ってくれません。
 やむなく家へ戻ろうとしたら門にも小さい火がついていたので消し、家へ入ろうとしたら玄関の間の天井板の外れから大屋根裏まで見え、もう既に大広間の上まで火が入っていました。
 もう母屋は防ぎ様がありません。せめて、離れでも救えないものかと渡り廊下を外そうとしましたが、何も道具がなく、西側の戸をはずすことぐらいでした。
 その時、今村大尉が来てくれましたが、もう手がつけられませんでした。そこへ姉と女中さんが来て、火に囲まれると危険だからと、西の家へ抜ける非難口へ案内してくれました。
 もう諦めて全員避難しました。振り返ると、仏間から新屋敷まで火が入っていました。
 あくる朝、女中さん達が使い慣れた食器などを掘り出していた時、叔父叔母が帰ってきました。 叔父は「きれいに焼けちゃったな。」とすずしい顔をして言いました。今思えば叔父はどんな想いで言ったのでしょう。
                   
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こんなご案内があっても?  文科系

2006年10月28日 20時58分49秒 | Weblog
お世話になった友人のお子さんが、「新風やきもの5人展」というのをやります。プロ独り立ちを目指す陶芸の新人たちの作品展で、友人のお子さんは瀬戸窯業高校を卒業して、そこの研究科に通われています。学童保育の指導員を夫婦で勤めながら苦労して育てられたお子さんの晴れ舞台なのです。興味のある方は是非観にお出かけください。
プロの卵たちの「焼き物の新風」は、爽やかな一時を提供してくれるものと信じて疑いません。気に入ったものがあれば、もちろん買うことも出来ます。

 時 11月11日(土)~17日(金)11時~18時(最終日は~16時)
 所 ギャラリースミ3F(241-0628、千代田1交差点の西南西50m。
             千代田1は矢場町と千早との中間点南側です)
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北朝鮮核実験に関する・見解    九条 ひかる

2006年10月27日 17時12分06秒 | Weblog
 先日の「北朝鮮の核実験」以来、昭和区九条の会にも「どう考えているのか。」「抗議はしないのか。」等のご意見が寄せられています。
 事務局において話し合った結果、下記のような見解をブログに掲載することにしました。不十分な点もあるかと思いますが、皆様のご意見をお寄せください。

北朝鮮の核実験にきびしく抗議します
                  昭和区九条の会事務局見解
 北朝鮮が10月9日に地下核実験を行いました。『昭和区九条の会』は世界
平和を脅かすこの実験に断固として抗議します。また、北朝鮮の核実験は核
戦争の危険を更に増やすものであり、看過できない暴挙でもあります。
 国連安全保障理事会は、10月14日『北朝鮮制裁決議』を採択しました。決
議の内容は非軍事的な制裁とともに、六カ国協議への復帰、朝鮮半島の非核化
の履行を求めています。この方向で解決を図るべきだと思います。
 日本国内では、「なめられてる」、「軍拡も」という街の声もありました。
そうした世論に乗じて、改憲推進の中川政調会長らが「日本も核保有の議論を
すべし」と言い出す始末です。『非核三原則』に反した問題発言を安倍首相が
「自由な発言だから」と述べ、注意すらしないことは由々しき態度です。
 核保有国が増え、国内でも軍事大国化の動きが活発化し、核武装まで議
論されるようになった現在、「九条を守る運動」は、いっそう重要になって
います。
 1995年にオランダで『ハーグ世界平和市民会議』が、アナン国連事務総長
や各国首脳や市民団体を含め約100カ国の参加の下開かれました。その会
議では、10の基本原則を採択し国連総会に提出されましたが、第1番目の原
則は、『各国議会は、日本国憲法第9条のような、政府が戦争をする事を禁止
する決議を採択すべきである』が掲げられています。
 このように憲法第9条は、60年を経てますます世界平和の『羅針盤』として
輝きを増しています。仮に、武力によって一時期平和が実現しても、歴史は、
『みせかけの平和』を必ず崩壊させています。
『核兵器の廃絶運動』と『九条を守る運動』が世界を救うと思います。様々
な事象に惑わされることなく、平和を旗印に、九条を堅持しましょう。
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ドラ、また日本一おあずけに  落石

2006年10月27日 09時03分18秒 | Weblog

残念!!
それにしても1勝4敗とは。
なにか気持ちに違いがあったのか?
名将、落合監督の言。
「強いチームが勝つのではない。
勝つチームが強いのだ」。

やはり技術ではなく、
モチベーションに差があったかな?

