アフガン・イラク・北朝鮮と日本

黙って野垂れ死ぬな やられたらやり返せ 万国のプレカリアート団結せよ!

当ブログへようこそ

 アフガン・イラク戦争も金正日もNO!!搾取・抑圧のない世界を目指して、万国のプレカリアート団結せよ!

 これが、当ブログの主張です。
 詳しくは→こちらを参照の事。
 「プレカリアート」という言葉の意味は→こちらを参照。
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死を美化するよりも生きる権利を!(その2)

2013年10月09日 08時02分04秒 | 一人も自殺者の出ない世の中を
 先日記事に書いた横浜踏切事故の続報です。村野瀬さんのブログに、首相の感謝状に対する違和感を表明したツイートが一杯紹介されています。美談仕立ての新聞記事ばかりが目につく中で、これらのツイートを読んで初めて救われた気分になりました。自民党の柴山何某なる人物がまたぞろ余計な事を言ったようですが、それでもちゃんと真実を見抜いている人がこれだけ大勢いる事を知ると、「日本もまだまだ捨てたものじゃないな」という気がしてきます。自分自身への勇気付けも兼ねて、その中から一部をこちらにも転載させて貰います。

高 史明( 史明) @Fumiaki_Taka
踏切事故のその後への違和感は、もし救助者が死なずに老人を救助していたら単なる些事で片付けられて総理から書状が送られるなんてことはなかっただろうから、そうなると尊いのは人命を救助することではなくて命を捨てることで、その辺が安倍の価値観ときれいに整合していて気持ち悪いんでしょう?(2013年10月5日 6:45 PM)

Mnemosyne 日本の癌はマスコミ @sea_of_memory
特攻隊を美化しそうだ@Fumiaki_Taka:踏切事故のその後への違和感は、もし救助者が死なずに老人を救助していたら総理から書状が送られるなんてことはなかっただろうから、尊いのは人命救助ではなく命を捨てることで、その辺が安倍の価値観ときれいに整合していて気持ち悪いんでしょう?(2013年10月6日 12:08 AM)

イケてる明太子 きゃー! プチプチよっ! @Nadesiko_nouvea
人を助けようとする”気持ち”は尊い。しかし、その結果として命を落としてしまったことは”悲劇”である。そこは分けて考えるべきで、くっつけるのは違和感がある。救助とは、自分の身の安全を図りつつ、救助対象者を助ける可能性を上げる、という妥協点の追求なんだから。(2013年10月5日 9:08 PM)

めいこ @meiko_101224
自己の権利を主張する国民を揶揄するために、残念ながら命を落としてしまったその人達を利用するとは。@shiba_masa: 自己の権利を声高に主張する人たちは、身を呈して電車にひかれそうなお年寄りを助けようとした横浜の女性や、震災時に命にかえて最後まで避難放送を続けた南三陸の職員を(2013年10月5日 8:26 PM)

Erscheinung37 @Erscheinung35
自己を犠牲にして誰かのために行動した人の命を他者の権利抑圧の手段として使うこのゲスさって,これ以上ゲスなものを想像することすら難しいくらいゲスですよね。こんなのがこういうツイートした瞬間にこいつの頭上に雷が落ちてこない時点で天罰なんて存在しないことを確信するわ(2013年10月5日 7:52 PM Okayama City Kita Ward, Okayama, Japanから)

小田嶋隆 @tako_ashi
増水した川で小学生を救助した留学生は叙勲されず、踏切でご老人を助けようとして亡くなった女性に勲章が贈られるのは、人命を救助した(あるいは救助しようとした)ことが尊いのではなくて、命を捨てたこと(より端的に言えば死んだことそれ自体)が尊いという判断なのだろうな。(2013年10月5日 11:46 PM)

じこぼう @kinkuma0327
ぼくたちが求めるべき社会は、美談にあふれる社会ではなく、少しでも悲劇をゼロに近づけられる社会であるはずだ。それが忘れられてしまうのは怖い。/JR横浜線踏切事故:学ぶべきものは/神奈川(カナロコ by 神奈川新聞) - Y!ニュース http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131005-00000018-kana-l14 …(2013年10月5日 4:42 PM)

じこぼう @kinkuma0327
悲劇を悲劇として、ありのままに悲しむ感性が、「勇気ある死者を冒涜する行為だ」などと非難されるとしたら、それはもう我が子を死地に送りだし、誰の遺骨かさえわからないような遺骨をだいて「万歳!万歳!」と叫んでいた、そう叫ぶように強いられていたあの時代と何が違うんだろう。(2013年10月5日 4:51 PM)

