あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

高松春のフラワーフェスティバル

2024年05月18日 06時39分22秒 | お城&御所
連載してきた高松春のフラワーフェスティバルは今日が最終回です。
香川カクタスクラブのテントを後に。東へ向かう。
ゆるキャラ発見。
プロムナード沿いに並ぶ花。ほとんどが鉢を並べて展示してある。展示も撤去も時間がかからなそう〜。
寄せ植え体験。
こちらは和。盆栽かな?
トップ画像のコンサート。奥の席が空いてたので30分、フルで楽しませていただきました。懐かしい時代劇テーマソングはもちろん水戸黄門スタートです。
コンサートの次の出し物の間に移動。道沿いを戻る。遠くに見えるのは屋島です。那須与一が名を上げた源平合戦はあそこでした。
日差しが強い。半袖の人もいる。実は朝、家を出る時は寒くて浅い春の装いで来たので暑さにやられてます。実は高松駅そばの「オルネ」が最近新しく開場したから行くつもりだったのですが。無理っぽい。ダンナに聞いたらパスというのでもう帰ることにした。
綺麗な花カゴが展示してあったので撮影してみたけどさ。真夏の日差しになった。
こっちは日陰。左端に同じ花が映ってますが、日向の凶悪な花びらが刺さりそうな花に見えないね。
おや?松が見慣れない姿に。なぜかしら〜?
答えはすぐにわかった。お手入れ中ですね。で、お手入れの終わった松は見慣れた姿になってます。姿を整えて、いつもの姿を維持してるのね。ご苦労様です。
おやっ!?
今、カクタスクラブを鑑賞したから気づいた。
わかりますか?
左下をズーム!
こんなところに多肉の群落がっ!
おそらく公園管理の人が気づいたら撤去しちゃうのでしょうが。ちょっと面白かったわ。
おやおや?そうなんだー。
5月3・4・5日の公演が無料だったのは開園記念日だったからです。ラッキーじゃ。儲けた!呑気に写真撮って駐車場に戻ったら、駐車場の空き待ちの列が出来てた。はい。今、空きます!ってなことで帰宅〜。
帰りがてらうどん屋を探しながら車を走らせたのですが、聞いたことのあるうどん屋には列が出来てた。やはりゴールデンウィークの人出です。結局いつものまなべのうどん屋でお昼食べちゃった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桜御門2階の資料展示

2024年05月16日 10時06分55秒 | お城&御所
更新出来ず済みません。今の時期は昼が夏ほど暑くない。なので!
朝5:30頃から8:30〜9:00まで菜園で作業。朝ごはんを作って食べて。
10:00頃から12:30ごろまで菜園で作業して。昼ごはんを作って食べて。
気温次第では14:00頃から15:30頃まで菜園で作業して。洗濯物を取り込んだり買い物に行ったりして。
16:30頃から19:00まで菜園で作業が出来る。明るいからね。その後お風呂に入ってから夕ご飯を作って食べて大体21:30目指して寝る。
といった具合に、ブログ記事を書く時間が取れてません。
それもこれも今年はやたら雨が多くて菜園の作業が渋滞してるのだ。急ぐものからとっととやらないと!せっかく育てた野菜の苗が〜!!種まきするなら今なのにぃ〜〜!というどないもこうにも。
そんでなぜ今ブログを書いてるか?というと暴風です。朝一番に離島足の粟島汽船は欠航し、JRも瀬戸大橋が強風で計画運休すると昨日のうちに発表したらしい。体感10メートル近い風が吹いてます。もうね。風がおさまった後に菜園に行くのが怖いぜ。植えたばかりのメロンの苗や。ネットにツルを絡ませて数日しか経ってないゴーヤにきゅうりにつるありインゲンが心配ですわ。ウヲヲヲヲヲ!!
でも風がおさまるまではどうにもならんのでブログ記事を書きます。

さて、時は5月3日。高松市の春のフラワーフェスティバルに出かけた。駐車場は隣接する玉藻公園。実は無料駐車場なのだ。そして!5月3・4・5日は入園無料だったのですよ。
で、一番にフラワーフェスティバルのカクタスクラブの即売会に突撃して計5鉢を購入。鉢が邪魔になって一度駐車場に置きに戻る。
この時点で時刻はまだ10時になっていない。
9時58分。ふと見れば、桜の御門の2階の展示場の見物が出来るみたいなので脇階段を登る。
見上げると、葵の御紋がついてた。そう、高松といえば讃岐。とくれば水戸黄門。テレビドラマでも黄門様が何度も讃岐を目指して旅されてましたね。あれは讃岐のお殿様が黄門様のお兄さんの松平頼重と子供らが納めていた国だからです。
それが1642年(寛永19)のことで、なんと1869年(明治2)に版籍奉還により廃城となるまで同じ松平家がお殿様をやってました。何かっちゃーすぐに国替えのあった江戸時代に置いて、1642年から1869年まで実に200年以上同じ家が11代に渡りお殿様をやってたのですよ。凄くね?

さて桜御門ですが復元された門です。昭和20年の高松空襲で被災し、焼失しました。
令和4年6月に足掛け12年の復元工事が完成。
現在は門2階の展示施設が土日祝日の9時から16時まで公開されてます。
では靴を脱いで入館。
こちらは復元した桜御門の屋根に上がる鴟尾の型です。
下を通るところが見えるようになってます。
上の画像左がかつての古写真。右が復元した様子。
古写真があったので、使っていた材木を推測出来たのだそう。
これが材木。板目や木肌で種類が違うのね。
ちなみに上からカシ・ケヤキ・マツ・スギ・ヒノキ。
日本の国土の8割は山ですが、年々質の良い大きな材木が手に入らなくなっており、復元に使用した木材は、ケヤキは中部地方から。マツは岩手から調達したそうです。
ああっ!これはっ!
ピンボケ画像でごめんなさい。前記事で記憶の幕と色が違う!と言ってましたが。
 