   
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「私の戦争体験記」 空襲の記憶①       77歳 爺老

2006年10月26日 18時55分39秒 | Weblog
 中学三年生になつて、熱田区の工場へ勤労動員され、空襲に会って帰宅する途中死傷した人達の血で埋立地の水溜りが真っ赤になっていたことは前回お話しました。
 今回は私の家族が運の悪い事に二度も空襲に会った事をお話しします。

 名古屋の空襲が激しくなり、大曽根の三菱エンジン工場などが爆撃され、その後三日間北区西区などが空襲を受けました。
 その空襲で、爆撃が終わったB29が帰路、残りの爆弾を捨てていったのが運悪く私の家に命中し家は全壊してしまいました。しかし 私の特技で掘った防空壕のお蔭で、家族は幸い無事でした。 防空壕の出入り口の蓋は土で埋まり空気抜きの土管は地上スレスレできれいに切断されていました。
 その後数日間、父母は放心状態で何も手につかない様子でした。
 その後どこの人かも知れない人も加わり、爆弾の作った穴に吸い込まれた家財を(爆発の時の気圧の変化で何もかも吸い込んでしまう)掘り出しました。私も掘り出すのを手伝ったのですが、思い出の物が次々と土の中から現れるので、丁寧に土を払ったりして仕事が進みませんでした。出て来た物には、コードの繋がったラジオ(国民一号)・脚の折れたお釈迦様の誕生佛・赤土まみれの分厚い辞書。 そして掘り出した良い物はかなり手伝った人が持って行きました。
 また、その年の正月に遊んだカルタ類、天高く飛び散った百人一首が東側の林の中から沢山見つかりました。
 家が全壊したので、私は母の里であった東区の主税町に身をよせていました。私はそこから工場に通っていました。しかし、工場はエンジンが作れなくなっていたので、製品が出荷出来ず、掃除ばかりしていたので、罹災した私はしばらく工場を休むことが出来ました。
 そんな訳で、爆撃でやられた現場へ何日も通って残った家財を掘り出しました。しかしそれも馬車に乗せ中区にある家に運んだのですが、その夜の空襲でまた車ごと焼けてしまいました。
       
    
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知的世界に遊ぶ 長江古代文明の発見   飛天

2006年10月26日 13時08分48秒 | Weblog
 古代文明が発生したのは、ナイル河流域のエジプト、チグリス・ユーフラテス河流域のオリエント、インダス河流域のインド、黄河流域の中国で、四大文明発生地なのだと世界史の授業で学んだ。
 しかし、長江流域では何故古代文明が発生しなかったのかと、かねがね疑問に思っていた私は、中日新聞で良渚遺跡(りょうしょ、何年何月何日の記事かは忘れた。その内容については後述)の記事を読んで、やはり長江流域に古代文明があったのだと嬉しくなった。

