アフガン・イラク・北朝鮮と日本

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灰谷文学の毀誉褒貶

2007年04月29日 23時48分10秒 | 一人も自殺者の出ない世の中を
 私のブログは、そもそもは「911テロとアフガンは何故起こったのか?」という事を出発点にして、その後の北朝鮮・拉致問題の発覚やイラク戦争開戦を経て、今の「戦争も人権抑圧もNO!」というスタンスに行き着いたのですが、改めて読み返すと、リストラや教育問題に関する記事が大半を占めている事に、今更ながら気付かされます。
 特に、「反リストラ・格差社会」「労基法・ホワイトカラー・エグゼンプション」「教育基本法」関連カテゴリーの記事などはほぼ全てがそうですし、その他の、例えば「北朝鮮・中国人権問題」関連記事にしても、その根底にあるのは、前述カテゴリーの「格差社会」批判記事と同じ、人権抑圧や差別・搾取に関する憤りです(だから、同じ北朝鮮や中国を批判する場合でも、国家主義的な立場からのものとは、どうしても相容れない部分がある)。私自身、「金八先生」「めだか」「ごくせん」などのアンチ差別教育モノや、「コーチ」「ハケンの品格」などのアンチ・リストラ・ドラマには、いたく共感を覚えたりします(但し、「ハケンの品格」に垣間見える派遣業界ヨイショには断じて容認出来ないが)。

 そういう中で、ある時にある人から読むように勧められたのが、灰谷健次郎氏の著作でした。この方は、去年お亡くなりになられた方ですが、「兎の眼」「太陽の子」「せんせいけらいになれ」などの一連の児童文学作品で、その名を知られています。私は、この人の名前は知っていましたが、書いた物はまだ一度も読んだ事がありませんでした。
 その中でもとりわけ勧められたのが、前二者「兎の眼」「太陽の子」です。私はその両方を読みましたが、とりわけ前者の「兎の眼」の方に、最初に読んだという事もあってか、より強いインパクトを感じました。但し、世間の評価では、逆に後者の「太陽の子」の方が、より完成度が高い作品だという事の様ですが。

 そしてその「兎の眼」ですが、もう面白いの何のって。前述のアンチ差別教育やアンチ・リストラ・ドラマと同じ目線の作品なのです。こんな作品が既に70年代に世に出ていた事に、私はそれをつい最近読むまで知りませんでした。
 「兎の眼」のあらすじは、関西地方の下町の小学校に赴任してきた新米女性教師の小谷先生が、ゴミ焼却場で働く家庭の子ども達や、風体はパッとしないが子ども達には絶大な人気を誇る足立先生との交流の中で、次第に成長していく物語です。今風に言えばTVドラマの「めだか」に近いノリかな。一昔前のドラマで言えば、村野武範主演の「飛び出せ青春」とか、竜雷太主演の「これが青春だ」辺りになるのかも。

 その物語の中では、鉄三という子どもが、とりわけ、もう一人の主役として登場しています。この子は、先のゴミ処理場の家庭の一人で、小谷先生の受け持ちの子どもでもあるのですが、何と処理場のハエをペットとして飼っているのです。勉強が出来ず身なりは汚い上にハエまで飼っているので、他の多くの先生からは疎ましく思われている、そういう子どもです。小谷先生は、そんな一癖も二癖もある慣れない職場で、子ども同士のものすごい喧嘩を目の当たりにして卒倒してしまったり、親から掴みかかられて翻弄したりする中で、やがて鉄三につきっきりで字を教えるようになり、そこからゴミ処理場の子ども達や足立先生とも付き合うようになります。
 小谷先生は、ハエを飼っている鉄三にも平等に給食当番をさせて他の先生から顰蹙を買ったり、知恵遅れの転校生みな子を普通学級に引き取って他の父兄から「勉強が遅れる」と睨まれたりするのですが、そんな中でも、ゴミ処理場の子ども・親たちや足立先生たちの力もあって、小谷学級の子どもは次第に成長していきます。鉄三も、近くのハム工場のハエ駆除に一役買って表彰されたりしました。
 そんな中で最後に、ゴミ処理場の移転話が一方的に持ち上がり、小谷先生たちが反対の署名集めをしたり、足立先生が抗議のハンストに打って出たりする中で、その反対署名を最初は疎ましく思っていた父兄たちも、次第に協力するようになっていく所で、物語は終わります。