幕は明確に使い分けてるそうです。
全部で3つの幕があるのね。
他にもあれこれ復元の様子や、現代工法により補強した資料がありましたが、割愛。
上の画像左手に2階の資料室に上がる階段があります。案内人とかいませんので各自見学してねと。
そういえば、披露閣は見物できるのかな?とワクワクして行ったのですが、無理〜。
帰宅後web検索したら「披露閣:旧松平家高松別邸
大正6年(1917)に建設された披露閣は、高松城の三の丸に旧高松城主の高松松平家の別邸として、また、香川を訪れる賓客のもてなす迎賓館としての役割も持ち合わせていました。
建築的特色としては、近世以来の正統的書院造りであり、伝統技術と洋風技術が融合された構造及び意匠となっています。
平成24年に国の登録重要文化財に指定されました。
現在は貸館を行っており、お茶会やコンサート、撮影会など多彩なイベントが催されています。」とありました。見学だけというのはやってないらしい。
では、披露閣の庭園を抜けてフラワーフェスティバルの会場に戻ろう。
さっきは最短コースのお堀端を抜けたんで、庭の見物はしてないのだ。今時はツツジと新緑が綺麗だと思うのだ。
あれ??何か工事中なのか?
気分がダダ下がり。
ツツジ越しの披露閣。ソテツだっけ?大正浪漫の日本家屋につきものの植物ですね。いい味出してます。
調べたらば高松市の文化財課のwebニュースに「披露閣の耐震補強工事を順次やってるようです。現在は大所員を2024年1月より2026年10月まで。その後も槙の間を2028年10月より2030年3月まで。以降その他の部屋は未定」となってました。
ここもかつては桜の御門のような門があったようですね。二の丸から披露閣に向かう場所の立派な石垣です。右端におじさんの姿がありますが、その向こうには水門があります。お堀の水は現在もこの水門から瀬戸内の海水を取り込んでます。
見頃のツツジですが。庭の奥で咲いてるので近づけません。背後に見える石垣は高松城の北側。かつては石垣の向こうは海だったのかも?現在はちょっとした広場と道があって、その向こうはフェリー乗り場です。
さて、西門を抜けてフラワーフェスティバルの会場へ(続く)

追記:2024.5.16 19:58
夕方、風がおさまって菜園に行きましたところ、ゴーヤは4/4(100%)茎が折れてた。
つるありインゲンはツルもしくは茎もしくは葉っぱがボキボキとなりました。
つるものだからと苗に支柱を立てなかった私のミスです。夕方に一縷の望みをかけて全部に支柱を立ててヒモで結んでおいたけども。インゲンはともかくゴーヤは4日前に定植したばかりなのでヤバそう〜。もう明日朝一に種まきし直します。まだ5月半ばなので間に合うと思う!ぼちぼち夏の気温になれば、成長も早いだろうし。
他のは大丈夫だと思うけども。しばらく様子見です。いや〜風速10メートルは被害がでかいぜ。
青梅の実もいっぱい落ちた〜!!
去年大量に漬けた梅干しに困り、あちらこちらに配ったら好評で予約入ってるんですけど!!梅の実はどれだけ残ったのか!去年の半分でいいから収穫出来ますように!
もうね。菜園は天候次第ですわ。凹む〜。泣く!!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高松春の祭りフラワーフェスティバル

2024年05月12日 17時09分58秒 | お城&御所
時は5月3日。2021.4に亡くなった義父の趣味はサボテン栽培でした。かつては庭にサボテン温室が3つもあった。神奈川在住の私とダンナは、年末に帰省した折に義父より2月にメッセで開催されるフラワーフェスティバルに毎年参加してたのは義父から聞いて知っていたけれど。5月のフラワーフェスティバルに参加していたのは義姉より聞いた。ならば行ってみたい!と三豊市在住の私は8時家を出発。玉藻城の無料駐車場に到着したのが9時過ぎだった。この時点では駐車場はまだ空いていて、のんびりとフラワーフェスティバルの会場へお城を抜けて歩き始めた。なにしろフェスティバルは10時開場なんである。
ちなみに、普段はお城の玉藻公園は入場料がかかるのだが、フラワーフェスティバルの5月3日4日を含む5日までの3日間は入場無料となっていた。
玉藻公園はかつての松平家のお城があったところです。
わかりやすく言うと、徳川家康の孫で水戸黄門の兄の松平頼重が幕末まで代々居城としたところです。
実は2022年夏に一度訪問済み。
その時は復元された上の画像の桜の御門の見物が目的でした。
けどさ〜、今回訪問したら、前回と何か印象が違うんだけども?
あれ〜??
画像を検索して違和感がわかる。
これが前回訪問時の画像。幕の色が違ってる。間違い探しか!
フラワーフェスティバルなので桜御門に花籠が置かれている。
あれっ!?
前方より立派なアガペ(多肉植物)を抱えた若者がやってきた!
それっ!?
もしや?カクタスクラブの即売会はもう始まってるの??
時刻を確認する。
9時17分である。
あれ〜〜??
開場は10時からのハズ。ゆっくりお城を見物してからでも十分に間に合うハズ。
けども、若者が嬉しそうに抱えているのは!
あれだっ!
コミケの会場では開場直後に欲しいものを買うのが常識。
早い者勝ちなんである。
こうしちゃおれん!最短コースでカクタスクラブの即売会へ行くよっ!
お堀沿いに歩いてると、立派な松の木に着生植物を見つけ撮影。
いや、それより早よ行かなっ!
あ〜??前で人が集まってた。子供がお堀に何か投げてた。
魚がバチャバチャしてる。
上の画像だとわかりにくいやもしれんので。切り抜き。
わかります?黒い魚がいっぱいいますよね?実はこれ、よくある池の黒い鯉ではなく、黒鯛です。ほとんど。別の海の魚も混じってるようですが。いや。先を急がねばっ。
お花がいっぱい見えてきた!キッチンカーを進んで、記念撮影のスポットのお花のタワーがある。
ここを右手に曲がって。テントを一つ二つ交わしたらば!!人だかりがっ!!
ああ〜!!
出遅れたっ!
マジに多肉やサボテンの争奪戦が既に繰り広げられてます。
と、突撃〜〜!!
今日は絶対花か蕾のついたサボテンか多肉が欲しいのだっ!
母の日用のプレゼント用に。確保じゃ〜〜!!ってなことで撮影してる場合でなく人混みに突っ込んでいく私。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高松城の天守閣