 それゆえ、三星堆展が1998年に名古屋を通りこして、東京・京都で開催された時、いち早く京都博物館に駆けつけのだ。この展示は衝撃的であった。今までの中国古代文明についての知識をくつがえす異様な青銅器の数々に圧倒されたのである。後に成都郊外の遺跡そばに作られた三星堆博物館(ひとつの遺跡出土の博物館でこれほど立派なものは世界にも例がない)を訪れたときにも、その展示物の豊富さと異様さにますます圧倒された。
 高さ4mの巨大な神樹、幅138m、高さ65cmの「縦目仮面」などの豊富な青銅製品などなど、同時期の黄河文明・殷文化には見られない巨大な青銅器群なのである。しかもその異様さは驚くばかりであった。発掘調査によると、南北2000m×東西2100mの城壁と環濠に囲まれた、とてつもない巨大都市国家が約3600年前、殷と同じ時代に存在していたのだ。
 長江流域に古代文明があるはずがないという思い込みから脱却して、調査・発掘を続けた中国考古学者たちは続々と遺跡を発見していった。文部省補助金と京セラの援助金による、日中共同による四川省宝潡(ほうとん)遺跡と湖南省城頭山遺跡の発掘も大きな成果を挙げた。

 沢山発見された遺跡のなかでも、前記良渚遺跡は重要である。中国最古の王朝殷の時代よりも千数百年以前の浙江省で発見された、まだ金属の使用を知らない新石器晩期の文化である。この遺跡からは、大量の玉器が発掘された。その作成技術はきわめて高く精緻をきわめている。
 この良渚文化が黄河文明に与えた影響は大きいようである。その最大のものが玉器尊重の思想であろう。そのなかでも、玉璧は殷・周でもきわめて尊重され、秦の始皇帝が和氏の玉璧を10数城と交換してでも手にいれようとした歴史事実がある。玉鉞(えつ)は殷・周では青銅器で作られるようになり、王権・軍事統率権の象徴として、戦場に臨む国王が手に掲げるようになった。さらには殷の青銅器に描かれている文様「トウテツ」文は良渚の玉器に描かれた恐怖の目玉を持つ精緻な文様が受け継がれているのだ。
 さらに、鼎(三本足のかなえ)・壺・豆(ズ、高杯のこと)の土器の3点セットが殷以降の中国土器の伝統になる。鼎は殷時代には大型青銅器でも作られ、王権の象徴とされるようになる。高度な絹織物、漆器は黄河文明を越えて中国の特産物として受け継がれていくことになる。

 遺跡ごとに触れていくと紙面はいくらあっても足らないので、現在判明している重要な内容を箇条書き風に列挙していこう。
 
1.それまでの定説では雲南地方で数千年前に開始されたとされてきた稲作が、1万4千年前に稲作が長江流域で開始されていたのだ。黄河流域に先立つことはあきらかであり、約1万2千年前のイスラエルジェリコ遺跡が世界最古の農耕とされてきたが、それを約2千年以上もさかのぼっているのである。

2.日本への稲作の伝来は朝鮮経由説と中国南部経由説の2説あったが、いずれも否定され、長江流域から直接日本に伝来したと断定できる。しかも、縄文晩期の日本の各地で発見された籾は、長江流域の河姆渡遺跡で大量に発見された籾と同一種熱帯ジャポニカ種で、DNA分析でも同一種であった。

3.土器の使用もメソポミヤ地方より4千年以上も古く、1万4千年前に長江流域では使用している。縄文土器の使用が1万年少し前に始まっているが、それよりはるかに古い。最近のニュースによると1万8千年前の土器が見つかったと報じているが、これはまだ確定とは言えない。

4.文明誕生一元説(農耕はメソポタミヤに始まり最古の年文明を生み出し、その文明がエジプト、インダスへ波及し、さらに黄河流域にも及んだとする)は完全に否定された。文明誕生多元説が正しい。

5.彭(ホウ)頭(トウ)山遺跡に示されるように、黄河流域の環濠集落(西安郊外の半坡遺跡の成立は6千年前)の成立より約2千年前にすでに長江流域では環濠集落が成立していた。

6.都市文明の成立も黄河流域よりはるかに早い。中国の最古の王朝である夏王朝(二里頭遺跡? 現在、中国ではプロジェクト・チームを編成して夏王朝の実在を論証しようとしている)、この二里頭遺跡が最古の都市文明と言えようが、それよりも約1千年前に良渚文化が長江流域で成立している。

