あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

乃木希典殉死の刃

2011年03月29日 04時12分33秒 | 旅順・大連旅行記
乃木神社の宝物殿は必見です。
トップ画像はおそらく一番インパクトがあるだろう「乃木希典殉死の刃と妻静子殉死の短刀」です。
乃木希典は大正元年(1911)明治天皇御大喪当日、御霊出発の時刻9月13日午後8時に夫人の静子さんと共に自刃しました。
…現代に生きる私にはちっともわからない生き方ですね。
現代の私が思いをはせられるとしたら、これに先立つ日露戦争(1904-1905)時、乃木大将が指揮する旅順攻略戦において数万の兵士が戦死。その中には乃木夫妻の長男と次男も含まれていた悔恨の念があったんじゃないかと…。
日本は大国ロシアに勝ったことで決定的に軍事国家へ突き進んでしまったように思うし。
あ。これは私の私見です。でも周囲が乃木大将を持ち上げで、息子達を喪った悲しみを昇華する時間も持てなかったとしたら、ありうるような…。つーか、壮絶な死に方ですよね。
/乃木希典遺書
殉死の刀の隣には、遺書も展示されています。達筆すぎて全く読めないのが残念無念。
あれ?
何やら見覚えのある写真。
これって、写真中央にいるのがステッセルと乃木希典だよね。水師営で会見の記念撮影じゃん。あっても不思議じゃないけど、ここで再会するとは…。水師営会見所(2010年8月5日)の記事。水師営がわからなかったら、こちらの記事を参照で。

私は何を言ってるかと言うと、去年の7月に中国の遼寧省にある大連&旅順を旅したんですよ。
あ。旅日記は左のバーのカテゴリー<大連&旅順旅行記>にあります。
他にもどうにも見覚えあるものが…。

旅順攻略戦において、勝敗を決したといわれる巨大な大砲のミニチュアレプリカです。ちなみに…。

こちら、旅順の203高地においてある28センチ砲の実物です。まさか203高地へ行ってホンモンに合えるとは思いもよらなくて、興奮したっけなあ。
203高地、28サンチ榴弾砲(2010年8月7日)の記事参照で。
隣には。塔のレプリカもありました。
こ、これはっ!!アレのレプリカなのではっ!?

こちら、旅順の白玉山に設置された白玉塔です。乃木大将の頃は、表忠塔と呼ばれてました。ここからは日本軍が展開した旅順口閉塞作戦の現場が一望出来ます。
こんな感じで。
旅順観光のハイライト!(2010年8月22日)の記事この記事で、白玉塔のアップ画像&立地がわかります。
かつて、白玉山の頂上には、白玉塔(表忠塔)と共に上の神社がありました。
そして掛け軸。
爾霊山から始まる文章に見覚えが…。
爾霊山と書いてにれいさんと読みます。分かりやすく書き換えたら『203』。
つまり203高地のことですね。

上が203高地に建つ爾霊。詳しくはこちらを参照して下さい。
慰霊 爾霊山(2010年8月8日)の記事

昨日、JR相模線がようやく運行を再開しました。
地震から2週間。ずっと橋本(始発)ー寒川間で運休が続いてました。利用者はさぞ大変だったことと思います。それでも通常の50%での運転らしい。相模線は橋本ー茅ヶ崎を結ぶJRで、確かに利用者は多くないんですが、多くないからって運行が止まってしまうと、それなりに影響があるんですよ。利用者は大変困るでしょうが、沿線に暮らす人には精神的な影響が大きい。これを利用する相模川の芝桜まつりとか座間キャンプの桜まつりとかは既に中止が発表されてますね。なんでも自粛はダメなんじゃないかと思うんですが。夜間にかかるイベントだけ中止すればいいのに…。あ。そうか。行政が祭りに割く人員が確保出来ないの?
そんなことないよねっ。相模原市は市町村合併を無理矢理やったから、市の公務員が余りまくってるって統計出てたじゃん。
あ。それた。
ぼちぼち地震から2週間を超えました。緊急を要する行方不明の人の捜索や生存者の生命維持の段階は既に過ぎ、次の曲面に移ってますね。
んで、思うんですが…。
直接被害がなかったら、人間そうそう緊張状態は続きません。
まあ、関東在住だと計画停電とか原発の問題が現在進行形で存在してるので、外の地域より緊張状態は持続してますが。それにしても救援物資を送らなきゃとか募金しなきゃという自分テンションは下がってます。つーかそれが普通なんですよ。日本人の基本は「安定&平穏を望む」なんですし。
これ、ヤバいと思うのね。
支援金、募金、義援金。名前なんかどうだっていい。莫大なお金がこれから必要なのは誰の目にも明らか。どうせお金を集めなきゃならないんだったら、人々の善意レベルが高いうちに、自分の意思ですすんで国民がお金を出す時に可能な限り最大にお金をかき集めるべきだよ。
お金を問答無用で吸い上げシステムの構築も大事ですが、国民が自らの意思で進んでお金を出すのは今なんだよ。政治ってそういうの大切なんじゃないの?
後から地震&津波で被災した発電設備の復旧のため。また原発被災住民の補償の為に電気料金を上げます。
ガソリン精製設備の復旧のため、ガソリン代を上げます。
上下水道復旧のため、上下水道代を上げます。
道路&港湾&公共施設の復元のため、税金を上げます。
ま。
やがて絶対くるのはわかってるんだけどね。西の方に人は実感ないでしょうが、これら、被災者の人にはもうどないも出来ませんよ。広く厚くお金を集めないとダメでしょう。管さんはひきこもってますが、出来ないなら出来ないでさっさと止めてくれないかな~。アンタが決めたら動く物事はすんごく多いのに。俺が止めたら次やる人がいない?そんなん、アンタが最高権力を握り続けてる方がダメだと思う。
日本人の美点は団結力ってACも言ってるよ。団結力の日本総全体主義を今こそ発動するといい。

さて、庶民レベルの愚痴へ戻ります。
魚屋に生魚がないっ!!
これって港湾施設が広範囲に壊れてる。
漁をする船が壊れてる。
漁をする漁師さんが避難民になった。
これが直接の原因で入荷が減ってるんだろうと我慢してましたが…。
加えて。
計画停電の為、冷蔵保存出来ないし、販売時間が短いので魚屋が購入量を減らしてる。
これが東京電力の災い。
んでもって!!
原発の放射性物質が海に漏れでて魚に汚染があるんじゃないか?という不安から消費者が魚を買い控えてるので魚屋が仕入れない。
これが許せない~~~っ!!
買えよっ。つーか、魚屋が魚売らんで何を売るっつーんじゃっ!!
ああ。
魚が食べたい…。…。………。四国の田舎の父に瀬戸内の魚を釣って送ってもらおうかな~。
魚好きには辛い毎日がしばらく続きそうですね。あ~あ…。
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その1)7月5日成田出発

2010年09月15日 04時47分40秒 | 旅順・大連旅行記
今日から7月に旅した中国遼寧省大連・旅順3泊4日の旅の紹介です。
本当は竹里館のホームページの「旅日記」にいつものようにinfoseekの体裁で書くつもりだったのですが、使用出来る容量を限界近くまで使い切っててですね…。とても最後まで書けそうになかったので、gooのブログでまずは書いてみようかと…。
これ、書くのにとても時間がかかりそうなので、日々更新という訳にはいかないかもしれないので、カテゴリー「旅々しい」で見るとお話が繋がるってな感じで行きたいと思います。
でははじまりはじまり~~。