めいこ @meiko_101224
自分ものうのうと生きていながら「自己の権利を声高に主張する人たちは、身を呈して電車にひかれそうなお年寄りを助けようとした横浜の女性や、震災時に命にかえて最後まで避難放送を続けた南三陸の職員を、どう捉えているのだろう。」などと国民に言う政治家はその人達をどう捉えているのだろう。(2013年10月5日 8:19 PM)

かまだちゃん @onshanow
人を助ける意思と自分の権利を主張する意思とが対義だと思ってるなら柴山先生に自由主義国家の公職は務まらんから辞職なされた方が良い。(2013年10月5日 7:53 PM)

Kizury @kizury
生活保護費下げて消費税あげる政府から、踏切事故にかこつけて、他人にあまり関心を払わない風潮がある、とかギャグにしても面白くないんですけどー。(2013年10月5日 6:20 PM)

deadletter @deadletterjp
人々は死刑存置の理由に「被害者感情」を挙げます。「人権は勿論大切だが、私は被害者の為に死刑を支持する!」と。勿論彼らが実際に被害者の思いをフォローし続けることはありません。踏切事故の悲劇を美談に仕立て上げて自己陶酔するだけで、その被害者感情が考慮されないのと同様に。(2013年10月5日 6:39 PM)

deadletter @deadletterjp
例えば踏切事故の被害者遺族が踏切の撤去、高架化(地下化)を主張したとしましょう。世間の反応は高確率で「それによって運賃が上がるのは困る」=「自分は一切コストを負担するつもりはない」というものでしょう。(2013年10月5日 6:50 PM)

deadletter @deadletterjp
例の踏切事故の被害者遺族が総理大臣の感謝状(勲章)を要求したなどという事実が存在しない以上、それは被害者感情の慰撫とは無関係であり、それを提案した側の「政治的な」意図が問われるべき全くの「政治的な行為」と言うべきでしょう。(2013年10月6日 3:03 PM)

http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-4848.html

 ついでに、私のミクシイでの呟きも。

JR横浜線川和踏切で老人を助けようとして亡くなった女性に褒章授与のニュース。俺は全然称える気にはなれない。老人は明らかに自殺するつもりだった。その老人の無念に何故思い至らない。これだけ毎日人身事故で鉄道が止まっているのに。普段は散々生活保護叩き等している奴等がこんな時だけ安っぽい同情の涙流して。(10月05日)

危険予知の立場から見ても横浜踏切事故は表彰対象たり得ない。ビルから飛び降りた自殺者を下で受け止めようとして亡くなった人を普通表彰するか?スーパーマンでもない普通の人にそんな事が出来る訳ないだろう。そんな表彰なぞするより自殺防止柵の設置や自殺防止の啓発活動や困窮者の生活支援策の充実を図る方が余程有効。(10月08日)
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転載:10・13での左派統一行動を呼びかけます!(ジグザグ会)

2013年10月07日 20時07分26秒 | 福島の犠牲の上に胡坐をかくな
※下記の賛同要請がネットにアップされていましたので私も賛同人として署名しました。

10・13での左派統一行動を呼びかけます!

 私たちは311事態以降、今まで、それぞれの立場から、各地の反原発・反差別排外主義・反基地・沖縄連帯・三里塚などの闘争に、個人、無党派の立場から参加してきたものです。私たちはその経験に基づき、とりわけ反原発運動において、今や左派の潮流を可視的に「登場」させることが求められているという焦りにも似た認識をもっています。

 そこで私たちは来る10・13反原発統一行動の当日、まずもって一日共闘として、反原発運動を「反資本主義」「反戦・反差別」「福島‐沖縄‐三里塚は一つだ」などの立場から闘う人々の統一行動の実現を提起する次第です。具体的には統一デモ隊列の実現と、同隊列におけるデモ前の独自「打ち合わせ」などを、他の参加者の迷惑にならない形態でおこなうことです。

 左派の潮流的な登場の必要性を一般論として語る方は多いです。けれどもそれが具体的な行動にうつされないことに、私たち個人大衆は大きな不満を抱いています。一方、そういう不満や批判を口にするなら、それはそのまま自分に返ってくるものだと思いました。私たちはたとえ蟷螂の斧と笑われようと、まず私たちだけでも断固として「はじめる」つもりです。

 私たちは下記の内容も決して固定のものとは考えておりませんし、議論や相互批判を恐れたり排除するものではありません。なにとぞ私たちの小さな決意を見殺しにすることなく、真剣な検討をお願いする所以です。

◆反資本主義派の登場を!