 それを、児童文学の平易な文体で、さり気なく書かれているので、私はそれに引き込まれて、いつも読んだ後にはドラマ「めだか」を見終った時と同じ余韻を味わっていました。しかし、その一方で、そういう灰谷健次郎の文学作品に対して、批判的な見解が表明されている事も、やがて自分の知る所となりました。例えば、清水真砂子氏による灰谷文学批判などが、そうだと言うのです。
 この「灰谷批判」についてですが、実は私自身未だにその正確な内容を把握出来ていません。関連本についても読もうと入手を試みたのですが、先の清水氏の批判本「子どもの本の現在」にしても、既に絶版になっていて手に入りませんでした。また、その他の関連本にしても、どんなものがあるのか調べてみましたが、よく分りませんでした。そんな状況であるにも関わらず、ネットで得られた断片的な知識のみを基に「灰谷」批評や「灰谷批判」批評をするのは、聊かおこがましいのではないかという気がしましたが、それでも敢えて書く事にします。それは、一連の「灰谷批判」の中に、「今まで気付かなかった別個の視点」や「今までの自分の視点に欠けていたもの」を感じるからです。

 灰谷文学に対する批評としては、「童心主義に偏している」「子どもを美化し過ぎている」というものがあります。例えば「兎の眼」という当該作品のタイトルにしても、小谷先生がかつて見た奈良・西大寺の善財童子像のやさしい眼差しを「兎の眼」に見立てて、それに子ども達の眼差しを重ね合わせたものです。
 「出来の悪い子ども」や「虐められっ子」に向けるその「やさしい眼差し」は、強者・英雄をそのマイナス面(侵略・略奪・レイプなど)も含めて無条件に肯定称揚する石原文学とは凡そ対極に位置するものですが、その灰谷氏の「やさしさ」の裏には、実は「鼻持ちならないエリート」や「虐めっ子」という「石原的なモノ」に対する「憎しみ」が隠されていて、それが「童心主義」や「子ども美化」として現われているのではないか―という批評です。
 例えば、先の「兎の眼」にしても、臼井鉄三や春川きみなどのゴミ処理場の子ども達や、バクさんなどの親たち、小谷先生や足立先生については、どこまでも「どこか憎めない愛すべきキャラ」や「弱いものの味方」として描き、読者をその虜にしてしまうのに対して、その反対に、小谷先生の事を全然理解しようとしない旦那や、ゴミ処理場の子どもや親を疎ましく思っている教諭、校長、父兄、役場の人間については、「無味乾燥な取るに足らないノッペラボー」として切って捨ててしまっている事に、ふと気がついたのです。
 確かに灰谷氏は、これらの人物についても、決して悪し様に罵ったりこれ見よがしに醜く描いている訳ではないのですが、「取るに足らないノッペラボー」として、恰も自明の如くサラリと描いている事に、初めて気がついたのです。いくら無味乾燥で取るに足らなかったとしても、その人にはその人が生きてきた人生があり、その人の言い分があるにも関わらず、その余りにもサラリとした無関心な描き方が、見方によっては非常に残酷な描き方である事に、改めて気付かされました。

 ここまで書いてしまったらもう、自分の恥をさらけ出してしまいますが、この「灰谷批判」は、実は、私に対して向けられた批判でもあるのではないか、と。私の作風の中にも、結構そういう所があるので。例えば、「金八先生」vs「千田校長キャラ」とか、「ネットカフェ難民」vs「御手洗ベンジョ、安倍マルコス」とか、そういう所に。
 何故そういう作風になるかという事については、自分自身でもその原因については薄々ながら気がついているのですが、それを書き出すとプライベートな自分史にも立ち入らざるを得なくなりますので、ここでは敢えて書きません。ただ言える事は、この世の中には、客観的・一般的な「弱者vs強者」の搾取関係や階級対立が厳然と存在していますが、それとは別に個人レベルでも「弱者vs強者」の関係があり、それを一般的な「弱者vs強者」関係に解消する事は出来ない、という事です。