7月5日(月曜)1日目。
小田急相模原発5時15分発ー5時18分着相模大野駅。いつもの空港バス利用である。ここから成田空港までは何事もなく到着するのを祈るのみっ。だって平日の朝だよ?渋滞が怖いんだよねえ。特に横浜から湾岸を抜けるまでが…。事故なんか起りませんようにっ。
5時35分。相模大野バスターミナルを定刻で出発。バスは町田駅を経由して一路成田空港へ。到着予定は8時です。集合時間は8時20分。
なんとっ!!
バスは順調に運行され、7時半過ぎには成田空港へ到着しました。
集合場所は第一ターミナル南ウィングです。え?南っ??あっ!初利用。
集合カウンタK22番ーで気づく。利用航空会社はANAでした。
ANAか…。久々…。つーか、ANAって今まで利用したことあったっけ??
あれれ??
いつの間にやら「インターネットチェックイン」が出来るようになってます。んでもって搭乗券も打ち出されたA4用紙に変ってます。印刷されたQコードを読み取るだけで飛行機に乗れるようになるなんて…。切符なしの飛行機…。新鮮。
取りあえず、荷物をANAに預けたら、ターミナル散歩。なにせ南ウィング初利用ですから。
歩いていたら、こんなんありました。

9.11以降、飛行機はどんどん利用しづらいものになりましたね。
あ、今のうちに余ったお茶を飲んでペッポボトル捨てないと。機内持ち込み出来ないんですよねえ。
ついでに本日発売の花とゆめの「夏目友人帳」の新刊を買って~。
前回、どうせ搭乗開始まで時間があるからとうっかりマクドナルドでハンバーガーとコーラを購入してそのまま入ったら、セキュリティーチェックにひっかかったんだよね~。あの時はまだ液体持ち込み完全禁止じゃなかったけど、今はねえ…。
とかなんとか言ってたら、セキュリティーチェックに引っかかった!
何がひっかかったんじゃ~~。
なんと、ひっかかったのは靴でした…。靴を脱いでもっぺんセキュリティーゲートをくぐって次へ。
あ、靴べらないの~?
置いとけよっ。
そんなこんなで免税店を冷やかして待合所へ。ちっ。お気に入りの香水補充しようと思ったのに、売ってないなんて…。つーかもしかして廃盤?普段化粧品なんか大概スルーするので、いざという時に困っちゃうなあ。
そんなこんなで何も買わないままてくてくてく…。
ううっ。出発ゲートまで遠いぜ。56番ってどこやねんっ。南ウィングが初利用なら、出発ゲートのあるエリアも初利用です。
さて、定刻に搭乗開始。
あ、27Eって窓側じゃん…。つーか、窓側はダンナでした…。ま、いいけど。
成田から大連までの飛行予定時間は3時間5分。はっきり行って近いです。私は元々飛行機が嫌いなんですが、持病の高血圧に飛行機ってどうなの??と飛行時間が長いのって不安なんだね。で、今回の旅は退院後始めての飛行機なので、おそるおそる飛行時間の短いのから始めることに…。あ、もちろん掛け捨ての保険には入ってます。旅行って普段やらないことやらかしがちなので、万一の可能性って結構あるからね~。
でもさ~、たった3時間5分の飛行時間で、目的地が大連で、なんで燃油サーチャージ料がお一人様5000円もしやがるのか…。納得いかん…。
あれ?出発時刻が過ぎてるのに、飛行機が動かん…。
結局約30分遅れで成田出発です。ちっ。たった3時間5分の飛行予定時間で30分もおくれたら、どうにもならん。

ANAの旅は快適でした。
スチュワーデスさんが日本人。機内が日本なんだね~。ドリンク注文も日本語って楽。ANAの機内食。なぜがおそば。
う~む。
ハムとえだまめとおつまみは塩分多そうなのでパスの方向で。おそばもだしはちょいかけで。
1日摂取塩分6グラムはなかなかに達成が難しいんだよねっ。旅ともなると、3食外食ですからその辺余程注意しないとな…。
ANANH903便の機内は個人個人で自分の好きな映画やゲームや音楽を鑑賞出来ます。実質2時間あるかないかなのにボーンアイデンティティーを見始めた私はアホです。
ええ、主人公をハメた犯人が分かる前に上映終了時間が来てしまいましたよ…。
ところで、成田から大連の飛行ルートって面白いですね。
成田から山陰を抜け韓国仁川空港近くへ一直線。黄海に入るとルートを真西へ。山東半島を目指し、やがて右へ90度。真北へ修正し遼東半島にある大連へ。まるっと北朝鮮回避の飛行ルートです。

さて、到着した大連空港。第一印象はこじんまりっ。
サクサクと入国手続き。ターンテーブルから預けた荷物が吐き出されるのを待つ間にお手洗いへ。
空港ビルから出ると「あ、暑い…」
大連って仙台と同じ緯度だよねっ??
なんで東京より暑いの??
ここって海の側だよねっ??どうしてこんなに…。
おりしも、中国には熱波が到来してました。
マ、マジか…。

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その2)水師営会見所

2010年09月14日 04時17分28秒 | 旅順・大連旅行記
中国と日本の時差はー1時間。
大連の周水子空港到着12時25分。成田出発が遅れたのに、10分遅れでの到着は嬉しいです。
さくさく手続きは進み、空港ビルを出て観光バスへ。そこで中国側の旅行会社さんの挨拶と大連名物土産の青い切り子グラスのプレゼントをいただきました。

そんなこんなで大連を13時には出発です。
大連は日本人には馴染みある地名ですね。
現在の人口は600万人。旅の目的地、旅順の人口は21万人程。昨日の記事の最後の方に少し書きましたが。本来緯度が仙台と同じ大連は東京より2-3度は気温が低い場所です。夏の平均気温は28度。冬はー15度ってレクチャーをガイドの楊さんからありましたが、熱波が襲来中。「先週ここより北のシン陽(「シン」はサンズイに審)に行ったら40度あったんですよ。大連は過ごし易いです」とかフォローになんないフォローをいただきつつバスは冷房全開。
や、私は聞き間違いかと思いましたよ。YHAOO!のお天気予報ではですね。本日の大連は最高30度/最低20度。晴れのち雨の予定だったんですよね。
バスの中でガイドの楊さんにより両替。時間短縮と今日明日滞在する旅順は去年の9月まで外国人の立ち入りを禁止していた事もあり、日本円を元に両替出来ない為、旅行会社の配慮です。
「旅順で買い物するものありません。せいぜい飲み物位です。一人2000円位両替すれば充分です」とか。
なので私とダンナと合わせて5000円分を両替。楊さんレートは5000円で350元。
え~と、それって1元=14.29円ということに。
大連から旅順まで約45キロ程。1時間の距離です。道沿いに時折さくらんぼの木が見えます。このあたりは果物の産地なんだそうです。具体的にはいちご。さくらんぼ。すもも。あぶらもも。りんごとか。だから名物もこれらを使ったお菓子なんだって。
う~む。食事にそういうのが登場するといいなあ…。
ドリームを膨らませていると…。
添乗員さんが用意して来たペーパーを配り始めました。
何々…。『水師営の会見』作詞者 佐々木信綱 作曲者 岡野貞一。
楊さん「それではみなさん一緒に唱いましょう」
ええ~~~~っ!!
するとどうでしょうか?皆さん何事もなく、ペーパーに書かれた歌詞を見て、いや、それを見る事もなく唱和し始めたのです。
一体何事が起ったのか…。
戦後生まれには衝撃の展開が次々と!
衝撃の一端を紹介しますと、バスで皆さんが唱和している歌詞はこう。
1番。 旅順開城約なりて 敵の将軍ステッセル 乃木大将と会見の所はいずこ水師営
2番。 庭に1本なつめの木 弾丸あともいちじるしく くずれ残れる民屋に いまぞ相見る二将軍
とここまで歌いました。歌詞は9番まで続きます。何で皆唱えるのか、後に尋ねてみたら、どうも戦前小学校の教科書に載ってた歌みたいなんだよねえ。
そう、旅順って「日露戦争」の舞台なんですよ。
去年の年末NHKで司馬遼太郎の「坂の上の雲」という小説をドラマ化して放送されましたが見ましたか?
私は見ました!
ドラマの原作「坂の上の雲」は文春文庫全8巻もあるんですよ。去年の放映は原作の前半。旅順の戦いはまだ放映になってないので続編あるならそのうち放映あるんじゃないかな~。
で、この後訪れる「水師営」は日露戦争に於いて歴史的な会見が行われた場所なのですよ。
日露戦争における大きな戦いは何と言っても203高地攻略戦とバルチック艦隊海上戦です。
水師営は203高地が陥落した後、ロシアの司令官ステッセルと日本の乃木希典が会見を行った場所なんですね。ええ。まさにそれがトップ画像。(ようやく解説まで辿り着きました)
名著「地球の歩き方」によりますと、『203高地の陥落を受け、1905年1月1日旅順総司令官ステッセル中将から降伏の申し入れがあり、翌日日本側がこれを受入、旅順での戦闘は終了した。そして、1月5日に乃木将軍とステッセル中将がここ水師営で会見をした』と書かれてます。
トップ画像は当時の史料に基づき再建されたもの。
では臨場感を盛上げるべく、文春文庫 司馬遼太郎「坂の上の雲(五)」314ページより抜粋。
『会見の場所は水師営である。水師営とは村の名前であり、その会場として指定されたのは劉という百姓家であった。戦闘中この家は日本軍の野戦病院に使われていた。』
「庭に一本棗の木」水師営の会見の時にはこの木に馬を繋いだそうですが…。

