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震災当時の総理が菅義偉だったら今頃日本はどうなっていたか?

2021年03月13日 12時19分30秒 | 映画・文化批評
映画『Fukushima 50』(フクシマフィフティ)予告編
 
昨夜放送のテレビドラマ「Fukushima 50(フクシマフィフティ)」を観ました。東日本大震災で全電源が喪失し、空焚きになりメルトダウンしたイチエフ(東京電力福島第一原子力発電所)で、復旧作業に当たった吉田所長以下、50名の作業員の奮闘を描いたドラマです。所長役の渡辺謙、1・2号機当直長役の佐藤浩市、菅直人総理役の佐野史郎を始め、吉岡里帆や富田靖子の名演技が光っていました。
 
しかし、それでも敢えて言います。「このドラマも、原作の映画も、所詮はタチの悪いプロパガンダに過ぎない」と。そもそも、東日本大震災でイチエフが全電源喪失してしまったのは何故なのか?2011年の震災前にも、国会で共産党の吉田英勝議員が、2006年、2010年と二度に渡って、福島原発の脆弱性について質問していました。「実際に過去にも震災で想定以上の津波が来ているのに、全電源喪失してしまったら一体どうするのか?」と。しかし、それに対する当時の安倍総理や政府当局者の答弁は、「マニュアルで何重にも防護策を取っている。いざとなれば外部から電源を調達する事も出来る」と。
 
ところが実際はどうだったか?今週配達された赤旗日曜版の18面に、その事が詳しく書かれています。そこに掲載された科学ジャーナリスト添田孝史さんの寄稿記事によれば、既に2002年の段階で、イチエフは巨大地震の津波で被災する恐れがあると、政府自身が掴んでいました。その調査を元に、政府が東電に対策を取る様、指示しましたが、東電はそれに抵抗し、対策は先送りされてしまいました。その後も、東北電力が調査報告書で同種の危険を指摘した時も、東電は東北電力に圧力をかけて、調査報告書の内容を書き換えさせていました。
 
東電も東電なら、政府も政府です。福島原発事故の後、政府は年間被曝量の限度を1mSv(ミリシーベルト)から一気に20mSvにまで引き上げました。そして、住宅地周辺の除染だけでお茶を濁し、周辺の山林は除染の対象外にしてしまいました。それでは一時的に放射線量が下がっても、雨が降る度に山林から放射能を含んだ雨水が流れ込み、再び土壌が汚染されてしまいます。そうやって、健康被害が有ろうが無かろうがお構いなしに、避難解除を押し進め、東電と一緒になって、賠償や家賃補助の打ち切りを進めて来ました。そして今や汚染水を水で薄めて海に垂れ流そうとしています。
 
同じ赤旗の1面には、イチエフで働いていた原発下請け作業員の手記が載っています。そこには、事故直後は「原発内部の構造に詳しい人が必要だから」と、要請にこたえて再びイチエフで働き始めたものの、許容放射線量オーバーで働けなくなった途端に、御用済みとばかりに放り出された元作業員の苦悩がつづられていました。そして、帰還困難区域の解除と同時に賠償も打ち切られ、今や医療費免除の対象からも外されようとしています。この人が働けなくなったのも、元はと言えば政府が原発を推進し、東電が事故を起こしたからなのに。「原発事故は福島を最後に」という元作業員の言葉に、ビキニ水爆実験で被災して亡くなった第五福竜丸乗組員の次の遺言が重なります。「原水爆の犠牲者は私を最後にしてほしい」。国は何度同じ思いを被災者に味わせたら気が済むのか!
 
 
ところが「Fukushima 50」では、それらの事実は巧妙に隠されています。確かに、原発事故で暮らしや故郷を破壊された避難民の苦しみや、「故郷は一体どうなってしまうのか?」と叫ぶ地元紙記者の声も、ドラマの場面には出て来ますよ。でも、幾らそんな場面が出て来ても、それらは作業員が被曝覚悟で奮闘する動機としてしか描かれていない。
 
そうすると、どうなるか?「そうならない為に、我々は必死に頑張って来たのだ。その作業員の方々の思いを無にしてはならない。全国民が復興に一丸となって取り組まなければならない。原発も事故を教訓に安全対策を高めて再稼働させなければならない。今年開催される予定の東京オリンピック・パラリンピックも、復興五輪として盛大に盛り上げなければならない。それに対して、過去の事をあれこれ言って水を差すのは、非国民のする事だ」…そういう流れにしかならないじゃないですか。
 
本当に事故の教訓を生かそうとするなら、原発ゼロ、賠償継続、環境蘇生、生活支援しかあり得ないのに、その根本対策に背を向けて、原発再稼働、賠償打ち切り、汚染垂れ流し、生活支援打ち切りを進める東電と政府を、作業員の美談で誤魔化し覆い隠すのに、この映画もドラマも、巧妙に利用されてしまっています。
 
これを観て、私は「永遠の0(ゼロ)」を思い出しました。百田尚樹の小説「永遠の0」も、確かそんなあらすじでした。如何に当時の政府や軍上層部の腐敗、戦争指揮のデタラメさが小説の中で描かれ、主人公の特攻隊員が部下や家族に対して「何があっても死ぬな!生き抜け!」と諭しても、結局その特攻隊員は、部下の身代わりとなって華々しく玉砕してしまいます。本当に当時の軍国主義の風潮に抗い、「何があっても死ぬな!生き抜け!」と思うなら、自分も必死になって抵抗するはずです。まかり間違えても、自分が身代わりになって玉砕しようなんて絶対に思わないはずです。
 
「永遠の0」の小説と映画に対して、「これは反戦映画のフリをした戦争美化映画だ」と指摘した識者がいました。私も、あの小説を読んで、同じ様な感想を持ちました。そういう意味では、昨日観た「Fukushima 50」も、この「永遠の0」と全く同じです。まさに「反原発ドラマのフリをした原発再稼働宣伝ドラマだ」と思いました。
 
その一方で、作業員の奮闘と対比する形で、当時の菅直人総理を、「ただ喚き散らすだけの無能総理」として熱演していた佐野史郎の演技が、ドラマの中で異彩を放っていました。当時の菅直人総理は、東電ひいては原子力ムラの秘密主義の壁に阻まれ、必要な情報が上がって来ない事に苛立ちを感じていました。それで「ならば自分が現地に行って、この目で確かめて来るしかない」と、福島にヘリで飛んだのです。
 
それに対する評価は色々あると思います。その思い付きの視察が現地の復旧活動の足を引っ張ったのも事実でしょう。でも、たとえそんな総理であっても、国民を守ろうと必死になっていた事だけは伝わりました。翻って、震災当時の政権が民主党ではなく今の自民党だったら、一体どうなっていたでしょうか?もし当時の総理が菅直人ではなく、安倍晋三や菅義偉だったら、一体どうなっていたでしょうか?アベノマスク・「桜を見る会」の安倍や、その劣化コピーに過ぎない菅が、震災当時の総理だったら、今頃どうなっていたでしょうか?
 
多分、福島に視察に出かけるような事はなかったでしょう。東電の幹部を怒鳴り散らす事もなかったでしょう。その代わりに、東電と一緒になって、マスコミに圧力をかけて翼賛報道一色に染め上げ、放射能測定もろくにせず、自分達の保身に汲々とするばかりでしょう。政府の圧力を苦に自殺者が出ても闇から闇に葬られ、仕事と住まいを失ったホームレスが増えても「自己責任」と打ち捨てられるだけです。そして、今の東日本は確実に滅亡していたでしょう。
コメント
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