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岸和田再発見のお花見

2016年04月06日 08時03分36秒 | 身辺雑記・ちょいまじ鉄ネタ


 この前の休みに岸和田城にお花見に行って来ました。遅くなりましたが、その時の報告をしておきます。
 岸和田は、20年ほど前に、私が生協で働いていた時に、通勤の生き帰りに通っていた街です。但し、当時は朝早くから夜遅くまで仕事漬けで、街並みを堪能する余裕なぞありませんでした。この前、久しぶりに岸和田にお花見に来て、初めて城下町・岸和田の良さを再認識する事が出来ました。



 岸和田駅を降りてまず立ち寄ったのが、駅前商店街にある和蘭豆(らんず)という喫茶店。20年前と全然変わらない落ち着いた佇(たたず)まいに癒されます。
 その一方で、岸和田城の横にある五風荘の変わりようには唖然とさせられました。元藩主の別荘で、戦前は地元財閥の邸宅だった五風荘が、なんと寿司チェーン・ガンコ寿司のお店になってしまっていたのです。疑問に思い帰ってからネット(ウィキペディア)で調べたら、2009年に、公共施設の運営を民間に委託する指定管理者制度により、ガンコ寿司に運営を丸投げしてしまっていました。おそらく施設の管理維持費を削減する為にそうしたのでしょうが、その為に、国の登録有形文化財から抹消されて市の文化財に「格下げ」されてしまったのでは、本末転倒としか言うほかありません。



 ちょうど「桜フェスティバル」か何かの真っ最中で、岸和田城のお堀端には一杯出店が並んでいました。私も出店の喫茶店でコーヒーをいただきました。東ティモール産の有機栽培コーヒーに、種子島産サトウキビから作った洗双糖(せんそうとう)という砂糖を入れ、土佐文旦入りのカットケーキとセットでいただきました。その有機コーヒーの出店の横では、市民団体が戦争法(安保法制)廃止の署名を集めていました。
 地元の大阪湾で獲れたガッチョ(コチの一種)の唐揚げを売っていたお店もあり、そこでガッチョを骨までバリバリとほおばりました。



 お城の中の広場では「蛸地蔵物語」の紙芝居をやっていました。「蛸地蔵」とは、岸和田市内にある天性寺というお寺の別名で、南海本線の駅名にもなっています。その蛸地蔵の由来を物語にしていました。戦国時代に、和歌山の方から根来衆が攻めてきた時に、海からタコの大群に乗った法師が現れ、岸和田の町を根来衆から守ったという言い伝えを紙芝居でやっていました。
 当初はお花見だけが目当てで岸和田に来たのが、その紙芝居を観た途端に市内散策もしたくなり、まずお城の天守閣に上がる事にしました。天守閣の上に上がるのはこれが初めてです。城内には、江戸時代の文書や古地図、よろいかぶとや当時の農機具なども展示されていて、非常に勉強になりました。江戸時代の史上初の人体解剖図「解体新書」や薬草辞典「本草綱目」まで展示されていたのには驚かされました。岸和田城は別名・千亀利(ちきり)城とも言い、親藩大名の岡部氏が統治していましたから、展示物にもこれだけの古文書を揃える事が出来たのでしょう。
 天守閣からは周囲が一望に見渡せます。東には金剛・葛城の山々が、西の方は大阪湾を挟んで遥か先の神戸・六甲の山々まで。先ほどまで紙芝居に興じていた広場も、はるか下に小さく見えます。



 そうこうしているうちに、お昼時になり、浜町の方まで降りて「かしみん焼き」をいただきました。お好み焼きにカシワのミンチを入れるので「かしみん焼き」と言います。岸和田旧市街でも堺阪南線(旧・国道26号線)よりも海側の地域でしか食べられないソウルフードです。岸和田には、その他にも、泉州特産の水ナス・玉ねぎや、村雨などの地元ならではの銘菓が一杯あります。



 岸和田と言えば何と言っても「たんじり」です。私は市内のたんじり会館1階の無料展示コーナーだけで済ませましたが、興味のある方は、9月中旬の祭礼の時か、その直前の祭り準備に大わらわの時にでも、市内を散策したら面白いと思います。町内のたんじりを収納する蔵や祭りばやしが思いっきり堪能できます。