2022年08月20日 14時56分50秒 | お城&御所
今はもうない。
生駒氏時代の天守閣は、絵図が古文書によると三重だったとされている。
松平氏時代の寛文10年(1670)に改築された天守は三重5階(三重4階+地下1階)の南蛮作りで四国最大の規模を誇っていましたが、明治17年(1884)老朽化を理由に取り壊されました。
平成17年から天守台修復工事が行われ、発掘調査の結果地下1階部分から58個の礎石が当時のまま現れました。」チラシより
では早速向かうとしよう。高松城の天守へは二の丸から鞘橋で繋がってます。トップ画像です。江戸時代中期末ごろに屋根付きになったとか。現在の橋は明治17年の天守解体の時に架け替えられたもの。大正時代に橋脚が木製から石製に変えられたことが古写真から判明しています。
鞘橋を渡ってると?何か来た!
和船です。内堀を和船に乗って行けるのね。
菅笠だっけ?と葵の御門のはっぴもいいね。
反対側も見所があった。
分かります?画像右手が二の丸跡。画像左手が天守のあるところ。注目して欲しいのは内堀の奥です。これ、何だ?
答え:琴電高松築港駅。琴電の始発駅なので、電車が長めに止まります。お城のお堀と石垣と電車のコラボ画像ゲットです。
せっかくなのでお堀の石垣と電車を切り出してみた。
いよいよ天守閣跡が見えてきた。正面の石段を登る。
何か記憶の景色と違うんだよね?
理由は説明板を見て判明。そうよ。かつての高松城の天守跡にはお社があったんだ。(上の画像の右。上から2枚目の画像)
そして明治に取り壊された天守閣はこのような姿だったらしい。天守の写る古写真復元計画もあるのだけれど、内部がどうなってたかわからないらしい。見取り図とかあれば話は早いんだけどな〜。
鞘橋を見下ろす。
黒鯛の餌やりポイント&水門の奥には瀬戸内海が見える。大きな船も浮かんでてシュールだ。船のせいで現在と江戸が混じってる風景。何気にレア。何度も書いてるけどお城から海がここまで近い場所はそうないからね。さて暑すぎてへばってきたので帰ります。
おや?何かしら〜?
松ぼっくり収集ぼっくす。ナイスアイデア。来場者に松を集めてもらえるとお掃除が楽ですね。
ここは桜の馬場です。往時はこの倍の広さだったとか。この場所が私の記憶を刺激するのは、今より半世紀ほど昔、銀行員の叔父一家が高松に住まいしてたのですが、ここで従兄の幼稚園の運動会があったからだと思う。
艮櫓(旧太鼓櫓跡)。元は現在の県民ホールの敷地内にあった櫓。完成は延宝5年(1677)。月見櫓と同時期に作られた。昭和40年、当時の所有者の国鉄より高松市が譲り受けて2年かけて移築された。(チラシより)
時刻は10時半。本来ならば復元されたばかりの桜の御門の2階の展示室の公開時間になってたのですが、コロリと忘れて帰っちゃいました〜。私のアホ〜!
何やってたんだろう?暑すぎたんや。当然のようにこの日も猛暑日だったのよ。(おしまい)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高松城の海の大手門

2022年08月18日 10時21分13秒 | お城&御所
海の大手門?なんじゃソレ?ですよね。
高松城は日本三大水城の一つです。そもそも徳川将軍家より中四国を監視すべく松平高松藩として水戸藩より入府した松平頼重が藩主になったお城です。瀬戸内の船の運行を監視する櫓がトップ画像の月見櫓です。なので、お殿様が江戸より戻る際は船で。上の画像の海の大手門の水手御門より帰城してた。現在は海側に道路が出来ており、海からお城には入れません。
月見櫓を近くで見るべく石段を上がる。と?眺めはこんな感じ。
あ。女木島が見える。
小学生の時の遠足が女木島でした。ここは鬼ヶ島のモデルの島とも言われ、大きな洞穴がありました。今は観光開発されてるのかな?私が小学生の時はショボかったけども。
うん。月見櫓に入れない。

がっくりしてベンチで休憩。まだ10時前ですが、真夏の太陽は凶悪で体力がガリガリ削られていきますね。
ちなみに月見櫓は日曜の午前9時から午後3時の間内覧できる模様。私は平日に訪問したので入れなかったです。
かつての武櫓ですかね?外なのでわかりませんが。
何かテントが立ってます。そのそばにガチャポン?見ればガチャポンには魚の餌が入ってる模様。
そう。高松城のお堀には海の魚のクロダイ(チヌ)がいまして、まるで鯉の餌やりのごとくタイに餌やりができるのですよ。
凄いよね?人が来ればクロダイが集まって来るのよ。野生はどうした??
実はクロダイは野生なのだ。野良タイです。んでもって観光客から餌をもらってるという日本全国でも珍しいと思う。城のお堀に海の魚がいる理由はこれ。
水門です。堀は海と繋がっていて、潮の干潮による水位調節のため水門が設けられてるのだ。ちなみに、有料ですが上の黒鯛に餌やり出来る場所からお堀に和船で遊覧することも出来ます。誰のアイデアなんだろか?ナイスアイデアだ。(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高松城の重要文化財披雲閣

2022年08月17日 10時35分30秒 | お城&御所
説明板発見:披雲閣 平成24年重要文化財指定
松平藩時代にも、この地に披雲閣と呼ばれる広大な建物(現在の披雲閣の約2倍)があり、藩の政庁及び藩主の住居として使われていましたが、明治時代に老朽化のために取り壊されました。その後、松平家第12代当主で貴族院議長も勤められた松平頼なが氏により、3年の歳月と当時のお金で15万余円の巨費を投じて現在の披雲閣が大正6年(1917)に完成しました。この豪壮な和風建物には142畳敷の大書院を初め、槙の間・蘇轍の間などの雅趣を生かした各部屋があり、波の間には昭和天皇・皇后両陛下がご宿泊になられたこともあります。
昭和29年(1954)に城跡とともに高松市に譲渡されて、現在は会議・茶会・生花展などの会場として利用されています。」
時刻はまだ10時前だからかな?入口が閉まってます。
中は見れそうにないので、周囲を迂回するように進む。
古いロマンガラス。
お、蘇轍です。ということは奥のがソテツの間かもしれないね。
何かある。説明板発見:銀閣寺型手水鉢 幅と奥行きは約1、5メートル。高さが2メートル。水穴の直径は約90センチで、深さは約40センチ。重さは約11トン。
相模原在住時代、明治の邸宅を見物し回りましたが、明治のお庭は巨岩がポイントです。どこからどれだけ大きな石を運んできて庭に設置したか、どこもさりげにいやこれみよがしに設置した庭も多いんだよね。ここの石は敷石かな?大きいです。
あ。2階もあるんだ。そんでガラス窓も大きくて一杯です。巨額を投入して建てたというだけありますね。
さてと?大正6年に建築された披雲閣は庭園もありまして、同じく大正6年ごろに作庭された枯山水の庭です。

けど庭は今回はチラ見で済ませました。
次の目的地は月見櫓です。昨日の記事で紹介したように高松城は日本三大水城の一つ。月見櫓は藩を出入りする船の監視や江戸から船で戻ってくる藩主を望み見たので「着見櫓」とも言われています。(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高松城の陳列館

