自分の考えを押し付けようとは思わない。
脱線ブログから一時退避されても構いません。
地震、津波は強度にしても規模においても先例があった。
チリ、唐山、スマトラ沖、四川、ハイチ・・・。
ただ映像を流し見た程度の観察で終わってサヴァイヴァルに必要な術までは誰も私も学習しなかった。
私はブラジル土産の瑪瑙の風鈴様吊り飾りが鳴って家の横揺れで地震を知った。
TVは休止電源が入っていたが自動では起動しなかった。
教訓1 自動警報のTV,ラジオがあれば万単位の犠牲者は出なかった。
TVを起動すると、マグニチュード8.8の表示はあったが震源については何も出ていなかった。
画面は予想される津波の強度を色分けした日本地図と高台の固定カメラによる気仙沼港の映像一色で、あとはアナウンサーが避難を訴え続けるだけだった。
予想される津波はどこかは高さ6mでどこかは3m,といった地名と数字の羅列が字幕で流されていた。
教訓2 TV,ラジオを視聴していたとしてもこれではミスリードされると後で知った。
自分だけかもしれないが、地名が出ない所のひとは、たとえば仙台は大丈夫と思い込んだのではなかったか。
まもなく大津波が寄せて来ます、できるだけ早く遠く高い所へ逃げてください。
これで十分だったのではないか?
後知恵だが、平地なら海岸から5km離れていても安全とはいえない。
淀川河川敷なら枚方高槻あたりまで増水すると推測する。知人の河川レンジャーに話すと言下に否定された。
私は永年少年サッカーの指導をしているが、個人力指導のコンセプトを練りに練って4つのキーワードにまとめて選手に伝えている。
これに対応するチームプレイのキーワードを足しても8つのキーワードでサッカーのすべてを網羅して説明できる。
多弁は駄弁、1を聞いて10を知る演繹法を採る。
サントスはサンパウロの外港である。
州の産品コーヒー積み出し港として栄え、またコーヒー園で働く日本人Ⅰ世がブラジルでの第一歩を踏み出した記念の地である。
日露戦争後の1908年のことだった。
第14埠頭(現在名第8埠頭)近くには第1回移民船笠戸丸乗船者名簿記念碑が建っている。
ちなみにロンドリーナ市には父母の名も刻んだ開拓者記念碑が建てられた。
母は1932年に入植したことになっている。
1951年ブラジルを去るにあたって父母の感慨は如何ばかりであっただろうか。
最初の一歩と最後の一歩の間の長い道程と苦楽を走馬灯のように思い巡らしたに違いない。
わたしには日本人経営の旅館で食べた美味しい純和食の刺身の記憶しかない。
アジはサントスに尽きる、というほど美味しかった。
リオ・デ・ジャネイロは世界三大美港の筆頭である。
コパカバーナ・ビーチ、コルコヴァードのキリスト像、ポン・ヂ・アスーカ(砲弾を立てた形の岩山。頂上までケーブルカーが通っている)、椰子の木立が美しい島々と円弧を描く湾岸を彩る夜景、それらは絵葉書や映像で世界に知られている。
残念ながら夜だったので、寄港したのか通過したのかさえ記憶にない。
夜景が美しかったのだけ目に焼き付いている。
総じて、故国を去る感慨も日本に行く不安もなかった。
わたしは生来鈍感なのか、はたまたコスモポリタンなのか、自分でも決めかねている。