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「フツーの仕事がしたい」―洗脳離脱の人権宣言

2009年01月29日 23時42分38秒 | 映画・文化批評
「フツーの仕事がしたい」予告編


 イスラエルによるガザ侵攻の話題に忙殺されて、ブログ更新が遅くなってしまいましたが、先週末の休みに見た映画「フツーの仕事がしたい」(監督:土屋トカチ)について、感想などを少し。

 この映画は、車が好きで、生コン輸送のトラック運転手になり、気がつけば「1ヶ月に552時間も」働かされても「それをフツーの状態だと思い込まされていた」労働者(皆倉信和さん)が、過労で入院したのを機に、「このままでは流石にやばいぞ」と思い始め、個人加盟の労働組合(連帯ユニオン)に加入した所から始まります。
 皆倉(かいくら)さんが勤めていた運送会社(有限会社東×運輸:名称失念)は、住友大阪セメントの二次下請けで、「セメントを運んで何ぼ」の完全歩合給制度が導入されています。住友のセメント工場と各地の工事現場を、過積載で一日に何往復もして、やっと食べていける程の低賃金の下で、皆倉さんも、ある日などは早朝3時に出て翌々日のまた早朝5時にやっと帰社するという、そんな毎日を過ごしていました。

 そんな状況にあっても、職場には組合も無い中で、「こんな仕事はみんなこんなモン」と半ば諦めていた皆倉さんでしたが、相次ぐ賃金切り下げや過労入院を経験する中で、たまたま目にしたビラを頼りに、ユニオンの門を叩く事になります。皆倉さんの会社社長は、それに対して、知り合いの工藤とかいうヤクザ紛いの男まで使って、執拗に労組脱退工作を進めます。何と、皆倉さんのお母さんの葬儀の席にまで押しかけてきて、参列者の目前で皆倉さんに暴力を振るうのです。
 ここから皆倉さんたちの反撃が始まり、工藤や東×運輸の社長、それらの違法行為に目を瞑ってきた一次下請けのフコックスや、元請の住友資本に対して、糾弾行動が組織されていきます。そして、最後には会社側との和解により、東×運輸は住友との業務委託契約を解除され、皆倉さんには解決金が支払われ、争議は解決に向かいます。晴れて新会社に移籍となった皆倉さんは、よくやく人並みの(健康で文化的な)「フツーの生活」に戻れた・・・という、そういうストーリーの映画です。

 ここで私がまず思ったのは、「月552時間労働」という全然「フツーでない異常な状況」を、「それがこの業界ではフツーの事」として飼いならされてきた異常性についてです。「月552時間」と一口に言いますが、まともに週休を取っていたら、どんなに働いてもこんな数字にはなりません。1日当たりの労働時間が24時間を超えてしまいますから。1日も休まず月30~31日働いて、よくやく1日平均18時間前後の数字になります。
 1日のうちで18時間も仕事に拘束され、残りの6時間で睡眠と食事を済まさなければならない。これでは帰宅も入浴も無理です。トラックの中で、おにぎりを頬張り仮眠するだけの毎日の繰り返し。これが1年365日延々と続くのです。これを「この業界ではフツーの事」として、恰も「宿命」の如く思い込まされていたのですから、げに洗脳とは恐ろしいもの。

 確かに、この映画に描かれた状況は、今の世間常識から見ても異常には違いありませんが、決して特殊な業界の特殊な事例ではありません。交通事故と同程度に、どこにも転がっている日常的な「異常」でしかないのです。例えば、赤帽やバイク便や一人親方や、コンビニ・フランチャイズ経営などの、個人請負業や委託経営の世界では、この程度の事は、ごくありふれた「フツー」の事例なのですから。
 また、個人請負業や委託経営ではない、労基法が適用される筈の労働現場においても、こういう違法行為が堂々とまかり通っているのは、今の「名ばかり店長・管理職・正社員」や派遣・請負労働の現場を見れば、もう一目瞭然です。

 斯様に、今でこそ言えるのですが、斯く言う私も「蟹工船」生協時代の、生協人生最終盤の1998年前後から始まった大リストラ時代には、何を隠そう、これと全く同じ様な境遇でした。
 まず正規職員の数が減らされ、今まで二人でやっていた仕事を一人で背負い込まされる様になり、加えてバイト退職後の穴埋めも満足に為されずに、現場作業のフォローにも時間の大半が割かれるようになった。それに加えて業務の外注化で、当時慣れないパソコンで、派遣・請負労働者用のマニュアル作成業務を、時間外や休日出勤のサービス残業で強いられる様になる。勿論、残業代などは一切支給されず。
 早朝7時過ぎには早出して、夕方までは現場に入りびたり。そこからサービス残業で日常の事務作業や先述のマニュアル作成が加わり、退勤はいつも終電に間に合うか間に合わないか。間に合わずに職場に泊り込んだ事も何度もあった。