2022年08月16日 15時02分24秒 | お城&御所
高松城や歴代藩主の文化財や史料が展示されています。
朝から難しいことは読んでられない〜。
まずは江戸城における高松松平家の位置。上の画像の一番上。譜代・家門。臣下最高の座席になってます。
で、高松藩はなぜに生駒家から松平家にお殿様が変更になったか?
生駒氏の治世は4代54年間続きましたが、寛永17年(1640)に生駒騒動と言われる御家騒動により、讃岐一国を召し上げられ、出羽国(秋田県)矢島1万石に移されました。
この後、寛永19年(1642)に当時常陸国(茨城県)下館藩主だった松平頼重が東讃岐12万石の領主として入城しました。
頼重は徳川家康の孫で、徳川光圀(水戸黄門)の兄にあたります。将軍家と近親の関係にあった頼重は中国・四国の監察役を命じられていたと言われています。
頼重以降、松平氏の治世は11代228年間に亘り、高松は松平氏の城下町として栄えました。
系譜です。右側をよく見ると、家康の息子の徳川頼房が水戸藩主。頼房の長男が頼重で弟が徳川光圀です。東京の後楽園は光圀がこだわって作った庭園で。兄を差し置いて弟の自分が水戸藩の藩主になったことの悩みが滲み出た場所がありましたが。上の系譜を見ると、光圀は息子の頼常を2代高松藩主に据えてます。で、高松藩主となった兄頼重の息子の綱方を水戸藩にもらっています。この辺りはTBSドラマ「水戸黄門」で何度も黄門様が高松目指して旅してた理由ですね。
ちなみに系譜を見れば、高松松平家に水戸藩の家系の殿様が何人もいるのがわかります。黄門様の未練が後の世まで影響してるのね。
トップ画像はありし日の高松藩の見取り図。城の際まで海が迫ってます。日本三大水城の一つです。
こういう立地なので現在のお堀に海の魚の黒鯛が泳いでる訳だ。
ちなみに高松城に天守閣は現存してません。
復元計画はあるようです。復元するとこんな感じらしい。お城は明治3年に廃城許可が降り、一時政府の所管となりました。この時代に高松城の中心部は陸軍の所有となり、天守を始めとする多くの建物が取り壊され、外堀は埋め立てられ市街化が進みました。
明治23年(1890)に再び松平家に払い下げになり三の丸に国の重要文化財に指定ている披雲閣が建設されました。
さてと?外に出たらまたも盆栽がありまして。
販売してる商品だった。一鉢2000円から。
勤めてた頃、最寄駅はJR鬼無駅でして。そこここの田んぼに松が植えられてるのを眺めつつ自転車を漕いでました。全国的には珍しい光景だったのか。

お盆が終わりようやくパソコンに触れる時間が出来た。大変だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高松城の桜御門復元

2022年08月13日 15時15分55秒 | お城&御所
復元公開は2022年7月16日。つい先日のことです。
説明板発見:桜御門
桜御門は、御殿である披雲閣の正門の当たる櫓門です。節句や行事の際に桜の幔幕が架けられました。
築城当初から数回の建て替えを経て、明治維新以降も残存した城郭建造物で、昭和191944)年には国宝に指定されることが内定していましたが、翌昭和20(1945)年の高松空襲で焼失してしまいました。
市は復元を目指し、2014年度から石垣を積み直し復元工事に着手。
復元された門は、幅約12メートル。奥行き約5メートル、高さ約9メートル。鯱鉾がついた瓦屋根には漆喰が塗られ、巨大な梁や柱で櫓を支えている。
何しろ時刻は平日のまだ9時を過ぎたところなので観光客の姿はほとんどなく。
こんな画像もゲット出来ました。
あれ?
桜御門の2階に展示室があるんだ。けど時刻がまだですねえ。
待てないので先に他を見学です。
この先は陳列館か〜。楽しみ〜。♪じ〜んせい、楽ありゃ苦もあるさ〜。
行ってみよう!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

深大寺城へ

2017年10月14日 06時14分46秒 | お城&御所
2017.10.1訪問。10月1日は東京都民の日で、都が管理してる公園や動物園・水族館などの施設入園料が無料になります。ってなことで、神代植物園へ行こう!と京王線布田駅から徒歩で向かいました。旧甲州街道からおよそ1キロちょいで、深大寺の参道につくはず。実は今まで深大寺や神代植物園に行く時は、調布駅からバスを利用してました。でも乗車時間が短かった気がして地図を確認したら近い近い〜。こんなの、バス待ちの時間で着くんじゃないの〜??ってなモノで国領神社さんで10月の千年の藤の様子を確認したら出発です。トップ画像は国領神社さんの境内の外の旧甲州街道の様子。街路樹が素敵でしょ?上の画像に写る下布田信号を右折。三鷹通りを道なりに北上します。

野川を越えます。確か、野川の水源池は国分寺市の日立研究所の池で、池から流れ出す最初の流れを見たことあるし、野川沿いは散策にもってこい!とか聞いたことあるので、いつか川を追いかけて散歩してみたいなあ〜。

道路沿いの民家の花壇の黄花コスモスに蝶々。なぜかシャッターを数枚切っても全く逃げなかったので、ガラパゴス携帯での撮影でもピントのあった画像をゲットできた!ラッキ〜!!

道路から、茅葺屋根が見えた。茅葺も素晴らしいが、屋敷守りの大木の存在感がすごいっ!あれは??保存公開されてる古民家かしら〜??

んん??
もしや、ここ、現役のお家なの?なんか、住んでる人がいらっしゃるみたいだ!!現役の民家だったことに大分驚いた。あ。個人宅だと勝手に敷地内に立ち入りできないから遠目で見物しましたが、茅葺屋根に鳩が数羽休んでます。茅葺屋根と鳩をアップに、屋敷守りの大木を背景に撮影してみたかったなあ〜。

道の向こうに、絵になるお家を見つけました。この先、中央フリーウエイをくぐります。この辺りで上り坂。バスに乗ってた時には上り坂がるとは知らなかったのに〜〜。
さて?実は道路の左手奥に、チラチラと神代植物園の水生植物園が見えてます。お米が実り、重そうに頭の垂れた稲穂も見えます。道路からどうにか行けないか?と。脇道を探したのですが、見つからないまま深大寺小学校が見えてきました。バスで調布駅から深大寺を訪問する際の最寄りバス停になります。深大寺小学校前の信号を左へ。

信号の側に満開のソバの花。

深大寺小学校の石垣はとても素敵でしょ?石垣ファンなら一見の価値ありでしょ?

深大寺そばのお店が見えてきた。店の庭木がほんのり色づいてます。今年は寒かったり暑かったりと日替わりだからさ。気の早い植物が早くも紅葉の準備に入った模様です。

神代植物園の水生植物園に到着。
あれ?ここにソバ畑がある!私のブログを日々チェックしてくださってる方はご存知ですね。9月29日に、町田市の七国山で大きなソバ畑で満開の白い花を見たばかりです。だから私的にはもうソバ畑は今年はもう十分なのですが、旦那はソバの花を見たことないんじゃないか?と思い、寄り道しました。

町田のソバ畑に比べて随分小さな畑ですが、タイミングはバッチリ!