 反原発・反差別排外主義・反基地・沖縄連帯・三里塚。もとより、これらの課題は別々のものではなく、からみあった一つの課題の別々の側面であることは、左派の皆さんには言をまたないことだと思います。それは人間を資本の手段とし、被曝労働者を使い捨てにするような社会との対決であり、すなわち必然的に反資本主義の内容をもたざるを得ないものであります。311事態はこういった社会のあり方の欺瞞性を、大衆的に実にわかりやすい形で露出させ、それゆえに多くの民衆の怒りを呼び起こしました。

 そして、これらのからみあった一つの課題の個々の側面に、今まで別々の「個別課題」として分断された取り組みを余儀なくされてきた人々、あるいは既存の大衆運動には無縁でありながら、種々の不満、疑問、閉塞感、生きにくさを感じてきた人々をも含め、それらが反原発運動を結節環として結びつき合流し、そのことによって反原発運動はその幅の広さと深まりの両面において、広範な大衆的爆発を可能にしたのです。

 しかし、それこそ50年前から今日まで、大衆の自然発生的な運動の広がりや深化に対し、これを再び「個別課題」に分断して組織的に管理しようという方向性が、いつの時代にも存在します。もとより私たちは、そういった部分をも手をつなぐべき仲間として尊重します。それよりも私たちが一番の不満を感じるのは、こういった旧来の運動のあり方に常に一石を投じ、社会変革の波へと運動を質、量ともに広げる役割を担ってきた、あるいは担うべき勢力が、運動の中でほとんど可視化されていないということです。

 確かにそれらは集会場やデモのあちこちに点在していますが、未だに潮流と呼べる存在はありません。なのに存在しない「左翼なるもの」に対する批判が、あちこちでごちゃませ的に繰り返されています。それはちょうどかつての新左翼が「社共総評」を批判することで「それとは違う私達」を大衆にアピールし、それをもって自分達が何か「新しいもの」であると宣伝した、その手法を旧勢力に逆手にとられている現象です。このような「左翼」をスケープゴートに仕立て上げる宣伝手法は、今やそのためには右翼団体との連合さえを容認するまでにエスカレートしています。

 このような旧勢力の反左翼キャンペーンに対して、これを「デマ」や「反動」と切って捨てることはたやすいです。ですが私達はまずもって、それが一定有効性をもってしまうような「左翼」の歴史的現状を、主体的に省みることが第一だと考えます。
 その上で、こういった宣伝手法に単純な自己肯定の「反・反左翼キャンペーン」を言葉の上で繰り広げ、それをもって自分達の左翼性やらラディカルさを自己確認したり、それとは全く逆に、彼らの逆鱗にふれないようにうまく立ち回り、なんとなくその末席にいさせてもらうという、悪しき「大同団結主義」でも、情勢を突破するようなものは何一つ作り出しえないと考えます。

 私たちが何よりも一番に追求するべきは、運動の内部にいる他者を批判することで自己のアイデンティティを確認したり、あまつさえそれを大衆的課題やスローガンにまで祭り上げることではありません。それではいつまでたっても批判している相手の周りを回る衛星でしかない。求められているのは、私たち自身が彼らに対置しうるような内容でもって登場をはたし、大衆に潮流的な選択を迫りうるだけの存在になること、他者の衛星ではなく、自分自身が輝く恒星になることではないでしょうか。

◆怒りの文化を復権させよう!

 一方、私たちは、これまでの経験の感想や総括提起を出し合う中、反原発などの大衆運動の場において、かつて左翼が先頭で切り開いてきた「怒りの文化」を復権させるべきだと考えています。私たちは全身からほとばしるような怒りに満ちた、左派の統一的な「戦闘的デモンストレーション」の実現を提起します。
 それは一見するとふざけている、あるいは「同窓会」的な気分にひたっているように見える危険があるかもしれません。実際、そういう気分で参加する人がおられたとしても、それはそれとして排除することもないとは思います。ですが決してそれだけではありません。

 つまり、私たちは怒っているのです。

 私たちはこんなにも怒っているんだと相手に知らせたいのです。デモとは本来そういうものだと思います。それを表現するためには、それにふさわしいパフォーマンスを行う必要があります。自分達以外のあり方を否定するつもりは毛頭ありませんが、私たちの怒りを表現するのに、楽しげな雰囲気の演出にばかり心を砕くような「パレード」ばかりではやはりふさわしくありません。

