今回の記事のテーマはフランスの同時多発テロ事件です。フランスの週刊紙「シャルリー・エブド」本社がイスラム教徒の過激派テロリストに襲われ、更に容疑者グループが逃走中に襲ったスーパーや印刷工場でも多くの犠牲者が出ました。この一連の事件で17名もの人命が失われました。まずは犠牲になられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
このテロを機に、「表現の自由を守れ」との叫びがフランスでも世界でも一斉に沸き起こりました。当事国のフランスでは首都パリだけでも160万人、フランス全土では370万人もの人々が、街頭デモに加わり「Je Suis Charlie」(ジュスィ・シャルリー=私はシャルリー)と唱和する事で、「シャルリー・エブド」関係者への連帯や「表現の自由」を守る決意を表明しました。
その一方で、復刊にこぎつけた同紙の最新号がまた物議を醸(かも)しだしました。イスラム教の預言者ムハンマドが泣きながら「Je Suis Charlie」の標語を掲げる絵を表紙に掲載したのです(右上写真)。恐らく「イスラム過激派が崇拝する預言者もテロを嘆き悲しんでいる」という事を言いたかったのでしょうが、実はイスラム教徒にとっては預言者を絵にする事自体がタブーなのです。イスラム教では偶像崇拝を禁止していますから。
この最新号が出た後、少なくないイスラム教徒の方が、「Je Suis Charlie」と唱和するのを拒否し、それに代わって「Je Suis Ahmed」(ジュスィ・アハメド=私はアハメド)と唱和するようになりました。必ずしもシャルリーの主張に賛同していた訳ではないのに、テロ容疑者の逃走を阻止しようとして射殺されてしまったイスラム教徒の警官アハメド・メラベさんこそが真の殉教者だと。
この一連の流れの中で、ブロガー(ブログ執筆者)として、果たしてどちらの立場に立って文章を書くべきなのか。この間ずっと頭を悩ませて来ました。「表現の自由」を優先すべきなのか?それとも、「世界には多くの民族や文化・宗教があり、それらを欧米やキリスト教徒の立場だけで決めつけるべきではない」のか?悩んだ末に、やはり物書きの端くれとして、「表現の自由」の方を優先すべきとの結論に至りました。
いくら「文化の多様性」を尊重すべきだと言っても限度があります。そんな事を言いだせば、どんな人権侵害も文化や宗教の名で免罪されてしまいます。
例えば、つい最近もイランでレイプ犯を殺してしまった女性が死刑にされてしまいました。普通なら正当防衛に当るケースです。仮に過剰防衛だったとしても、情状酌量の余地は十分にあるはずです。それがいきなり死刑では、余りにもこの女性が可哀想です。また、サウジアラビアでは女性は自動車運転すら許されません。自動車運転が発覚した段階で有罪となります。それに対する女性の抗議運動もサウジ国内で秘かに広がりつつあります。
マララ・ユスフザイさんの場合もそうでしょう。パキスタンの16歳の少女マララさんも、れっきとしたイスラム教徒であるにも関わらず、「女性が教育を受ける権利」を主張しただけで、「イスラムの教えに背いた」と一方的に決めつけられ、イスラム過激派のタリバンに命まで狙われるようになりました。学校帰りのスクールバスの中で、いきなりタリバンのテロリストに銃撃され、一時は生死の境をさまよいましたが、その後奇跡的に回復を遂げ、ノーベル平和賞を受賞されるまでになりました。
そもそも、中近東やアラブ諸国の人々が皆イスラム教徒ではありません。キリスト教徒やその他の宗派の人々も決して少なくない。エジプトの人口の1割はコプト教徒(キリスト教の一宗派)です。それに、イスラム教徒にしても、皆が皆、イスラム過激派の主張に賛同している訳ではありません。
近年、イラク戦争やイスラエルのガザ虐殺などに反対する余り、「欧米・キリスト教由来の物は全て悪」、その裏返しで「アラブ・イスラム教由来の物は全て善」みたいな風潮も一部に見られますが、私はそれも間違っていると思います。「表現の自由」や「教育を受ける権利」は、何も欧米諸国だけの専売特許ではありません。本来なら、どの国、どの民族、どの宗教を信じる(あるいは信じない)人たちであろうとも、全員が手にする事の出来る自由であり権利であるはずです。