(現在の棗は乃木将軍時代から数えて3代目の木だそうです。でも7月に葉っぱもつけてないって…。手入れが足りないんじゃないかな~)『坂の上の雲(五)』へ戻る。
と、『前出の「水師営」の歌にもあるように、門を入って右の泥塀に沿って棗の木がある。樹齢百年以上といわれているが、歌詞に「弾丸あともいちじるしく」と唱われているように、無数の弾痕が樹皮を裂いていて生肌をあらわしている。(中略)
机がある。
幅は腕の長さ程で、長さは1、8メートルほどの祖末なもので、この民家が野戦病院であった時の手術台であった。

この手術台が使用されていた時、しばしば弾が窓から飛び込んできた。その弾痕があちこちについていた。それが見苦しいというので、白布がかけられた。ステッセルとその幕僚は、この机のまわりの椅子に腰をおろし、乃木を待った。』
今建っている水師営の会見所は色々細かに会見当時を再現されてます。
下の画像が二将軍のロシア側の控え室兼会見場所です。

上の画像の中にある写真はこれ。

中央にいるのが乃木将軍とステッセル。会見の時にこの地で撮影されたものです。
なぜに奥の壁に白い布がかけられてるかというと、これまた史実の再現です。
以下、添乗員さん配布のコピーより。
”会見前日、壁に残っている弾のあとを、ともかくも新聞紙で張った。下見分をした乃木将軍は、陣中にふさわしい会見所の情景に微笑んだが、壁に張ってある新聞紙に、ふと目を注いで、
「あの新聞紙を、白くぬっておくように」と言った。
新聞紙は、ロシア軍敗北の記事で満たされていたからである。”
この辺りの知識がないと、水師営はただの古い民家にしか見えません。
実際祖末で小さな建物だし。

なっ?
ちなみに、この家屋の周辺は今の中国の街でして、事前学習して訪れないと感慨も味わえないかと。

ねっ。これ、トップ画像を撮影した場所から90度右側に首を振っての情景です。
ちなみに、トップ画像中央奥の建物。左側がロシア側の控え室。右側が日本側の控え室でした。
日本側の控え室には会見の両国代表の集合写真や日露戦争の写真を展示してます。
こんな感じで。 ええこんな。
(上2枚の写真は、旅順口閉塞作戦。旅順のロシア軍艦殲滅に使用された榴弾砲と、日露戦争の重要な作戦を示す写真です)

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その3)203高地

2010年09月12日 07時01分06秒 | 旅順・大連旅行記
さだまさしは好きですか?
昔、さだまさしの関白宣言が流行っていた頃、さださんが「203高地」という映画のテーマ曲を担当してまして…。ファンの私は映画館へ見に行ったのですよ。
………。
なんというか、延々戦闘場面ばっかりで、まあさださんの歌はずっと流れていたからファンとしてはそこそこ満足したような~?にしても映画自体は苦痛だったように思います。
あ、この映画ですね。
現在J-COMくんで放映中です。
つーか、私の203高地の知識ってこれが全てだったんです。

バスは水師営会見所からほどなく203高地に到着。
麓では、毎年恒例の桜まつりが開催されてるそうで、戦争の跡を見に来るのは日本人ばっかりなんでしょうね。

あれ?にしても…。映画「203高地」で見たこの場所って岩ばかりのハゲ山だったような…。
ハゲ山ないんですけど??

203高地は日露戦争の最大の激戦地でした。
守るはロシア軍。攻めるは日本軍。
そもそも旅順はロシア軍の拠点の一つでした。日本はなんとかここを攻略したかったのですが、堡塁を固めていたロシア軍の守備は強固で手も足も出ない。その時の撃破目的は旅順の北東の東鶏冠山でした。こちらはロシア軍が大金を投じて塹壕つーかトーチカを築いてました。とてもじゃないけど撃破出来ない。で、作戦を変更し攻略を目指したのがロシア軍がざっと塹壕を作っただけの203高地。
戦闘に身を隠し易い木は邪魔なので、切り倒したのですね。おりしも戦闘が始まったのは冬ですし…。だからハゲ山のイメージが強かったのかな?
あ、203高地は低い山だと思って下さい。
203高地の中腹に駐車場があります。そこから先は坂道を登ることに。
が、軟弱な観光客の為に有料バスが高台の爾霊山慰霊碑まで連れてってくれます。

私は徒歩で坂道を行くことにしました。

途中の道は大きな木こそありませんが、普通の里山のようです。
ここでかつて日露合わせて2万人を超える戦死者を出した激戦があったなんて想像も出来ません。

でも確かに戦闘はあったのです。

上記の標識には戦争古跡を示す文字が。
そして上り切った所にあるのが「爾霊山慰霊碑」です。
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その4)203高地、28サンチ榴弾砲

2010年09月12日 04時42分38秒 | 旅順・大連旅行記
トップ画像は203高地にある重砲兵観測所に展示されている「28サンチ榴弾砲」です。
まさかこれがここにあるなんて~。
つーか、本物!?
ねえコレ本物??
コレって本当にアレですか?
旅順攻略で勝敗を決めた大砲??
当時、乃木希典はロシアの要塞化した旅順を攻めあぐねてました。ロシアは旅順軍港の防備を固めるように周辺の小高い山々に砲台を多数設置し、攻撃に備え多くの堡塁(トーチカ)を築いていたのです。ロシアのトーチカは餅米を混ぜて作られていて、とても固くなかなかに破壊出来なかったとか。
攻める日本側の軍上層部には時間がありません。なぜなら、遥々ロシアから最強のバルチック艦隊が日本を目指し大西洋を南下し、インド洋に入ろうとしていたのです。バルチック艦隊の目的地は旅順。もしバルチック艦隊到着までに旅順攻略が間に合わなかったら、日本の勝機は消えます。
つまり旅順要塞の攻略戦にはタイムリミットがあり、カウンターは刻一刻と時間が減っていくという…。まるでどこかのテレビゲームのような事態でした。