 お昼を食べた後は、旧・紀州街道に沿って旧市街の町家をひたすら散策しました。敵の侵入を防ぐ為にかぎ型にした街路や、うだつなどの商家特有のたたずまい、港で荷物の重量を測った「看貫場(かんかんば)」や「欄干橋」「こなから坂」などの由緒ある地名に、城下町として発展してきた岸和田の歴史の重みを感じます。



 左の写真は、欄干橋のたもとにある旧・四十三銀行の建物。「四十三」という変な銀行名は、明治初期に、国が各地に銀行を設立して民間に払い下げた時に、銀行を番号で呼んだ事に由来します。この建物は現在も成協信用組合の岸和田支店として使われています。その左の路地が今来た旧・紀州街道。その更に左側にも、写真には写っていませんが一見「古風」な建物がありましたが、何とそれは、あの悪名高い新興宗教「幸福の科学」の施設でした。(# ゜Д゜)
 右の写真は、欄干橋の先にある、かぎ型の路地になった鍛冶屋町の商店街の先にある建物。現在は何に使われているか知りませんが、趣があったので写真に撮りました。但し、NHKの朝ドラなどで話題になった事もある岸和田の城下町も、賑わっているのは駅前周辺だけで、その横の商店街は半ばシャッター街と化してしまいました。



 その駅前にあるコシノ洋裁店の建物。NHKの朝ドラ「カーネーション」の舞台になったコシノ三姉妹のお店です。現在も営業していますが、もはや洋裁店というよりも、ギャラリーサロンみたいになってしまっています。
 南海岸和田駅は空港特急ラピートも発着する近代的な橋上駅になりましたが、その一駅先の蛸地蔵駅(前述の天性寺の最寄り駅でもある)は、今も上りホームから下りホームに行くには一旦外に出て踏切を渡らなければならない地上駅で、駅舎には蛸地蔵のいわれを表現した開業当初のステンドグラスが今も残っています。



 そして、何よりの収穫が、帰りに岸和田市立図書館で見つけた郷土史解説のパンフレット。そこには「たんじり」だけではない岸和田の歴史が一杯詰まっていました。NHK朝ドラの主人公にもなった新島八重やコシノジュンコだけでなく、岸和田紡績の朝鮮人女工の闘いや、それを引き継いだ戦後女工の、寄宿舎生活での「外出の自由」や「信書の秘密保持」「個人のプライバシー」を求める闘いなどが詳しく載っていました。ギャラリーサロンと揶揄したコシノ洋裁店も、洋装やオシャレ自体が女性解放の一つの象徴だった事を知り、府下の他の衛星都市にはない岸和田の歴史の重みを改めてかみしめる事が出来ました。
 そして、今では当たり前のように思われている基本的人権も、戦前から戦後に渡る先人たちの多大な犠牲と引き換えに、ようやく手に入れる事が出来た事を今更ながら思い知らされました。

 今また安倍政権が、憲法改正にかこつけて、「緊急事態」への対処や「秩序維持」の名目で、基本的人権に制限を加えようとしています。現在の憲法では、誰か一人の権利主張が他の人の権利侵害に繋がらないように(公共の福祉の為に)、権利行使に一定の制約が加えられる事はあっても、国の一方的な都合だけで権利行使を制限する事は出来ません。それを安倍政権は、国の都合だけでそうする事が出来るようにしようとしているのです。しかし、もしそんな事になれば、それはもはや「基本的人権」とは言えず、単なる「臣民(しんみん=天皇の家来)の制限付きの権利」「お上から与えられた恩恵」にしか過ぎなくなってしまいます。つまり、江戸時代の「生類(しょうるい)憐(あわれ)みの令」と同じ発想です。
 既にその兆候は現れています。例えば、秘密保護法や盗聴法(通信傍受法)によって、国が「国家転覆の恐れがある」と判断すれば、警察が他人の手紙やメールをのぞき見する事も出来るようになってしまいました。これなぞも、手紙も自由に出せなかった戦前の紡績女工と一体どこが違うのか?
 このような安倍の企みを絶対に許してはならないと、再認識させられたお花見でもありました。
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1 コメント

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Unknown (あるみさん)
2016-04-06 20:16:05
いろいろまわって、有意義な1日でしたね。私は大阪でも北の方に住んでいて、南海沿線はあまり訪問したことが無いのですが、岸和田がこんなに濃い街だとは思ってもみませんでした。そういえば「城下町」だったのですね。
 郷土史パンフレットも、面白そうですね。
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