吸蜜に夢中の蝶々が、こちらを全く気にする様子なく、寄りで撮影できました。
ところで、ソバ畑のある場所は、かつての深大寺城の跡。天文6年(1537)に廃城になった城です。鉄砲伝来以前の城に天守閣も頑丈な漆喰塀も必要なく、おそらく木製の屋敷があっただけじゃないかと?ソバ畑の画像の左手に、2棟の建物の遺構が復元されています。
見た目は芝生広場なのですが、よく観察すると、奥にかつての城を防御してた土塁が周辺に復元してあったり、広場の南に空堀と土塁が復元してありました。

実は、空堀を撮影する時に、携帯のフォト画像の設定を変更してしまったようで、画像取り込みできません。

唯一、空堀と土塁の画像は普通のサイズで撮影してあったけど、やっちゃいました〜〜!!
画像がないので、深大寺城の詳しい記事を書くのを諦めた〜。現存・復元・公開されてるのは、主郭の東西が50メートル、南北が90メートルほどです。南側に一郭・三郭もありますが、こちらは雑木が多くてかつての面影はほとんどありません。でも一郭のかつての虎口付近に「深大寺城」の城址の石碑が建っています。かつてここがお城だったことを想像させるそれらしいものはこれくらい。
歴史的には、この城はかつては北条氏が相模から武蔵へ進出するのを防ぐために、扇谷上杉氏が築いた城だった模様です。しかしご存知のとおり北条が覇権争いに勝利して、扇谷上杉氏の城は不要になり廃城。小田原城の防衛ライン構想からも外れたため、逆に遺構が戦いで壊れることなく残ったんだって。縄張りとか好きな人にはおススメの城かもしれん。扇谷上杉氏ってさ、確か太田道灌の仕えてた家じゃなかったかな?太田道灌の優秀さに嫉妬した家臣らにそそのかされて、道灌を暗殺しちゃったせいでその後すぐ北条氏に滅ぼされた気がする。
さて?先を急ぎたいので、深大寺城の一郭から腰郭へ降り、南奥から神代植物園の水生植物園へ降りましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世田谷城跡

2015年12月29日 06時17分55秒 | お城&御所
2015年11月19日に世田谷の豪徳寺へ紅葉を見に行きました。ところが、ご存知のように11月が暖かかったので期待のように紅葉は楽しめず、がっかり。そこで世田谷の歴史散歩をする事にしました。
まずは
世田谷八幡宮です。
天文15年(1546)、吉良頼康によって創建された神社で、吉良氏領内第一の格式を誇っています。また、世田谷城西方の守りを固めるための「出城」としての機能を合わせもっていたともいわれています。
世田谷八幡の参拝は何度目だったかな?小田急線豪徳寺駅から豪徳寺を訪問する途中にあるのでその都度立ち寄っています。記事も別建てで既出なのでサラリと。
その後豪徳寺へ立ち寄り。がっかり~。
一応歴史散歩なので軽く解説すると「豪徳寺の前進は弘徳院と称し、万治2年(1659)に没した彦根藩主井伊直孝の菩提を弔うため建てられたもので、寺名は直孝の法号にちなんでいます。
井伊直孝の墓所
その一角にある井伊家墓所は、広大な敷地に大型の墓石が並ぶ都内でも屈指の大名墓所で、2代藩主直孝をはじめとして、13代藩主直弼など6人の藩主に加え、江戸で暮らした正室や側室、子息、子女らが埋葬されています。
井伊直弼の墓所
北側の一角にある藩士の墓石も含め、総数は303機を数えます。
井伊家の墓所所在図

豪徳寺に隣接するようにあるのが世田谷城跡です。
説明板発見:世田谷城跡 都指定旧跡
世田谷城は武蔵野台地の一角、南東に貼り出した舌状台地の先端部に立地し、西・南・東の三面に烏山川が蛇行し、北には小支谷が入る。14世紀後半に吉良治家が居住したのに始まると伝える。
吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、世田谷吉良氏はその庶流にあたる。はじめ鎌倉公方に仕え、15世紀後半に関東が乱れると関東管領・上杉氏やその家宰・太田道灌に与力し、16世紀には北条氏と結んだ。
北条氏と上杉氏との勢力争いで、享禄3年(1530)には世田谷城は攻略されたと伝えるが、のち吉良氏の手に復した。
この間、吉良氏は北条氏と婚姻関係を結び、この庇護下にあったが、天正18年(1590)、豊臣氏の小田原攻略により、世田谷城も廃城となった。
世田谷城の濠・土塁の構造は天文6年(1537)の再築とされる深大寺城のそれと類似しており、16世紀前半に防御の為、大改革がなされたことがうかがえる」
う~む。ビッグネームが一杯。
せっかくなので土塁の上を歩いてみる。あれ?

じ~~~~っ!!
これさ。確かに石の削り出しはタガネを使った昔っぽいけどさ。石垣組んだの最近じゃないの?隙間がほとんどない。上の木の根が石垣の向こうの土の中にあるならさ。この石垣の隙間のなさは不自然だしさ。
だいたい戦国期の城なら戦う為の城だから、濠(空堀・水堀どっちもあり)石垣を築いて防御までは普通。でも眺望を確保すると考えたら植物は邪魔。現状あちこちに雑木がある。ならさ。石垣もそれなりに時代を帯びてるはず。表面にコケがない。しかも谷積みって…??なんか、変だよね。まあ、専門家じゃないから詳しくは分からないけどさ。

そんな世田谷城跡は、実は住宅街にあります。しかも豪徳寺ーー。
不思議な空間に身を置いてる感じが凄くしました。
ちなみに今日の記事の中の歴史由来の文章は、世田谷城跡に立ててあった説明文のまま引用しました。

今gooのアクセス解析がお試しで出来まして、私のブログのどの記事が読まれてるか?とか検索キーワードが分かるのです。
興味をひかれ検索キーワードのページをクリックしたところ…。
12月28日の検索キーワード 1位から5位が【満鐵 (特急)あじあ号 現存】10PV
6位降圧剤 風邪薬 2PV 8位葛根湯 高血圧 2PV 9ツムラ葛根湯 血圧の薬2PV
といった具合です。特急あじあ号は中国の大連市で見たあれです。なんだろうか?鉄の人が検索かけたのかな?ありがたいことですね。随分前の記事なのに。
もう一つのポイントは「高血圧の人が風邪を引いた場合、気軽に飲める市販の風邪薬がない」って事です。これさ、風邪ひきでヘロヘロな時に薬局の棚に並ぶ風邪薬から、高血圧患者が飲んでいい風邪薬を探すのがどれだけ苦痛か~~!!実感されている人が多いのですね。
私的解決策は、薬剤師の常駐してる薬局だったら自分の症状と服用してる薬を言ってお勧めの風邪薬を購入すればいいかと。
や、実はもう決めていて、風邪の引き始めなら葛根湯。しかも即効力のあるドリンクボトルタイプ。ここで風邪の症状が納まったらもうけもの。
しかし風邪の引き始めで症状が納まらなかったら小青龍湯と決めてるんだけどね。これで大概いけるから。
しかししかし、そんなの専門家でもない私の事は信じられない~!と思うよな。
解決策になるかどうかは分かりませんが、NHKの「きょうの健康」のご意見・ご要望欄に投稿してみました。
「高血圧患者が飲んで良い市販の風邪薬」について放送して下さい。みたいな感じで。
私の風邪薬を飲んで陥った体験談も書き込んでます。
NHKなので市販薬の製品名を放送出来ないかもしれませんが、きょうの健康はちょくちょく高血圧の特集してるからいけるかも?放送してくれたら嬉しいのですが。
番組は健康な人がこういう話題なら視聴率が取れるかも?と作ってると思う。でもさ、実際の患者さんが切実に求めてる事と放送内容は乖離してるように思います。だいたい解説してる先生もお話を聞く司会者も患者じゃないから求めてる事が分からないんだよ。実際の患者さんが求めてる事を教えてくれよ~。
さて?取り上げてくれるといいな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸城の石垣