話は文春文庫「坂の上の雲(全8巻)」司馬遼太郎の4巻216ページより。
『(前略)有坂はいった。「私にわかっているのは大砲のことだ。いま旅順に持って行っている大砲、ああいうものではとても落ちないよ」
有坂は大砲の技術者有坂成章のことで、大砲とは在来の連射砲を大改良した31年式連射砲のこと。日露戦争の主力砲です。
有坂は続けた。「私は奇抜なことを言うようだが、二十八サンチ榴弾砲を送ろうじゃないか」
これには長岡も息をのんだ。28サンチ榴弾砲というのは、日本内地での要塞地帯に固定させてある巨砲である。』
コレですね。でも旅順攻略作戦司令本部はこの案を断ります。理由は二十八サンチ榴弾砲がやっかいなシロモノだったから。
『坂の上の雲(四巻)』224ページより。
『乃木の前で砲兵の専門家が揚言した。「まず砲床からつくってゆかねばならない。コンクリートが乾くまで1、2カ月は要るのだ。あと組み立てにどれだけの日数がかかるか見当もつかん。そんなことすら東京の連中は知らない』つまり総攻撃には間に合わないので「送ルニ及バズ」と断ったのである。
でも旅順要塞攻略戦の戦況は惨憺たるものでした。第二回総攻撃は9月19日、続いて10月26日にも総攻撃は繰り返された。既に作戦当初の死傷者は二万数千人という有様だった。
司令部は次第に打つ手がなくなってました。本土からは『バルチック艦隊が到着する前に』と要求が突きつけられます。
そして「203高地攻略戦」へ…。
日本側はロシア軍の防御固い本部攻略を止め、防御の手薄な場所から攻略しようと作戦を変更しました。
が。
その情報は既に過去のもの。防御の甘かった203高地にもロシア軍は得意の堡塁を張り巡らせつつありました。
もっともロシアの築いた堡塁は時間と資金の関係で、東部の東鶏冠山に築いた堡塁に比べると頑丈ではありませんでしたが。
203高地の攻略を目指す日本の第3軍は、突撃隊による攻略に『坑道戦術』を採用。第7師団は1350メートルに及ぶ塹壕を構築しました。下の画像は203高地の頂上付近に残されていた塹壕跡です。
 
場所からしてロシア軍の築いたものだと思いますが、もしかしたら日本のものだったかもしれん。これを作った目的は、ハゲ山の203高地では身を隠す場所がありません。使用方法はどっちもこんな感じ。
訪問したのが7月5日だったので、雑草に埋もれて塹壕の深さとか視認出来ません。
*上のイラストについてお問い合わせがあったので説明文を追加します。(2024/12/9)
203高地塹壕戦 203高地の攻略を目指す第3軍は、突撃隊による攻撃に坑道戦術を採用。
第一師団に替わる主兵力として出勤した第7師団は1350メートルに及ぶ塹壕を構築し、10日間に渡り一進一退の死闘を繰り広げる。

イラストは、対壕の工事がある程度進んだ時期の陣地を再現しており、右手に構築された迫撃砲陣地ではすでに砲が展開して射撃を行なっている。
また、手前の防御シェルター周辺には最前線から戻ってきた鉄盾や、前線に送られている土嚢などが集積されている。機動隊の盾のように見える板は鉄盾で、最前線での盾を屏風のように展開し、それで身を守って工兵が作業をおこなっていた。』歴史群像シリーズ59 旅順日(にんべんに我)戦争より
イラストの監修・文は松代守弘・イラストは藤井康文とあります。
イラストの読み込み画像が荒くてイラストに書かれてる文字が読めないという主旨でしたので、お問い合わせの文字につきまして、イラストの右から順に、折りたたみ鉄盾・鉄盾・対壕・第二平行壕・対壕・つるはし・塹壕先端部・シェルター(以上右ページ)
鉄条網・ロシア陣地・鉄条網・射撃台・203高地・小銃・老虎溝山・土嚢(以上左ページ)です。イラストは本の中央部のみ掲載してます。本に載っている右ページには追撃砲陣地が。左ページには積み上げられた土嚢が書かれてます。
コメントの質問の答えになってますか?

そして決戦の火ぶたは切って落とされます。
203高地で11月下旬から10日間にわたる死闘が始まりました。
『坂の上の雲(五)』の19ページには『(これは地獄だ)とつぶやいたという。全山を日本兵の死体がびっしり覆っていた。』とあります。
死闘の中、乃木希典の息子も戦死します。
 
乃木は東鶏冠山の戦闘でも息子が戦死していて、旅順で息子を二人とも亡くしてます。もっとも、乃木の息子保典の墓の建っている場所が、事実保典が落命した場所かどうかはわからないんだとか。
爾霊山慰霊碑と28センチ榴弾砲のある観測所の2点の中間から駐車場に続く散策路の途中に墓が設置してあります。この散策路に沿って塹壕もあります。
重砲兵観測所から見た旅順港。
かつて、視線の先に見える海にはロシア軍の軍艦がありました。
203高地を攻略した後、ここから二十八サンチ榴弾砲でロシアの軍艦を撃破。敵の混乱に乗じ、一気に勝利を掴むというのが大まかな作戦です。
『坂の上の雲』でもそういう展開になってます。確か、映画「203高地」もそうだったような…。
ところが、事実はちと違うようで…。
添乗員が尋ねます「あれに見えるは旅順の港です。さて問題。ここからあそこまで、どれくらい離れてるでしょうか?」
答え:約5キロ。
えええ~~~~~!!!
二十八サンチ榴弾砲の射程距離って7800メートルなんですよ。昔の大砲って射程距離を調節出来なかったんですよ。
わかりやす~く書くと、もし203高地から28サンチ榴弾砲を撃つと、弾はロシアの軍艦を通り過ぎ、その先の海へと着弾してしまうという…。
だから日本軍は203高地からではなく、奥の山から砲撃したんだって…。
なんだかなあ~。

<2013年10月29日に以下の文章を追加しました>
この記事をご覧いただきましてありがとうございます。嬉しい事に閲覧が多いページなんです。
にもかかわらず、閲覧者を今一不快にしてる記事のようでして。
原因は、28サンチ榴弾砲の有用性の私の書き方がイカンかったようで…。
既に3年前の記事でして、記憶もぼやけてるんですが、28サンチ榴弾砲を設置してあった場所で、旅順港を眺めつつ添乗員さんから説明があったんだけど。
その時の説明を聞いて私勘違いしてたのかも?
標的の旅順港まで5キロ。
28サンチ榴弾砲の射程が7800メートル。
ここまではいい。
ンで、なぜか28サンチ榴弾砲は、こう、砲身の角度が固定で動かせないもんだとばかり解釈してしまいました。
だから、射程7800メートルの28サンチ榴弾砲203高地から撃つと、ロシアの軍艦がいる5キロ先の旅順港を飛び越して、海に着弾するものだとばかり解釈してました。
だから、実際は、203高地ではなく、それより内陸よりの低い山に28センチ榴弾砲を設置して旅順港へ砲撃したんだと思い込んでましたっ!
昔の大砲のスペックを低評価し過ぎてます?や。兵器については知識が薄いもので、どうにも詳しくコメント出来ず。

記事をアップしてから3つコメントをいただきましてありがとうございます。
実は現在gooブログのアクセス解析キャンペーン中でして、この記事閲覧が日々あるのを知りまして、さすがに放置はイカンやろと。

いただきました2つめのコメントを拝読すると、「着弾の確認」をしたのが203高地の、現在28サンチ榴弾砲を設置してある見晴し台だったようです。
そうだよな。当たったかどうか?の確認しないと!ムダ撃ち出来る程、豊富に砲弾が用意出来たハズないや。ここで確認していたのね。

旅順に残るのは28サンチ榴弾砲の砲身を含むコアの部分です。実際に砲撃する為には、これにあれこれ細かいのをくっつけて使用してたみたい。それがあると、さらに臨場感あったんでしょうね。
そういや、榴弾砲の砲撃してる写真をどっかの本で見たような…。
探してみるか?
これしかない~。NHKのドラマ読本「坂の上の雲」が見つからない~。あれになら載ってると思ったんだけど…。部屋のどこかにはあるハズなのですが…。
上の写真は、旅順の白玉山の売店で購入した「日露戦争」の本より転載しました。なんか、28サンチ榴弾砲にごちゃごちゃあれこれついてます。

<2013年12月26日追加>
水師営会見所(2010年8月5日)の記事 こちらの記事に、鮮明な28サンチ榴弾砲の写真が掲載されています。これは日露戦争の折り、乃木希典とロシアの司令ステッセルが会見した場所で、中に日露戦争の写真が展示されていました。その中の一枚です。28サンチ榴弾砲の大きさとか、周りの兵士と比べて確認してください。
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その5)慰霊 爾霊山