 繰り返します。私たちは怒っているのです。核発電に、排外主義の跳梁跋扈に、公安の弾圧に、外への軍拡と緊張拡大政策に、国内民衆への犠牲のしわ寄せに、私たちは怒っているのです。そして私たちが知らないところで、若者や名も無き民衆もまた怒り、その怒りの本質や向かうべき先もわからないまま、自分でも正体不明の閉塞感の中で出口を求めています。

 ですが、現在の強弾圧体制下のデモでできることは、実はそんなに多くありません。ところがその程度のことでさえ、今は自分達の「スタイル」が民衆に受けが悪いから自分達は衰退したのだとする「左翼」の判断によって、怒りの文化はすっかり影をひそめています。
 そのうち、いつのまにか「在特会」だのの排外主義者のほうが自己の「暴力性(擬似革命性)」を看板とするようになり、閉塞感の中で出口を求める若者は、お行儀のいい「ピースでエコ」なサヨクより、むしろそちらに惹かれています。さらに本来わたしたちがやるべき排外主義者への怒りの表出行為すら、右派的な部分にお株を完全に奪われているではありませんか。「スタイル」の問題だと言うなら、これをどう解釈するべきかという問題があります。

 別に物を壊したり人を殴ったりして「暴れるべきだ」と言っているわけではありません。「戦闘的デモ」と言っても、実際には充分に非暴力で平和的な行動にすぎないわけです。ところが大衆ではなく左翼の中にこそ、残念ながらそれを揶揄するような雰囲気があります。しかしそんなことではもう、私たちの呼びかけ対象となるような層は、大半が右派部分に持っていかれると思うべきです。

◆左派潮流の登場を「要求」します。

 私たちがこの呼びかけを確認した時点で、確実な参加者は10人にも満たない状況です。たとえそうであっても、全身からほとばしるような怒りに満ちた戦闘的デモの実現を提起し続けます。
 無力な個人・大衆にすぎない私たちの呼びかけは、ほとんどの人から嘲笑を受けるのかもしれません。それも覚悟の上での呼びかけです。

ちなみにアーサー・C・クラークによると、革命的な展開が起きるときの、人々の反応はこんなふうに推移するという。
 1回目 「まったくばかげてる、時間の無駄だ」
 2回目 「なかなかおもしろいが、たいして重要ではない」
 3回目 「いいアイデアだと私は前からずっと云ってた」
 4回目 「実はあれは私が最初に思いついたのだ」
(イノレコモンズのふた。「まったくばかげてる、時間の無駄だ」より)

 繰り返しますが、私たちの一番の不満は、あれだけ反左翼キャンペーンが繰り広げられながら、実際には集会場やデモ隊列のどこにも、潮流と呼べるだけの左翼が存在していないことです。「安倍政権と対決しうるだけの左派潮流の登場」という大衆的な要請について、それに反対する左派はほとんどいないと思います。ところが実際には、暗闇の中で小さなたいまつをかかげながら、「わが派に結集せよ」という声しか聞こえてきません。

 従来からの関係の延長線上での「無理のない」共闘や、各地の組合、住民・市民団体の一人としての参加なども、とても大切な闘いだとは思います。しかし今はもっと大胆な潮流的な登場をこそ追求するべき時ではないでしょうか。私たちは皆さんに、大衆の一人としてこのような左派潮流の可視的な登場を要請、いえ!もはや要求するものです。

われわれを見殺しにするな!

2013年9月15日 「10・13反原発統一行動」参加予定者有志
連絡先:zigzagkai@gmail.com

(呼びかけ人)
 西葛西善蔵(大学非常勤講師)、水畑涼(高校生)、草加耕助(サイト旗旗主宰)
 まっぺん(レッドモール党)、あるみさん(ブロガー)、中野由紀子(出版労働者)
 花田娯作(共産趣味者)、乱鬼龍(川柳作家)、ネオリベにゃんきち(反原発にゃんにゃん党)

(賛同人)
 アッテンボロー(ブロガー)、相沢耕平(大学院生)、西多賀(仙台市民)、まつき(共産趣味者)、
 戸田ひさよし(大阪府門真市議・革命21)、生田あい(社会運動家)、Bird(普通のおっさん)、
 野次馬の視線(共産趣味者)、岩山昇太(社会運動家)、鷹嘴正吉(ブログ「不条理日記」)、
 中桐康介(長居公園仲間の会)、臨夏(在野歴史家)、高橋良平(社会民主主義者)、
 林田力(『東急不動産だまし売り裁判』著者)、ケンパチ(日本共産党党員)、
 榊原晴美(ブログ「薔薇または陽だまりの猫」)、中川龍也(社会民主党練馬総支部 常任幹事)、
 野田(詩人)、
 匿名希望1(国策日の丸原発推進に怒れる主婦)、匿名希望2(神奈川から関西への避難移住者)