2014年10月30日 12時13分41秒 | お城&御所
宮内庁の雅楽演奏会は、東御苑の楽部で開催されました。終了時刻は午後4時を回ったところ。
来た時は既に行列が出来ていたので、御苑の中は見てなかった。東御苑の閉園時刻は午後4時半。あまり時間がないけれど、馬場先濠でうっかり目撃した石垣の清掃風景に、石垣スキーの萌えが刺激されてしまいました。かる~く石垣見物をします。
まずはトップ画像。これが旧江戸城の天守の土台の石垣です。うまい具合に人物が入ったので、石の大きさも測れるというもの。

続きましては汐見坂から白鳥濠の石垣を撮影。
これね、見たらわかるように石垣の組み方が違うのです。

彫り跡の残る石。

こんなんでよく崩れないよね。日本の石垣って凄いわ~。
一方汐見坂の北側の石垣は?

きっきり隙間無しに組んであります。でも石垣の形は揃えてないんだな。どうやって石垣作ったのだろうか?

秋の日暮れは早くて。既に画像が暗くなっていたので明るさ補正かけました。美しい石垣でしょ?

白鳥濠の高い石垣を横目に出口へ急ぎます。外国人観光客の一家が、二の丸庭園に向かおうとして、「NO.クローズ」と止められてました。

百人番所が近づいてきました。そばの石垣の隙間から、植物が生えてます。馬場先濠の植木屋さんが取り除いていたのはこういう奴ですね。これ、放置すると石垣を壊してしまうのだ。
東御苑の受付が近づいてきました。ところが~~、行列が出来てます。
御苑は入る折りに入園票を受け取り、出るときに入園票を返却する仕組みなのですが、窓口が一つなので込み合うのですよ。
そんなこんなで閉園時刻を回って追手門を出てみると、夕空が広がってました。

これは~、もしかして巽櫓のとこ、いい撮影ポイントなんじゃ??
急いで移動したのですが…。

ゴラァアアアアッ!!お濠の水草が邪魔っ!!
せっかくいい感じに夕空が水面に映り込んでるのに、台無しです。…まあ、水草が雲に見えないことも…。イヤ!!自分に嘘ついちゃいけないわ。やっぱり水草がなければもっといい写真になったハズです。残念。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皇居蓮池濠全景&乾濠

2014年04月22日 05時19分03秒 | お城&御所
今日で4月4日-8日まで特別公開された皇居・乾通りの通り抜けイベントの紹介はおしまいです。
まずトップ画像は、蓮池濠の全景です。乾通りの通り抜けは、ゴールが乾門へ抜けるコースと、途中で東御苑の本丸広場へ抜けるコースに別れます。トップ画像は本丸へ向かう西桔橋の上から撮影しました。

もう一枚同じ場所から。

この画像の左奥に人が写ってますね。ここから蓮池に向けて撮影しました。見所はもちろん蓮池の石垣です。

道灌濠を乾門へ進むと、すぐあったのがこの交番。皇居内にはこういう簡易交番があちこちに設置されています。皇居参観コースに申込みますと、参観者が交番の前を通り過ぎると、無線で報告してるのを見ることもある~。

こちらはトップ画像を撮影した同じ橋の上から、反対側の乾濠を撮影しました。簡単な石垣だけど、綺麗だよな~。

乾通りへ戻ります。

ゴールが近づいて、乾通りはますます混雑しています。

もう大変っ!自力でスピードアップは無理~。流れに身を任せるんだっ!

振り向いて、本丸広場へ続く橋を撮影。このアングルも石垣綺麗でしょ?

あ。乾濠の奥に見えるのは、乾濠と平川濠を分ける北桔橋門からの橋です。このアングル、桜が見頃だったら綺麗だっただろうねえ~。
さて、乾門が見えてきました。こっからアレを抜けるまで何分かかるのか…。

乾通りを抜けたのは、11時50分!…もうね、数百メートルを抜けるのに、どんだけかかったかは気付かないふり!でいきますっ。



実は、乾門を抜けたら、まだ見頃の続くしだれ桜が迎えてくれて、せっかくなので記念撮影をやってみた!
さ~て。乾通り通り抜けにどれだけ時間がかかるか分からなかったから、この後どうすっかな~?
「取りあえず、見頃は過ぎてるらしいけど、千鳥ヶ淵を散策してJR市ヶ谷駅へ向かう?」と。相談して、西へはけました。
日本史 ブログランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皇居・蓮池濠と道灌濠

2014年04月21日 05時22分26秒 | お城&御所
4月8日、公開最終日に友人を誘い皇居の乾通り通り抜けの一般公開を見に行きました。
昨日は入城するまでの行列中心で記事を書きましたが、坂下門の石垣が見事だったので、石垣好キーの萌えが目覚めてしまいましたっ!私の石垣好きは、寺院やレトロ建物を巡った時に、石垣に見とれる事も多いので同行者の苦笑を誘う事も多いのです。
しかし、乾通りに隣接する蓮池濠の向こうに続く石垣は凄いなあ~。高さが凄い!長さが凄いっ!!あの石垣の上には、かつて江戸城本丸がありました。かつての大奥もあったのです。乾通りは石垣好キーには見とれる程素晴らしい~~っ!!
しか~しっ!!立ち止まってうっとり石垣を愛でてわれる程乾通りの一般公開は甘くないんだな。だって、通りはこれだもの…。

まあ、石垣に萌え萌えやってる人はまずいないので、石垣撮影には問題ないんだけどね。つー事で、今日は石垣中心で画像を選んでみました。



石垣の向こうに富士見多聞が見えます。江戸城を偲ばせる建造物は殆ど現存してないのです。本丸では富士見多聞と富士見櫓。あと天守台の石垣しか名残りがないんだよな~。

山下通り。皇居一般参観コースでは、宮殿沿いに進み、上の画像の山下通りの奥から手前に参観者は進みます。

乾通り脇には、所々警官が配置されています。と?ン~?
老親を連れたオバさんが、警官にSOSしてます。「すみませ~ん。親が調子を崩してしまってぇ~」その声に気付いた(オバさんは警官に何度も声をかけていたのですが、何しろ人が多過ぎてなかなか気付いてもらえなかった様子)警官は、ハッ!!となり「このままお待ち下さい」と言いおいて猛スピードで走り去って行きました。何がどうなぅったのか?気にはなりますが、もう振り向くのも嫌になる程に人並みです。流れに身を任せ前に進むのが一番スムーズなのね。

