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ガザ・派遣村から北朝鮮の人権へ

2009年01月12日 23時48分53秒 | 北朝鮮・中国人権問題
 

※画像解説:
 上左から時計回りに、大阪・扇町公園派遣村(釜パト)、北朝鮮飢餓(RENK)、ガザ空爆負傷者(毎日新聞)の画像(括弧内は各々の出典元)。

 もうだいぶ前になりますが、イラク戦争が始まり、世論の関心がそちらに集中した時の事です。北朝鮮・拉致問題掲示板の一部に、「せっかく小泉訪朝と金正日の拉致告白で、北朝鮮・拉致問題への関心が盛り上がったのに、イラク開戦以降は世論の関心がそっちに行ってしまった、このままでは、また拉致問題が見捨てられるのではないだろうか」という趣旨の投稿が、散見された事がありました。私はそれを見て、非常に奇異に感じたのを覚えています。「何故両者を、同じ人権問題として、統一した視点で捉えられないのか?」と。

 勿論、その投稿子の言いたい事も分かります。新しいニュースが報道される度に、世論の関心がより目新しいニュースに移ってしまい、それまで注目を集めていたニュースへの関心が低下する事は、北朝鮮・拉致問題だけに限らず、他でもよくある事です。しかし、問題提起の仕方によっては、あるニュースに関心が集まる事で、逆にその他のニュースにも関心が集まるという事も、充分可能だと思うのですが。

 何故、今になってこんな事を書くかというと、実はついこの前も、ある「救う会」関係者の方とメールでやり取りしていた際に、その方からも同種の意見が、図らずしも提示されたからです。「今回のイスラエルによるガザ侵攻で、また世間の耳目がそちらに行ってしまい、北朝鮮・拉致問題への関心が、ますます遠のいてしまうのかなあ」と。
 確かに、今までと同じ運動の仕方をしている限り、そうなるでしょう。しかし、運動の持って行きようによれば、これは「救う会」にとっても、逆にチャンスとなり得るのではないでしょうか。

 まず、イスラエルのガザ侵攻の問題ですが、150万人の人口が密集する面積僅か350平方キロ(東京23区の約半分強)の土地を、イスラエルが完全封鎖して、日夜空爆を加え、数日前からは地上軍も投入しているのです。イスラエルの、今回の軍事侵攻に際しては、クラスター爆弾や白リン弾などの残虐兵器の使用も伝えられています。また、住民を一箇所のビルに集め、そこを戦車で砲撃するなどの、第二次大戦中の日本軍による「三光作戦」も斯くやと思われる様な、残虐や戦術を取っています。このやり方などは、実際の戦闘行為こそ無いものの、一旦入れられたら脱出はほぼ不可能と言われている、北朝鮮国内の強制収容所における統治の仕方と、酷似しているのではないでしょうか。

 そして、ネットカフェ難民や「派遣切り」、派遣村の問題にしても、今まではなかなか表面に出てこなかった問題でしたが、今や全労働力人口の4割近くが非正規雇用に置き換えられるに及んで、もはや一般の人にとっても、「決して他人事ではない」と捉えられる様になりました。解雇とともに住む所も奪われて、所持金も僅か数十円、数百円となり、今日・明日の食糧を求めて彷徨する、これら日本国内の経済難民たちも、情報鎖国の程度こそ違えども、経済的には、北朝鮮のコッチェビ(国内難民孤児)と同じと看做せるのではないでしょうか。

 日本は、昔は「総中流社会」などと言われていましたが、近年のOECDの調査によっても、当該加盟国の中で、米国に次いで経済格差(相対的貧困率)が拡大した事が、明らかになっています。派遣村の住民にとっては、この日本こそが、ガザであり北朝鮮なのです。この事は逆に言えば、今までは「遠いどこかの国の話」と看做されていたものが、実際は自分たちが今直面している問題とも、本質的には同じである事が、分かり易い形で示されるようになった、とも言えるのではないでしょうか。

 以前のエントリー「北朝鮮からアジアの人権へ」でも触れましたが、北朝鮮の人権問題を「アジアの人権・人道問題」として捉え、「国内人権の国際化、国際人権の国内化」を図ると言うのであれば、先の投稿子の様な「北朝鮮か、はたまたガザ・派遣村か」といった捉え方ではなく、「北朝鮮も、ガザも派遣村も」という捉え方こそが、正しい捉え方ではないでしょうか。

 何故そういう方向に踏み出せないのか。それは、北朝鮮・拉致問題に取り組む活動が、主に、ブッシュ・ネオコン派や靖国派などの右派・国家主義者によって担われてきた事とも、無縁ではないと思います。

 一つ例を挙げます。拉致議連幹事長も務める右派の衆院議員・西村真悟が、この新年の年頭所感で、小沢・民主党の「生活が第一」という選挙スローガンに対して、「何が生活が第一だ、国防こそ第一じゃないか。国防がなければ、国民の生活なども在り得ないじゃないか」という趣旨の批判を加えています。