※この呼びかけ文への賛同を募集中です
 ○掲載する名前(あれば肩書き)をお知らせください。
 ○よろしければ一言メッセージなどそえていただけると幸いです。
 ○匿名希望やメッセージ公表の可否などご希望がある場合はその旨も明記してください。
 ○メール:zigzagkai@gmail.com およびサイドバーにある送信フォーム、またはコメント欄にて。

 以下をコピペしてお使いください↓
  ・名前:
  ・肩書き:
  ・一言:
  ・公開:可 否
  ・その他

http://zigzag.blog.jp/archives/188855.html
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死を美化するよりも生きる権利を!

2013年10月05日 23時10分03秒 | 一人も自殺者の出ない世の中を
生活保護「ヤミの北九州方式」を糾す―国のモデルとしての棄民政策
クリエーター情報なし
あけび書房


JR横浜線踏切事故で老人を助けようとして亡くなった女性に褒章授与だと。冗談も大概にしろ。老人は明らかに自殺するつもりだった。その老人の無念に何故誰も思い至らない。
確かに、自分の命を投げ打ってまで人の命を助けようとした女性の行為は気高く尊い。私には決して真似の出来ない行為だ。でも、老人の命も同じ様に気高く尊い筈なのに、その老人が自殺にまで追い込まれた事に対して、何故その無念に誰も思い至らないのか。これだけ毎日の様に人身事故で鉄道が止まっているというのに。
幸い老人は一命を取り留めたが、この老人が生活の苦しさやましてや政治批判を口にしようものなら、またネトウヨがワラワラと湧いてきて、「お前を助けようとした人が身代わりに死んだというのに、何を生意気な!」と叩き始めるのが、この国の姿だ。過去のイラク日本人人質事件や北九州「おにぎり食べたい」生活保護餓死事件の時の様に。
それを安倍は、裏では生活保護や年金額の切下げ、解雇規制緩和や消費税増税で、弱者をいたぶる様な政治を散々しておきながら、こんな時だけ言い子ぶって。安倍や自民党の政治家どもに果たしてそんな資格があるのか。人の死を弄ぶより前に、人が死なずに済むような政治をしろ!それがきちんと行われてさえおれば、おそらく女性も死なずに済んだ筈だ。


「助けなきゃ」女性は踏切へ 父「やめろ」 JR横浜線
朝日新聞デジタル 10月2日(水)7時6分配信

 【竹野内崇宏、柏樹利弘】横浜市緑区中山町のJR横浜線で1日昼前に起きた踏切事故で、神奈川県警緑署は、男性(74)を助けようとして列車にはねられ、亡くなった女性は、同区台村町の村田奈津恵さん(40)と発表した。男性は鎖骨が折れるなどの重傷を負ったが、命に別条はないという。

【写真】高齢者を助けようと女性が列車にはねられたJR横浜線の踏切事故。現場には2日昼前、献花台が設置され、多くの人が訪れ、花を手向けた。亡くなった村田奈津恵さん(40)の自宅近くに住む会社員、黒川知己さん(36)は「事故を知り、心が痛んだ。村田さんの勇気に手を合わせてお祈りさせていただいた」と話した=横浜市緑区中山町

 同署などによると、男性が下り線の線路上に横たわったまま踏切の遮断機が降下。踏切待ちの車の列の先頭にいた村田さんは車を降り、「ひかれちゃう」と言いながら踏切内に入った。
 父親の村田恵弘(しげひろ)さん(67)によると、奈津恵さんは恵弘さんの運転する車の助手席にいた。踏切内の男性を見て「助けなきゃ」と話し、「ダメだよ、やめろ」と制する恵弘さんを振り切って車を降りた。踏切に入り、線路上で腹ばいになっていた男性のもとにしゃがみ込んで動かそうとしたという。
 恵弘さんは「困っている人を放っておけない子だった。男性には長生きしてほしい」と話した。
 奈津恵さんは両親と3人暮らし。4、5年前から恵弘さんが営む不動産会社を手伝っていた。この日も、2人で外回りを終え、会社に戻る途中だった。
 従業員の男性は、奈津恵さんについて「温厚でやさしい人柄」と語った。商店街で道に迷った高齢者や酒に酔った人を介抱し、名前や住所を聞いて家族に連絡することもあったという。
 JR東日本横浜支社によると、運転手は踏切の手前約200メートルで奈津恵さんらに気づき、非常ブレーキをかけたが、間に合わなかったという。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131002-00000006-asahi-soci