ところが実際はそうではなかった。少なくとも第二次大戦前までは、これらの自由や権利が保障されていたのは欧米先進国の国民だけでした。その他の国民には、形だけしか与えられていなかったし(戦前の日本がそうです)、植民地の人々には全く与えられていませんでした。その最も残酷な姿が、かつて日本が朝鮮や台湾で行った同化政策や、南アフリカで行われたアパルトヘイト(人種隔離政策)でした。同化も隔離も、やっている事は一見正反対ですが、同化にしても母国語や文化を奪い無理やり日本人に仕立て上げようとしたのですから、人権蹂躙(じゅうりん)という点では全く同じです。その中から、日本は戦後の民主化によって、植民地の人々も民族独立を勝ち取る中で、ようやく自分たちも自由や権利を手にする事が出来る様になったのです。
だったら、「欧米や日本など先進国の国民だけでなく我々の自由や人権も認めろ」と主張するのが筋なのに、イスラム過激派はそうは考えず、「欧米の主張する自由や権利なんてインチキだ、むしろ我々イスラムの伝統を損ねる物でしかない」と全否定するばかり。これではただの保守反動思想でしかない。
そんな事を言いだせば、この日本においても、「今の天皇も日の丸・君が代強制の風潮を嘆いている」として、嘆き悲しむ天皇の姿を表紙に描く事すらできなくなってしまいます。右翼や保守派にとっては、今でも「天皇は神聖にして侵すべからず」なのですから。日本の伝統だと言われる天皇制も、本当はたかだか百数十年前に、当時の明治政府が、自由民権運動や社会主義運動を弾圧し、教育勅語などを国民に強制する中で、無理やりでっち上げたものでしかない。江戸時代の農民なんて、天皇の存在を知っていた人なぞほとんどいなかったのだから。そんなものまで「伝統」だの「歴史」だのと言って一方的に強制されたのでは堪らない。
自由や権利(人権)は万人の物です。それを「今まで欧米の白人やキリスト教徒だけが独占してきた」と言うのであれば、それを全否定するのではなく、逆に「それ以外の人間にも平等に寄こせ」と主張するのが筋でしょう。そうであってこそ初めて、「イスラエルには認めた民族自決の権利をアラブやパレスチナの人々にも認めろ」「イスラエルはガザやヨルダン川西岸地域での住民虐殺を止めろ」と主張できるのではありませんか。この日本でも、「民主主義の原則に則り、沖縄県知事選や総選挙で示された辺野古移設反対の民意を尊重せよ」と言えるのではないでしょうか。
これは我々にとっても他人事ではありません。とかく「言論の自由を守れ」と言えば、どこか遅れたアジアやアフリカの独裁国家の話だと思われがちですが、現実は決してそうではないでしょう。原発を批判しただけで「風評被害を煽るな」と言われる。「はだしのゲン」の漫画をこっそり図書館の倉庫にしまい込んで人の目に触れさせないようにする。「憲法なんて変えてしまえ」という政治家の発言は野放しにしながら、「9条を守れ」と謳った短歌すら「政治的」だと公民館に掲示させなくする。本来、公正中立であるべきNHKの経営陣に、安倍政権の息のかかった人物をどんどん送り込んでくる。その積み重ねが、秘密保護法や集団的自衛権の強行採決であり、「生涯ハケン」や「残業代ゼロ法案」に象徴されるような労働法制の改悪ではないですか。
だから、この日本では「私はシャルリー」と言っているだけではダメなのです。「私はワタミ、私はユニクロ、私はすき家」の声をもっとどんどん上げて、食って行ける賃金や、まともに余暇を楽しめる生活を要求すべきです。それでこそ初めて、自由や人権が守られるのではありませんか。
JeSuisWatami 私は和民の社員。満足に休日も与えられず過労死させられた。JeSuisSukiya 俺はすき家のバイト。いつまで経っても帰してくれないのでバックれてやった。自由や人権は金持ちだけの物じゃない。 (私のツイッター投稿より)