2010年09月11日 04時58分23秒 | 旅順・大連旅行記
203高地の頂上あたりに「爾霊山」と刻まれた構造物が建っている。
日露戦争の激戦地203高地では多くの人命が失われた。
乃木希典は高地に散乱していた砲弾や薬莢を集め「爾霊山」と記した砲弾型の記念碑を建て、戦死者を弔った。
「爾霊山」は「にれいさん」と読む。203高地の名前と同時に「爾(なんじ)の霊」ともかける。
爾の霊、すなわち203高地で戦死した者への慰霊である。名付けたのは乃木希典との定説。
台座の石は日本から運ばれた。砲弾型の記念碑だが、現在建っているものは上部の素材が下部と違っている。最近修理されたようだ。鉄製ならば仕方ないかもしれない。
ところで私がこれまで旅した国は決して多くないが、英国でも中国でも国の為に戦って死んだ人の為の慰霊碑は立派で敬意を持って祀られている。対して、日本はというと必ずしもそうではない。これは日本の最後の戦争が敗北を喫して終ってるからではないだろうか?今の教育がどう教えているか定かではないが、少なくとも私が学生だった頃、昭和の歴史は3学期の先生に余裕のない学習時間の中で教えられていて、しかと学ばなかったように思う。これはいかにも情けないことだ。

ところで、203高地の地名だが高さが203メートルだからついた名前ではないらしい。ここは元々の標高が206メートルだったが、砲撃で3メートル削られたのだ。とは後世のガイドで用いられる常套句である。

爾霊山の記念碑のすぐ近くに、ロシア軍の150ミリキャノン砲が展示してあった。これまた本物かレプリカかわからない。最も日露戦争は1905年だから既に100年が経過してる。鉄は腐食する。とは言っても戦国時代程昔ではない。よって生々しい戦争の遺物が本物であってもおかしくはないんだけど…。


南の重砲兵観測所からは旅順港が望める。が、そこから右へ目を転じるとぼうっと平かな山が浮かんでいた。
「あの山の左手に見える海が黄海。右手に見えるのが渤海です」とガイドの楊さんは言うが、霞んでて空だか海だか判別がつかない。

散策路を駐車場へと戻る。途中で塹壕跡や乃木保典の墓や陣地隔離帯跡を眺めつつ戻る。

道々、皇居東御苑の二の丸庭園で見たのと同じトラノオの白い花がたくさん咲いていた。

駐車場の周辺には土産物屋がいくつか店を開いている。誰も立ち寄らなかったので、何を売ってるか確認出来なかったが、「203高地Tシャツ」は思い切り目立ってました。

ところで。
当り前だが、中国の人からすれば「祖国を侵略した日本」という事実がある。
日本人が203高地へ来る目的と中国の人が203高地へ来る目的には明らかな違いがある。
今を生きる中国の人は「なぜ中国で日本とロシアが戦ったのか?」と203高地、ひいては旅順へ来るのだそうだ。
203高地にはいろいろな説明板が設置してある。



辛辣な文字も目にする。双方歴史は正しく学ばないといけない。
15時10分、203高地を麓まで戻る。短いトンネルを抜けると、バスは右へ。
実はこれが可能になったのは去年の9月から。それまでは外国人の立ち入りは禁じられていた。旅順は中国軍の軍港であり、軍の施設がひしめいている場所なのだ。よって、トンネルから出た所にその旨を通告する看板がまだたっていた。それを画像に撮りそびれたのは痛恨の極みです。おそらくあの看板は近々撤去されるのだろう…。

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その6)男装の麗人川島芳子所縁の地

2010年09月10日 04時11分58秒 | 旅順・大連旅行記
203高地から程なく、旅順市街に入る。
バスが止まったのは「粛親王府旧址」。
1912年から清王朝の粛親王の住居だった。
男装の麗人川島芳子(1907年5月24日-1948年3月25日)は清朝の皇族粛親王の第14王女で、本名は愛新覚羅顕(あいしんかくらけんし)。
彼女は粛親王の顧問だった川島浪速の養女となり、日本で教育を受けた。1927年に蒙古族のパプチャップ将軍の次男、カンジュルジャップと旅順の大和ホテルで結婚したが、3年で離婚。その後上海へ渡り同地の駐在武官だった田中隆吉と交際して日本軍のスパイとして諜報活動に従事した。戦後まもなく中華民国政府によって漢奸として逮捕され、銃殺刑となった。
粛親王府旧址にも川島芳子は暮らしたことがある。
ちなみに、この建物には清朝最後の皇帝溥儀も住んでいたことがある。
戦後ソ連軍に引き継がれ、最近まで旅順に駐屯していた中国軍が使用していた。
が、現在は廃墟となっていた。

入口は閉鎖。建物の窓も割れていて、通路の足元はガラスだらけで周囲にはトランプカードが散乱していた。

窓から覗き込んだ屋内。

建物の右手には雑草だらけのかつての庭の姿が。一部はこっそりどこかの住民が畑を作ってたり…。
旅先で廃墟に出合うことはそうそうなかったが、実は旅順は現在廃墟だらけです。やはり、軍が管理していた場所を外国人の立ち入りを認めた辺りから軍の施設や建物を移転の最中のようで、移行の利用が未定な場所が多数あるようで。

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その7)旅順ホテルと街歩き

2010年09月09日 04時20分23秒 | 旅順・大連旅行記
川島芳子所縁の粛親王府旧址からバスで程なく、宿泊ホテルに到着。
時刻はまだ15時30分。
 
旅順が外国人に解放されたのは2009年の秋。まだ1年も経ってないので、ホテルのグレードは高くない。
バスタブがなく、部屋も狭い。
 
でもそんなの関係ないね~。このホテルは立地が良いのだ。
かつての日本植民地時代の建物が残っている場所へ徒歩で行ける近さにある。しかもっ!ナイスビューなんである。
トップ画像は私の宿泊した413号室の部屋からの眺めです。
手前にあるのは八童公園。その奥に見える塔は勝利の塔。その奥が旅順口。
海ですっ。
こりゃもう行くしかないでしょう~。
行くってどこへ?
「街歩き」です。今回の旅の楽しみは自由時間が多いので気ままに街歩き出来る時間がたっぷりあること!
添乗員の挨拶周りもそこそこに、スーツケースも開けないままレッツゴー!!

とりあえずと、ホテルに隣接する公園へ向ったのですが、運悪く入口で公園の木の手入れをしていて中に入れませんでした。
気を取り直し、部屋の窓から見えた塔を目指します。

何の塔かと言いますと…。

中国が日本に「勝利」した記念の塔です。
ん?
あれ??
漢字の上にあるのは…。ロシア語??
ここで旅順の歴史を思い出さねばなりません。
日本と旅順のかかわりは1895年の日清戦争に始まります。日本軍は旅順を占領し、下関条約で旅順を含む遼東半島は日本に割譲された。しかし三国干渉により旅順はロシアの租借地となった。
ロシアは海軍の東の拠点として軍港・要塞を作った。
日露戦争勃発。激戦の末1905年1月旅順北郊外の村水師営にてステッセルと乃木将軍により停戦条約調印。同年ポーツマス条約において、清に対する租借権をロシアから引き継いだ。
第二次世界大戦末期の1945年、ソ連が侵攻。旅順を占領した後は、ソ連海軍の太平洋艦隊の軍港となる。
1955年、中国へ返還。今度は中国の軍港となった。
1981年に大連市に編入。
という経緯がありまして、旅順には日本とロシア所縁の物が散在してるのです。
勝利塔から海を目指し大きめの道を渡りましたら、なんだか…。海へ行けない~。

こんな感じでどうやら中国軍の施設です。
せめて海の写真が欲しい~とうろうろしてたら、軍人さんからストップかかってしまいまして撤収~。
ようやく外国人にも解放されたとは言え、旅順の市内には軍の施設があちこちにありまして、撮影出来ない。入れない場所はまだまだあるようで…。
ま、ダメならその時ね~。
気を取り直し街歩きを再開。
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その8)謎の建物

2010年09月08日 04時57分07秒 | 旅順・大連旅行記
と、言う訳で海側はず~っと軍の施設が並んでいて、海辺に行くのは諦めました!
方針を変えて旅順市内を西へ。
と、見えて来た謎の建物…。
どうも現在使用してる雰囲気はありません。
道路沿いには白大理石の柵が続いてます。
う~む…。鉄柵の間から奥を見ると…。

どうも、最近まで病院だったっぽい…。でも確認は出来ない…。
つーか、本当に中はどうなってるのか…。
柵に沿って移動。中が見える場所はないか??