安倍首相、死亡女性に感謝状 横浜線踏切事故
2013.10.4 05:02 サンスポ

 安倍晋三首相(59)は3日、横浜市緑区の踏切で男性(74)を助けようとして電車にはねられて死亡した会社員、村田奈津恵さん(40)に首相名で感謝状を贈ることを決めた。村田さんの行動が国民の共感を呼んだことから政府として表彰すべきだと判断した。菅義偉官房長官(64)が遺族の元に出向いて感謝状を手渡すことを検討している。また、警察庁は警察協力章の授与を検討している。
 事故は1日午前、JR横浜線の踏切で発生。父親の車に同乗していた村田さんは、踏切前で止まった際に男性に気付き、線路に入って助けようとして電車にはねられた。男性は鎖骨骨折などで重傷を負った。村田さんがレールとレールの間に動かしたため助かったとみられる。
 緑署や目撃者によると、男性は事故直前、レールに覆いかぶさるように横たわっていたが、電車通過後はレール間の砂利の上で、電車の進行方向に頭を向けて倒れていた。同署は村田さんがとっさに移動させ、男性の体が車体下の隙間に入り込む形になったとみて調べている。
 JR東日本によるとレールの高さは約18センチ、車両底部まで約17センチで計約35センチの隙間があった。
 運転士は踏切の約200メートル手前で村田さんと男性を発見してブレーキを作動。通行人も非常ボタンを押したが、電車は止まりきれなかった。
http://www.sanspo.com/geino/news/20131004/pol13100405010000-n1.html

生活保護基準 前例ない引き下げノー 「食費1日600円さらに減額」 全国会議が集会
2013年7月28日 しんぶん赤旗

 安倍政権による8月からの生活保護基準引き下げ(3年で最大10%)を目前に、法律家や市民などでつくる生活保護問題対策全国会議は27日、東京都内で設立6周年記念集会を開きました。約170人が参加。その問題点を学び、基準引き下げなどの改悪にどう立ち向かうのか、活発に議論を行いました。

(写真)「保護基準引き下げを許さない」と運動を広げる決意を固めあいました=27日、東京都内

 当事者や医療、労働、障害など各分野の支援者ら9人がリレートークで生活実態を訴え、引き下げを撤回させる運動への決意を語りました。
 横浜市の男性(49)は、障害年金を受給し、住宅扶助のみを利用。1日の食費は600円を目安に生活しています。「生活扶助基準の引き下げで住宅扶助、障害年金がともに減額になると聞き、利用者だけでなく国民全員の問題だと気づいた。なんとしてもくいとめたい」と訴えました。
 立川市から参加した先天性骨形成不全症の障害をもつ車いすの女性は、学校に行けず、小学校は週に2回訪問教育を受けただけといいます。「中卒では就労も難しく、門前払いでした。生活保護は頼みの綱。利用できないときがくるかも、と危機感でいっぱいです。みんなでたたかおうと地域で団体をつくり勉強会を始めた」と話しました。
 花園大学の吉永純教授、中日新聞の白井康彦編集委員が、基準引き下げの「根拠」とされた厚生労働省独断の消費者物価指数のでたらめさを報告。吉永さんは最低賃金や年金、就学援助適用などに連動する問題を指摘しました。
 全国会議代表幹事の尾藤廣喜弁護士が、「前例のない引き下げには前例のない対応が必要」と、▽1万人を目標に「審査請求」運動で、引き下げの違法性を明らかにする▽全国で身近な常設の相談場所をつくるなどの提起をおこないました。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-07-28/2013072801_04_1.html
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放射能の講演会が地元であった。

2013年10月02日 23時37分26秒 | 福島の犠牲の上に胡坐をかくな
 
 9月29日の日曜日に、放射能の講演会が地元の市の公民館であったので私も行って来ました。
 主催は地元の市の「母親大会連絡会」という団体で、そこの35回目の定期大会のメーン企画として標記の講演会が行われました。真鍋さんという阪南医療生協の診療所長さんが、主に放射能の内部被曝の問題について講演して下さりました。形こそ母親大会の一部として行われるものの、誰でも参加自由という事だったので、私もたまたま近所の掲示板に貼られたチラシを見て、興味があったので参加してみました。