7.夏文化は良渚文化の影響のもとに成立したと推定される。定説とは言えないが。その論拠はすでに一部述べてある。

 このように、中国文明史のみならず、世界文明史の書き換えを迫る大発見がこの長江文明の発見なのである。ところが、日本における考古学会やマスコミ取り扱いはきわめて冷淡である。したがって、このよう画期的な大発見が中国でおこなわれ、今も続々と新しい遺跡の発掘・調査が進行していることに、日本国民は気づいていない。
 それには様々な要因があるが、その一つは、日本の考古学界がF氏による旧石器の偽造問題からの完全にはまだ立ち直っていない、ということも影響していると私は思っている。二つ目に、日中共同発掘を進めた日本の学者が考古学者でなかったことが影響していると私は思っている。京都大学出身のもともと哲学者であった梅原猛氏が日本代表となり、直接発掘・調査にあたった安田喜憲氏はもともと地中海文明史の専門家である。考古学の専門学者ではなかった。専門学者のセクト主義、ねたみなどが、その背景にあるような気がしている。私の勝手な想像だが。勿論考古学者が全部そうだというのではない。橿原考古学研究所所長の樋口隆康氏は一貫してこの長江文明について理解を示しているし、私の尊敬している複数の考古学者もおそらく樋口氏と同じ見解であろうと思う。
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言論の自由の最もない北朝鮮  日本は何位?

2006年10月25日 11時16分16秒 | Weblog


パリにある国際言論自由監視団体「国境のない記者団」が
2006年の世界言論自由指数を発表。
さて最下位は、北朝鮮の168位。誰も依存はないでしょう。
163位は中国。これもそうかな。

アジアで自由度が高いのは?日本?
残念ながら、お隣の韓国で31位。
日本は51位。民族主義的傾向が強まって、
昨年より14段階、下がったそうです。
では、アメリカは?
ここも2002年の17位。2005年の44位。
そして今年は53位と日本と同じくらいだそうです。
似たもの兄弟ですね。

この指数はあくまでも参考でしょうが、
日本のランク、ちょっと低い気がしますが・・・・
イラクに行った民間人に対するバッシングなど
たしかに国家主義的風潮が強まっているからまあ妥当かな。

この記事は朝鮮日報からです。
中日新聞には韓国31位は、ありませんでした。
これって編集権のうちかな?

               落石

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保守系論客の歴史欺瞞・偽造を切る その6      千里眼

2006年10月25日 08時26分30秒 | Weblog
 中西輝政氏は極めて老獪である。彼の執筆態度には3通りあると私は思う。その一つは学術論文を書くときの態度で、きちんと論拠を明らかにし、その出典・史料についても示しながら、きちんとした論理で文章を構成していく。イギリス政治史の著作で「毎日出版文化賞」を受賞したことに示されているように、学者としては有能である。二つ目の態度は、雑誌論文を書くときの態度である。これは「歴史欺瞞・偽造を切る その5」に示したとおり、めちゃくちゃで、ウソとデマにあふれている。これを表現の「ブラック・ゾーン」とでも言っておこう。三つ目は、保守的思想・政策などについての書籍・単行本を執筆するときの態度である。「ブラック・ゾーン」の論理は極端に減少し、僅かしか見つけることはできない。その代わりに増えるのが、「グレー・ゾーン」の論理である。つまり、はっきりとデマ・ウソとは判断できないが、何となくおかしい、しかし間違っていると論証できない。この手の文章で論理を構成していく。さすがである。この点のみ取り上げれば、保守系最強の論客と言うこともできよう。

             パターン9.「グレー・ゾーン」のレトリック

 では、「日本核武装の論点」所収の彼の論文「『日本核武装』の議論を始める秋(とき)」を見ていこう。
 「吉田茂、鳩山一郎、岸信介、池田勇人、佐藤栄作の歴代総理は、実はみな核武装の可能性について考慮していた。最近明らかになった外交史料によると、池田首相や佐藤首相は日米首脳会議の席で、『中国が核武装をしたら、日本も必ず核武装する』と発言したことが明らかになっている」 「日本の国家指導者たちは『アメリカの傘』だけに頼ろうとせず、自らの力で国を守ることを念頭に『日本核武装』の可能性について堂々と言及していたのである」と中西氏は書いている。