う~む、廃墟です。

窓、割れてます…。
ここらで地図を開いて確認したい所ですが、旅順に地図は存在しません。
名著「地球の歩き方」にも載ってません。なにしろ去年の秋まで外国人の立ち入り禁止でしたから。
もちろん現地にはちゃんと地図も売っててそっちは翌日の午後、白玉山塔って所で購入したのですが、情報が古い上に軍事施設は書かれてないので使えない地図なのですよ。地図に書いてあるのは道だけ…。公開出来ない軍事施設ばかりなので、仕方ないのでしょうが…。最も、日本から「旅順の最新事情」だっけ?とかいう本を図書館から借りて来たんですがね。その本はまだ開けてないスーツケースの中。
仕方なく謎のままにかつては立派な建物だったと思われる謎の建物を後にしました。
が、この建物の正体を巡り翌日結構大変なことになったんですけどね。それはまた後日の日記にて。

画像は「白山路」です。この通りちょっと変ってるでしょ?
実は、かつてこの道の突き当りには日本が作った関東神社がありました。だからこの道は神社の参道なのです。
中央は天皇陛下が行幸した時の事を考えて天皇陛下が進む道。脇の道は大臣などが進む道として整えられたんですって。しかし、天皇陛下が訪れることはなかったそうです。
それは後日ガイドさんの説明で知ったことでして、街歩きしてる時はここだけ贅沢に作った道だなあと思っただけでしたが…。
ついでにもう一つ。ガイドさんの説明で、画像の左ギリギリに写っている建物。かつてアヘンを作っていた(ん?吸っていただったっけ??)場所だそうで。
清朝時代にアヘンが中国に入って来ました。清ではそれを福寿香と言って珍重しました。
今のようにアヘンの弊害を知らない時代です。アヘンは客のもてなしとして流行しました。山西省の平遥を訪れた時、中国最初の銀行日昇昌でも客のもてなしにアヘンを振る舞った部屋がありました。
画像ではわかりにくいですが、奥に行くに従って緩い坂道で上ってます。書き忘れてましたが、旅順は坂の街です。海へ向ってなだらかな坂。ちょっと神戸に雰囲気が似てます。港ですしね。
この地図は翌日白玉山の売店で購入した地図です。旧関東神宮の所在はこのへんだったのでは?

さて、参道を少し外れるとそこは少し昔の中国風情たっぷりの街並が広がってました。
こんな感じで。
民家にも懐かしの煙突があります。

旅順の街は現代的なマンションが立ち並んでいる東側と、軍事施設が多くてノスタルジックな街並が残る西側とでは軽く30年程時間の開きがある感じです。
う~む…。
なんか、私が始めて中国を訪問した80年代の気分が味わえる感じで街歩きも楽しい~!!
18時にロビー集合でした。2時間位街歩きしたたかな?
今日の夕飯はホテル2階のレストラン。
メニューは伝統的な東北料理を基本にアレンジされたもの。キノコと海の食材が多めだったかな~。夕食が終ったのが20時30分。でもまだ結構明るい。さすがまだ7月5日!一年で一番昼間が長い時期です。

さて部屋に戻りテレビをつける。実はサッカーワールドカップのさなかなんだな~。情報を集めようとあちこちチャンネルをザッピング。と。中国の熱波具合を伝えるニュースをやってまして…。
ベタに車のボンネットに生卵って…。へえ~?やっぱり目玉焼き出来るんだ??で、これどこなの??えっ!!北京っ!!北京の車で目玉焼き出来るのっ??それって今何度なの~~???と混乱のニュースを見てると、ダンナがおもむろに部屋の冷房を強めた。
や~め~て~~。冷房と戦いたくないの~~っ!!
男と女では体感気温に数度の開きがあるって話聞いたことありませんか?暑がりのダンナは何かっちゃー冷房の設定温度を下げたがるんですよ。うちのマンションでも私が30度に設定してあると、すぐに23度に変更してます。や~め~て~。私、風邪引いても薬飲めない人なんだよ~。またアレルギー科へ行って薬出してもらうの嫌だぁあああ。
そんなこんなな攻防を繰り広げつつ、今夜のうちに絶対しとかなきゃいけない「携帯電話」の充電。
ほら、なにしろ私のフェイバリットコンパクトカメラ様は半分壊れてるので、いつ撮影不可能になるかわからない。となると、頼みの綱は携帯電話のカメラ機能。
充電用のコンセントは日本から持ってきました。中国の電圧は220Vで周波数は50Hzです。
日本と電圧は違うのですが、私の携帯電話のアダプタは国内/海外共用のやつで(aubyKDDIの共通ACアダプタ02商品コード0203PQA)、100-240Vの間なら問題なし。となっていたのです。

不安はプラグの形でしたが、こちらも問題なく普通に充電出来ました。
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その9)7月6日。朝の旅順街歩き

2010年09月07日 05時51分59秒 | 旅順・大連旅行記
習慣というのは恐ろしいもので、いつものように朝4時には目が醒めた。
しかも、4時15分には早々に空が明るくなってきた。となると、街歩きに行きたい~~!
本日の朝食は7時半!街歩きする時間はたっぷりある!
ダンナを起こしてレッツ街歩きスタートっ!
だったのですが…。
ホテルを出発して早々にダンナとはぐれてしまいました…。
仕方ないんで、朝の街歩きは一人で!
まずトップ画像は昨日木の手入れ中で入れなかった児童公園。公園内から見た宿泊ホテルです。

今朝の街歩きは東側へ。
空に露出が合ってるので薄暗く見えるかもしれませんが、既に大分明るいです。
中央左寄りの山の上にあるのは「白玉山塔」。
東郷平八郎と乃木希典が鎮魂の為に建てた塔で、日本統治時代には「表忠塔」と呼ばれてました。旅順のどこからでも見えるシンボルのような塔です。

画像左は海側。軍の施設が続いてます。右は現代的はリゾートマンションが立ち並んでます。ここ数年で旅順のマンションは価値がどんどん上がっていて、ちょっと前まで500万円位だったのに、今じゃ2000万円出しても買えない~とかガイドさんが言ってました。
最近中国では投機の対象として不動産が買われてて、必要以上に値上がりしているのを政府は懸念していて、2つめからの家の購入の場合は頭金として50%を支払うように法律が変ったんですって。なんだか日本でもバブルの時に似たようなことやってましたねえ。
旅順は海もあるし、中国における避暑地としても人気なんですって。まあ、中国は暑い所多いからね…。例え数度でも低いのは嬉しかろ。でも2000万円出せるんだったら、日本の東北もしくは北海道に家買った方がいいんじゃ…と思う私は普通の日本人です。
やがて見えて来たのは
金伯陽公園。抗日の英雄です。
そしておおっ!マンホール発見!
 