 とりわけ酷かったのは、実際に派遣・請負労働者への業務引継ぎが始まってからの数週間の事。物流センター業務の外注化で、既に24時間稼動体制に移行していた中で、生協の正規職員も立ち上げ当初という事で、約2週間に渡って日曜日も出勤の状態が続いた。謂わばこの期間中は、私も皆倉さんとほぼ同じ状況に置かれていたのです。今から思っても、よくぞ死ななかったものだと思います。マジで冗談抜きで。
 だから、この映画を見ても、とても他人事だとは思えませんでした。今でこそ「何であんな所で黙って働いていたのか」と言えるのですが、その時は「これが生協ではフツーの事」だと、思い込まされていたのですから。退職後も、過去に遡って2年分の労働債権(未払い残業代)の請求権は当方に在ったのですから、それまでの出退勤時刻を逐一メモするなどして、証拠を揃えて労基署に告発してやればよかったのに、という事も、洗脳の解けた今になって初めて言える事で。

 世の中には、同じ言葉でも、使う人の立場によっては正反対の意味で使われる事が、少なからずあります。「社畜」という俗語などは、差し詰め、その典型的な例でしょう。
 我々労働者の立場からすれば、この言葉は、文字通り「資本家の犬、会社奴隷、ヒラメ社員、守銭奴」の意味でしか使われません。自己の保身と会社利益の為に、水俣病患者を見殺しにしたかつてのチッソ社員や、率先して「派遣切り」や「正社員切り」に勤しみ、或いはそれに積極的に加担する、現代の労務担当職制や御用組合幹部を指す言葉として使われる事が殆どです。
 しかし、ホリエモン・御手洗富士夫・奥谷禮子などの新自由主義者にとっては、先の意味合いとは全く逆に、「フツーの仕事がしたい」という皆倉さんや、「フツーが一番」という私みたいな人の事を指すのだそうです。「経営者感覚の欠如したサラリーマン」「給料泥棒、窓際族」みたいな意味合いで。

 確かに、長い人生の中では、「経営者」的視点が必要な場面も在るでしょう。いくら下積みの労働者と言えども、実際に部下や後輩を指導する段になれば、「上から目線」で物を見なければならない時も在るでしょう。しかし、そういう「経営者」的視点と言うのも、必要最小限度の衣食住が保障されてこそ、初めて芽生えてくるものです。
 その前提条件を欠いた所で、いくら資本の側が笛吹けど、誰がそんなモノに付いて行きますかいな。付いて行った先が「月552時間労働」が常態化する異常社会では、そんな「目の前に人参ぶら下げられて、始終、椅子取りゲームに急き立てられる様な世界」よりも、「生活こそ第一」「フツーが一番」の方が、何倍も良いに決まっています。
 フツーに仕事が出来れば、もうそれで良し。それ以上何を要求するのか。これ以上、目の前に人参ぶら下げられて、椅子取りゲームに急き立てられるのは、もう真っ平。

 派遣村に数多くの求人が寄せられても、それでも職にありつけない人が居る事を指して、一部の人たちは、やれ「贅沢」だの「選り好みし過ぎだ」だのと言い募っている様ですが、何をか況やです。それらの求人情報には、過去に従業員の残業代不払いで訴えられた居酒屋チェーンや、ドライバーに過労運転を強要して交通事故を頻発させている格安運賃のタクシー会社、労組潰しで悪名高いタクシー会社なども、何食わぬ顔して名を連ねているのです。この様に、一見人助けを装って、実際には人の足元見透かしたものも、少なくないのです。
 そもそも、それ以前に、「仕事とはそもそも一体何なのか」という問題が在ります。自分のやりたい、やり甲斐の在る仕事を選べてこそ、職業選択の本来の在り方ではないのか。それは、決して「贅沢」でも「選り好み」でもなく、れっきとした「人権」ではないか。それとも、「失業者は大人しくお上のお情けに縋って居れば良い、人権要求など以ての外」とでも言いたいのか。
 問題は、そういう「フツーの仕事」が、すっかり影を潜めてしまった所にこそ、在るのではないでしょうか。

・映画「フツーの仕事がしたい」公式ブログ
 http://nomalabor.exblog.jp/i2
コメント (2)
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