 以前、奄美大島出身の若者たちが、ヤミ金に雇われて、身寄りの無い老人夫婦を散々食いものにした挙句に鉄道自殺に追い込むという、悲惨な事件がありました。この八尾ヤミ金心中事件は「下流喰い」の縮図とも言える事件でしたが、しかし果たして、離島出身の失業青年も身寄りの無い老人夫婦も、同じ弱者という事で括れるでしょうか。確かに一般的・客観的な意味ではどちらも「弱者」です。一番の強者はヤミ金であり、そういう闇金を蔓延らしている新自由主義の格差社会である事に間違いありません。しかし個人レベルで捉えれば、絶対にそれはあり得ない。「身寄りの無い老人夫婦」からすれば、この「離島出身の失業青年」こそが、自分たちの生存を脅かす強者だったのです。
 また、今から約30年前に世に出た鎌田慧氏のルポルタージュ「自動車絶望工場」には、トヨタの期間工が過酷な労働条件の下で働かされている様子が描かれていますが、今はこのトヨタの期間工ですら、社員食堂を利用でき寮費も会社持ちであるという点では、同じトヨタの工場で働かされている派遣・請負の労働者から見れば特権階級である、という現実があります。

 そして、個人レベルでは、その時々の状況によって弱者になったり強者になったりして常に入れ替わるのであって、ある人が生まれてから死ぬまで、ずっと弱者(強者)であるという事は、まずあり得ません。そして、その事を認めなければ、この世の中は生きてはいけません。今は新米ペーペーの派遣・請負工や期間工やフリーターや平社員であったとしても、いつかやがてはベテランバイトや現場チーフや主任や課長として、部下や後輩を指導しなければならない立場になります。はたまた、今はまだ独身青年であっても、いつかやがては結婚して所帯を持って家庭を養っていかなければならない時が来ます。
 「俺は下請けやペーペーのヒラで上司や会社から搾取されている、俺は被害者であいつは加害者だ」という論理だけでは生きてはいけない時が、いつか来ます。その時になっても、相変わらず「被害者の論理だけ」で「加害者への憎しみ」を唯一の糧、エネルギー源として生きていくだけに終わるのか、はたまたその逆に「世の中や人生は所詮こんなモノ、椅子取りゲームで椅子を取られる位なら取る方を選ぶ」とばかりに居直ってしまうのか、それとも、上司や先輩としての任を全うしながら同時に弱者の味方でもあり続けられるのか、そこで初めて、その人の人間としての真価が問われるのではないでしょうか。

 そういう目で灰谷文学を見ると、今までは気付かなかった新たな視点がある事に、初めて気付かされました。そして、灰谷文学に対する批判というのは、それは取りも直さず、「兎の眼」「太陽の子」や「ショムニ」「コーチ」「ハケンの品格」で日頃の溜飲を下げて「B層社畜反動職制」や「安倍マルコス」「ネットウヨ」への蔑み・憎しみをバネにして毎日を送っている哀れな私wに対する痛烈な批判・皮肉でもあるのかと。おそらくこういう事を言わんとしているのではないでしょうか。
 そういう批判・言説に対しては、私も言いたい事があるし全面的に賛同はしませんが、しかし、今まで気が付かなかった大事な視点であり、ついつい見落としがちであった視点でもある、とは思いました。以上、批判本も碌に読んでいないくせに、恐れ多くも勝手な解釈を試みてみました。


<お断り>

 但し言っておきますが、これは私の自己批判や転向声明でもなければ、灰谷文学否定論でもありません。昨今のネットウヨ的言説の洪水の中では、それに対抗する意味でも、灰谷文学や「ショムニ」「めだか」的立場はますます光彩を放ち続け人々を魅了し続けると思っています。そうでなければ、ドラマ「ハケンの品格」が、派遣企業のプロパガンダだと噂されながらも(そして事実そうなんだけれど)、あれだけ視聴者から支持される筈がありません。世の中の言説が、石原文学やネットウヨみたいなものばかりになってしまったら、その時はもうこの世の終わりです。そういう意味でも、灰谷文学の視点は未だ以って有効だと私は認識していますが、それに加えてもう一つ、今までなかった「何か」が必要なのではないかと思うのです。その「何か」が何であるのかは、上手く言えませんが。
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