・吉田茂以下佐藤栄作に至る歴代総理が核武装の可能性を考慮していた、という彼の指摘を否定する直接的資料を見つけることはできない。彼との直接の議論ならば、その証拠・論拠を示せ、と言うことができようが、読者にはそれはできない。つまり、これは「グレー・ゾーン」の論理なのである。
・さらに、池田・佐藤両首相が「日本も核武装する」と発言したと書いているが、その論拠となる外交文書を、中西氏が提示しない限りこちらは検証できない。「そんな発言をするはずがない」では、論破できないからだ。これも「グレー・ゾーン」の論理である。

 「佐藤内閣では不用意にも『非核三原則』が“国是”とされ、日本は「世界の大国」になる道を捨て、「経済大国」だけの道を選択するようになる」‥‥「世界の大国に伍して国際情勢に進んで影響を及ぼす国になろうという大目標をあきらめ、経済至上主義で進んできた間に、日本を取り巻く国際秩序は大きく変質していたのである。それに気づかずに、いまだに日本のリーダー層の中には『これまでうまくやってこられたのだから、こちらから争わなければ平和は保たれる』と考えている者が少なからずいる。それが、いまこの危機に直面している国としての意思統一を阻んでいる最大の要因と言わざるを得ない」と中西氏は書く。

・彼の言う「世界の大国」とはどんな国を言うのだろうか。経済的な大国でないことは、後の文面から明らかである。憲法9条を捨て去り、交戦権を認め軍事力の強化をはかり、さらには核武装をする。そうした軍事大国にならなければ、中西氏の言う「世界の大国」とは言えないのだろう。そうしなければ、国際的発言権はないと中西氏は考えているようだ。
・「国際情勢に進んで影響を及ぼす国」になるには、軍事力の強化はいらない。国際平和に貢献しようとする国としての意思の強さが必要だと私は思っている。諸外国から尊敬される国であれば、それだけで大きな発言権を握れるはずだ。そういう国に日本がなって欲しいと私は思う。

 「中国や北朝鮮が日本に対し、自らの核戦力を背景にして通常の軍備で武力攻撃したり、脅したり、あるいは核による嚇しをほのめかしたりした場合に、もし彼らが核による現実の行動に出れば直ちに確実な報復を受ける、という見通しを持たせることが、それらの国々の核攻撃、核威嚇、そして一般侵攻を抑止することにつながる」と中西氏は言う。

・この節の中見出しを「核攻撃の脅威に対しては、やはり核による抑止しかない」と中西氏は書いている。これが彼のこの論文の中核的結論なのである。
 これは、彼の現在の国際情勢の把握とこれは関連している。「冷戦は終わっていないということは、単に共産主義国家が残っているという意味ではない。‥‥謀略や秘密工作という手法で他国を、そして世界を支配しようとする覇権主義を本質とする共産主義運動が残っている限り、‥‥冷戦は決して終わっていない」(正論9月号論文)という国際情勢の把握とこれは関連しているのである。彼は、これを別の論文で「新たな冷戦構造」と表現している。
 この国際情勢の把握は、本質的に誤っている。この点について後日、全面的に私なりの見解・把握を展開したいと思っている。