 当日は午後1時開演で、最初に地元のお母さん方によるコーラスがあって(左上写真)、その後の主催者や来賓の方の挨拶の後、真鍋先生の講演が行われました(右上写真)。会場の公民館集会室には既に50名ぐらいの方が入っておられましたが、私以外は全員女性ばかり。「しまった!」と思いましたがもう後の祭りです。こんな事はめったにないのですから、逆にチャンスだと思い直して参加する事にしました。

 ところが、真鍋先生がせっかくパソコンを持ち込んでチェルノブイリや福島の貴重な現地映像をスライドに映し出そうとしたのですが、パソコンの調子が悪くて映し出す事が出来なくなりました。会場の中には私の知人も何人かおられ、その中には私がブログをやっている事も知っている人がいて、その方から「××さん(私の本名)、ちょっと見てあげてよ」と言われたのには流石にびっくり。幾らブログをやっていると言っても、プロジェクター(パソコンの画像をスライドに映し出すソフト)なんて使った事もないのに。

 結局、画像での報告はもう諦めて、講演での話が主体となりました。そこで真鍋先生が話されたポイントは次の三つでした。本当はもっとあったのかも知れませんが(事実レジュメにはもっと色んな事が一杯書かれている)、少なくとも私が理解できたのは次の三点です。

 一点目は、福島原発事故と広島・長崎の原爆やチェルノブイリ原発事故との大きな違いです。それは、福島の場合は、漏れ出た放射能の量こそ原爆やチェルノブイルよりも少ないものの、後者はもうすっかり核燃料が残っていないか封じ込められたのに比べ、福島では今も核燃料の大半が原子炉の中に残っており、今なお汚染水や空気中への拡散の形で垂れ流されている事です。
 そりゃあそうですわね。今もまだ原子炉の中には核燃料が残っており、どれだけどういう形で残っているか近づいて調べる事も出来ない中で、とにかく爆発だけは防ごうと、どんどん冷却水を注入しているのが現状です。ただやみくもに注水しているだけですから、その水が汚染水となって海に流れ出たり、土壌に浸み込んで地下水と混ざってしまったり、蒸発して雨になって山に降り注いで拡散してしまうのは、最初から分かり切った事。安倍首相はIOC総会で「汚染水は港湾の防波堤の中に完全にブロックされている」なんて事を言っていましたが、そんな事出来る訳がない。除染もはっきり言って無意味。幾ら除染しても雨が降ればまた元の木阿弥。

 だから今、福島ではMDS(骨髄異形成症候群)という白血病の一種になる患者が激増しているのだそうです。白血病、つまり血液の癌(がん)になる人は、長崎の被爆者約20万人の中でも5~6人しかいないのに、福島では現時点で既に約100人が罹患してしまっている。福島や郡山の児童公園には「遊ぶのは1時間以内」との掲示までされるようになってしまっているそうです。そんな環境の中で、どうやって遠足や体育の授業をやれというのか。どうやって暮らせというのか。事態は、もはや「福島産を食べて応援」なんて偽善的なポーズで誤魔化せるレベルではなく、避難できる人から一刻も早く避難しなければならない状況なのに。

 二点目は、外部被曝と内部被曝の違い。外部被曝というのは、原爆や原子炉間近で被曝した人の様に、身体の外から放射能を浴びた場合で、これについては、放射能(放射性物質が周囲に与えるエネルギー)を浴びた程度によって身体にどれだけのダメージを受けるか、凡(おおよ)その事が分かっているので、それに基づいて、一般人の場合は年間何マイクロシーベルト、原発作業員の場合は何マイクロシーベルトという具合に、「しきい値」という凡その規制値が定められています。しかし、呼吸や飲食によって放射性物質を身体の内部に取り込んでしまった場合は、この「しきい値」は全く意味をなさなくなってしまいます。何故なら、たとえ僅かな量の放射性物質でも、それが体外に排出されずに、カリウムやナトリウムといった身体を構成する元素の一部として体内に取り込まれ、ずっとそこに止まり周囲の細胞を破壊し続けたらどうなるか。外部被曝で放射能を浴びた以上に、破壊的なダメージを身体に与える事になってしまう。