日本のマンホールの蓋ってデザインが豊富でたまに色もついているので面白くってあちこちでカメラに納めてます。外国でもつい撮影しちゃいました。マンホールに「大連」の文字があるのは、旅順は現在大連市の一部で旅順口区だからです。

やがて見えて来たのはかつて龍河と呼ばれていた川です。現在は何て呼ばれてるのかわかりません。ここにかかっている橋はかつて日本橋と呼ばれてました。現在は解放橋と名前を変えてます。

基礎部分は日本が作ったのをそのまま現在も利用中。
ここから望める海が、外国人旅行者が一番近く見える海です。
もちろん旅順には海水浴が出来る海辺もあります。でもそれって旅順の東側。黄金山の南側なんですよ。この海水浴は昔っから有名だそうで、「旅行者のロシア人は朝海水浴にやっきて、夕方ピックアップにいけばいい楽なお客さんです」とガイドさんは言ってました。
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その10)旅順駅は築百年超え 

2010年09月06日 04時28分42秒 | 旅順・大連旅行記
龍河にかかるかつての日本橋、現在の解放橋を渡り更に東へやってきた。
あれはもしや…。
ホテルを出てすぐ見失ったダンナを発見!
「いいものがあった」というので着いてったら旅順駅があった。
時刻はまだ朝6時。人影もないが、駅も開いてない。鍵がかかった入口を恨めしく思いつつも早速撮影開始。
最近増えているらしい鉄道ファンの為に、画像増量&解説少なめでお届けします。

駅舎は中国国内に残る唯一のロシア風の木造建築です。ロシア植民地当局に依り1901年に修築し始め1903年に線路開通。東清鉄道の最南端。1907年、日本植民地当局がレールを広いものへ改築。1945年ソ連赤軍が管理を引き継ぐ。

道路越しに駅舎を望みます。

ここが終点なので、列車は上の画像奥の扉の向こうで方向転換します。

線路と道路が隣接してます。

鉄道好きの方、気づきましたね。線路の上に電線がない…。つーことは電車じゃなく、列車が走ってるのでしょうか。

終点なので、駅の看板は左の矢印があるのみ。アップの画像は「竹里館のホームページ」に掲載。

出口でしょうか?

レトロな駅舎です。修築年代を見るに、これ、日露戦争当時には既に建っていたのですね。木造というのに、よく焼けなかったなあ…。




かつてロシアが旅順を租借していた頃の旅順駅の写真です。ロシア兵が軍馬にまたがってます。
ああっ!
こんなに朝早いのにもう開店してる店があるっ!!
ここは一つ…。
「すみませ~ん。飲み物あります~?」
そうなのですよ。
旅行会社は毎日1本、水を配ってくれるのですが、私が訪問した7月上旬は中国に熱波が到来中でとてもじゃないけど足りない。ダンナのぶんも入れて4本お買い上げ。占めて13元!
えっ??13元??安過ぎる~。ガイドさんに「中には水道水を詰めて売ってる場合もあるので安過ぎる場合は気をつけて下さい」と言われてますが、大丈夫そうです。どうも地元民を相手にする個人商店だったようで観光地によくあるぼったくり店じゃなきゃこれくらいの値段なのかも~?去年まで外国人の立ち入りを禁止していたからか?中国の軍港の街だから?
値段が良心的なのは旅人には嬉しいっ
でも私ってばうっかりジャスミン茶と緑茶を購入したんですよ。
え?どこがうっかりですって?
中国のペットボトルに入っているお茶は「砂糖」が入ってるのです。無糖のお茶はまずありません。わざわざ「甘い」とか書いてあると、それは更に糖分を加えた「激甘」です。
ここで購入した飲み物は、ホテルの部屋の冷蔵庫に入れて冷やして美味しくいただきました。
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その11)旅順の懐かしい民家

2010年09月05日 06時16分03秒 | 旅順・大連旅行記
夏コミ開催中ですね~。うちも申込みしていたのですが、今年は落選しちゃいました。
でもくすかさんが委託させて下さるのです~。
参加日:8月15日
スペース配置:東2ホール U-42a
サークル名:Egg Plant
ジャンル:旅行
当日はくすかさんのスペースで梅原沙実ことこのブログでもコメントを書き込んでくれてるぶめちゃんが売り娘のお手伝いをしています。私の本は中国漫画旅行記「平遥古城」があります。平遥は山西省にあって、まること世界遺産に指定されてる街です。明清時代へタイムスリップ気分が味わえる素敵な街ですよ~。

一瞬合流したダンナだったんだけど、彼はさかさかすんごいスピードで歩いてってとても着いて行けず、またもや一人で街歩き…。
あれ?
道沿いに蜂家発見!
蜂家って知ってます?NHKの特集で見たことあるんですが、はちみつを集めてる人です。蜂の箱と、移動出来る簡易テントがすぐそばにありました。

さて…。ホテルまで一端戻ってきた。時刻は6時半。でも朝ご飯は7時半のホテルのレストランなのでまだ1時間もある。
だったら昨日の古い民家ゾーンへ行ってみよう~。

あれ?なんか、人影が…。ゆっくりと近づいてみると…。

農家の人ですかね?これは桃かな~?

かつて日本にも沢山あった小さな家が続いてます。狭い土地をうまく利用して野菜が作られてました。

てくてく歩いてたら、大きめの道に出た。でもアスファルトがええかげん年代もののようで…。

おおっ!これはっ!!
なんかのモデルになりそうな外観&くたびれ具合。映画OK!絵画OK!何にでも使えそう~…。

細い路地の街歩きも楽しくて、心わくわくですっ。

壊れ具合も趣きあっていとよろし

さ~てと。そろそろ戻らねば…。
ホテルに戻りましたらば、ダンナがいました。
「ねえ、なんで『待って』って行ったのに、一人でどんどん行っちゃったの?」と尋ねたならば、
「トイレ行きたかったんじゃ~」と。
そりゃしょうがないね…。「で、何してたの??」
「ん?君も見てみる~?」と彼が差し出したのは双眼鏡。
「ん??」
「潜水艦が見える~
そうでした~。旅順は今も現役の中国の軍港でした。
わくわくと双眼鏡を覗いたら潜水艦がいた!海上保安庁の船みたいなのいた!!
…このホテル。軍艦とか船とか好きな人にはお薦めかもしれん…。



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その12)旅順博物館

2010年09月04日 04時45分56秒 | 旅順・大連旅行記
画像が多いのが敗因か、記事の読み込みにアホ程時間がかかってる気がする~。
なので!
試験的に今日からブログトップに記事一つぶんの表示に変更してみました
取りあえず、旅行記事は画像増量中なので、旅順旅行記が終るまでブログトップは記事一つの表示にしてみようかな~?
日々このブログを見て下さっている方、利用しやすさとかご意見いただけるとうれしいですっ

朝食はバイキング。
メニューはかつての懐かしの中国の朝ご飯。でも…。あれ?おかゆがないっ。
あったのは左上のお米でないお粥でした。あ。お粥めっけ~。でもこれ…。小豆入りだ…。私、赤飯嫌いなんだよね…。
でも何が困るって味付けが塩辛いってことだ。塩分摂取制限あるので、味付けは油条だけで…。(お皿に載ってる野菜類、実はほとんど食べてません。塩味だったんだ…。)

9時バスは出発。バスの運転手が鐘(ちゅう)さんから于(う)さんに変りました。
添乗員「え~、于さんの于は『于禁』の于です。于禁は三国志武将です」って…。その説明でどれだけの人が分かるのか?そう言えば、昨日「遼寧省の遼は、三国志の魏の武将、張遼の遼です」って説明してたような…。
どうやら、添乗員さん、歴史オタクっぽいぞ??

さて、程なく一つ目の目的地到着。歩いてもホテルから10分程度の近距離にあるだろう「旅順博物館」です。

博物館の建物は、1917年に関東都督府満蒙物産館として創建。1919年に関東庁博物館になりました。
現在、一級博物館に指定され、約6万点のコレクションを誇ります。でも大部分は未展示。日本語に堪能な博物館の職員張さんが収蔵物の説明してくれました。
でも日本人が興味あるのは収蔵されている「大谷コレクション」!

