アフガン・イラク・北朝鮮と日本

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自己責任論の呪縛がようやく解けつつある

2009年01月05日 20時09分19秒 | 一人も自殺者の出ない世の中を
(A)視点・論点 派遣切り (湯浅誠)


(B)みのもんた 派遣・非正規社員の解雇は自業自得


 まずは、上記(A)(B)2つの動画を見比べて下さい。(A)(B)ともに、「派遣切り」や非正規雇用の問題を取り上げたユーチューブの動画ですが、(A)の湯浅誠さんと、(B)のみのもんたの主張が、全く好対照を為している事に、直ぐ気が付かれるかと思います。
 動画(A)では、非正規雇用労働者の激増が、世界経済のグローバル化や、それに伴う経済社会の変化に根ざしている事や、そういう問題は既にかなり以前から広がっていたのに、あれは若者や女性、母子家庭、ニート、フリーター、ホームレスなどの、一部の社会的弱者だけに限った問題だと思われていたので、なかなか表面には出てこなかったのが、ここに来て、既に全労働者の4割近くが非正規雇用に落し込められるに至って、ようやく社会全体の問題にまで認知させようとしている事が、余すところ無く語られています。
 それに対し、動画(B)では、昭和30年代や40年代における自分の狭い体験だけに寄りかかって、当時と今とでは社会構造が激変している事など全く思い至らずに、その社会構造の激変・悪化をもたらした多国籍企業や先進国の政府・財界の責任にはきっちり頬かむりしながら、若者などの一部階層や個人の「根性・モラルの欠如」に、殊更その責任をなすりつけようとしているのが、手に取るように分かります。

 但し、此処で言いたいのは、そういう事ではありません。
 以前と言ってもそんなに昔ではない、僅か数年前には、世論の動向は、圧倒的に(B)の自己責任論に傾いていたように思います。ところが、ここ数年の間に、世論の動向は、次第に(B)から(A)の主張に、大きくシフトしてきたのではないでしょうか。つまり、以前はネットウヨクが先陣を切って振りまいていた「自己責任論」が、ここ数年で一気にその化けの皮が禿げ始め、世論が次第にその呪縛から解放されつつあるのではないかと思うのです。それが、ここでの一つの問題提起です。
 例えば、下記の「年越し派遣村」のニュースにしても、右寄り・政府寄り・スポンサー大資本寄りの産経・読売新聞ですら、一定程度好意的に取り上げざるを得なくなっています。これなども、それより以前の「イラク日本人拉致被害者バッシング」や「光市母子殺害事件容疑者バッシング」、「大阪うつぼ公園・長居公園ホームレス叩き」の状況と比べたら、もう雲泥の差です。

・生きる希望、派遣村がくれた…失業・自殺未遂から再起誓う(読売新聞)
 http://www.yomiuri.co.jp/feature/20081209-206556/news/20090103-OYT1T00725.htm
・霞ヶ関、日比谷周辺に「年越し派遣村」開設!(派遣ユニオン)
 http://hakenunion.blog105.fc2.com/blog-entry-26.html
・年越し派遣村
 http://hakenmura.alt-server.org/

 これも偏に、小泉・安倍・福田・麻生4代に渡るネオコン・ネオリベ政権の、「反面教師としての強烈な教育力」の為せる技ではないかと、思う次第です。そういう意味では、この4代政権こそ、近い将来の日本「南米」化を準備した、史上最強の「反日」政権ではなかったかと(笑)。

 勿論、逆流もまだまだ根強いのは確かです。下記の村野瀬玲奈さんの論考でも取り上げられた財部誠一や、池田信夫、八代尚宏などの御用識者が、今も盛んに「お為ごかし」の議論を展開して、「妬み・嫉み」や「下見て暮らせ傘の下」などの世論の歪んだ部分に、ひたすら阿ろうとしています。そして、その歪みによって支持される、橋下徹や東国原英夫、石原慎太郎などの政治屋が、ポピュリズム・デマゴギー・ファシズムの方向に世論を誤誘導しようと、今も盛んに活動していますから。