 現に広島では、原爆投下から2週間も経ってから、60キロ離れた三次(みよし)から救援活動にやってきた高等女学校の生徒が、脱毛や下痢、身体のあちこちに癌を発症する多重癌などに苦しみながら、23名も相次いで亡くなりました。煙草も吸わないのに肺癌にやられたりしながら。でも国は、内部被曝に関しては原爆投下との因果関係は立証されないとして、被曝者援護法の対象者を爆心から半径2キロ以内にいた被曝者(その殆どは既に亡くなっている)に限る姿勢に未だに固執しています。
 チェルノブイリ周辺国のウクライナやベラルーシでも、事故後数年も経ってから、内部被曝で放射性ヨウ素が多くの住民の甲状腺に取り込まれてしまった為に、住民の間に甲状腺癌が広まり、癌を摘出して首の周りに「チェルノブイリの首飾り」と呼ばれる痛々しい手術痕が残る人たちが一杯生まれました。「首飾り」だけで済めばまだ良い。もっと重篤なダメージを身体に与えられ、遺伝子を傷つけられた為に、脇腹から足の生えた牛や、耳が欠け落ちた猫なども現地では一杯生まれました。

 福島原発事故が起こった直後、当時の枝野官房長官が「直ちに健康には影響はない」と言ったのは、日本も数年か数十年後には最悪この様な事態になるかも知れない事を予測して、予め「逃げ」を打ったのではないかと、私は本気で思っています。

 三点目は、もはや全く放射能に汚染されていない場所なんて地球上には殆どない。強いて言えば南極ぐらいのものだ。そのような状況下では、根本的解決として核の廃絶を追求する一方で、現実問題として放射能から自分の身を守る為に今から出来る事にも取り組んでいかなければならないという事です。
 ウラン鉱山周辺など元から自然放射能が高い地域の住民も、放射能に弱い人は早くに亡くなり、免疫の強い人だけが生き延びる事が出来たのです。レントゲン技師も、鉛で囲まれたレントゲン室で、自身の被曝線量を測定しながら規制値内に治まるように仕事していても、多くの技師が放射線障害で亡くなっているのです。それをさも放射能は安全であるかのようにいう、原子力村の御用学者・医師のペテンに騙されてはいけない。
 そんなペテンに惑わされずに、何でも国や自治体任せにはせず、自分でも出来るなら放射能線量も測定しながら、出来るだけ放射能を避けるような食生活や住環境を心がけなければならないと、仰っておられました。

 その後、ベクレル(Bq)とかシーベルト(sV)とかの放射能測定の単位についての説明がありましたが、これは私もよく分かりませんでした。放射能の規制値や食品汚染の許容量を表す際には必ず使われる単位なので、本当はこれについても知っておかなければならないのでしょうが。
 一応、ベクレルと言うのが放射能の絶対値(毎秒1個の放射性元素が崩壊してまた別の放射性元素に変わる際に放出するエネルギーの値)で、それが身体に受けるダメージは、同じベクレルの放射能でも放射性物質の違い(アルファ線・ベータ線・ガンマ線・中性子線など)によって変わるので、それを種類別に換算して現したのがシーベルト。1シーベルトの千分の1が1ミリシーベルト(msV)、そのまた千分の1が1マイクロシーベルト(μsV)。
 年間100ミリシーベルト以上の放射能を浴びると身体のあちこちに影響が出始め、千ミリを超えると下痢や嘔吐などの急性症状が現れる。7千ミリ以上で殆どの人間は死ぬ。今までは年間1ミリシーベルトが個人の許容基準だと言われていたのに、国はそれを年間20ミリに、原発作業員に至っては年間250ミリにまで緩めようとしている。これ位知っておくだけでも、新聞やテレビが平気で垂れ流す何ミリシーベルトというのが、実は大変な事だという事も徐々に分かってくるのではないでしょうか。

 以上が講演会の報告です。放射能の講演会が終わった後は、保育所民営化に反対する闘いなど、母親大会参加者からの報告・交流があり、最後に大会宣言を採択して午後4時半に終わりました。地元の府立高校がお母さん方の高校増設運動で出来た事もここで初めて知りました。この講演で、放射能の内部被曝の恐ろしさについて改めて認識できました。その一方で、ベクレルとかシーベルトの意味については、もう少し分かりやすく説明して欲しかったです。

 
 会場に展示された「新日本婦人の会」地元支部の憲法9条タペストリーと絵手紙。この辺の感性は「野郎」主体の集会には絶対にないものだと妙に感心。
 

 つい最近亡くなった、この町の母親大会創立者が残した「反原発」俳句の数々。
 除染せぬ遊び場いまだ秋寒し
 原発禍室内でする運動会  
 厳寒に木の芽鎧ひでじっと耐ゆ 合掌。    
コメント (1)
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