 この書籍の他の論文について触れるスペースの余裕はなくなった。他の論文も中西論文と同じく、「ブラック・ゾーン」「グレー・ゾーン」の論理が多用されている。内容については、「歴史欺瞞・偽造を切る その4」で触れているので、省略することにする。
 ただ一つ面白いので、終わりにあたって、平松茂雄氏の「中国核戦略の標的は日本だ」のなかの一節を紹介しておく。
 「中国は‥‥有人宇宙船を複数打ち上げて、それらをドッキングさせ、宇宙ステーションを建設して、そこからミサイル防衛システムを運用している軍事衛星をレーザー兵器で攻撃するだろう」 「それ故、中国は遠からず宇宙ステーションを建設するとともに、宇宙兵器を装備し、それに関連した技術を有する軍人、専門家からなる宇宙軍を編成し、宇宙軍事基地を建設することになるだろう」と。
 映画「スター・ウォーズ」の見すぎで、頭がおかしくなったのであろう。
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「蟻の兵隊」いよいよアンコール上映。     まもる

2006年10月24日 18時20分49秒 | Weblog
今も体内に残る無数の砲弾の破片。それは“戦後も戦った日本兵”という苦い記憶を 奥村 和一 ( おくむら・ わいち ) (80)に突き付ける。
  かつて奥村が所属した部隊は、第2次世界大戦後も中国に残留し、命令により中国の内戦を戦った。しかし、長い抑留生活を経て帰国した彼らを待っていたのは逃亡兵の扱いだった。世界の戦争史上類を見ないこの“売軍行為”を、日本政府は兵士たちが志願して勝手に戦争をつづけたと見なし黙殺したのだ。
 「自分たちは、なぜ残留させられたのか?」真実を明らかにするために中国に向かった奥村に、心の中に閉じ込めてきたもう一つの記憶がよみがえる。終戦間近の昭和20年、奥村は“初年兵教育”の名の下に罪のない中国人を刺殺するよう命じられていた。やがて奥村の執念が戦後60年を過ぎて驚くべき残留の真相と戦争の実態を暴いていく。
 これは、自身戦争の被害者でもあり加害者でもある奥村が、“日本軍山西省残留問題”の真相を解明しようと孤軍奮闘する姿を追った世界初のドキュメンタリーである。
                                      ※このほかネットで「蟻の兵隊」を検索すると沢山の支援のサイトが載っていました。名古屋での上映はと調べてみると8月5日から二週間開かれていました。

 今後の予定としてアンコール上映が 11月18日(土)より12月1日までシネマシスコールで行われます。                        上映時間は10時30分と2時10分のニ回 料金は千四百円
 シネマシスコールは名駅西ビッグカメラ北西らしいです。tel 052-452-6036

四日市中映シネマックスでも12月9日より、tel 059-353-3832
                                                                                 

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お里が知れた? 落石

2006年10月24日 13時13分34秒 | Weblog

前からNHKの7時のニュースの拉致問題に対する扱いが
新聞とは違っていると感じていました。
「分かるけど、大きく扱いすぎじゃない」と、言った感じです。

政府が、NHKに拉致問題放送命令を考えているという報道。
なるほど、そうだったのか!と、思わせてしまいます。

放送法33条
 総務相はNHKに対して放送事項などを
 指定し、国際放送を命じることが出来る。

この条文が根拠になっているようです。
しかしNHKには、命令を出して放送を義務づけるような
怠慢などがあったのでしょうか?
その点は???です。

安倍政権は北朝鮮への経済制裁に熱心です。
しかし、その効果はどうでしょうか?
イラクでは成功したでしょうか?
わが大日本帝国の場合はどうだったでしょう?
アメリカの経済制裁に対して、どんな行動を取ったのか?
経済制裁は、直接的な効果はありません。
当分、我慢比べが続きます。
そんな事は十分に承知でしょう。
では、何故にそんなに熱心なの?

敵は本能寺。案外、国内対策あたりがホンネかも。
この命令がすんなり通れば、問題は、NHKに止まらず、
放送界全体に、さらにはマスコミに大きな影響を与えるでしょう。
挙国一致的雰囲気が醸成できます。
拉致家族のために一致して=国家のために一致して・・・

そうなれば、教育基本法の改定、憲法改定もスムースに。

などと、ついつい下司のかんぐりをしてしまいました。
いや、政治家というもの、そんな卑怯な手は使わず、
正々堂々と国民に説明責任を果たしているはずですね。

    国民カエル



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