この人の多さだから、歩みはノロノロのままです。あまり進まないうちに、前方からパイプ椅子を持った警官が走りーー抜けていきました。先ほどのオバさんにSOSを求められた警官だったのね。ちなみに、宮内庁の庁舎があった広い場所に気分が悪くなった人用にテントが設置されていますが、最早戻るのは困難です。っという訳で、通りの側の芝生で、パイプ椅子に座ってる体調を悪くした高齢者や妊婦の姿がチラホラありました!この機会に皇居に入って見たい!という欲望もわかりますが、この状況に耐えうる自信がないならば、きっぱり諦めて通常の平日に開催されてる皇居一般参観で満足する事をおススメします。あっちは平日の午前・午後に開催してて、1回の定員は確か300名だから体力に自信がなくとも楽勝です。

あまりのノロノロペースにじれたのか?外国人の若いお嬢さんが、芝生の入って「(母国語)こっちはすいてるわよ!アナタもこっちへ来なさいよ!」みたいな事を彼氏に勧めてます。呼びかけられた彼氏は「(母国語)何やってんだっ!戻って来い!」みたいな感じで彼女の暴挙を咎めてます。おそらくスペイン語だと思うんだが、意味はわからない。けれど状況と声の調子から予想はつく。やり取りを数回繰り返した後、彼女は芝生から行列に戻りました。やっぱ、大人しく行列する大勢の日本人の視線には耐えられなかった模様…。日本人は無言てプレッシャーかけるからな。若いお嬢さんにはそう耐えられまい。
やがてもう一つの江戸城の遺構、道灌濠に近づいて来ました…。

だ・大丈夫かしら~?行列の進むスピードが、更に遅くなったんだが…。
午前11時25分撮影
上の画像の札には、道灌濠と書かれています。道灌は、太田道灌に由来しています。

この辺りはまだ桜が綺麗だったので、桜の乾通り通り抜けを楽しみたくて行列に並んだ人はぜひとも撮影したいよな?つー事で、私も混じってみた。
警官が「立ち止まらないで下さ~い!撮影したら、素早くその場を後ろの方に譲って下さ~い」と注意しています。そうだよな。携帯だけ人並みの間に突っ込んで、真っ黒な携帯画面に構わずシャッターを切ったのがこれ。

や。何て事はない枝垂れ桜の画像なんだよ。ンでも、そこは思い出が欲しいじゃない…。
ちなみに、頭の上はこんな感じです。

アハハ~。人並みも写り込んじゃった…。もう携帯の画面を見ないでシャッター切ってるからな。
つー事で、桜はほっといて、私の萌えに戻って道灌濠の撮影を。

そっちを主眼に撮影してる人はまずいないので、結構らくに撮影出来ました!

撮影が済んだらば、次は乾濠ですっ!!(誰も喜ばない石垣好キーが再発動!)だって、道灌濠に石垣はなかったんだもん…。(色々楽しみ方を間違ってる私…)
日本史 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太閤の一夜城

2014年01月04日 06時00分31秒 | お城&御所
太閤、つまり豊臣秀吉の天下統一の関東攻めのキモとなったのが小田原北条氏の本拠小田原城攻めです。
天正18年(1590)4月、関白豊臣秀吉は率いる諸大名水陸合わせて22万で包囲します。
って、以前から疑問だったんだよね。石垣山一夜城は、中々ギブアップしない小田原方をして「もうダメだ!」と心を折る決め手になった戦略の要だった訳です。小田原を散策していて、一夜城ってどこにあるの?見えないじゃん!と。
今回一夜城を初訪問。本丸の物見台から小田原城が見えました。それがトップ画像です。
今では大きなビル等に埋もれるように小田原城天守閣が見えます。
トップ画像の矢印の先に天守があるのですが分かりますか?
これでも携帯電話で目一杯拡大して撮影した後、IPhotoでトリミングしてます。小田原城と一夜城は直線距離で3キロあります。
3キロ離れてたって、一目見てギブアップするものなの~?とはなはだ疑問だったのですが…。ガイドさんが見せてくれた往時の一夜城の姿を見て納得しました。

これが一夜城の姿です。
対する小田原城は今の天守閣や漆喰と瓦屋根の乗った櫓で出来た姿ではなく…。しいていうのなら『隠し砦の三悪人』にでも出てきそうな木製。平屋の室町の屋敷でしかありませんでした。
こんにちの私たちが想像するお城が一夜にして現れたら、そりゃあ魂消るよな。つまり当時の北条一族からすると、トップ画像の小田原城が敵方の本陣がある視線の先の山の上に突然出現したに等しい。
ギブアップもするわ~~~。
戦いを劇的に展開する素晴らしい演出家でもあった秀吉は、豊富な財力・兵力をつぎ込んで城を作りました。ンでも完成するまで建築現場を悟らせなかった。小田原城側は目隠しの木があったのです。さあ!という時になり夜の暗さを利用して目隠しの木を一斉に切り倒し…。翌朝バーンっ!と最新式の城を出現させる。

それに攻め手の豊臣方の軍勢には、兵糧もふんだんに用意されて、小田原方を包囲してる…。
しかも包囲してる面々は、徳川家康らが東海道を豊臣秀吉と共に進み、前田利家・上杉景勝率いる北国勢が上野国(群馬県)から北条の領地に侵入。長宗我部元親・九鬼嘉隆らの率いる水軍が兵員・物資を搬送し、海上を封鎖。これがゲームなら、「詰み」ですわ。
それでも北条方は6万人が中世最大規模を誇る小田原城に籠もり、3ケ月に渡り攻防戦を繰り広げました。

本丸(本城曲輪)から太平洋を望む。

画像はかつての本丸跡。奥に見えるのがかつての天守台。今はなにもない。
さて、巻き巻きでガイドさんは歴史ロマンに浸る私たちを先をせかします。何しろ小田原宿観光周遊バスは30分に一度しかやってきません。1時間で一夜城を案内しないといけないんです。
本丸の跡は下り坂。またまた酷い道を降りて行くと、

西曲輪が現れました。かつて淀君を始めとした武将達の側室が一時暮らした場所です。
ガイドさん「秀吉は筆まめな男でした。秀吉は奥方・北政所に手紙を送っています。曰く「配下の大名達に一夜城の側室を連れて来るように言った。ついては自分も淀君をよこしてくれ」と。確かに位置からしても安全に守られた場所ですね。
さて、もう少し下ると
南曲輪がありました。
ガイドさん「この石に落書きが残っています」

ガイドさん「加藤ーーと刻まれています。加藤清盛は小田原攻めには参戦してませんが、一門の誰かが刻んだらしいですね」

アップで撮影してみた。判読出来なかった…。
さて、一夜城巡りもそろそろおしまい。にしてもガイドさんはさっさか降りて行きます。とてもじゃないがあのスピードではついてかれない。
私「ガイドさん、何歳なんですか?元気過ぎですっ!」(青息吐息)
ガイドさん「70歳を超えました。定年してから歴史を勉強し始めました」
と。すぐさままたさっさかさかと。
70歳っ!!
我が身の体たらく…。ま・待って~。

そして説明板の立っていた場所に戻りました!説明を聞いた時、まさかこれをあのスピードで降りるとは思いもよらず…。
ガイドさん「もう少し頑張って。最後にバス停横に置いてある大石を紹介します」
大石?