・一方的派遣切りを正当化する論の特徴(村野瀬玲奈の秘書課広報室)
 http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-1047.html

 財部誠一って、確か自分のブログに借金時計なるものを貼り付けて、我々ワーキングプアの人権要求に対して、「お前らは日本の借金を増やすゴクツブシだ」とか言って抑えつけに回っているオッサンですよね。庶民への福祉施策だけでは、これほど巨額な借金にはなりません。その借金こしらえたのは、お前ら資本家や、それとつるんだ天下り官僚じゃないか。新銀行東京への乱脈融資一つとってもそうだろう。それを、何を他人に責任なすりつけているのか、自分のケツぐらい自分で拭け。

 またその一方で、かつては「反左翼」の立場から、政府・財界・ネオリベ(新自由主義者)と共に「社会的弱者バッシング」の一角を担ってきたネオコン(新保守主義者)・靖国勢力が、歴史問題における対立などを機に、米国やネオリベから見捨てられ始めた為に、やにわに「反米・反ネオリベ・格差社会批判」に転じて、しきりに反貧困運動に接近してきた事についても、私としては非常に興味深く見ています。
 私は右翼には興味も関心もないので、当該対象の事は詳しく知らないのですが、これをメチャメチャ好意的・大甘に捉えれば、確かに右翼思想にも、「惻隠(そくいん)の情」とかいう、岡倉天心・竹内好などのアジア主義やイスラム社会の在り方にも通じる弱者救済・相互扶助の側面があって、その意識の反映で、そういう事を口走り始めたのかも知れませんが。
 しかし右翼と言うのは、ネオコンにしても靖国派にしても、伝統擁護や構造改革路線の是非を巡って、しきりに「ネオリベとの対立・差別化」を演出していますが、所詮はネオコンもネオリベも、ともに「お上大事」の「弱肉強食」受忍論者でしかなく、そういう意味では、両者の関係は、只の「合わせ鏡」「同じ穴のムジナ」に他なりません。

 この手の論者として有名なのが、小林よしのりです。彼は、「戦争論」シリーズ姉妹編「ゴー宣・暫2」の漫画の中で、「ワーキングプアは自己責任ではない!」として、小泉構造改革を批判しています。しかし、これもよくよく読むと、「『弱者救済』でなく『トラスト』を守るために格差拡大を批判する」という彼自身の言葉からも明らかな様に、主張の力点は、社会的弱者の生存権擁護よりも、寧ろトラスト(家族秩序や大和魂)の復興に置かれています。つまり、彼の「格差社会批判」なるものは、あくまでも「革命の予防」が主目的であって、決して人権擁護の立場からの主張ではないのです。
 また、一時期、安倍政権が「再チャレンジ」を唱えて、小泉路線との違いを際立たせようとしましたが、彼の主張も、結局は「椅子取りゲーム」(搾取の仕組み)自体は肯定した上での、「次は誰かを蹴落として椅子に座れるように頑張れ」という、一種の精神論に過ぎないものでした。当時の教育再生会議の面々が、さもイジメ問題を憂慮するかの様なポーズを取りながら、実際にやった事は何だったか。「夜スペ」と称する公教育への受験産業参入にお墨付きを与えたり、全国学力テストによる子どものランク付けだったり、でしか無かったではないですか。それと言うのも、これらネオコンの「格差社会批判」なるものが、結局は「ネオリベと何ら変わらない弱肉強食肯定論者」としての本質を糊塗すものでしかない事を、如実に物語っています。

 この手の論者には、他に西部邁・佐藤優・城内実などがいますが、いずれも小林と似たり寄ったりのスタンスでしかありません。それでもまだ小林は、たとえその意図はどうあれ、「人をモノ扱いするな!」と共に声を上げてくれるだけ、まだマシなのかも知れません。私が最も怒りを覚えるのは、共にそういう声を上げる事すらせず、今も「ブッシュのポチ」として唯々諾々と米軍再編やイラク戦争に追従する存在でしかないくせに、如何にも「自分は米国にも物申す愛国者でござい」みたいなポーズを取って恥じない、石原慎太郎や田母神某の様な「大嘘つき」に対してです。
コメント (2)
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