 確かに、小沢・民主党が、どこまで本気で国民生活の事を考えているかについては、私も甚だ疑問に感じています。派遣法改正問題一つとっても、小沢・民主党は、1ヶ月以内の登録(日払い)派遣禁止だけでお茶を濁し、「労働者使い捨て」の元凶たる、登録派遣そのものや、派遣自由化の仕組みには、一向に手をつけようとはしていません。なるほど、自民党出身の小沢にとっては、「生活が第一」も、所詮は自分が政権に再復帰する為の足がかりにしか過ぎないのでしょう。そして、右派の西村にとっても、そんなスローガンよりは、国防の方がよっぽど大事なのでしょう。

 しかし、世の中には、小沢の思惑とは全く別の立場で、必死の思いで「人間の生活が第一、我々も人間なんだ」と叫んでいる派遣村の人たちもいるのです。そういう人たちからすれば、小沢よりも寧ろ西村の物言いの方が、よっぽどカチンと来るのではないでしょうか。
 若し、派遣村の人たちが弁が立つのであれば、多分こう言い返すのではないでしょうか。「あなた方は、二言目には国防だの国益だの言うが、そのお国が一体我々に何をしてくれたと言うのか」「『奴隷の平和』とは一体どこの国の話か?我々からすれば、この日本こそが北朝鮮やガザではないか」「やれ天下国家だの、平成維新だのと、いつもそういう『上から目線』でしか物が言えないのか」と。

 これがまだ数年前なら、西村の上記の物言いも、「門外漢の無知の為せる業」として、一笑に付す事も可能だったでしょう。当時はまだ「小泉構造改革」や「総中流社会」の幻想も世の中には残っており、「貧困・格差は個人の自己責任」という考え方に囚われた人も大勢いましたから。
 しかし、これだけ貧困・格差問題が誰の目にも顕になった今頃になっても、まだ、その動向には一顧だにせず、被災者たちの生存権要求も小沢の政権欲も全て十把一絡げにして、「生活より国防だ」と平気で切って捨てられる神経が、私には理解できません。現に、西村が日夜活動する東京・永田町とは目と鼻の先で、「派遣切り」被災者たちの生死をかけた闘争が今も繰り広げられているというのに。西村も政治家・国会議員であるなら、その問題にも無関心では済まされない筈だ。

 北朝鮮・拉致問題に取り組む右派の人たちは、左派に対して、よくこういう批判の仕方をします。「君たちは沖縄やベトナム、イラクやガザ・パレスチナの問題しか取り上げず、北朝鮮や中国・チベットの問題は一向に取り上げようとはしない」と。確かに、その批判は正鵠を得ています。しかし、そういう右派の人たちは、一体どうなのでしょうか。「北朝鮮や中国・チベットの問題しか取り上げず、派遣村やガザの問題は一向に取り上げようとはしない」=「真に『弱者連帯』の視点が無い」という点では、どちらも同じではないですか。

 私は、何も、「救う会」の集会で赤旗やゲバラやパレスチナの旗を掲げろとか、そういう事を言っているのではありません。運動員同士の絆を保つ為には、今はまだ「日の丸」掲揚や「日の丸」斉唱は外せないというのなら、それも止むを得ないかも知れません。但し、少なくとも私は、そんな「拉致被害者支援集会」には、金輪際、参加しませんが(それはもう「救う会・大阪」の集会で懲りました)。
 しかし、それでも、その気になれば、「『弱者連帯』の視点」を示す事は、もっといくらでも出来る筈です。

 これも、一つだけ例を挙げておきます。数年前に、イラクで活動していた日本人NGOが現地のテロリストに拉致され、NGOもテロリストと同じ様にイラクからの自衛隊撤退を主張した時に、日本国内で当該NGO関係者に対する醜いバッシングが横行した事がありました。「2ちゃんねる」だけに止まらず、幾つかの拉致板でも、当該関係者を貶める醜い書き込みが横行しました(今になって知らないとは言わせない)。その時に、北朝鮮・拉致被害者の横田滋さんが、「イラクで拉致された方々の無事を祈っている」という事を言われました。
 今になって正直に告白しますが、当時私はこの言葉を聞いて、「精神的にも道義的にも、当該NGO関係者よりも横田さんの方が、数段偉いな」と、つくづく思いました。

 こういう精神こそが、「弱者連帯」(国際連帯、人民連帯)や、「国内人権の国際化、国際人権の国内化」と言う事の、そもそもの原点ではないですか。
 この視点さえ失われなければ、その運動は、たとえその時に痛手を蒙っていたとしても、いつかまた再生・発展していきます。しかし、そういう視点すら見失なわれ、単なる「上から目線」の体制翼賛運動や、イデオロギー偏重の運動に変質していくならば、その運動は、やがて民衆の支持を失い、次第に先細りになっていくでしょう。
コメント (2)
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