ガイドさん「一夜城を築くにあたり切り出した石です。大きな石にたがねを打ち込み、夜水を掛けて放置。すると石が収縮して翌日には割れているという仕組みです。どこで石を切り出したか分からなかったのですが、発掘場所が見つかり、そこから移動させてここに設置しました」

へえ~へえ~へえ~。
鎌倉を散策していると、古い時代には細工し易い鎌倉石が使われているのですが、時代が下がると石が不足するようになります。だから、日本初の築港の施設ともいわれる和賀江島の石は関東大震災で崩れたのを契機に再利用されて、ずいぶん破壊されてしまったとか。山道を上りながらガイドさんに「石垣山の石はどこから持って来たのか?」と質問しましたら、「周りにいくらでも石はあるから」との回答。
あ。そうだった…。江戸に入ると伊豆は石の一大採掘地になったんだった。忘れてた~~。

12時50分、小田原宿観光回遊バスがやってきました。
ラッキーにも座席確保出来ました。

石垣山から小田原城下へ戻ります。途中車窓にみかん畑が広がっています。
ガイドさん「調度露地ものの収穫期です。みかん狩りの出来る所もありますよ~」
さて既に午後1時。お腹がすいたので、小田原漁港バス停で下車します。
日本史 ブログランキングへ
田舎から戻って来ました!
ええ。昨日…。
お察しの通り、新幹線がもう大変っっ。
なんつーか、かんつーか。もう岡山出発時点で1時間遅れだったのですが。
駅と駅の間に新幹線が数珠つなぎになってまして、新横浜到着するまでなんと!3時間遅れになってしまった~~。
ま。
3時間遅れなんで、どうやら特急料金が戻ってくるらしいんだけどね。
「1年以内にみどりの窓口で手続きして下さい」とか。
ンでも町田駅に到着したら、既にみどりの窓口はシャッター降りてた…。
疲れた。
ま。帰りの小田急OXの総菜売り場は50%オフだったしな。小市民は3時間遅れで得したからそれなりに幸せよ~~。
なんつーか、狂想曲的な実況記事をそのうち書きますわ。
母の愛でパンやらお茶やらもたせてくれてたので、飢えずに済みました!
時間つぶしに持ち込んだ「中国歴史人物史」の本も片道9時間もかかったらば、そりゃあ完読出来ますわ…。3冊持ち込んでてよかったぜ。夜の分の降圧剤のお薬もなぜか余分に盛ってたからねっ。備えあれば憂いなし!って本当だよな。幸いあの大混雑の岡山駅の新幹線待合で椅子をゲットして読書にふける事が出来たし、今年はなんかついてるかも~~。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石垣山一夜城の二の丸周辺

2014年01月03日 06時14分43秒 | お城&御所
説明板発見:国指定史跡:石垣山一夜城
所在地 小田原市早川字梅ケ窪1383-11
指定 昭和34年5月13日
史跡石垣山は、JR早川駅の西方約2、5キロ、国道1号線から東へ約1キロのところにあります。
また小田原城までわずか3キロのところにあり、標高257メートルの本丸からは小田原城や城下の様子が一望できます。
石垣山は、もと笠懸山、松山などと呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏の本拠小田原城を水陸15万の大軍を率いて包囲したとき、その本営として総石垣の城を築いてから石垣山と呼ばれるようになりました。この城を秀吉が一夜にして築いたようにみせかけたという伝承から、石垣山一夜城とか太閤一夜城などとも言われています
秀吉は、この城に滞在していた100日余りの間に天皇の勅使を迎えたり、千利休や能役者、猿学師等を呼び寄せました。また自ら淀君などの側室も予備、参陣の諸大名にもこれにならうよう勧めたと言われています。
この城は単に小田原攻めの本営であるというだけでなく、太閤秀吉の威信を示すと共に、長期戦に備えた本格的な城構えであったといえます。
この城は関東で最初につくられた石垣の城です。
石積みは秀吉が連れてきた近江の穴太衆による野面積みといわれるもので、小田原藩の管理下におかれていた江戸時代にも、度重なる大地震にも耐え、今日まで当時の面影を大変よく残している貴重な城跡です。
この石垣山は、土地所有者の松岡氏を始め地元関係者のご厚意により昭和62年に公有地化することができ、現在歴史公園として一般に公開しています。(小田原市)
細い山道を上っていく。途中に対岸にも石積みがあるのを望む。
っと!携帯電話の撮影機能の限界です。遠目の石積みが判別出来ない~。一応画像奥には石垣が左右に伸びてるのが見えるんですが。
登っていた細い道が、やがて緩やかになり普通の山道ハイキングみたいになった!道の先にあったのがトップ画像の広場です。かつての馬屋曲輪跡(二の丸)です。
ハイキング気分でお弁当を広げている観光客もちらほらほら。
画像の右の石柱には櫓台跡と刻まれてます。
訪問は2013年11月23日だったのですが、既に赤く色づいているモミジがありました。

モミジの下に石のひょうたんのオブジェがありますね。やっぱ秀吉だからひょうたんの選択だったのかな?ひょうたんの石柱は石垣山一夜城の行き先案内になっています。城の縄張りを散策していたら、あちこちに設置してありました。
二の丸の平坦な広場の端っこにガイドさんが案内。

ガイド「あれが近年パワースポットとして人気の井戸曲輪です」
ひょえっ!!
上の画像で確認出来ますかねえ?右手の二本の木の間に人がいるんですが。こ・高低差…。
ハイ!見なかった!
ガイドさんが次に向かったのは展望台です。

入生田の長興山紹太寺が一望出来ます。紹太寺といえば、春日局の息子、稲葉一族の墓所や、有名なしだれ桜があります。

眼下を箱根登山鉄道の赤い電車がゆっくりと駆け抜けて行きます。山は秋色に染まりつつあり今日は散歩にはぴったりですね。

ガイドさん「秀吉はこの場から集まった兵士に向かって演説をしました」ってな事で、秀吉目線で画像を撮影。

ガイドさん「二の丸の下に道があるのが見えますか?」
ん?
あ。確かに左右に伸びる細道がある。
ガイドさん「かつてはあそこに兵士が並んで物見をしていました」
ここから先、本丸に登る道はまた軽い山登りの自然道。う”。落ち葉が滑る…。
日本史 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする