以前取り上げた2つの映画、「アバター」と「クロッシング」について、前者に続いて後者も、本日(もう翌日になってしまいましたが)観てきました。本当はGW最終日の5日に観るつもりが、当日はずっと先まで満席だったので、その日は映画のパンフレットだけ先に買い、改めて本日観てきたのです。
元サッカー選手の炭鉱夫ヨンスは、妻ヨンハ、一人息子ジュニ、飼い犬ペッグと共に、北朝鮮の中朝国境近くの炭鉱町で暮らしていた。ヨンハが結核にかかり、ヨンスは薬を求めて中国に脱北。密かに木材伐採現場で働くも、中国の脱北者狩りに危うく捕まりかける。しかし、やがて教会関係者の手引きによって、瀋陽のドイツ領事館への駆け込みに成功し、韓国に脱出。脱出後は、妻の薬を手に入れようと必死で働く。
しかし、その甲斐も無く、ヨンハはとうとう結核で亡くなってしまう。一人残されたジュニが、父の後を追って中国に脱北しようとするも、こちらは発覚して労働鍛錬隊に収容されてしまう。収容所内で近所の幼馴染の女の子ミソンと再会するも、彼女も栄養失調で亡くなってしまう。
ようやく父の援助とNGO・ブローカーの尽力で、収容所から抜け出せ、中国からモンゴルへの脱北に成功するも、モンゴルの砂漠で遭難死してしまい、寸での所まで来ながら、父との再会は適えられないまま終わってしまった・・・。
以上がこの韓国映画の大まかなあらすじです。映画そのものはフィクションですが、あくまでも脱北者の実話が基になっています。ロケも韓国・中国・モンゴルで行われ、韓国とも異なる北朝鮮の風景や暮らしを演出するのに苦労したそうです。テーマがテーマだけに、必ずしも協力的とは言えない中国国内でのゲリラ的なロケや、モンゴルの砂漠での過酷な環境下でのロケの末に、この作品が生まれました。
そうでありながら、ことさら反北朝鮮を叫ぶのではなく、ひたすら北朝鮮庶民の生き様を、ソナギ(俄か雨)や夜空の満天の星を背景に、淡々と描いています。だからこそ、単なるプロパガンダ映画以上に、心に迫って来るものがありました。
特に前半の、脱北を決意するまでの前段の部分で、なけなしのテレビを売っても食糧が思うように確保出来ない中で、息子や結核を患う妻に栄養のある肉を食べさせようと、ヨンスがとうとう愛犬ペッグを殺してしまい、ジュニがそれを察知して泣き叫ぶ場面などは、正直言って、いたたまれませんでした。
また、最後に、ヨンスがとうとうジュニと生きて再会出来ず、モンゴルの国際空港で、ジュニの遺体に泣きすがりつく場面も。その前に、砂漠横断中の自動車が遥か先を偶然横切り、ジュニが必死に助けを呼ぶ場面があっただけに、いたたまれなかった。ちょうどその時、「アボジ(お父さん)」というジュニの微かな声とともに、嘆きのソナギ(俄か雨)が、空港にザッと降り注いできた。これと、前半の愛犬が殺されてジュニが泣き叫ぶ場面では、この際正直に言いますが、私も少しホロリと来てしまいました。
実を言いますと、この映画についても観る前は、高評価との前評判も一定聞いていたものの、やはり「北朝鮮」モノに対する一種の警戒感が、私にはありました。
「イラクでテロの犠牲になった日本大使館員2名の死を貶めるな」と言っておきながら、高遠菜穂子さんには聞くに堪えない罵倒を平気で浴びせる。北朝鮮・拉致問題での人権侵害を訴えながら、派遣切りや沖縄・イラクでの人権侵害には、セカンドレイプ紛いの態度で接する。「民族差別には組しない」と言いながら、露骨に外国人排斥を煽るネオナチとも平気で親交を交わす。
それを読売・産経やネトウヨまがいのメディアが、自民党や極右政治家の宣伝材料にとことん利用しながら、ミサイルや「喜び組」の事を面白おかしく囃し立てるだけで、肝心の北朝鮮人権問題への連帯を広げようとは全然しない。
当初は北朝鮮の拉致や人権侵害に対する怒りや被害者家族への共感から出発した運動なのに、拉致家族「支援者」のそんな「逆ダブスタ」ぶりが次第に鼻に付くようになるにつれて、私は次第にそれらとは距離を置くようになっていました。
だから、当初は、この映画のパンフに載っていた北朝鮮炭鉱夫の退勤風景の写真についても、映画を観る前は、「自分たち派遣・請負労働者の通勤バス待ちの光景とそっくりじゃないか」と、職場の同僚にパンフを見せて言い合っていました。確かに、その指摘も全く的外れとは思わない。
しかし、これを食うや食わずのホームレスやネットカフェ難民が言うならまだしも、如何に貧しいと言えども、少なくとも私については、そこまでは追い詰められてはいない。であれば、「自分たちも同じじゃないか」と恨む前に、自分にも出来る事をもっとすべきではないか。それこそが、本当の意味での「自分たちと同じ」(人民の国際連帯)と思う心ではないか。
但し、これは何も「自民党や右翼に同調しなければならない」という事では決してありません。極端な話、北朝鮮への経済制裁や日米軍事同盟、イラク戦争には反対し、日朝・日中友好を推進しながらでも、脱北者については人道的処遇を要求する、中国に難民条約の履行を迫り、脱北者狩りを止めさせるように圧力をかけるぐらいは、出来るのではないでしょうか。現に、米国・EU・タイ・レバノンなどの諸国が一定そうしているように。
鳩山政権も「命を守りたい」というのなら、それぐらいはすべきではないか。それこそが、左派の「ダブルスタンダード(ダブスタ、二枚舌)」でも、それと合わせ鏡の前述の右派の「逆ダブルスタンダード」でもない、真の人権外交の立場であり、日本国憲法や世界人権宣言の理想とするところではないでしょうか。そう思いました。
記事のタイトルを「絶望と希望」としたのも、決してヨンハやジュニの死(絶望)だけで終わらせてはいけない、との思いからです。映画でも、絶望だけが描かれている訳ではありません。ヨンスの脱北自体が既に一つの希望であり、最後の空港場面でのジェニの魂が宿ったソナギ(俄か雨)も、それを表現したものであると言えます。
上映会場で販売されていた、北朝鮮人自身による内部からの通信「リムジンガン」も、それを体現したものであると言えるでしょう。この様にして、北朝鮮人自身による内部告発から市民メディア形成に至る道が、想像を絶する困難の中から、現実に生まれてきました。その上で、敢えて無理を承知で更に言うならば、もう少しとっつきやすい価格・装丁・内容であれば、もっと広がるのにと思うのですが。如何に「自分は北朝鮮人民よりは恵まれている」と言えども、今の形では、ワーキングプアにとっては、定期購読はちょっと難しいというのが、正直な感想です。