博物館の本館入ってすぐの場所です。でも収蔵物は撮影禁止なんだよね…。

ここは2階の青銅器陳列室。かつてロシアの士官クラブのダンスホールとして使用されていたことも。

ダンスホールと1階を結ぶ階段です。ロシア風。ちなみに、館内には日本風の階段もありました。が、日本って階段重視じゃないじゃない。撮影したけど正直つまらん写真になったのでパス。

陳列棚は古いものはガラスにゆらぎがある90年前のアンティークなガラス。これはかつての上野の国立博物館の陳列棚と同じものなんだそうです。
さて、大谷コレクションについて説明しておかねば。
大正から昭和にかけて、仏教の伝わった道を探ろうと、浄土真宗本願寺派第22代宗主大谷光瑞は探検隊を組んで桜蘭をはじめ、中央アジアを踏査しました。その貴重な蒐集品の一部が旅順博物館に納められています。
大谷コレクションは現在、京都・ソウル・東京そして旅順に分散しており、全容が明らかになっておらず「幻のコレクション」と呼ばれています。
特に旅順博物館は去年の秋まで外国人が立ち入ることの出来ない市内にあったので、研究者でも直接見ることが叶わなかったものです。
その貴重なコレクションの一部を紹介します。

このミイラは自然乾燥によるもの。40-50才の夫婦。ウイグル族。
上の画像奥に写っている人形みたいなの、副葬品のハニワ俑です。


ここはぜひとも大谷コレクションの本が欲しかったのですが、売切れてました。どうやら先発ツアー客が買い求めてったようです。諦めきれず、博物館の西方文物を紹介する本は購入したのですけど、これは既に私の手元にありません。
大学の時、卒論のテーマがこの辺りだった友人にお土産としてプレゼントしちゃいました。
旅順博物館の展示品にこれぞっ!という素晴らしいものは大谷コレクションを除くとないんですけど、中国人の食器にかける情熱は尋常じゃないと感じました!なんかねえ~。食器を分類する漢字がアホ程あるんですよ。も、びっくりでしたよ。

さて、大谷光瑞ですが、浄土真宗本願寺派宗主ということは、京都にある西本願寺が本拠地ですよね。その関係か、博物館の庭にこんなものが…。

龍谷大学は西本願寺により1639年に設立された「学寮」が起源の大学で、大学名は西本願寺の山号「龍谷山」に由来します。記念樹はこれだけでなく、他にも植わってました。また、龍谷大学の大宮キャンパスの図書館には大谷探検隊の蒐集品の一部も収蔵されています。

博物館の庭にはこんなものも。…ロシアのかな?

こちらは博物館の別館です。
かつてラストエンペラーの溥儀も暮らしたことがあるとか。で、一応入ったんですが、1階の収蔵室を1部屋見ただけ…。
ちっ。
溥儀が暮らした部屋とか見たかったのに~。なんだか詐欺にあった気分。

ともあれ、旅順博物館は近いうちに新しくなるかもしれません。
現在、その資金獲得の一環で収蔵物が売りに出されてました。
なんだか鍵のかかる部屋に連れていかれ、「この棚にある展示物11点全部で150万円。購入者には博物館の鑑定書と日本までの送料、更に展示用ケースもおつけします。これらは800万円の価値があると自負しています。手持ちがないお客様は頭金を支払っていただき、帰国後残金が振込されましたら発送します」って…。いいのかソレ。一応名目は収蔵品の修復と保護の資金獲得なんだって。
何でもアリの中国らしいなあと思いましたよ…。
「旅順口大観」に掲載されている旅順観光案内図の旅順博物館の絵は、現代的なビルです。もしかして、現存の建物を壊して新しいの建てるつもりなのかっ!?中国4千年の歴史の国です。外国人が100年前に建てた建物を残してくれるのか?
……。メンツの国だしなあ~。ムリやもしれん。
旅順に興味のある皆さん、訪問するなら今!ですよっ。
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その13)旧関東軍司令本部

2010年09月03日 04時43分57秒 | 旅順・大連旅行記
旅順博物館の目の前に塔がある。

これは中国とソ連の友誼の塔。1957年2月に「中ソ友好同盟協力条約」の締結7周年の際、落成したもの。画像奥に見えるのは旅順博物館本館。

友誼塔の向かいは旧関東軍司令本部という位置関係です。…ここに友誼塔を建てたのってわざとだよな…。だって向かい合う旅順博物館と旧関東軍司令本部の間に割るように塔を建ててあるんだもん。…深読みし過ぎ?

トップ画像は友誼塔の階段の上から撮影した「旧関東軍司令本部」です。
ここは日露戦争後、日本の関東軍の最高指揮機関だった。『旅順口大観』には1931年9月18日に起きた「柳条湖事件」の密謀をここでしたと書いてあります。最近まで中国軍の施設でしたが、今年博物館になりました。

1階を覗いてみると…。上へ向う階段があるだけでして。ちっ。これじゃ何もわかんね~…。

建物の前面に立っている木は「カイヅカイブキ」と言って、日本から持ち込んだ木です。旅順市内のあちこちにあります。大連にも同じ木を植えたそうですが、根付いたのは旅順だけとガイドさんより説明が。

右手に回ると、未だ建物の一部は軍の施設として使用されてるようです。

反対側は旧露清銀行旅順支店」。建物の落成は1902年。日本植民地時代には物産陳列所や千歳クラブ。その後1945年にソ連赤軍に引き継がれ、1955年、中国人民解放軍が引き継いだ。未だ観光客は中に入れない。現在何に利用されてるかは不明のまま。残念。


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その14)旧旅順大和ホテル

2010年09月02日 04時59分25秒 | 旅順・大連旅行記
旅順博物館ー旧関東軍司令本部の後、バスがやってきたのは「旧旅順大和ホテル」。移動距離は500メートル弱ですかね?街歩きしたい所ですが、ツアー行動なので我慢です。

大和ホテルはかつて南満州鉄道(満鉄)の作ったホテルの一つ。旅順だけでなく、満鉄の直営ホテルは関東州(遼東半島)と中国東北各地に全部で9軒もありました。中でも超一流ホテルとして知られたのが大連・シン陽(奉天)・長春(新京)・ハルピン・旅順・星が浦の大和ホテルでした。大連やシン陽にある旧ヤマトホテルは現在も街を代表するホテルとして営業してます。大連の大和ホテルは後日紹介しますね。
旅順の大和ホテルは現在1階は商店。
2、3階は一応現在もホテルです。
かつては旅順随一のホテルでした。ほらね。
外観で大幅に変ったのは屋根ですかね~?現在の建物に煙突はない。
「すっかり面変わりしてしまった外観ですが、内部は当時の面影が色濃く残っています」と、添乗員が言うのでついふらふらと。
「現在も営業してますから、怒られたら出て来て下さいね~」と。
怒られるまでならいいか~と。チャレンジャーは突撃しました。
タイムリミット戦なので、さくさく紹介。
まずはホテル入口。
続いて、上のビニールすだれをくぐって入った所。ただの空間。レセプションなんかは2階にあるよです。

時代を感じる階段。

木製の階段は年月を経てすり減っています。…これ、オリジナルかな?

階段を上がるとホールです。

このホールで昭和2年に男装の麗人、川島芳子が結婚式を行いました。
ホールのベランダから見えるのは…。

旧高等師範学校です。
これから先は客房へ…。

一番手前の部屋は客に見せる見本なんですかね~。入口が開いていたのでちょっとだけ拝見。
明治42年に夏目漱石が滞在したり、昭和6年には清朝最後の皇帝溥儀も滞在したそうですが…。改装を繰り返したようで、面影ありませんねえ。まあ、床のおんぼろ具合からするとここだけは元のオリジナルかもしれんが…。

上の画像は客房とホールを結ぶ廊下です。ここはかつての面影がありますが、いかんせん暗い。うまく雰囲気が画像に出てない~。(無念)

それはそうと、夏コミ参加された皆様お疲れさまでした会場内はどんだけ暑かったんでしょうね?なんかニュースで3日間の参加合計57万人とかゆーてましたよ!?マジか~。
私は今年はお家で大人しくしてました。なんかまたまた最近クラクラするもんで。いや、もしやせんでもそれは暑さ負けかもしれんのですが…。息切れしがちなのも暑さ負けなのかもしれんのですが…。溶けるように暑いのがもう少しマシにならんとおでかけする気も置きません。
昨日はどうにも耐え切れなくて、昼間に冷房を31度に設定して使用した所、すんごく快適に感じまして…。まあ、36度だか38度まで気温上昇していたので、外気と5度以上差があれば充分なのかも~?と思いつつ、久々に冷房の風を楽しんでみました。

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